僕は珈琲 片岡義男

僕は珈琲

まずい珈琲豆

 日本が国際コーヒー協定に参加したのは一九六四年だった。当時の日本は、珈琲市場として新たに登場した国、という認識をされていたという。その日本へ輸出する珈琲豆は、生産国に割り当てられていた輸出枠の外のこと、とされていた。珈琲の生産国は良い豆を輸出枠に振り向け、日本への輸出には、その枠に入らない、等級の低い豆が、割り当てられることになった。いちばんまずい珈琲が当時の日本に入っていた。

 このいちばんまずい珈琲豆を、当時の喫茶店はどのように淹れていたのか。生豆をそのまま釜に入れて煮出した、という説がある。焙煎の手間を省くため、等級のいちばん低い豆が焙煎された状態で売りさばかれた、とする説もある。この焙煎された豆を、じかに釜へ入れて煮出したか、あるいは木綿の布に包んだ、木綿の袋に入れた、というような話はみな、当時の喫茶店で僕が日常的に飲んでいた珈琲と、つながっている。(略)

植草甚一さん

 植草甚一さんの自宅には、両方の合計で十回くらい、いっている。 両方の合計とは、この場合、木造平屋建ての一軒家と、当時は小田急アパートと呼ばれていた集合住宅の部屋、という意味だ。(略)

[平屋建ての]廊下に上がると穴があいていた。そこには穴がありますから、と植草さんは常に注意してくれた。

(略)

月刊文芸誌『野性時代』の新人文学賞を僕が受賞したとき、その知らせは『ワンダーランド』の編集部にも届いていた。なにかの用でその編集部に立ち寄った僕に、

「あの賞は八百長だ、と植草さんが言ってるよ」

と、編集部にいた人が僕に言った。

 それから二、三日後に、小田急アパートの植草さんの部屋を、僕は訪ねた。(略)

「受賞、おめでとう」と植草さんは言った。 八百長の話を思い出した僕は、

「あれは八百長ですから」

と言ってみた。僕たちはふたりとも立って向き合っていた。僕とのあいだのちょうど中間あたりに視線を落とした植草さんは、じつにうれしそうな笑顔になった。ほんのしばらくそのままでいた植草さんは、毅然と顔を上げ、真面目な表情となり、

「いえ、実力です」

と答えた。

 この部屋の電話機が箪笥の上に置かれていたことがあった。伸び上がった植草さんが届くか届かないか、という高さだった。

(略)

 僕が部屋にいるとき、この箪笥の上の電話機の、呼び出し音が鳴り始めた。植草さんは箪笥の上を見上げた。呼び出し音は鳴り続けた。植草さんは、ぴょんと飛び上がり、受話器を右手につかんで着地した。そして受話器を耳に当て、おもむろに、

「はい、植草です」

と言った。

 僕としては植草さんの電話を聞いているほかなく、したがって僕は、聞いていた。最初に「はい」と植草さんは言った。一分ほどしてからもう一度、「はい」と言った。この「はい」が七度、続いた。間隔は一分だから、八分ほどのあいだ、 植草さんは、「はい」とだけ言った。依頼したい原稿の内容を電話の相手は説明しているのだ、という程度なら僕にもわかった。

 わかったままになおも聞いていると、八度目の「はい」はなく、そのかわりに、「嫌です」と、植草さんは言った。この「嫌です」のひと言のあと、「はい」が二度、続いた。そして、「嫌と言ったら嫌です」と、植草さんは言った。その次の言葉は、「どなたか代わりのかたを」というものだった。そして最後にひとつ、「はい」と言い、その電話は終わった。ある日の午後、どこかの誰かが、原稿を依頼するため、植草さんのところに電話をかけた。植草さんはその依頼を断った。(略)

 

 

『黒い傷あとのブルース』

 『黒い傷あとのブルース』の原題は Broken Promisesで、 これをアンリ・ド・パリ楽団が演奏した短いテープをアメリカから受け取った日本のビクター・ワールド・グループの人は、これは絶対に歌謡曲の演奏物として売れる、という強い思いのもと、Broken Promises の原題から 『黒い傷あとのブルース』という日本における題名を考えた。ブルースのひと言がつくのはいいとして、黒い傷あとの、という部分をいかに発想したのか僕は知りたいが、一九六一年の担当者あるいは当時を知る人たち全員が、残念だがもはや草葉の陰だ。

 日本の担当者はアメリカから受け取ったテープのコピーを作り、そのコピーを使って切り貼りし、日本で一枚のシングル盤として成立するよう、整えなおした。「貴殿からお送りいただいたテープをこのようなかたちでレコードにする許諾をいただけるなら、このとおり二分三十数秒で演奏したテープを至急下記宛にお送りいただきたい」というような手紙を添えて、テープをアメリカに送る。待たせるなら催促しなくてはいけない、と思っているところに新しいテープが届く。聴いてみる。なんの問題もない。

 レコードは無事にプレスされ、市場に出た。よく売れた。そしてビクターの担当者は日活から次のような提案を受けた。『黒い傷あとのブルース』をもとに小林旭主演で映画を作りたい。『黒い傷あとのブルース』という題名になり、おなじ題名で小林旭が歌う主題歌が劇中にありレコードも発売される。歌詞は日本語のものをこちらで作る。演奏も日本人がおこなう。 ビクターの担当者はこの提案に全面的に賛成する。 『黒い傷あとのブルース』はこのようにしてアンリ・ド・パリの演奏物でありつつ、小林旭の歌ともなった。市場に出たアンリ・ド・パリの『黒い傷あとのブルース』のスリーヴには、日活映画化がうたわれていない。「アルト・サックスの音がわたしの心をかきむしる」というコピーに当時の言葉で言うところの、金髪ヌードが添えてあり、『黒い傷あとのブルース』と日本語の題名が斜めに入り、傷あとの持ち主とおぼしき男性の横顔が乱暴に描いてある。

 日活映画の『黒い傷あとのブルース』には吉永小百合が共演した。 曲は編曲次第でどうにでもなる。歌詞も日本語でまったく改めて、吉永小百合の Broken Promises があり得たではないか。 あり得たと言うなら、 西田佐知子の Broken Promises もあり得た。映画の冒頭近くにナイトクラブの場面があり、ステージ・ショーの一部分として、デビューしたばかりの頃の西田が歌う。 この歌が、 西田佐知子の Broken Promises であり得た。(略)

 

香港クレージー作戦、一九六三年

 『香港クレージー作戦』は一九六三年に公開された東宝スコープによる作品だ。ある日の午後から夕方にかけて、九十三分のこの作品を、僕は観た。

(略)

 一九六三年はきみが大学を卒業した年だよ、と言われると、ははあ、あの頃か、とおぼろげながら、見当はつく。 大学を卒業した僕はまるで駄目だった。なんにも知らない、なんにも出来ない、年齢が二十代前半の、ただの青年だった。

(略)

 僕はほんとうに駄目だった。なんにも知らないのだ。そのなんにも知らない青年を、会社は四月一日からいきなり、動きかたもその内容もよく心得た人とおなじに扱った。最初に言いつけられたのは、バンカメのガイタメへいってああしろこうしろ、というものだった。バンカメのガイタメへいけばすべてわかってるから、と言われて雨の日の午前九時十五分、都電の切符をもらって、僕は出掛けた。(略)

バンカメとはなになのか、それすら知らない。都電を降りると目の前にバンカメがあるから、という直属の上司のひと言を頼りに、八丁堀から僕は雨の日の都電の乗客となった。対面する時代だった。対面するためには出向くほかなかった。だから僕は出向いた。馬場先門で都電を降りてふと見ると、建物の軒下に BANK OF AMERICA とあるではないか。(略)

 ガイタメとは、外国為替を省略したものだった。これはバンカメのカウンターでわかった。外国をソトクニと読むことはもはや卒業していた。外国はガイコクなのだが、為替は読めもしなければ書くことも出来なかった。(略)

こうも考えた

 生産性、 という言葉がある。 まだ現役だろう。 日本のサラリーマンは生産性が低い、などと使われている。サラリーマンとはどういう人たちなのか。そして生産性とは、どのようなことなのか。生産性とは、最高度の知性のようなものか。それは移動が自由だ。その人がいくところなら、どこへでもいく。そして日本ではたまたま配属 されたその部署でなんとか役に立つのであり、ほかの部署では使えない。彼らは生産性が低い、と言われる理由のひとつは、こんなところにある。

 画一性、という言葉も現役だ。画一性とは、具体的に、どのようなことなのか。たとえば、自分の経験だけですべてを判断する人は、画一性の根源を作っているように僕は思う。自分の体験だけしか語らない。その範囲内で物事をすべて判断する。

 イマジネーション。片仮名書きされて日本語になって久しい言葉だ。イマジネーションとは、なにか。英和辞典を見ると、想像力、構想力、理解力、などと説明されている。最高の状態にあるイマジネーションは、さきほどの知性とおなじようなものではないか。自分の体験だけですべてを判断することについては、さきほど書いた。これは、イマジネーションの正反対だ。イマジネーションのない人たちが、増えている。

(略)

一九七〇年代いっぱいくらいまでは、人々の頭の片隅に、人生如何に生きるべきか、という問いがあった。一九八〇年代の日本から、そのような問いは消えた。人生如何に生きるべきかを、人々はすべてやめたのだ。

(略)

科学技術はいまや日常ですらある。それをすべて受け入れていれば、それ以上のものはない。操作手順を間違えなければ、答えが出る。唯一の答えだ。それ以外のものは、嘘だ、とされる。

 正しい操作手順のなかにイマジネーションはない。それは積極的に排除すらされる。こういうところへ全員が参加しなくてはならない。参加しそこなった人は、どうなるのか。落ちたまま、となるのだろう。操作手順を間違えない人が、正しい人だ。正しい人だけがいる世界は、おそらく、画一的な世界なのだろう。

(略)

 一杯の珈琲を飲む時間は十五分くらいだろうか。 二度と戻らない十五分だ。 そんなことを思いながら、僕は珈琲を飲んだ。ひと口、またひと口。二度と戻らないひと口の蓄積が、一杯の珈琲を作る。

僕は珈琲

(略)注文を告げるとき、「僕は珈琲」と言う人がかならずいる。これを英語に直訳すると I am coffee. ともなる。

(略)

 寿司の店で店主が握ってくれる握り寿司の英語訳は古い冗談だが、いまだに流通している。イクラが How much? でシャコがガレージ(略)

アジは taste だ。イカは under だという。(略)

マグロは true blackだし、アナゴは hole child だ。そしてコハダは small skin だ。鉄火巻きは steel fire roll と見事な直訳だが、カリフォルニアでは人々はそう呼んでいますよと言われたなら、信じる人の数はけっして少なくないだろう、と僕は思う。(略)

スズキが my name というのは判じ物に近い。寿司屋の店主が入魂のスズキを二貫、客の皿に置いたら、その客はスズキを指さして、 My name! と叫んだという。その人は名を鈴木さんといった。良く出来た笑い話なので、スズキの英訳としてすでに定着しているそうだ。

 直訳には効用がある、と僕は思う。青春はブルー・スプリング。作家はメイク・ハウス。こうして書いていると、なんだかすがすがしい気持ちになってくる。愛の結晶はラヴ・クリスタル。五目炒飯が Fried Rice With Five Eyes となっているのを目にしたときには、僕は喝采を送った。よくぞここまでやった、という気持ちだった。

 僕がもっとも高く喝采を送ったのは、日本の部長さんが発したひと言だ。(略)

指で自分の口もとにかかげた杯を自分のほうに傾け、酒を酌み交わすという意味にするあのジェスチュアを加えて、「一杯やりましょう」と、英語で言ったのだ。 その英語は、 Let's do one cup. というものだった。

 「やる」は do で、「ましょう」 は let's だ。 このふたつをつなげて let's do とし、「一杯」の one cup をそのあとにくっつければ、 Let's do one cup. となって、これは立派な英語じゃありませんか、どこがいけないんですか、と信じきっている彼の態度に対して、我が国の戦後における英語教育が発揮した効用の頂点がここにある、とすら僕は思った。

(略)

源氏物語』を僕は読んでいない。 書き出しの部分である「いづれのおんときにか」という日本語は、読めはするけれどその意味は、なんとなくわかっているようだが、よく考えるとまったく不明だ。(略)

アメリカの友人が『源氏物語』の英訳本を(略)僕に中央線のなかでくれた。

(略)

いづれのおんときにか、という平安時代のなか頃の日本語に対応する英語の部分は、 In the reign of a certain emperor, というものだった。こう言われると、隅々までよくわかる。 「いづれの」は a certain なのだ。(略)

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本邦ストリップ考―まじめに (小沢昭一座談)

戦後ストリップ史 Ⅰ 深井俊彦(演出家)

深井 (略)動いちゃいけないというので(略)ブランコに乗って動かせばいいんだろうって。

小沢 本人は動いていないってことですね(笑い)

(略)

深井 二八、九年ごろですよ、入浴ショウをやったのは。これはおもしろかったね。僕は最初見てびっくりした。木の風呂おけをコメディアンが持ってきて、お湯をザァッと入れる(略)で、全部脱いで入るんだ。お客に竹筒持たして「流して……」。これはショウとしては僕はえらいと思う。これはショウじゃないわけですよ。 ショウというのは、いままでマンボとか、きれいに踊っているでしょ。これは、だって何だか家庭の生活を再現するんで、だからものすごく客が入った。 あんな小さな小屋が割れるように入って、三ヶ月でだめになった。警視庁が………。(略)これからが特出しになる。(略)

小屋がだめになって、ちょっと年がとびますけれども、昭和三〇年ごろ旅に出たんです、美人座入浴ショウが。(略)夏の暑いとき、まだ冷房のないころですよ、三六〇〇人も入ったんです。温劇は大きい小屋ですけれど、三六〇〇はなかなか入らない。それからまた旅に出て、東海道からずっと行って、入浴ショウの行ったあとは草も生えないというくらい強かった。(略)

それと、やっぱり昭和三一年ごろ、吉田興行の百万弗ショウ、前は金粉ショウといっていた。

(略)

全然入らない小屋なんです。何をやってもだめ。入らないので、しょうがない、じゃあチラッと見せるか。それが最初。それとつまり入浴ショウがミックスされて、ちょっと見せるから、ベッドショウになっちゃった。ものは順序です(笑い)。

残酷ショー、金髪ヌード

深井 (略)残酷ショーというのは、僕が一番最初つくったんだけど(略)

女のほうは埼玉大学教養学部とかで、青木純子。(略)

女がむずかしいことをいうんですよ、人間は破壊されなければならないとか...….。(略)シミーズ一枚にして、正座しろっていうと、女のコが正座するわけ。こうやって蹴とばしてくださいっていうから、蹴とばすと、倒れるでしょ。立って、立ってっていうと、またちゃんと正座する。それを二、三回やったら、コップ酒飲んで、ええっとちょっと縛るかなって、衣桁へ縛って、縄でひっぱたくんですよ。 それを最初にショウにしたわけです。これが三九年ごろ(略)

残酷ショウが全盛のときは、一時三〇組ぐらいあった、全国で。(略)

一〇人お客さんがいれば、七人ぐらいは多少そういうのが好きな人、三人ぐらいはまるでいやだっていう、だから、あまりはやらない。それからレズだろうね。入浴ショウからチラチラ見せになって、ベッドショウになって、それから残酷ショウになって、その間に女子プロレスっていうのがあるんですよ。最初、昭和二七年ごろは女子プロレスの会社が四つあった。

(略)

それから、最初の外国人ヌードっていうのはミス・アンドレア。ハンガリーの人で、在日外国人ですよ。これが昭和二六年ごろ。

(略)

日本人ていうのは外国人コンプレックスで......。それで、入るっていうので、日本人の外国人が出てきた。最初はジプシー・アンナっていうんです。それから背の高いカッコいいのは全部外国人、毛を染めて。(略)

金髪ヌード。あまり日本語を使うなよといっても、「ねえ、おばさん、おしんこない?」(笑い)なんていうから、すぐばれちゃう。名前を忘れたけれども、そのとき黒人ヌードっていうのが出てきた。サッチンというのがいて、色が黒いんですよ。茶色のドーランを塗って、それで、「黒人でいくからな、口きくなよ」(笑い)。

(略)

[外人じゃないとバレて]お客さんがおこるわね。しょうがないから金髪ヌードというようになった。

戦後ストリップ史 Ⅱ 中谷陽

女剣劇からストリップははじまっているんですね

小沢 密林の中で男が女をただ追いかけるっていうだけ(笑い)。(略)

中谷 オッパイは出ているけれども、スパンコールをつけている。(略)

その前までは、みんなブラジャーだった、昭和二二年ごろだから。

(略)

中谷 浅香光代がその当時女剣劇やったわけ。そのときはまだパンツをはいてた。

(略)

小沢 (略)鹿島幸太郎さんの剣劇のところにいた丘ひとみっていうのが、女剣劇の中で……(略)

中谷 (略)剣劇がすたれて、女が座長でないともう食えないわけです。鹿島さんは裏に回れば大将だけれども、表向きは(略)

丘ひとみさんが座長のその一座の中で、ノーパンでパッと開いて、捕り手が来るときに、はしごに登ったりなんかするので見せた。それが露出第一号

(略)

小沢 ということは、女剣劇からストリップははじまっているんですね。

(略)

中谷 その女剣劇の一座がだんだん分散していって、ストリップの荷をつくるようになった。(略)

踊り子が七人とバンドが四人、それに特別出演が一人......。(略)

五〇〇円あげるから、あんた特別出演でやりなさいといって、名前を別につくって、フリーの踊り子がのっていたわけだ。

小沢 それが、いわゆるトクダシ。

中谷 そういうコは踊りも何もできなかった。

小沢 ただ露出専門で......。

中谷 それで、やっているうちに本人が自覚して、テレビを見て踊りの振り付けの真似をしてみたり、いろいろして…..…..。 剣劇がなんでそういうふうにストリップ界に侵入してきたかっていったら、ちょうどテレビの民放がはじまったころなんですよ。 テレビを見るから、もう寸劇を見る人がいなくなった。

小沢 演劇がだんだんすたれてきた。それで、みんなだんだんそういう座がストリップに変更してきた。

(略)

中谷 一番最初に特出しをやりだして、取り締まりがきびしくなって、もうあかんちゅうてやめたのは岐阜セントラル劇場。

(略)

ラヴィアンローズって女のコ……。(略)

これはもう、いわゆる堂々たるオープンの元祖ですわね、チラじゃなくて。

小沢 Vサインのドンの……。だれってことになっているんですか、とにかくお毛々チラの最初っていうのは。

中谷 だれともなしにですね。(略)

昭和四〇年はまだ見せてなかったですよ。(略)

四一年、四二年ぐらいにかけて、ぼちぼち出てきたわけだ。トリになったら、必ずみんな脱いでいましたな。(略)

トリになったらそれをしなければならんという何か……。

小沢 いつのまにか不文律ができあがっちゃった。そのかわり、トリをとれるという名誉があるってことだね。

中谷 いまみたいに開いて何かしなかったけれども。

小沢 ちょっとしゃがんで......。

中谷 毛をみせる。

小沢 (略)つまりオープンてことになったのはいつごろからですか。

中谷 やっぱり四一年。(略)

じきにバッと。だから、だれがやったかということになったら、これはまたむずかしいですね。その当時、警察との関係で、オープンするコはやっぱりパクられていましたからね。みんなかばって隠しておったでしょ。

小沢 留置所に入ったら、やっぱり非常にめんどうみたものですか、小屋主が。

中谷 みましたよ。朝、昼、晩、ちゃんと差し入れして、罰金はもちろん払ってやるし、出てきたら、今度は祝儀でしょ。それから、パクられている期間中のギャラでしょ、全部みるわけですよ。

小沢 そのかわり、口がさけても支配人にいわれたなんてことはいわない。

中谷 絶対にいわない。(略)一条さゆりもパクられたのは一回や二回じゃないんですよ。もう何回とあるわけだ。今度の件でも(略)当初は僕も、一条はてめえが助かりたいもんだからべらべらしゃべったなと思って、非常におこっとったわけだ。ところがあとで聞いたら、結局、ほかがみんなしゃべっとった。(略)

ほかがみんなしゃべって、一覧表、コース表もみんな持っていきよったって。それじゃ一条さゆりも言わざるをえんかったんやな。(略)

それまで、一条はかぼうてた、頑強に否認しとったで、といっとったからね。

(略)

小沢 それで、オープン時代があって、それから手を持っていってビュッと開くようになって、それから後ろからも見せるようなことにもなって、そのころレズになったんですね。 一時はやったですね。

中谷 バックシーンを見せる前ですね、レズは。

小沢 この間、桐かおるさんに聞きましたけれども、レズっていうののスタートも、やっぱり九州が最初。(略)

中谷 カーセックスショウね。

小沢 カーの中で女が二人レスビアンをやる。(略)

中谷 桐の前にレズをやったやつはおりましたよ、関西で。ジーナ・クリスティーナとシルビー・フランソワっていうのが。

(略)

中谷 なぜレズにみんなが殺到したかというと、日舞がすたってきたわけ。なぜかっていうとギャラがね、ベテランの日舞でも、それから出前持ちのコがパッと来て踊っても、特出しによってギャラに差別があるわけだ。日舞みたいに重たい、何万円もするズラつけて、衣裳だって金がかかるし、あほらしいから、あいつらと同じようにあたしもレスビアンするわっていうので、日舞同士が組んだわけ。これでレスビアンがパッと……

天狗ショウ

小沢 レズのあとがいま天狗ってことになってきたみたいですね。これがどこまで安定するかわからないけれども。それからこれに並行してベッドショウっていうのがあったんですね。

中谷 ベッドショウっていうのは、昭和三五年ぐらいからあった。

(略)

そのころ関東で入浴ショウっていうのがあった、浅草で、客に洗わせたり…..…。それで、あんまりえげつないんで、警視庁からストップをかけられた。それが昭和三五年ごろ。

(略)

レスビアンの前にベッドショウがあった。オナニーショウね。それが、コミさんにいわせれば、いわゆるMですわ。 実際にこうやってやっていたんですからね。

小沢 入れないで入れたふりってやつ。しかし、天狗が席捲してきましたね。どうも固定するみたいですね。

中谷 えせ性交みたいな感じで、あれはあんまり受けないですよ。実際は客受けはしていない。何か、男が侮辱されているみたいな……。若い男なんか、くそ、あんなんやりおって頭にくるわ、いうて出ていきよる。

小沢 この間、とうとう客にはめさせたっていうの、ほんとうかしらね。

中谷 事実ですよ。

小沢 とうとう参加番組になってきた、テレビと同じで。

中谷 さわらせるのは前からやっていた、一条が。九州でもどこでもさわらしていた から人気があった。

(略)

小沢 (略)次にどんな趣向が出てくるか、こんなおもしろいことはない。つまり、こっちが考えないようなことがまた出てくるっていうのがね。天狗も考えつかなかったですね。必要は発明の母っていいますけれどね。

中谷 そういうものは昔からあるわけなんだ。天狗とか、そういうアイデアは。ところが、つねに情勢に応じておそるおそる手さぐりをして持っていくというような感じがあるわけですよ。

小沢 いつか姫路で出ていたでしょ、天狗が。男が天狗の面をつけて、あれはナマ天狗の上に面かぶせて無駄な話なんで、ダブル天狗だけれども、そんなに受けてなかった。(略)

中谷 だからファック・ショウもあるんですよ。たまにパパッとやって、様子をみてフッと消える。大阪府警なんかカッカきているでしょう。

昭和47年引退興行で逮捕された

一条さゆりの裁判記録から

昭和48年第三回公判調書

証人 西山三郎(仮名)吉野ミュージック劇場元支配人

弁護人 ところで、この広告の中に、天狗レス、水中コケシレス、変態レスというような演し物の内容が書いてあるわけですね。

(略)

天狗レスということは、どういうことをやるんですか。

西山 天狗の面を使った、一つのショーでして、天狗があばれるというような感じにもっていったりしておりますね。

弁護人 天狗の面をつけて走りまわるだけですか。

西山 そうですね。

弁護人 相手になる者がいないんですか。 例えばセックスを象徴するようなことはないんですか。

西山 客に連想させることはあるでしょうね。……そういうことはあまりやらないです。

(略)

弁護人 こちらから聞きますけどね。天狗レスというのは、天狗の面を女性が腰の部分につけて、相手になる女の子がいて、それで性交の体位をとったりする、ということじゃないですか。

西山 知っていれば聞く必要ないでしょう。

第四回公判調書

証人 田中小実昌(文筆業)

田中 (略)東京フォーリーズという軽演劇の劇団にアルバイトみたいにして行っておりました。そこでは文芸部におったんですけれども、やっておりましたのは進行係です。その昭和二二年三月に、いわゆるストリップと言われているものが新宿の帝都座五階で「額縁ショウ」として始まったんです。

 その東京フォーリーズで(略)バラエティの中で、ある踊子が乳バン(ブラジャー)を外してやるという、日本の当時からすればもう大変な出来事というか、その始まりころに偶然出会わしたわけです。

(略)

[22年頃に東京の軽演劇が消え]その小屋がストリップ小屋に順次変わっていった、という状態なんです。

(略)

弁護人 額縁ショウがわが国のストリップの始まりですか。

田中 はい、そう一般的に言われております。

(略)

弁護人 どういう意味で人気を呼んだんでしょう。

田中 舞台の上手のほうに額縁のようなものが作ってあって幕がかかっているんです。それを取りますと、モデルが西洋の絵の真似をしているわけです。活人画というのが昔から日本にある言葉なんですが、それの乳房が出ていたということで、これは大変な評判になったわけです。

弁護人 下半身のほうはどうでしたか。

田中 乳房だけ出して、下半身は覆っていて動かなかったですね。

(略)

弁護人 (略)今のように何にもつけない状態になった、その経過を説明してください。

田中 私の見た限りでは、昭和三三、四年ごろだと思いますけれども、横浜のヌード劇場で関西ストリップと銘うってやってたのが最初で、結局バタフライ及至ツンパ(パンツの意)をチラッと脱いだということだったわけです。これは大変に評判になりました。

(略)

昭和三〇年ごろですけれども(略)わいせつであるということから、東京の警察でバタフライはやめろというようなことがあったんです。それは、バタフライの代りに、もっとひらひらしない頑丈なパンツを履けというようなことです。

(略)

弁護人 オープンを最初に見たときの観客の反応はどうでしたか。

田中 特出しのときのほうが熱狂的でしたよ。それは、最初の乳房が出たときの熱狂と、特出しのときの熱狂は大変でした。オープンは特出しの続きみたいなものですから、それほどでもありませんでした。

(略)

弁護人 ストリップというものをあなたは禁止すべきだと思いますか。それともこのままでいいじゃないかというふうに思いますか。

田中 このままでいいと思います。(略)

わざわざ見に来る人も減っておりますから禁止ということは必要ないと思います。

弁護人 なぜ減っているんでしょうか。

田中 やっぱりあきてきたんでしょうね。

(略)

私は看板だけ見るんですけれども、天狗の何とかかんとか、今日見かけたので人三化七とかですね。 こんなことをしてもお客はふえませんよ。

弁護人 看板が露骨になってきていると。

(略)

一条さんがやってたころは、天狗ショウとかいう宣伝文句はあったんでしょうか。

田中 ありませんでしたね。

(略)

弁護人(杉浦) 一番最初あなたが一条さんに会ったときのショウでは、一条さんは特出し、オープンはやったんですか。

田中 いや、やらなかったです。乳房までは出したと思いますよ。 

 第五回公判調書

被告人 一条さゆりこと池田和子

弁護人 昭和三八年四月一五日、一番最初にあなたが罰金刑を受けたときには、いわゆる特出しだけれども、ほんのチラリと見せた程度で挙げられたと言われたが事実ですか。

一条 事実です。

弁護人 田中小実昌氏の証言によると、特出しは陰部陰毛を見せるということ、オープンは手や指を使って見せる、ということだというんですが、田中証人のいうオープンを始めたのはいつごろですか。

一条 徹底して私がそういう気持になったのは四二年か三年です。

弁護人 あなたの罰金刑をみると三八年から四一年までに五回程ありますね。

一条 はい。

弁護人 四三年に岡山簡裁で罰金二万五千円になっておりますが、岡山あたりからオープンしていたということですか。

一条 そうです。でもその時分はまだ派手なことができませんで、本当に歩いて上から衣裳まとっておって踊ったときに見せるという程度の時代でした。

小沢昭一 季刊藝能東西 77・1

 ここのところ、ストリップが「後退」している。

〈マナ板〉の観客参加がハゲシクなり、〈白黒生本番〉が席捲して、もう「目にあまるものがある」というので"取締り"が強化されたのか、業者側(劇場)が"自粛"しようということになったのか、一斉に"オトナシク"なった。ちょうど、"ストリップ・エスカレート史"をだいぶさかのぼって〈レズ〉時代あたりのところへ引き戻されたようである。その程度ならば"目をつぶる" ないしは"安全"ということなのであろう。 

 一条さんは、今回の第五回公判の供述で、弁護人の「なぜストリップを辞める気になったのか」の質問に答えて、「(いまのストリップは)ただもう見せればいいということで……。踊りがいらなくなって来ているというふうに見え、レスビアンなんかやられると気おちして、ガクンと来たぐらいで……」と言っているのだが、一条さんがヒンシュクしていたその〈レズ〉も、いまでは"安全域"に入っているようだ。

 だから、ましてそれ以前の、またもうひとつ"オトナシイ" 一条さんの〈ベット〉などは、いまや古典的な演出形態になってしまったといってもいいくらいで、いまならもう"御用"になることもあるまい。(略)

 

システム・エラー社会 「最適化」至上主義の罠

測定可能ならば意味があるとは限らない

テクノロジストは常に定量化可能な測定基準を探し求める。(略)

社会科学者と同様、進捗状況を評価するための具体的指標、「代替的指標」 を必要とする。こうして(略)測定が可能で定量化が容易な事柄への偏向が生じる。しかしシンプルな測定基準にこだわると、本当に重要な目標から大きく遠ざかってしまう。

(略)

実際には評価に値する解決に向けた進歩がなくても、良い目的のための解決に取り組んでいるような錯覚に簡単に陥ってしまう。

 代替的指標で厄介なのは、測定可能ならば意味があるとテクノロジストが思い込むことで(略)

最もわかりやすいのはフェイスブックの変遷についてのエピソードだろう。フェイスブックは、人々にコミュニティを構築する力を与え、世界の絆を強めることを大きなミッションとして掲げている。ところが、広告とビジネスプラットフォームを扱う部門の責任者だったアンドリュー・ボスワースが二〇一六年に(略)ミッションの成果を評価するために採用した測定基準は、プラットフォームのユーザーの増加数だけだった。(略)

人々をつなげることをミッションに掲げたフェイスブックは、その達成のために、友人の輪に取り込まれるユーザーベースの拡大という単純化されたタスクに専念した。

(略)

論議を呼んだ戦略を、ボスワースは以下のように列挙した。「不審な連絡先でも常にインポートを実行する。曖昧な言語でも友人による検索を可能にする。いつか中国に進出するときに必要なことを実践する(略)

誰かがいじめに遭って、命を落とすかもしれない。我々のツールを使ったテロリストの攻撃で、誰かが死ぬかもしれない」。この文書がすっぱ抜かれると、マーク・ザッカーバーグは激怒した。ボスワースは謝罪して、議論のきっかけを作りたかっただけだと弁明した。

テクノロジー国家の統治形態

[シリコンバレーの大物たちが集って、テクノロジーの進歩の最大化を目的とした国家について論議]

皆さんはどこか適当な島を見つけ、そこに建設すればよいと真っ先に考えるかもしれないが、島では、科学の発見の最適化が難しい。インフラの整備も困難だ。(略)

[島以外の]良い場所には先住者がいる。だから最初に直面する問題は、先住者の処遇だ。そして我々は、金を払って出て行ってもらうのがベストのアプローチだという結論に達した。

 会話は続き、科学技術の進歩の最大化に貢献する小さな国民国家の創造を巡って大いに盛り上がった。ここでロブは手を上げ、つぎのように発言した。「ところで、この国は民主国家ですか。統治構造はどうなりますか」。すると、すぐにこんな答えが返ってきた。「民主国家だって?まさか。科学の最適化は、優秀なテクノクラートに任せなければいけない。民主主義はのろすぎて、科学の足手まといにしかならない」

目標設定の過剰投与が組織におよぼす副作用

カスタマーサービスの改善を考えたすえ、カスタマーサービス担当者がコールセンターへの電話に応じるまでの平均時間を監視するシステムを導入した。割り出された平均時間は、担当者が見える場所に表示された。すると電話がいつまでも鳴り続けると、担当者はとりあえず応答し、「ただいま電話は混み合っております。のちほどおかけください」と言い始めた。おかげで、測定可能な応答までの平均時間は大きく減少したが、測定することができない顧客の苛立ちは増えてしまった。

 リサ・オルドネスらは「ゴールは加熱する:目標設定の過剰投与が組織におよぼす副作用」という論文のなかで、つぎのように説明している。目標設定に依存しすぎると、個人も組織も狭い目標ばかりに集中するので、他の重要な事柄について考えられなくなる。実際のところ製品をつくりあげる際には、両方のバランスをとらなければならない。近視眼的な見方からは、ありとあらゆる悪い結果が生み出される。目標の要求に応えるため、必要以上にリスクを冒し、倫理にもとる行動が増えてしまう。 狭い目標に専念すると、長期的には組織の文化が蝕まれる可能性がある。

(略)

この論文には具体例が満載されているが、なかでも最も有名なのはフォード・ピントの悲劇だろう。(略)

 

CEOのリー・アイアコッカは、「重量が二〇〇〇ポンド未満、価格が二〇〇〇ドル未満の」新車の生産に関する大胆な目標を具体的に発表し、新車の発売開始は一九七〇年に定められた。この納期は絶対に動かせない状況で、目標達成のプロセスは進められた。そのため、様々な立場の管理職が新車――フォード・ピント――の開発を遅らせないことを優先し、安全点検が行なわれなくても見て見ぬふりをした。安全点検が省略された個所のひとつが後部車軸の後ろにある燃料タンクで、クラッシャブルゾーン[衝喫時に潰れることでエネルギーを吸収し、人や機械を保護する]から一〇インチも離れていなかった。(略)

フォードは最終段階で[衝突時の発火の]危険を発見したものの、経営陣は目標達成にこだわり続けた。そのため設計の欠陥を修正する代わりに、ピントの炎上(五三人の死者と、多くの負傷者を出した) に関する訴訟の費用を計算し、設計の変更にかかる費用を下回ることを確認した。このケースでは、大胆かつ具体的な目標 (市場投入までのスピード、燃費、コスト)は達成されたが、数値化されない重要な特性(安全、倫理的行動、会社の評判)が犠牲にされてしまった。

 

市場から政治へ

 今日のテクノロジー企業は、市場から政治へと活動の場を積極的に広げている。規制を求める声が高まると、企業は対抗策としてロビー活動を展開し、広報活動で世論を動かし、立法府の議員とじかに関わって立法行為に影響をおよぼすようになった。エンジニアは資本家になっただけでなく、今度は自分たちを制約する法律の制定に関与するまでになった。

(略)

 二〇〇八年、生体認証情報プライバシー法(BIPA)がイリノイ州議会で可決された。この画期的な法律は、指紋や顔の形状(個人写真から推定できる)など生体認証データの収集や利用を制限するものだ。 生体認証データを収集した企業は、ユーザーからの承諾書の提出を義務付けられた。 違反すれば、一人当たり一〇〇〇ドルから五〇〇〇ドルの高額の罰金が科せられる。

 二〇一五年、フェイスブックはこの法律のもとで訴訟を起こされた。(略)

何十億ドルもの賠償金の支払いにつながりかねない裁判に巻き込まれているとき、フェイスブックは法律そのものの変更を画策した。BIPAを導入した州議会上院議員テリー・リンクその人の手によって、ユーザーの同意を義務付けられるデータから写真の情報を外す修正案が提出されたのだ。この修正案が可決されれば、フェイスブックに訴訟を起こす根拠は消滅する。しかしプライバシー権利擁護団体だけでなく、州司法長官からも強硬に反対され、修正案は最終的に撤回された。

(略)

 最終的に訴訟は示談となり、二〇二〇年初めには、フェイスブックは五億五〇〇〇万ドルの和解金の支払いに合意した。これはかなり大きな金額のような印象を受けるが、実際には四七〇億ドルの賠償金を支払う可能性があったのだから、大幅な値引きだ。裁判長も同感で、こう問いかけたと報じられた。「五億五〇〇〇万ドルと言えば大金だが、この場合には本当に大金だろうか」。すると裁判長の懸念に対応し、フェイスブックは和解金を六億五〇〇〇万ドルまで引き上げ、全世界を対象に顔認証をオプトイン方式にしてデフォルトで提供する形に変更した。二〇二一年二月、和解案は最終的に受諾された。もちろん、罰金が本当に大金なのかという裁判官の問いかけは正しかった。二〇二〇年の最初の三か月間だけでも、フェイスブックの収益は一七〇億ドルを上回ったのだ。罰金を支払いながらでも、通常通り事業を続けることなどわけもなく、ロビー活動や選挙献金にも困らなかった。

(略)

ジョージタウン大学プライバシー&テクノロジーセンターの設立者アルバロ・ベドヤは、BIPA訴訟の継続中にフェイスブックは「我々を訴えようとしても無理だ。どうしても訴えるつもりなら、法律を変えるまでだ」という姿勢で臨んだと、ある記者に語った。二〇一九年九月にザッカーバーグが首都ワシントンを訪れ、議員たちと非公開の会議を重ねたのも驚くことではない。(略)

こうして公の議論の場が排除され、監視の目が行き届かない秘密の会議において、企業のエグゼクティブは立法府の議員に対して自分たちのビジネスに都合の良い政策を作らせるように圧力をかけたり、自分たちは「自己規制」できるから、新たな規制など不要だと主張することができるのだ。

破壊的イノベーションVS民主主義

 数年前、シリコンバレーではよくあるディナーの席で、リード・ホフマンが(略)以下のように率直に語った。もしもあなたがテクノロジー企業のCEOならば、一番の関心事は競争相手だ。テクノロジー企業のビッグファイブ(略)は、優秀な人材を巡って激しく争い、気を抜いたらすぐに倒されることを肝に銘じている。フェイスブックが新社屋に引っ越したとき、マーク・ザッカーバーグはかつての住人だったサン・マイクロシステムズ社の看板をエントランスに残した。有力企業の運命のはかなさを社員に思い知らせるためだ。

 市場における、ある企業の地位が盤石に見えても、中国のビッグ・テックは猛烈な勢いで成長している。 インテルの元CEOのアンディ・グローブが、著書に『パラノイアだけが生き残る』というタイトルを付けたのも、もっともな理由があったからだ。これだけ不安定な世界では、政府に規制される可能性を恐れている余裕はなく、どの会社のCEOも、とにかくイノベーションを継続することを目標に掲げるのだとホフマンは説いている。

 政府が果たすべき役割の重要性をホフマンは信じているが、テクノロジー分野の同業者の驚くほど多くが彼とは違う意見を持っている。最適化のマインドセットと利潤追求という動機が結びついた結果、市場における政治や政府の役割にしばしばリバタリアン的なアプローチで臨むのである。市民の要求や優先事項に対応するための法律の制定に注力している政府は、制約を受けずに進行するイノベーションの速いペースについていくのが難しい。ピーター・ティール(略)によれば、技術革新の勢いが衰えるとすれば政府に責任があり、そのような危険は回避する必要がある。

 こうしたステレオタイプシリコンバレーに限られたものではない。リバタリアン的傾向は、ジョン・ペリー・バーロウによる一九九六年の「サイバースペース独立宣言」にも、カウンターカルチャーにルーツをもつ、一九七〇年代から八〇年代の多くのコンピュータ愛好家にも見られるものだ。しかし今日では、この傾向が広く普及した。スタンフォードは最近、テクノロジー業界のリーダーのリバタリアン的傾向に関して体系的な調査を行ない、その結果をまとめた。それによると、彼らは社会に関しては進歩的、経済に関しては保守的な見解を併せ持ち、規制に対して一般の富豪よりもさらに敵対的だ。

(略)
「もしもアメリカ政府が干渉してきたら……中国にやられる」。中国がテクノロジーを支配する未来など想像するだけでも恐ろしいので、政府による規制監督を積極的に支持する人たちもおとなしくなる。

 こうした反政府的な考え方は、だれかをどこかに置き去りにしていないだろうか?

(略)

 民主政治が何らかの役割を演じられないとしたら、その代わりにテクノロジストは何を好むのだろう。ひょっとしたらマーク・ザッカーバーグローマ皇帝への執着は、手がかりになるかもしれない(略)

プラトンが理想の国家君主として紹介した哲人王には歴史を超越した魅力があり、いまや新しい世代は独自の形でこの概念を取り入れている。ここでは哲学者ではなくテクノロジストが、テクノクラシーの支配者として君臨する。彼らは正しい事柄に促されて行動し、純粋な目的を持ち、他のみんなに邪魔されないかぎり驚くべき社会的成果を達成できる。

 しかしこうした統治形態を、私たちは積極的に受け入れられるだろうか。 受け入れられない場合、テクノロジーの自由な発展を犠牲にしてでも、民主主義がイノベーションを監視する状況を受け入れる覚悟ができているだろうか。

イノベーションと規制の対立は新しいものではない

商用電信は一八三九年にイギリスで始まり、一八五〇年代にはアメリカで競争の激しい業界となった。複数のキャリア(回線業者)が同一区域でのサービスを競い合った。(略)

ただし、この新しいビジネスは利益が少なかった。特に問題なのは、システム全体が統合されなかったため、顧客基盤を拡大するには、どのキャリアもそれぞれインフラに投資する必要があることだった。こうした問題を解消するため、アメリカではキャリアの統合が進み、一八六〇年代末までにはウェスタンユニオンが長距離電信サービスを独占するプロバイダーになった。 連邦政府ウェスタンユニオンの力を抑え込むため早くから暫定措置を講じてきたが、実際のところ法律の効果は限定的で、同社の支配的立場を弱めるために積極的に行動する意欲は見られなかった。

(略)

一九世紀後半を通じてウェスタンユニオンは「独占価格を請求し、ニュース速報事業を独占する企業 (AP通信)をサポートし、好ましくない顧客を差別するだけの力を持っていた」。そして市場支配力を通じて巨大な政治権力を手に入れ、ニュース速報を利用できる立場をちらつかせて脅したりすかしたりすることで、政治家の行動に干渉するまでになった。議会がようやく本格的に動き出し(略)

適正価格でサービスを提供することを義務付けたのは一九一〇年のことである。 (略)問題が最初に表面化してからほぼ五〇年後、立法府の議員はようやくゲームに参加したのだ。

(略)

 こうして議会は大きな勝利を収めたが、技術がどんどん変化すると、政府は新たな展開に追いつけずに苦労した。一九一〇年代には電話が電信から完全に主役の座を奪い、長距離通信市場ではAT&Tが有利な立場を確保した。AT&Tは各地域電話会社を買収して足元を固め、競争相手との相互接続を拒んだ。一九一三年、連邦政府独占禁止法違反の訴訟を起こされそうになると、長距離電話システムへの地域電話会社の接続を許可することだけは認めた。(略)

連邦政府が規制を抜本的に見直すまでには二〇年ちかくの歳月を要し、一九三四年にようやく通信法が成立した。

(略)

 この攻防を見るかぎり、従来のような規制には確実に限界がある。ノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーに「良いルールを見つけるのは、一度だけでは十分ではない」という言葉がある。新しいテクノロジーが登場したら、ルールは速やかに進化する必要がある。規模が拡大したら、それに合わせて対応しなければならない。さらに、ルールをつぶそうと目論む個人や企業の日和見的な行動には、毅然と立ち向かわなければならない。ローマーはこれをマイロンの法則と呼んでいる。(略)

マイロン・ショールズはかつて、あるセミナーでこう語った。 「いかなる税法も、徴収できる歳入には限界がある。徐々に減少し、最後はゼロになる」。そこには、利口な人間は制度が変化しないのであればいずれ抜け道を見つけるものだという警告が込められている。

政治家にとって不都合な科学諮問機関

新しいテクノロジーがどのように機能するか政治家がまるでわかっていないことが暴露された瞬間は、あまりにもたくさん目撃されている。左右どちらの陣営の政党も、大手テクノロジー企業の市場支配力や政治的影響力を認識し、ご機嫌取りに終始してきた。

(略)

しかしつい最近まで、アメリカには他の国から模倣されるような、世界的に有名な科学諮問機関があった。

 テネシー州出身の素朴な物理学者ジャック・ギボンズは、技術評価局(OTA)というほとんど無名の議会関係機関の局長を一〇年以上務めた。OTAが誕生した一九七二年には、汚染、核エネルギー、殺虫剤など、技術変革に伴う危険に対する世間の不安が高まっていた。当時は、環境運動を後押しした『沈黙の春』の出版から一〇年ちかくが経過していた。

(略)

新しい技術の専門知識と政治家の意思決定のギャップを一刻も早く埋める必要を認識した議会は、OTAを創設した。(略)

OTAは二〇年ちかくにわたり、様々なトピックについての報告書を七五〇種類以上も作成した。環境 (酸性雨、気候変動)、国家安全保障(中国への技術移転、バイオテロリズム)、社会問題(職場の自動化、技術が特定の社会集団におよぼす影響)など、トピックの範囲は多岐にわたる。 OTAの報告書は技術の鋭い分析に定評があるが、他にも顕著な特徴があった。具体的な対策を提唱せず、政策に関して幅広い選択肢を提供したことだ。政策立案者は技術に関する情報や助言を役立てることができるが、難しい政治的選択は自分で行なう必要があった。

 OTAは、政治的に重要で物議を醸す問題について技術的展望を述べることもためらわなかった。一九八四年には、若い物理学者であり、後に二〇一五年から二〇一七年にかけて国防長官を務めたアシュトン・カーターが、ロナルド・レーガン大統領が打ち出した宇宙配備型ミサイル防衛プログラム(通称「スターウォーズ計画」)に関する報告書を作成し、以下のような率直な結論を出した。核ミサイルの「完璧もしくはほぼ完璧な防御」など実体のない目標であり、「国民の期待や国の政策の拠り所にすべきではない」。ペンタゴンは気分を害し、報告書の撤回を要求する。しかし専門家が報告を見直したすえ、結論の正しさは確認された。その後も二回の調査が行なわれ、レーガンの虎の子の防衛構想は政治的に賢明で技術的に実現可能かどうか、さらに疑念が深まった。

 一九九四年にニュート・ギングリッチが下院議長になると、中立的な立場からの科学的判断は絶体絶命の窮地に追い込まれた。(略)

共和党下院議員のアモ・ホートンなどは、「未来を切り捨てるな」というスローガンのもとでOTAの救済に努めた。OTAの解体は、「自分の頭にロボトミーを施すような愚行」とも呼ばれた。しかしOTAの最後の局長のロジャー・ハードマンによれば、この決断には予算削減以外の目的があった。「科学や技術に関して、自分と異なる見解が議員たちから上がる展開が議長には面白くなかったという話を聞かされた」という。

 技術的な専門知識と政策の相互作用に関して、ギングリッチは「フリーマーケット」アプローチというモデルのほうを好んだ。このモデルでは、議員が率先して科学者と個人的に関わって知識を吸収する。もちろん、そんなアプローチは機能しないし効果もなかった。結局、科学の専門知識を議員が好き勝手に集める方法をギングリッチが始めたことは、科学が今日のように政治的傾向を強めた理由のひとつである。

 OTAは組織が解体されたわけではなく、資金援助を打ち切られた。したがっていまも幽霊組織として、アメリカでは何が可能か思い出すよすがになっている。 ゾンビのような存在だが、ほとんどのヨーロッパ諸国ではこれをモデルにした組織が誕生し、いまでも活動を続けている。オランダ技術評価局(NOTA) はアメリカのモデルを大きく改良し、科学の専門家の見解に頼るだけでなく、市民による話し合いも取り入れている。

(略)

OTAのたどった道は、専門知識の役割に関する教訓である。(略)

こうした機関は政治的に脆弱である。提供する真実が有力な政治家にとって不都合なときは、特にその傾向が強い。そして、OTAが存在した後に葬り去られた一連の出来事は、さらに重要な点を浮き彫りにしている。