アフリカ「発見」

 

1587年九州に出兵して

秀吉は日本人売買を知る

秀吉の禁止令にもかかわらず、人身売買は跡を絶たなかった。コエリョはそれから三ヶ月後に平戸から送った書簡のなかで、ポルトガル人商人が「あらゆる手段で日本人男女を買おうとしている」模様を伝えている。(略)さらに、秀吉のバテレン追放に言及し、キリスト教徒であるポルトガル商人が、九州、とくに長崎で日本婦人、少女を拉致して「放逸なる生活」に耽溺していることが秀吉の逆鱗に触れ、追放の一つの原因を作ったと指摘した。日本側にもそれなりの事情があった。社会の底辺には戦争、貧困、荒廃から人身売買の対象となりうる人々が存在し、その一方にポルトガルとの交易によって得られる実益を優先させ、人身売買に目をつむる、あるいは関与する支配層があった。その状況に、15世紀末各地で異教徒を本国や第三国に売り渡したポルトガル人の奴隷取引の慣行が加われば、日本人輸出が当然の帰結であったと言えるだろ。

一旦終息しかけたが、朝鮮出兵で再燃。武器調達で日本人のみならず、朝鮮人も。

九州での日本人売買は、日本人の関与もあったにしろ、もっぱらポルトガル人が中心となって行なわれていたが、文禄、慶長の秀吉の朝鮮出兵の時期には、鉄砲など武器を調達する手段として、大名が積極的に朝鮮人ポルトガル商人に売り渡した。(略)
日本軍は戦闘のつまずきによって大量の武器の補給を必要とし、また日本人商人らは利潤に富む中国産生糸の輸入を欲した。主として生糸との交換のため、夥しい数の朝鮮人が奴隷として、あるいは誘拐されて日本に連行され、売られていった。その数は5万を下らない、と言われている。

「からゆきさん」はアフリカまで

醜業婦や娘子軍*1と呼ばれた彼女たちは、東南アジアのみならず、遠くアフリカにまで及んだ。中村直吉も、「何処へ行っても日本婦人が一種の発展を盛にやつているには驚かざるを得ない」と指摘する。中村や前述の古谷駒平、志賀重昂のみならず、明治から昭和にいたるまでアフリカを訪れた多くの人々に、ケニアザンジバルモザンビークモーリシャスマダガスカル南アフリカで春を鬻ぐ女性たちの姿が目撃されている。

漱石の『三四郎』。誰も読んでないだろうと借りたアフラ・ベーンを広田先生は読んでいて、アフラ・ベーンの『オルーノコ』*2には

小説とは別に「サザーンといふ人」が脚本化したものがあり、同じ名なので「それを一所にしちや不可ない」と念をを押す。(略)
以上が『三四郎』で取り扱われる『オルーノコ』のすべてである。そこでは、たった一言主人公が「黒ん坊」であると書かれているに過ぎない。だが、注目すべきは、広田先生の放ったアフラ・べーンとトーマス・サザンの作品を一緒にしてはいけないという発言にある。サザンは、作中重要な役を担うオルーノコの恋人イモインダをアフリカ人から白人に変えたのである。このような改変に対し、漱石は一言も触れることなく、ただ同じものではないと広田に言わせるにとどまる。黙して語らぬこの姿勢こそが、英国での彼自身の体験を含め、逆に漱石の有色人種問題に対する過敏なまでの意識の裏返しであったといえるのかも知れない。

20世紀初頭意外に多くのロシア人がエチオピアに住んでいた

エチオピアとロシアとの正式な外交関係は1898年に始まったが、それ以前からも両国は特異な結びつきの歴史をたどっている。それは第二章第四節で触れたように、ピョートル大帝の寵愛を受け、その能力ゆえ位人臣を極めた、作家プーシキンの曾祖父黒人アブラム・ガンニハルの出自がエチオピアであったという出来事にとどまらない。ともに東方正教会に属する両国の宗教的な交流が19世紀中葉から始まる。(略)
エチオピアとイタリアとの緊張が高まるにつれ、武器の調達をはじめとして、エチオピアとロシアの結びつきは強化されていった。1896年のアドワの戦いは、アフリカの途上国エチオピアがヨーロッパ列強のイタリアを大敗させた、アフリカ史上画期的な出来事であった。

日本とエチオピア

1930年代に入ってからのエチオピアの日本への傾斜は、エチオピアには事実上友好的かつ強力な同盟国が一つもなかったことにもよろう。そのうえ皇帝あるいは天皇支配という国家形態の類似、有史上未だ被植民地化の経験がないこと、非白色人種国という歴史的、民族的共通性がさらに日本への親近感、期待を大きくしたといえる。イタリアを破ったエチオピアとロシアを破った日本の結びつきが、恰好の組み合わせに映ったとしても不思議ではない。

エチオピア殿下、日本人華族・黒田雅子と結婚かっ

日本での「エチオピア熱」は、1931年暮れのエチオピア使節来日に始まり、使節の帰国によっていったんは鎮静化するものの、それから1年半後の唐突なアラヤ殿下の日本人花嫁募集を端緒に、1934年1月の日本人華族令嬢との婚約で最高潮に達する。どこが危うさを感じさせながらも、破談になるまでの二ヶ月間、一方に満州での戦闘が報じられるなか、日本は華やいだ雰囲気に包まれる。(略)
エチオピアへの日本人移住計画は、エチオピアがイタリアと全面戦争に突入し、1936年イタリアの占領下に置かれたことで頓挫する。

東京オリンピックでのアベベ

本当の意味での「エチオピア熱」の到来である。エチオピアにとってもアベベの存在は意味のあるものだった。それはアベベが単にエチオピアに最初のゴールドメダルを齎したからではない。そのメダルを、1960年のローマ・オリンピックで獲得したからだった。1936年から42年まで、7年間の屈辱の支配を受けたイタリアからもぎとった栄光である。

*1:じょうしぐん

*2:三四郎』では「オルノーコ」と表記