中世都市と暴力

中世都市と暴力

中世都市と暴力

言葉の暴力。
通りとは私的な争いをついに公にする場。

往来が通行人に用意するさまざまな暴力のなかでも、侮辱や、嘲笑や、冷やかしほど効果てきめんなものはなかった。(略)
通りで起きることは、たちまち人々の目に留まり、通行人たちも通りに住む人々の視線にさらされていた。また逆に、通行人も通りに面した店先からなかを覗き込み、建物の住人の私生活をかなり知ることができた。(略)
通りと住居のあいだの不断の交渉や、都市生活につきものの「覗き趣味」こそが、侮辱の言葉をより容易で、衝撃的なものにしたのである。裁判所の書記が記録簿に書きつける「言葉による暴力」の多くは、隣人どうしで交わされたものである。それぞれが相手の習慣や、悪い癖を知っており、相手を確実に傷つける言葉を選んでは投げつけた。
ここに、暴力空間としての通りの持つもう一つの側面がある。通りとは闘いを挑む場であり、私的な争いをついに公にする場、周りの人々の支持を期待して、ただちに復讐を遂げる場でもある。

他人の検閲

都市生活は、他人の視線による絶えざる検閲のもとに営まれた。庶民の家はあまり広くもなく、闖入者に対して無防備だったので、家族は悪意ある隣人たちから守られてはいなかった。戸外の方がよほど快適だったが、それでも通りは公衆の面前で挑発が行われる危険な場所であり、狭い通りでは群衆のさまざまな攻撃に遭った。

貧乏人同士で争う

労働者たちの貧窮化が明白となった時期には、職階による賃金の格差が拡大し、細民のあいだに深刻な不和をもたらした。(略)
こうして分裂のために細民の連帯がほとんど生じない一方で、逆に最も貧しい者たちが、非常に強い絆で富裕な人々の利害に結び付くことがありえた。イタリアやドイツの都市など、貴族の一門が権力の座についているところでは、どこでも貧しい人々からなる庇護民が、彼らの保護者の利益と結び付いたのである。
たしかに十五、十六世紀には、「階級」間の対立が出現するが、こうしたことだけでは日々の暴力を説明することは出来ない。統計によれば、犯罪行為はむしろ同等の境遇の人々のあいだに生じているのである。

晩婚化

若者たちは新しい家族を作るために実家を去らない限り、父親や義父の後見のもとに置かれ、金も職もないために晩婚を余儀なくされ、また権力や職務は一人前の男たちが独占して、彼らに与えられはしない。こうして若者たちは、ロベール・ミュシャンブレの言葉を借りるなら「半人前」であり、年長者と同様の生活を将来に待ちわびている。(略)
こうした状況から、さまざまな緊張が生じてくる。もっとも顕著なのは、性的な軋轢である。男の婚期はすでに二十四、五歳と高齢化しており、また寡夫による再婚が、妻になりうる女性の数を減少させた。というのも再婚者たちは、二回目、三回目の結婚で、十五歳から三十歳も年下の女性を娶ったからである。

暴力は同化できない焦りから

十三世紀から十六世紀にかけて、倦むことなく拡張される市壁のなかで、都市は独特の社会を作り出していた。それは幾重にも仕切られた社会で、というのも財産の格差や、権力や特権の不平等な分配が、都市の構成員のあいだに際立った断絶を作り出していたからである。(略)
都市社会のなかで、若者たちは年長者にあやかることだけを切望していた。彼らの暴力は、青春の逸脱でもないし、父親や法律の制定者への反抗でもなければ、都市の政治体制を変えようとするものでもない。むしろそれは都市の既存の枠組みに同化したいという、焦りの表現であった。

親方と職人の対立

コンスタンツでは、1386年に職工の親方たちが、共同で行う飲食の宴に、同職の職人が参加することを禁じ、両者の分裂は決定的になった。病気になった職人に対して、兄弟団の恩恵にあずかることを禁じる傾向もあらわれ、これが親方と職人の対立をさらに深める要因となった。
親方たちはもともと同職者の一体性を支えていた古い絆を断ち切ることで、「第四身分」、すなわち社会的な地位上昇の望みを絶たれた職人や徒弟といった人々の誕生を促進した。彼らは組合への参加を拒まれ、たとえ参加できても、その運営からは除外された。しかしながら、彼らは当時のあらゆる人間と同様、連帯の待つ力を知っていたので、職業的、宗教的、政治的な目的を持つ集団を独自に形成した。(略)
既存の同職組合では、職人に対する親方の監視を強化することで、こうした集団の形成を阻止しようとした。

圧力団体となった徒党

ローマのオルシーニ家は、いとこの一人が殺害された後、敵の館の前で、派手な葬儀をこれ見よがしに行っている。さらに劇的で、過激だったのは、ローマのもう一つの徒党であるポリ家の反応で、彼らはインノケンティウス三世とその側近たちに対する憎しみを表明するのに、裸の鞭打ち苦行者による宗教行列を行ったのだが、これは贖罪の気持ちを表わすというよりは、むしろ民衆の攻撃性や興奮を掻き立てることがねらいだった。
徒党はこのように情熱によって育まれ、強固なものとなった。(略)
情熱はまた、一部の人間が企てる無謀な行動や、党派心から生ずる暴力の連鎖反応のなかにも見られた。というのも党派心によって、政治的な目的は、極端な行為を要求するほとんど宗教的ともいえる使命に変わったからである。

明日につづく。