三島由紀夫のシャングリラ

ノーギャラで平凡パンチのムチャな企画につきあった三島由紀夫

平凡パンチの三島由紀夫

平凡パンチの三島由紀夫

1969.10.21、デモ取材で三島邸を訪れると、応接間では盾の会が警察無線傍受中。三島のシャングリラは幻に。

ぼくが階段の中ほどで足を止めていると、三島は、さっと振り返って、「この光景は、他言しないでくれ」といった。(略)
ああ、今日は、三島家の女性たち、瑤子夫人、二人の子供、お手伝いさんは、どこか他の家に追いやられたのだ、と思った。それでスリッパもお茶もでず、だれも紹介しないという三島家の通常ではない接客態度によって、三島邸は、“非常時”に置かれていると理解できた。午後四時三十五分、中核派学生たちが、新宿駅構内に侵入、とテレビが報じた。それが合図のように三島が再び姿をあらわして、出発は二十分後と短かく命令調でいって姿を消した。

 三島は警察無線を盗聴していたために、学生たちが意図的に流した銃・爆弾使用の噂を信じていた。学生たちが、その種の武器を使用すれば、警察の手におえなくなり、自衛隊が“治安出動”し、戒厳令が東京にしかれるはず、という胸算用をしていた。しかし東京は、三島のシャングリラにならなかった。たしかにこの夜、市ヶ谷の自衛隊が出動態勢にあった、という記事が、数ヵ月後に書かれた。学生たちは武力抗戦の情報だけを流しつつ、早々と撤収してしまった。

盾の会に年間2500万以上の私財投入

1968年頃の物価はというと、ぼくはその夏、渋谷の南平台に新築分譲マンションを購入したが、60㎡で450万円だった。
(略)
 楯の会結成一周年の来賓席にいる顔ぶれが三島好みだった。年寄り軍人にまじって、ピンク映画女優渥美マリ、グラマー女優の倍賞美津子、もちろん新劇女優の村松英子もいた。ぼくは、私的に友達だった渥美マリに「どうして、こんなところにいるの?」と聞いた。彼女は会社のヒトにいわれて来た、といってから、「ゲンシュクな気持になりました。ヒトにメイワクをかけないだけ『楯の会』のほうが、全学連よりいいんじゃないかしら。」

昔はよかったなあ、今なら炎上必至の「基地外」発言。
著名人に三島の悪口を言ってもらう企画。
それにしても淀川さんはコワイ、これがほんとの甘辛。

 三宅菊子(ライター)「キチガイ。そのひと言ネ。彼の政治的発言に対しては怒りをカンジるワ。まったく許せないことネ。彼に対する注文? 向こうで聞いてくれるかどうかわからないけど“早く死ね!”ってこと。」
(略)
淀川長治の口からはどうしても悪口をひきだせなかった。そのコメントは、「そうそうワタシあの人に一度しかられたことあるんですよ。ワタシ、あの人のことを『三島サンは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人だ』と言いました。そしたらあの人ワタシに言いましたネー。『それはボクの顔が馬ヅラだと言ってるんでしょう。明治美人というのは面長のことをいうんだから』(略)ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネー。(略)お若いといっても三島サンももうおトシです。ボデービルもいいんですけど文学に本腰を入れてほしいですネー。そして、もっともっとよいホンをいっぱい書いてほしいですネー。あの人の持っている赤チャン精神。これが多くの人たちに三島サンが愛される最大の理由でしょうネー。」

香典

葬儀のため、三社[講談・新潮・文藝春秋]は各一千万円の香典を出した、と噂された。三島割腹事件以降、三島の著作本は驚異的な売り上げをしめし、有力出版社は、各社十数億円の利益をあげた。

剣道仲間の若手機動隊員20人程のボウリング大会に誘われた著者が見た三島夫人

瑤子夫人は、スコア記録係として出席していた。六歳になった長男、威一郎をつれていた。三島邸へ行っても、打ち合わせなどの仕事の場には絶対姿をあらわさなかった瑤子夫人を見るのは、はじめてだった。口数少なく、笑うでもなく、そうかといって冷たい感じもしなかった。帳場に座って、自分の役目を淡々とこなしていく、古い商家の若女将のようであった。端子夫人の父、日本画家の杉山寧の実家は、浅草の大きな商家だった。番頭さん、丁稚小僧たちの扱いは、手慣れているようにみえた。適度の距離感と、無関心のようにもみえる威厳をたもちつつ、ひかえめにスコアをつけていた。

ananに異動になっていた著者は、できたてのドーナツ盤「起て!/英霊の声」をクラウンレコードから受け取ってきた三島に会い、近くにある編集部で聴いてみることに。

 二人でものもいわず、聴きいっていた。突然、入口のほうで足音と人の声がして、四、五人が編集部に入ってきた。足音以上に彼らの服装が、喧噪を視覚化した。イラストレーターの宇野亜喜良は、茄子紺のベルベットのパンタロントム・ジョーンズ風ブラウスシャツ、デザイナーの松田光弘と編集者の今野雄二は、ロンドンポップファッションそのままの、紫色と藤色のスカーフを首にまき、タイダイTシャツにジーンズという格好だった。セツ・モード・セミナー校長の長沢節は、いつものロングブーツに、クレージュ風のジャケットを羽織っていた。
 前から知りあいだった長沢と三島が、ぎこちない会話をしている。まだレコードは途中だった。今野が、ぼくにむかって、「ヤマト、なにこのオンガク、キモチワリィー」とホモ口調で明快にいった。ぼくはあわてて、同僚の今野に小声で説明した。
 三島は急にソワソワしはじめた。低い声で帰る、といいながら、レコードをつつみ直しはじめた。「まだ、いいじゃありませんか。彼らは、これからすぐ映画の試写会へ行ってしまうんですから」といったが、三島は、帰る帰る、という。四人は出ていった。もう一度、プレーヤーの針をスタートに戻して、朗読を聴いた。三島は「やっぱり帰る。これは、こんなところには似合わないね」(略)三島は憑依から覚めたような、ひよわな表情で、ドーナツ盤一枚を残して帰っていった。(略)
五ヵ月後、三島が切腹したのち、宇野亜喜良は、あの日の自分たちの登場が、三島を死に追いやったのだ、と信じこんでいた。

切腹

鏡子の家』の不評によって、すこし自分の方向性を見失いかけた三島は、切腹に造詣の深い京都在住の中康弘通を訪問する。中康が持っていた切腹願望者の手記、若衆の、女の切腹之図絵を見せられて、その画像に心を奪われる。映画『憂国』のアイデアも、中康宅訪問によって得た、と安藤武著『三島由紀夫の生涯』に記されている。
 総監室で切腹した行為も、そこまで思想的に思いつめてというより、単純に血と内臓が、白い下腹部にあふれた映像の現実化を熱望したせいであった、と思わせるものがある。

父怒る

 三島が本格的に映像の世界にめざめた写真集『薔薇刑』が、自宅で撮影された時も、瑤子夫人と二人の子供は、教育上よろしくない、という三島の考え方で、実家に帰された。
 三島邸と同じ敷地内に住んでいた実父、梓は、ゴムホースでぐるぐるまきにされた息子の裸の姿を見て、写真家細江英公と、そのシーンの共演者土方巽の三人を、「なにやってんだ。キミたち三人は、三大バカだ」と、どなりつけた。この話は細江が語ってくれた。

お蔵入り写真集「男の死」

 自決計画がつめの段階に入った、まさに九月末からーヵ月半も、内藤三津子は、モデル三島、写真篠山紀信で「男の死」の撮影に入っていた。「男の死」という企画は、二十数カットの様々な死に方を、三島本人で演ずる、というものだった。八月中頃、内藤は、三島に電話をし、「男の死」撮影を申し込んだが、二回ことわられ、三度目で、ようやく承諾を得た。(略)
 魚屋の、びしょびしょの土間で、出刃包丁での切腹シーン、オートバイでの事故死、自動車修理工の死、飯場での人夫姿死、笞刑(鞭打ち刑死)、有刺鉄線でぐるぐるまきにされた姿での虐殺体死、体操のつり輪に、片手でぶらさがった姿の射殺体死、武士姿での切腹死、そして、首が、胴体から切りはなされた、いわゆる生首写真……。
(略)
十五、六帖の広さの篠山事務所は、数百枚の、三島のさまざまな死に方のモノクロ写真で、床から、ソファ、机の上まで、うめつくされていた。とくに生首の写真が、異様に数多く、目立っていた。
 三島は、一週間早く、現実の自分の姿を見たことになる。それらの写真を、一枚一枚手にとりながら、「内藤さん、どの生クビの写真がいい……」と、口は、なめらかだった。(略)
 十八日以降二十四日までの一週間に、自分の写真を見るために、二度も篠山事務所をおとずれた。一回は、殉死というかたちで一緒に切腹した森田必勝に、それらの写真を見せるために……。もう一回は、ひとりできた。そして、とくに気に入っていた武士姿の切腹写真を、辞世の句や五人で撮影した記念写真と一緒にマスコミに配布するか、相当に、まよっていたようだ。結局、武士姿の切腹写真は、マスコミあての封書に入れなかった。

三島以外の面白平凡パンチエピソードは明日。
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