元祖ニート、女乞食

1962年の橋川文三
明治42年頃の「堕落学生」はドロップアウトしてカツアゲ・婦女暴行、食うためにストリートミュージシャン、路上アクセサリー販売、ボンボンならば親の金でショップを開いて、「自由結婚と称して、男女学生が一所になって勝手な生活を営」み、あげくは煩悶自殺。

しかし、このような現象が、巨大化した権力装置の中で、適応に失敗した青年群のアノミックな行動様式を示すことはいうまでもあるまい。
なぜこのような傾向が日露戦後の社会にひろがったのか。それをもう少し別の側面から見ると、青年学生の生活そのものの中に、社会の弱肉強食と優勝劣敗の原理が浸透したことがあげられる。(略)
彼らはまだ世間に出ない以前から、いわば勤め人的修練をつまねばならなかった。そして、それに失敗した連中が「堕落学生」「不良青年」とよばれたのである。彼らはいずれも明治国家体制から疎外された存在として、自殺、発狂、病死によって淘汰されるか、生存競争の落伍者として消失するかしなければならたかった。

ゆうたら「高等遊民」は元祖ニートですから

かつては失職が人生の挫折の一般形態であったとすれば、今日では就職こそがその端緒形態をなしているという逆説が成立つであろう。(略)
かつては中学校卒業以上の無職者がいわゆる「高等遊民」という奇妙なジャンルを作り出した。しかし、現代の青年たちには、もはやそのような社会的空白部分は存在しない。「遊民」の基礎をなしたと思われる家族制度さえ、現代では無為の寄食者を入れるゆとりはない。社会全体は「富裕」になったかも知れないが、その人間関係の組織化はいっそう微分化され、ゆとりを失っている。かつての放蕩青年が「情婦」とともに当時の尖端職業であった洋食店、煙草屋、自転車屋を開くといった話の物語性は、現代では考えられない。

1962年の疲弊した青年の一日

ある学生がドイツ語の試験解答欄に次のような「答案」を書いていた。
「朝起きて、顔を洗って、御飯をたべて、バスに乗って、絵の学校へ行って、絵を画いて、授業が終って、地下鉄に乗って、駿河台へ来て、明治大学に来て、勉強して、バスに乗って帰る。」

大人になるということ

かつて明治末期の青年たちが「何か面白いことはないかねえ」という「不吉な言葉」(石川啄木)をくりかえしながら、無気力に彷徨したように、現代の青年もまた停滞の中で眼を見ひらいたまま、どこからか新しい世界の影像が近づいて来ないかと、焦躁の念をいだいて見まもっているかのようである。
しかし、その可能性は恐らくないであろう。あるものは就職と結婚ののち、ある朝とつぜんにその小家庭の中にこそ失われた良い世界があったことに気づいて陶然とするかも知れないし、ある者は、なんらかの社会的成功によってささやかな栄光に照らされたとき、その追求した世界と自我とはまさにこれであったのかと自得するかも知れない。そして、学生時代のあの野良犬のような暗い自己疎外の情念が、まるで悪夢のように消えてしまっていることを発見し、奇妙な幸福感をいだくかも知れない。

明日が見えないこと

さて、このような自己疎外の体系化---宿命化の呪縛を打破する呪文は一体あるのだろうか?ある人々は「革命」をその呪文と信じており、他の人々は「愛」と「教育」の復興を掲げている。かつて啄木は、そのために「明日の考察」を説き、一切の空想を排除したのちに残る「唯一の真実---必要!」の大胆な追求を提唱した。(略)
見わたしたところ、若い人々の精神世界の風景は荒涼として光がない。それは明治末期の青年たちの精神風景と同じであり、あるいはまた、昭和十年前後、理想を見失ったファシズム前期の学生群の生態と似ていなくもない。

日本残酷物語』より。近代的であることが女乞食から食を奪った話。人権とはなんだろう。

「……小山勝清氏が若いころ九州球磨の山中の社会風俗を書いたものの中に、村人が女乞食をしきりにいじめるのに義憤を感じた若者が、女乞食をかばってそれをとどめると、その女乞食が喜ぱなかった話がある。いじめたり、からかったりするのは憎んだり嫌ったりしてのことではなくて、その女乞食を愛してのことであった。そうされることによって、怒ったり泣いたりするのもひとつの演出で、人々はそれによって女乞食を意識し、また女乞食に食物もあたえたのである。ところが若者がからかうことをとめると、村人は女乞食を見向きもしなくなったうえに、食物もあたえなくなったのである。

1961年の石原慎太郎に対して

一切の卑俗を斥け、全身的な破壊者として既成文明に立向かう高貴な戦士のポーズをとりながら、もっとも巧みな、無恥な権力者の走狗になりおわった例は、わが国の現代史の中にも累々とその姿をつらねている。そして、その過程が石原において開始されているか否か、それは私の知るところではない。(略)
彼が人間の復権を「民族」の名によって義認しようとするとき、それは彼の勝手である。しかし、それは同時に彼がその破壊目標とした日本の文明的既成体の擁護者となり、そのための青年向き広報機関となることを意味することになるのは間違いない。それはすべてのロマン主義者の宿命のようなものであった。フランス革命の讃美からカトリック的階級支配への帰依という構図は現代もなおそのアナロジーを厳密につらぬいているからである。