円谷一―ウルトラQと“テレビ映画”の時代

円谷一―ウルトラQと“テレビ映画”の時代

円谷一―ウルトラQと“テレビ映画”の時代

英二、公職追放

しかしこの軍事教育映画への関与が、今、英二を悩ます原因となっていた。つまり自分が戦犯に指定されはしまいか、というじつに切なる問題であった。そして英二の不安は現実のものとなり、48年、ついに公職追放の指定を受けてしまうのである。有川貞昌が英二の門を叩いたのは、英二が東宝を退職、フリーとなり、「特殊映画研究所(円谷研究所)」を設立した頃の話だ。
戦争中、海軍のパイロットだった有川は、『雷電隊出撃』の敵艦への爆撃シーンを戦地で観て、英二の元を訪れた。そしてそのシーンが、”特撮”という耳慣れない言葉で撮影されたことを知ってひじょうに興味を持ち、そのまま英二の弟子となるのである。
しかし時期が時期だ。『雷電隊出撃』のような大きな仕事があるわけでなく、例えば『箱根風雲録』(52年)という映画では、隣の空き地にスコップで溝を掘り、そこに勾配から水を流しての撮影があった。これは多摩川上水に初めて水が流れてくるというシーンの特撮だったが、有川にしてみれば、「これが特撮なのか?」と意気消沈させるものだった。いくら金の面ではルーズだった英二とはいえ、何か仕事はしなくてはいけない。こうした仕事も受け、糊口をしのぐしかなかったのだ。
その頃の円谷一は、まだ学生である。

証言:冬木透。これが「アンドロイド0指令」につながるのか?

皇太子(今の天皇)ご成婚のとき、記念番組をやったんですよ、たしか『純愛シリーズ』の中で。30分枠なんですけど、「ミュージカルをやる!」と言うんです。「四月の恋」といって、デパートの中の洋服売り場のマネキン同士が恋をするという話です。夜中の12時になるとマネキンたちが動きだして、楽しい舞踏会になるんです。

一さんは音楽が好きだから、音楽が何かと混じることが多いし、僕に頼むときは「音楽で何かやる」というときが多かったですね。印象に残ってるのは、シューベルトの未完成交響曲を全曲使って、それに合わせてドラマを書いたりね。『未完成交響曲』というタイトルで、仲がおかしくなってる夫婦の旦那さんが、オーケストラのバイオリン弾きだったかな? それで演奏会で未完成を演奏してるときに、片やドラマが進行していく、それをカットバックで表現する。そういうひじょうに実験的な作品がありました。

ある意味、クドカンの『ぼくの魔法使い』に通ずるような

翌63年、金城哲夫にとって初のオリジナル脚本となった『こんなに愛して』は、まさに”過剰なまでの思いこみをもって生きる人間””現実に目を向けることができない夢想家”のドラマとなった。マネキンエ場に勤める職人・大助とヤッコの夫婦には子どもがなかった。それもそのはずで、ふたりはセックスを知らないのである。自称”芸術家”の大助は、理想のマネキンを創るため、電車の中で女性の手をなで回し痴漢呼ばわりされる。ヤッコといえば料理も裁縫もできない、そればかりか車にひき殺されたカエルがかわいそうで、団地の前で泣きじゃくるような性格。

証言:大山勝美

(略)『煙の王様』は、サラバ政治の季節よ、みたいなものが周りにあっても、円谷さん自体はもう自然体でしょう。あんまり安保とかそういう意識のない人だったし、我々の持っていた先輩たちに対するカウンターカルチャーというのもなかった。やっぱり、お父さんを尊敬されてたんじゃないですかねぇ? だからお父さんたちのやってる世界、お父さんたちの世代が持っていた財産を素直に受け継ごうというか、自分は自分でやっていこうという意識だったと思います。我々みたいに、なんだあのオジサンたち、どけ!という感じの思いはなかったと思う。その辺がずいぶん、僕とは違うような気がしますねぇ。つまり自分は継承者でいい、と。映像表現にも、お父さんのやってらっしゃった特殊撮影の世界、夢のある映像作りというものに惹かれて、それを継いでいこうというのは、楽しい仕事、意義のある仕事と思ってらっしゃったと思いますよ。

証言:円谷粲
『煙の王様』が芸術祭賞を獲得して

親父が演出家のーさんを認めたのは、やっぱり『煙の王様』です。あれ以来、親父の見方、しゃべり方が変わっていって、一人前の演出家としてキチッと認めた話し方になりました。当時、僕は高校生くらいだったから、聞いていてそれはわかりました。それまでも徐々に認めつつはあったと思うんですが、あの大賞が決定的だったと思いますね。それまでより踏み込んだ話、意見も言う、聞く、という感じになったんです。演出の方法論というより、お互いの仕事を認めた上で、親父の仕事をいかにテレビ界に持っていくか、という話はよくやっていました。

テレビvs映画

56年9月末日、5社は劇映画をテレビヘ供給することを停止してしまったのだ。(略)
そして57年、経営が安定してきた日活が協定入りをし(これにより5社協定は6社協定となり、テレビバッシング(この場合テレビボイコットだが)の戦列に加わった。(略)
バッシングの矛先が日活からテレビ界へと転じたわけである。テレビ界と邦画界の確執ここに極まれり、という観があるが、面白いことに”テレビヘの劇映画の供給停止”という申し合わせは決して一枚岩ではなく、しっかり抜け穴が存在したのだ。
そのひとつが独立プロ系の映画であった。ここでいう独立プロ系とは、レッドパージで邦画界を追われた”進歩的映画人”が興した会社のことであり(略)
独立プロ系の劇映画は、6社協定に加わっていないことと、資金調達の意味から、ほとんどの作品がテレビに流れ込んでいたのだ。

東宝の崩壊がテレビ界に与えた影響

1.債務削減の手段として、新東宝映画が一気にテレビに流れ出たことにより、6社(5社)協定を崩すきっかけを作った。
2.NACにTBSが資本参加、国産テレビ映画制作の体制を整えた。
3.丹波哲郎宇津井健池内淳子大空真弓など、新東宝出身の映画スターが、テレビで大輪の花を咲かせた。
4.新東宝の優れた技術者が、テレビ映画制作に移行した。(略)
5.新東宝のスタジオが、貸しスタジオとして存続した。

63年できたTBS映画部に一も異動。そこからTBSが出資した国際放映や松竹・大映といった各映画会社に部員が出向して映画をつくる形に。当然映画会社からは下に見られる。
66年TBSドキュメント『ウルトラQのおやじ』での親子対談

一   ようするに、身近にいるようなプロダクションと東宝あたりがですよ。もっと積極的に手を組んで、それでやっていくということを考えた方がいいと思うのさ。(略)
英二  好むと好まざるとに関わらず、やっぱりそういう時代に移っていかなきゃなんないよな。
一   早くなったほうがいいと思うんだけどなあ。だからなんかね、僕らなんかから見るとね。ようするに映画会社の人たちはさ。テレビ映画というのはなんか二軍みたいなさ。見方がしているというのが大変不満なわけよ。もっとやっぱり第一線の人たちがね、本当に全力投球しなきゃいけない場でなきゃいけないはずなのにね。(英二、相づち)第一、映画人口なんていってもさ、人口が増えても映画人口というのは減っていくでしょう。テレビというのは、視聴者がだいたい400万人くらい固定するわけでしょう。そういうところにね、もっと自分のやりたいものをというのをさ、賭けてきゃいい、と思うのにねえ。わずか、わずかなね、製作費が多いからだけでもって映画にしがみついているくらいなら、観てくれる人の多さ、というものをさ、もっと。
英二  (出だし不明)それはお前、しゃれにならないんだけど、それはわかっているんだよなあ。しかしかなり、まだなんかいままでの夢捨てきれないというか、まあ……。(略)

証言:大山勝美。テレビ側の矜持。スイッチング命。

[映画表現の魅力もわかるけど](略)
画質でいうと、まだフィルムの16ミリはヌケが良くなかったんです。やっぱりイメージオルシコンの持ってる、ぼんやりしてるけどなんとなくシャープな映像のほうが現代的な感じがしたというのもあるかもしれませんねえ。それにフィルムはワンカット、ワンカット撮っていくのに対し、スタジオドラマは演技の連続を切り取っていく。この面白さですねえ。芝居の一番いいところを複数のカメラで撮って、ババッとモンタージュしていく。スポーツ中継のようなものですよ。投げた打った、あれを生でホットなまま、しかも多角的なアングルで撮っていけるでしょう。市川崑監督がフィルムを山ほど回して、『東京オリンピック』(64年)を作ったでしょう。あれは上手く映画にしたけれども、その迫力はやっぱり生のスポーツ中継ものをマルチカメラで撮っていくものにかなわない。僕に言わせると、その魅力がテレビスタジオのドラマの面白さだったんですよ。

微妙な分量ですが、明日につづく。