近代日本の音楽文化とタカラヅカ

民音楽をつくる・東京音楽学校初代校長・伊澤修二

たとえば、三味線は全国に広く普及していた楽器であるが、庶民的で、しばしば遊郭を連想させたため、上流階級からは野卑な音楽と軽蔑された。逆に、上流階級が支持する雅楽能楽は、一般庶民には難しすぎて共感できるものではなかった。(略)
つまり、標準語が存在しなかったように、北海道から沖縄までの日本という国家のスケールに見合う音楽文化が存在しなかったといってよい。だからこそ文化統合として「国民音楽」を生み出さねばならなかった。
在来の音楽が国民音楽として不適当であるという認識は、当時の知識人に広く共有されていたらしく、知識人の側から俗楽を批判する主張は当時の雑誌や新聞に頻繁に掲載されている。伊澤もその例外ではない。しかしながら、渡米経験があり欧米文化を熟知していた伊澤は---熟知していたからこそ---短絡的な西洋音楽の礼賛には走らなかった。日本人になじみのない西洋音楽を国民音楽として採用することは、英語を国語にするような暴論だとすらいっている。
とはいえ、伊澤は西洋音楽に用いられているさまざまな技術には着目したはずである。たとえば、メロディを固定できて印刷物として広く配布できる五線譜、数学的に計算された平均律とそれに基づいた西洋音階、工業生産品として規格化されているオルガンやピアノは、ラジオやレコードのようなマスメディアがなかった時代にあっては、正確に音楽を全国に伝えるテクノロジーであった。もちろん、それまでの日本の伝承方法が必ずしも不正確で劣っているというわけではない。手間や時間はかかるものの、口頭伝承のほうがより精細に音楽を伝える例は珍しくない。(略)
そこで、伊澤は「東西二洋ノ音楽ヲ折衷」、つまり西洋の文明的な技術を用いて日本人のための新曲をつくり、それを新しい日本の国民音楽とする方針を打ち出した。

近代日本の音楽文化とタカラヅカ

近代日本の音楽文化とタカラヅカ

和洋折衷の傍流化

ところが皮肉なことに、国民音楽を演奏するエキスパートとして養成されていたはずの演奏家は、いつしかべートーヴェンやショパンを演奏することに価値を見出すようになっていた。それに伴って西洋音楽を鑑賞する愛好家が、とりわけ西洋文化に近い立場にあるエリートや知識人の中に増えてきた。レコードが普及しはじめたことも大きい。つまり、当初は新たに国民音楽のための演奏技術を磨く手段であったり参照モデルにすぎなかった西洋音楽が、それ自体がひとつの音楽ジャンルとして独立し、あるときから芸術音楽の世界において重要なウエイトを占めるようになったのである。本格的な西洋芸術音楽を尊ぶ「直輸入派」の価値観からみれば、北村季晴が作曲した『露営の夢』や『ドンブラコ』のような和洋折衷作品は、「本格的な洋楽」を摂取する途上にある児戯であるかのように軽視され、音楽史の傍流とみなされた。

軍楽隊

軍楽隊は、再生音楽の無い当時にあって、唯一の洋楽供給団体であった。しかし、様々な行事で演奏する軍楽隊の存在意義は、音楽的なものだけに留まらない。揃いの洋服を着込み、金色に光る喇叭を巧みに操って勇壮な音楽を奏でる様子は、まさに「ハイカラ」を絵に描いたような姿であり、当時の西洋崇拝的、軍国主義的な感覚を非常に満足させるものであった。軍楽隊は、明治という新しい時代の「シンボル」的存在として強く意識されていったのである。

軍楽隊から少年音楽隊へ

[蓄音機の登場により]隆盛を極めた民間音楽隊が終息へ向かうのが明治40年代である。(略)日露戦争が終了して社会を覆っていた軍事色が薄らぎ、模擬軍楽隊としての役割が必要とされなくなったのである。(略)
大正時代は「大正デモクラシー」という言葉に象徴されるように、帝国主義的な明治時代とは対照的に民主主義的な考え方が台頭し、女性や子供に視線が向けられるようになった時代である。当時の新しい商業施設であった百貨店が子供をターゲットとした事業を展開する中で、百貨店の少年音楽隊は生まれた。(略)
大阪三越の少年音楽隊は東京と同様、ハイソックスにタータンチェックのキルトというスコットランドの民族衣装を着用し、人気をさらった。彼らに期待されたのは明治時代の音楽隊のような「勇壮さ」ではなく、少年の「愛らしさ」であった。それを少女に置き換えたのが少女歌劇といえるだろう。

「花柳芸術の謀反人」小林一三だったが

それまで支配的であった旧来の松竹における劇場経営方式に対抗して、まず演劇での特権階級独占からの脱却を主張し、実践した。その第一は、従来の特権的な「連中の廃止」であり、第二は、料金の引き下げと冷暖房設置、第三には、劇場内への入口や観客席の椅子の質を平等にすることなどである。さらに、第四に、劇場内での食事やお土産品に至るまで、すべて市価なみの値段にするなど、いずれも従来の因襲を改革して、大衆本位、家庭本位という新しい理想を興行界に実現しようと試みた

1930年初頭には宝塚はコアなファンのものに

しかしこの頃の宝塚の観客は、少女歌劇創立時に小林一三が送り手の対象にすると唱えた漠然とした「大衆」ではすでになくなっていた。(略)同時代の『歌劇』以外の演劇雑誌では、この頃はレビュー団ごとにそれぞれ決まった観客層ができ、それによってレビュー団ごとにひとつの型ができているのだといわれていた(略)白井レビューを支持した人々は単なる「観客」ではなく、宝塚独特の雰囲気をこよなく愛好し、観劇スタイルにも一定の傾向をもったコアな「ファン」になっていたのである。

男声加入反対

此頃よく男声加入が叫ばれますのは、どうしてでしょう、(略)それに叫ばれる方が大抵男子の方ばかりですから変ですのね。失礼ですが私一人の考えとして男子の方が男声加入を叫ばれるのは、全国的になったこの歌劇団が女性ばかりで出来ているための嫉妬のあまり言われるのではなかろうかと思います、いえ皆が皆とは言ひませんわ、でも読んでいると大抵の人は男性共通の気ままな気性とでも言いましょうか、この様な人気を女性のみで取らしておくのはシャクだというので無理押しに加入させようとしていられる様に思います。(上村由子)
男声加入大反對、なんていつまでもぐずぐず云ってるんでしょう! 男の人ってヒツコイんですね。(略)私はオーケストラも出来る事なら生徒さんにやってもらひたい位です男の方を使わないで、皆さん如何?(瀧澪子)

「男性加入の必要なし」

1932年4月号の『歌劇』に小林一三が「男性加入の必要なし」という文を発表したのである。この小林の文章は、歌舞伎の例をひきながら「アブノーマルな方が却って芸術的である」などとかなり苦しい言い訳をしたものであった。もともと小林は男性加入による国民劇を理想としており、この宣言はファンの意向におもねる形でひねりだしたものであろうから仕方がない。それでも、経営のトップである小林の明確な宣言により、少女歌劇は本格芸術の迫力や力強さを目指すよりも、その独特の甘い雰囲気を保つことこそを重視するべきだというのが共通見解に設定されたのは事実である。つまり、「未完成」だったはずの少女だけの歌劇が、「少女のみによる」歌劇であることそれ自体に意義を認められることになったのである。こうした方向性を支持した甘さを好む陶酔型のファンのなかには、何度も繰り返すように男性も沢山いた。女性ファンが増えたとはいえ、当時の観客層はまだ男女半々といったところだった。

さらにこの時代には「男装の麗人」という言葉が流行しはじめた。

この言葉に高貴で美しい連想が許されるのは後世になってからであり、女学生心中や、令嬢が男装して道行きする事件が新聞紙上をにぎわしていたこの時代には、同性愛やエロティシズムのイメージのほうが強かった(略)とくに1935年、松竹少女歌劇の女優と男装の令嬢の心中未遂がニュースになると、マスコミは「レヴュウファンの狂喜沙汰−男読むべからず聞いた口が塞がらぬ−」(略)「あまりにも病的なファン気質」(略)などといったスキャンダラスな特集をこぞって取り上げた。

明日につづく。