サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 その2

前回の続き。

シェル・タルミー

[ジョージィ・フェイムとは]互いに馬が合う感じだった。(略)バンドを連れておいでよ、2、3曲録ろう、レコード契約を持って来られるかもしれないし、どうだろう? (略)だが当日、ジョージィはシェル・タルミーを連れて現われた。どうやらシェルがジョージィに近づき、プロデュースを手がけたい旨を伝えていたらしく、そこでジョージィは一石二鳥を狙ったというわけだった。無論、わたしとしては、控えめに言っても、あまりいい気はしなかった。シェルとは初対面で、彼がどこの誰なのかも知らなかった。そこでわたしは、これは僕のセッションであり、僕がプロデュースすると、きっぱりと言い放った。シェルはそれを黙って聞いてから、せっかくこうしてふたりいるのだから、仲良くやろう、まずはどうなるか様子を見てみようじゃないかないかと、穏やかな口調で提案してきた。 それで不承不承同意したのだが、これが結果的に、わたしにとって過去最高峰の決断になった。シェルがなすべきことをちゃんと心得ているのは、セッションを始めてすぐにわかったし、向こうもわたしに対して同じように思ったらしかった。こうしてわたしたちは親友になり、共に仕事をするようになり、これが後の有益な協力関係につながり、それからの数年間、彼が制作した大半のレコードでわたしはエンジニアを務めることになった。そうして生まれたのがザ・フーの“マイ・ジェネレーション"であり、ザ・キンクスの“オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト"や"ユー・リアリー・ガット・ミー”だった。

アンドルー・オールダム

 わたしは変わらずスチュと一緒に住んでいて、ストーンズがわたしとIBCを見限ってアンドルー・オールダムと出て行ったのはもう、過去のこととして割り切っていた。

(略)

[熱を上げていた女性から頼まれアンドルーの仕事を引き受けることに]

わたしは彼に伝えた、このセッションをやることを心から嬉しいとは思っていないが、無理矢理やらされることになった、だからここはひとまず仲良くやり、とっとと仕事を済ませて帰ることにしようじゃないか。(略)

これは認めるしかないのだが、わたしはアンドルーの制作手腕にたいそう感銘を受けたのだ。セッション終了後、アンドルーに聞かれたので、嫌々ながらそう伝えた。

 アンドルーはすかさず電話に向かい、秘書に連絡を入れ、最近自分が手がけたレコードを何枚かタクシーで届けるよう命じた。かわいそうな秘書よ、時刻は午前1時だった。ともかく、レコードが到着した。彼はわたしにそれらを聞かせると、いかにも嫌味な口調で合格かどうかと聞いてきた。認めるのは癪だったが、あまりにも良くて驚いたと正直な気持ちを白状した。するとアンドルーは、今後、自分のためにエンジニアをしてくれないかと言ってきて、わたしは了承した。

 これがわたしとアンドルーとの数年にわたる仕事につながった。アンドルーは自身のレーベル、イミディエイト・レコードを設立し、1965年から1970年というその存在期間中、同社から世に放たれた作品の多くをわたしが録った。そして、そこから生まれた最も重要なものといえばもちろん、これを起点として始まり、何年も後〝ブラック・アンド・ブルー〟セッション中にわたしが止めるまで続いたストーンズとのレコーディング作業に他ならない。

ストーンズ、ジミー・ミラー

典型的なストーンズとのセッション開始予定時刻は夜8時だった。7時55分頃、わたしがスタジオに着くと、必ずと言っていいほど、チャーリーがコントロール・ルームで静かに待っている。数分後、そこに加わるのがビルで、彼も同じく時計の針並みに規則正しく、ふたりとも予定時刻ぴったりに始められる準備を整えている。続いてミックとブライアンが8時頃に現われ、あとはキースを待つのみとなる。遅刻時間は長短さまざまで、30分のこともあれば、朝の6時まで来ないこともある。だが誰も何も言わない、そんなことをしても無駄だと承知しており、現状を甘んじて受け入れている。キースが現われるまでにやれることをやっておくのが常で、録ったものを聴き直したり、追加作業が必要なトラックにミックかブライアンがオーヴァーダブを行なったりした。

 初期、スタジオに転がっているほぼどんな楽器からでも調べを引き出せるブライアンの能力は、バンドのサウンドの多様性に大きく貢献したものだった。たとえば〝ルビー・チューズデイ〟でリコーダーを吹いたのも、セッション・パーカッション奏者が置いていったマリンバに目を留め、〝アンダー・マイ・サム〟を力強く引っ張るパートを思いついたのもブライアンだった。 ブライアンはまさしくリフの王様だったし、その代表例が〝ザ・ラスト・タイム〟なのだ

(略)

キースの類い稀なるリズムをブライアンが多種多様なサウンドで補完していた。

 ミックとキースはスタジオでたびたび曲作りをしていた。どちらか一方が骨と皮だけのアイディアを持って現われる。キースの場合は概して、2、3小節分のコード進行を抱えて来て、椅子に腰かけ、それを何時間も繰り返し延々と弾き、そんな彼にビルとチャーリーが付き合い、 桁外れの辛抱強さを見せ、掛け替えのないサポートを供する。そのうちにブライアンとステュかニッキー・ホプキンスが加わり、いくつか違うアイディアと楽器編成を試す。 曲が形を成してくると、それまでわたしと一緒にサウンドに耳を傾けていたミックがコントロール・ルームを出て、演奏に合わせて歌い、言葉を適当に羅列しただけの意味のない歌詞を唱えながらメロディを編み上げていく。最終的にわたしがそれを録り、その成果をプレイバックで聞かせ、それをもとに参加者各人がミックとキース、そしてアンドルー・オールダムの、後年はジミー・ミラーの厳格な指揮の下、それぞれのパートを磨き上げていく。

(略)

彼らが創り上げようとするものから放出されるアドレナリンと興奮は、キースが良しとするテイクにたどり着く頃にはもう、とっくの昔に消え失せていた。(略)

初期テイクのほうがマスターとして選ばれたものよりもはるかに出来が良いことも多々あった。

(略)

「サタニック・マジェスティーズ」の傷の痛みがようやく引いた頃、やっぱりプロデューサーを使うことにした、とミックに言われた。アメリカ人がいいという。どこの馬の骨とも知れないアメリカ人がやって来て、エゴ丸出しの偉そうな顔でああだこうだとうるさく指図してくる様子を考えただけで、わたしは寒気がした。そこでふと思い出したのだが、その2週間ほど前、わたしはたまたまジミー・ミラーと会っていた。彼はオリンピックの隣のスタジオでトラフィックを録っていて、感じのいい人に思えたし、いい仕事をしていた。それでミックに、わざわざ誰かを輸入するまでもない、じつに立派な男がもうここロンドンにいるじゃないか、と伝えた。ミックとキースの審査を受け、ジミーは晴れて合格となった。ただ、わたしが推薦者だったとはつゆも知らぬジミーが最初にした仕事は、エディ・クレイマーをエンジニアの座に据えることだった。幸いにも、ストーンズの面々がわたしを戻すよう強く推してくれて、2、3日間だけのことで済んだのだが。

 

未来の子供達(紙ジャケット仕様)

スティーヴ・ミラー・バンド

[68年ロンドンにやってきたスティーヴ・ミラー・バンド]

割り当てられた6週間の録音期間の内、1カ月が過ぎたが、テープに残すに足るものは何ひとつなかった。スティーヴは曲やアレンジ、録音技術に関するさまざまなアイディアを延々と試すばかりで、いずれも失敗に終わっていた。彼が普通のミュージシャンでないこと、そしてまったく新たな何かを探し求めていることはよくわかったが、今すぐにでも何かが変わらなければ、バンドの信頼と敬意も、エンジニアの奉仕も失いかねない状態だった。そこでわたしは彼を座らせ、ごく穏やかな物言いで説いて聞かせた。今のままでは残りの2週間を続ける意味が僕には見えない、もしもこのままでいくというなら、僕は降ろさせてもらう。何がいけないのかと問われたので、わたしはプロデューサーが要ると伝えた。責任を持って場を仕切る者もいなければ、何らかの決断を下す気でいる者がいるとも思えない、このプロジェクトは首のない鶏と変わらない、と。

 わたしが仕方なく口にしたその言葉を彼は気持ちよく受け入れ、さらにこう申し出てきた。どうだろう、そのプロデューサー役は君がやってくれないかな、それならこのまま残ってくれるかい?

 ついに来た。ようやくプロデュースを頼まれたのだ。 わたしは檻から放たれた気分だった。エンジニアがプロデューサーになるというのは、当時、前代未聞の話だった。両者は完全に別個の職業と見られていたからだ。それは明確に定義された階級制度であり、わたしはずいぶん前から壊されて然るべきだと感じていた。

 わたしは当時26才、それまでの8年間を何人かの優れた、そしてひとりないしふたりのさほど優れていないプロデューサーとの仕事に費やしてきた。

(略)

自分が制作に貢献しているのはわかっていたし、クレジットも報酬もなかったが、それを微塵も苦々しくは思わなかった。たぶん、遅かれ早かれ機会は巡って来ると感じていたのだろう。

(略)

 ステレオ・クロス・フェードを使ったのは、このアルバムが最初で、今のところ最後だ。次のトラックが右からフェードインして来て、それに押されて前のトラックが左から出て行く。この後も何度か試してはみたのだけれど、この盤ほどの効果は出せていない。

1968年、プライアン・ジョーンズとグナワ

 1968年は、多種多様なアーティスト勢との仕事に明け暮れる、嵐のごとき日々と共に幕を開けた。 週6日働き、1日に2組、違うアーティストを手がけることもざらだった。手始めがピーター、ポール&マリー、続いてスモール・フェイセス。マイク・サムズのジングル、フランスのスター、ジョニー・アリデイと数日、再びスモール・フェイセスと幾晩か徹夜、続いてジョー・コッカープロコル・ハルムジョージィ・フェイムスティーヴ・ミラー・バンド、そしてマーキー・クラブでザ・ムーヴのライヴ盤、といった具合だ。

 3月、「未来の子供達」の完成から少し経った頃、ブライアン・ジョーンズから、一緒にモロッコに行かないかと誘われた。毎年その時期に、アトラス山脈の集団グナワのパフォーマンスがマラケシュの市場広場で見られるから、それを録ってもらえないか、ということだった。

 ブライアンはポール・ゲティ・Jr[石油王と呼ばれた世界有数の大富豪の長男]を知っていて、ゲティは市の中心地に豪邸を持っているから、そこに泊めてもらえるという。ブライアンとの友情については正直、懐疑的なものがあったのだが、まあいい、ここは思い切ってみるか、と心を決めた。

(略)

 グナワは15人ほどの男性ミュージシャンから成る集団で、下はティーンエイジャーから上はリーダーを務める高齢の者までおり、そのリーダーを中心に皆でコール&レスポンスを繰り返すチャントを歌いながら、複雑極まりないパーカッシヴなリズムを紡いでいく。 年配のふたりが首から下げた大きな太鼓の担当で、湾曲した長い棒状のスティックでそれを叩き、残りの者たちは大きな金属製のカスタネットを奏でる。 全員揃いの白いカフタンに身を包み、歌のハーモニーとパーカッションだけで音楽と、わたしが思うに、メッセージを発していた。ブライアンが考えていたのは、彼らのリズムとチャントを録り、それを持ってニューヨークに行き、米黒人ブルースおよびソウル・ミュージシャンのプレイをその上に重ね、アフリカ音楽の伝統と新種をひとつにする、というものだった。

(略)

これはこの先、いつまでも忘れないと思う。モロッコでの最初の朝、頭上20フィートほどの天井のすぐ下、美しいステンドグラスの窓から差し込んで来る陽射しで、わたしは目を覚ました。アルコーブ[壁の一部をへこませて作った空間]に設えられたベッドに、毛皮の掛布と色とりどりの絹のクッション。贅沢の極みだった。起きてシャワーを浴び、外に出ると、召使いが待っていて、壁に囲まれて中央に沈床園を設えた、目を見張るほど美しい中庭へと誘われた。そこにはテーブルが用意してあり、そこで 朝食をいただいた 。目の前の木からもいだばかりの新鮮なオレンジのジュースも美味だった。おかしなもので、人は細かいことばかり覚えている、記憶というのは往々にして味と匂いに関連づけられるものなのだ。

(略)

 マラケシュに着くが早いか、ブライアンはどこかで麻薬を手に入れ、そこにいる間中、正気をなくしてフラフラしていた。そこでわたしは自由を満喫することにし、ひとりでテープレコーダーを携えて広場に行っては、グナワをはじめ、いろいろな、いずれも驚愕のミュージシャン集団の演奏を収める仕事に励んだ。彼らは皆、この上なく突飛な手製の楽器を奏でていた。地べたにあぐらをかいて座り、歌いながら3弦楽器を弾く男。それは木製のシガーボックス製で、短い棒が刺さっており、棒の先に小さな金属製の羽根が付いていて、彼が弦を弾くたびにそれが震動し、独自のパーカッション的サウンドを響かせていた。ブレーキドラムを錆びついたスパナで叩いている男もいた。(略)わたしが見たことのある楽器を弾いている者は、ひとりとしていなかった。それは世にも不可思議で面白い不協和な光景と音であった。

(略)

 ポールはグナワを夕食に招待し、豪邸の大広間でわたしたちだけのために演奏してもらうことにした。(略)何から何まで、まるで映画のようだった。グナワは外のほうが落ち着くと言って中庭で食事をし、それが済むとわたしたちが待つ中に入って、刺激に満ちたパフォーマンスを見せてくれ、わたしはそれを市場や広場に常にあった余計なノイズに邪魔されることなく録った。生涯忘れない一夜になった。

 

セイラー(紙ジャケット仕様)

セイラー(紙ジャケット仕様)

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スティーヴ・ミラー・バンド「セイラー」

[68年]4月末、わたしは初めてカリフォルニアに飛んだ。(略)

 6月、LAに戻る前の晩、スティーヴ・ミラーから電話があり、バンド名をセイラーに変える、次のアルバムはその新しい名前を反映したコンセプトものにしたい、と言われた。「サージェント・ペパーズ」に感化されての決断だったのかどうかは知らないけれど、今にして思えば、そうだったのかもしれない。ともかく、わたしは多少当惑した。

(略)

ティーヴは丸めた大きな紙を携えていた。それをベッドの上に仰々しく広げると、彼は鉛筆を手に取り、紙の端から端まで波線を描き、これが今度のアルバムを図で表わしたものだと言った。こいつは面倒なことになった、と思った。スティーヴのことは気に入っていたし、仕事上の関係は極めて良好だった。そこで、彼はわけのわからないことを言っているのではない、理解できないのは僕のせいだと考えることにして、とりあえず話題を変え、LAへの機上でひらめいた案を伝えた。1曲目にSEを駆使したインストを置き、想像力を大いに働かせれば、地元の港に帰って来る船乗りの姿に聞こえるようにする。続く曲群は、数年間の航海後にその船乗りが発見する、社会および自身の恋愛に関する変化を表わすものにする、というのはどうだろう?

 スティーヴとバンドはその案を気に入ってくれて、翌日からレコーディングを始めた。霧の深い真夜中、サンフランシスコの埠頭に行って、アルバムの幕を開ける不気味な霧笛の音を録り、続いてそのファースト・トラックの導入にふさわしい音風景作りに着手した。バンドのメンバー全員に1音だけ歌わせ、その録音をオルガンと合わせ、速度を上げたり下げたりしてピッチを変え、それをひとつずつ順番に入れ、最初のコードに仕立てた。こうして生まれたのがインスト・ナンバー〝先祖の歌〟で、書いたのはスティーヴだが、ボズ・スキャッグスが弾いている。

(略)

バラード〝いとしのマリー〟では、スティーヴの声が際立っている。 スティーヴは自分の声を重ねてハーモニーを作るのを好んだ。たぶん、レス・ポールの影響があったのだろうとわたしは踏んでいる、形成期のスティーヴにとって、レスは心の師のような存在だったからだ。わたしが仕事をしたシンガーでこれをやったのは、スティーヴが最初だった。スティーヴは卓越した技で自身の声同士を見事に融合させている。

(略)

 録り終えたアルバム(「セイラー」)には、当初のコンセプトは跡形も残っていなかった。物語性はなくセッションの半ば頃には忘れ去られていた――バンドは名前を変えなかった。その件が話題になることさえなかった。別に大したことじゃない。結果的に大成功だったからだ。あのアルバムはスティーヴの傑作の一枚と称えられている。

1968年10月、レッド・ツェッペリン

[疎遠になっていたジミー・ペイジから電話。新しいバンドを作るので]願わくはこのわたしとやりたい、ということだった。

 わたしは一も二もなく飛びついた。ジミーとは地元が一緒で、60年代前半からよく知る仲だったし、ジョンは長らくロンドン随一のセッション・ベーシストだったからだ。ジョンとはエンジニア時代に毎日のように顔を合わせていて、彼がこれ以上望めないほどの人格者であることも知っていた。

 そのふたりが組んだのだから、いいものになるに決まっているという確信はあったものの、数週間後、オリンピックに赴いたときにはまだ、自分がこれから何に足を踏み入れることになるのか、よくわかっていなかった。正直、足下から吹っ飛ばされるほどの衝撃だった。それからの9日間でわたしたちが作ったアルバム(「レッド・ツェッペリン」)は、ロック史における大きな一歩に他ならない。ロックをまったく別のレベルへと連れて行った歴史的一枚だ。

 彼らが創出したサウンド、彼らが考案したアレンジ、彼らの楽才の水準、そのどれもが等しく驚愕だった。彼らが用意していたものがわたしの目の前で次第に姿を現わしていくなか、セッションは回を重ねるごとにわくわく感を増していった。わたしはただ録音ボタンを押し、あとは椅子の背に身体を預け、僕は今、重要な現場にいるのだという興奮を抑えていればよかった。

(略)

 アルバムが完成したのはちょうど、『ロックンロール・サーカス』(略)をまとめているときだった。そこで、ある日の制作会議にそのアセテート盤を持って行き、ミックに聴かせて言った。このバンドはこの先とてつもない大物になる、だから今のうちに前座に呼んだらどうだろう、いい話題作りになると思うんだけど。 わたしの言葉はあっさりと聞き流された、ミックにはまるでぴんと来なかったからだ。数カ月後、あるビートルズ・セッションからの帰り道、ジョージ・ハリスンをオリンピックに引っ張り込んでマスター・テープを聴かせたのだけれど、結果は同じで、彼にもさっぱりだった。少々戸惑ったのを覚えている、わたしがこんなにもすごいと思うものがなぜ彼らにはわからないのか、まったく理解できなかったからだ。

(略)

 わたしがステレオでドラムを録音する手法を見つけたのは、このアルバムのセッション中のことで、それはまったくの偶然だった。ドラムの録音にわたしは通常、マイクを3本、ないしは4本使う。トップに1本、フロアタムに1本、バスドラムに1本で、あと1本はスネア用だが、これはごく稀にしか用いない。当時はトラック数が常に限られていたため、たいていはドラムを1トラックに収めたもので、セッションによっては、ベースと一緒に入れることもあった。

 すでにベーシック・トラックの録りは済んでいて、アコースティック・ギターを重ねることになった。そこでわたしはドラム用のノイマンU67を1本、ギターに使ってオーヴァーダブを終え、そのマイクを元に戻し、次のベーシック・トラック録りに移った。録音を終え、フェーダーを上げてドラムを聴いたところ、ついうっかり、そのマイクをオーヴァーダブに使ったトラックに合わせたままにしていたことに気づいた。ステレオの左の奥に振ったままにしていたのだ。もう1本のドラム・マイクは中央に合わせていたから、そのせいでサウンドが左に寄っていた。そこでふと、左右に振ったらどうなるだろうと思い、フロアタム・マイクが少しだけスネアのほうに向くよう位置を調整し、2本のマイクがスネアから等距離になるようにした。結果は強力極まりないもので、ステレオの新たな概念をくれるものだった。ステレオ像全体にドラムが広がっているのは不自然なので、各トラックを半分ずつ左右に移動させ、結果、この時以来使い続けている手法が出来上がった、というわけだ。

次回に続く。

サウンド・マン ロック名盤の誕生秘話 グリン・ジョンズ

ジミー・ペイジ、ロニー・ドネガン

 わたしは教会に侍者として残り、水曜の晩は教会のユースクラブに通うようになった。(略)

ある晩、素人コンテストが開かれた。(略)10代前半の、誰も見たことのなかった少年がステージ前方の縁に腰かけて、脚をぶらぶらさせながらアコースティック・ギターを弾いた。かなりうまくて、確か優勝もした気がする。(略)

これが、わたしとジミー・ペイジとの最初の出会いになった。

 

 1957年、15才になる頃、わたしはトラディショナル・ジャズに惹かれていた。学校に上級生らが組んだバンドがあって、わたしも入りたかったのだが、けんもほろろに追い返され、偉そうにするなと耳の辺りに平手打ちまでもらった、ミドルスクールの“粋がった”小僧としか見てもらえなかったからだ。そのバンドのクラリネット奏者はディック・モリッシーといい、彼はその後、英国史上屈指のモダン・ジャズ・サックス奏者になった。

(略)

姉がレス・ポールとメアリー・フォードの“リトル・ロック・ゲッタウェイ”のSP盤を買ってきたときのことは、よく覚えている。 何から何まで真新しいサウンドだったからだ。レス・ポールはマルチトラッキングを使った最初のアーティストだった。まず、モノの録音機でギター・パートを録り、それをプレイバックして別の録音機で録りつつ、そこにセカンド・ギターを足し、この行程を望みのアレンジができるまで続ける。(略)今で言うマルチトラック録音が出現する数年前のことだ。もちろん、他の購買者たちと同じく、わたしもそんなことはつゆも知らず、すごいサウンドだなと、ただただ感心するばかりだった。レコーディングに対する彼のこうした革新的姿勢がアンペックス社の発展につながり、同社は世界初のマルチトラック・テープ・レコーダーを開発し、2台目はすぐさまレスに提供された。

 そんなレス・ポールのレコードが不意に色褪せ、取るに足りないものに思えたのが、ロニー・ドネガンの“ロック・アイランド・ライン”をラジオで初めて耳にしたときのことだ。それは生まれてこのかた聞いたことのない類のもので、翌日にはもう、わたしは店に駆けて行き、それを買っていた。(略)ドネガンは英国に熱いスキッフル・ブームを巻き起こし(略)わたしをアメリカ民謡へと、さらにはブルースへと導いてくれたのだった。

(略)

 何軒か先に住んでいたピーター・サンドフォードという人が、わたしがギターを買ったとの話を聞きつけ、フォークとブルースに関する本とレコードの膨大なコレクションを気前よく見せてくれたおかげで、わたしの関心は一気に高まった。彼はわたしにすこぶる優しく、家でゆっくり吸収したらいいと、何でも貸してくれた。 スヌークス・イーグリン、ブラウニー・マギー、サニー・テリー、ウディ・ガスリー、バール・アイヴスを教えてくれたのも彼だった。わたしはそんなレコードや歌集を部屋に持って帰っては覚え、指をネックのどこに置くのか、ずるをして見てしまわないように、暗がりの中で何度も何度も繰り返し弾いたものだった。

IBCスタジオ採用までの経緯、ジョー・ミーク

 1959年の7月、わたしは学校を後にした。当時17才、何をしたらいいのか、さっぱりわからなかった。わかっていたのは、事務仕事はしたくない、9時から5時までの仕事は絶対に嫌だ、ということだけだった。(略)

[友人二人とバンドを組み]サットンのパブ、レッド・ライオンの奥の部屋で、隔週の金曜日にそこでやるようになった。わたしたちはすぐさま人気を博し、部屋代を抜いても一晩に30~40ポンドは稼げた。当時にしてみれば大金だった。

(略)

[試験の結果は]8科目受けて、通ったのはたったの2科目、歴史と英文学のみ。 両親にしてみれば失望以外の何ものでもなく、高等教育を受ける学力も、したがってもっと社会的に認められた職に就くために必要とされる学歴もない息子の将来をふたりが案じているのがわかって、わたしは暗澹たる気持ちになった。

 そんなある日、仕事から帰宅した姉スーから出し抜けに言われた。あんた、レコーディング・スタジオで働いてみる気はない?聞けば、スーの職場の上司には付き合っている女性がいて、受付で上司を待っていたその彼女に、スーは人生の楽しみを音楽に見出している弟のことを伝えた。すると彼女はスーに言った、私はウェールズ音楽専門の小さなレコード・レーベルを持っています、良かったら自分が使っているレコーディング・スタジオで面接を受けられるように話をしてあげましょうか――もしも、弟さんにその気があるならば、ですが。言うまでもなく、音楽業界で働くという考えなど、それまで頭の隅を過ったこともなかった。 レコーディングのことは微塵も知らなかったし、一般的なごく当たり前の職業以外で働くことを考えたこともなければ、そういう業界以外で働く知り合いもいなかった。この機会はつまり、お互いによく知りもしないふたりの女性の間で交わされた社交辞令的な会話の結果として、わたしの目の前にやって来たものだった。何という運命のいたずらなのだと、昔からたびたび考える。数日後、大いなる不安を抱えたまま、わたしは面接に臨んだ。そのスタジオはポートランド・プレイスのIBC、当時のヨーロッパで間違いなく最も優れた独立系レコーディング・スタジオだった。そこのマネージャーで、感じの良さそうなウェールズ人のアラン・スタッグは、レコーディングに関する専門的な質問をたっぷりと投げかけてきて、どれひとつとして、わたしには答えられなかった。それでも彼は一応、今のところ人手が足りているが、次に空きが出たら必ず君を候補として考えよう、と言ってくれた。

(略)

 わたしは百貨店の仕事に戻った、たぶんスタジオから連絡が来ることはないだろうと思っていた。もしもそのまま放っておかれ、こちらから何もしないでいたら、そのとおりになっていたに違いない。面接から6週間くらい過ぎた頃、母に言われた。連絡がないのなら、おまえからスタッグさんに電話をかけて、記憶を突いた方がいいんじゃないのかい?わたしは反論した、次に空きが出たら考えると言われたのだし、そんなことをしても意味がないよ。幸いなことに、母はとりあえず電話だけはしなさい、と言って譲らなかった、あんたに失うものはないのだから、と。そこでしぶしぶアラン・スタッグに電話をかけ、わたしが誰かを思い出してもらうと、何とちょうどその日、ベテラン・エンジニアのひとりが辞表を出してきたのだという。だから見習いという梯子の一番下にひとつ空きが出る、それで、君、いつから来られる?その日、もしもこの電話をかけていなかったら、IBCから連絡が来ることは絶対になかったろうし、わたしが音楽に仕事として関わることはまずなかったと思う、間違いない。 

 次の日から早速、わたしはIBCで、下っ端アシスタント・エンジニアとして働き始めた。それはつまり、各セッションの前に担当エンジニアの要求に合わせてスタジオを整え、滞りない進行に努め、うまくいかないすべてのことについて叱責を受けつつ、セッション前、中、後に先輩たちから大小さまざまな言葉の虐待を受け、さらにその合間に大量のお茶汲みと機材磨きをこなす、ということだった。

 最初にあてがわれたセッションはロニー・ドネガンのものだった。あまりのことに夢かと思ったのを覚えている。 (略)しかも、わたしの愛聴盤でみんなの羨望の的だった10インチ・アルバムのジャケットの写真がIBCのBスタジオで撮られたものであることも判明した。一介の若者にとって、それはとてつもないことだった。

 IBCは特定のレーベルと提携をしていない、私営のスタジオだった。当時、RCA、デッカ、パイ、EMIはどこも自前のスタジオを持っていたから、それ以外のところをすべて独立系レーベルが好きに使えた。結果、ありえないほど雑多なアーティスト、ミュージシャン、クライアントがIBCを訪れては去って行ったものだった。音楽もこの上なくくだらないジングルからビッグ・バンドに至るまで――ジュリアン・ブリームからアルマ・コーガンまで、米NBCテレビの人気番組『幌馬車隊』の音楽からモダン・ジャズ・クインテットに至るまでと、多種多様

(略)

 当時、レコード・プロデューサーはA&Rと呼ばれていた、“アーティスト&レパートリー”の略だ。彼らは皆、どこかのレーベルに属していて、会社からあてがわれた、あるいは自分が連れて来たアーティストと、そのアーティストが録音する音楽のレパートリーに関する全責任を負っていた。曲が書けるアーティストはごく稀な存在であり、したがって音楽出版社が売りつけてくる大量の曲群の中からA&Rが選ぶのが常だった。この仕組みは彼らに極めて強大な力を持たせるもので、うまくやれば、自らの利益になるよう状況を好きに操作することもできた。たとえば、自身の出版社を興せば、売れっ子アーティストに曲を吹き込ませる交換条件として、曲の出版権を折半したり、シングルのB面やアルバム曲の出版権をもらったりといった取引を他の出版社と交わして収益力の増大を図る、という具合だ。

 A&Rが曲を選び、担当アーティストにふさわしい方針を定め、歌うキーを決め、アレンジャーを選定し、選ばれたアレンジャーはミュージシャンを押さえる仕切り屋を使う。 仕切り屋は例外なく年かさのミュージシャンで、自らが連れて来るセッション・ミュージシャン全員の代理人および組合の代表的な役割をする。 A&Rはアレンジの細かな諸々とミュージシャンの選択に関わることもあれば、関わらないこともある。 大半のA&Rにはお気に入りのレコーディング・エンジニアがいて、ほとんどの場合、誰が働いているかを基準にしてスタジオを選ぶ、当時、フリーのエンジニアはいなかったからだ。これらすべてが予算の範囲内で行なわれる、予算はA&Rが立て、社の上司の承認を得たものであり、以降はすべてそのA&Rが管理する。 続いてA&Rはセッションを監督し、エンジニア、アレンジャー、ミュージシャン、アーティストが自分の納得のいく仕事をしてくれるよう、常に目を光らせておく。願わくは、サウンドも自らが思い描いたとおりになるよう努める。というわけで、スタジオの成功においてエンジニアが極めて重要な存在であること、そして技術力と創造性というわかりきったもの以外にも、人間性や音楽の趣味の多様性が問われることが、かなり早い段階で明らかになった。

 IBCはヨーロッパ随一の機材を誇る独立系スタジオというだけでなく、エンジニアリングの幅広い才能にも恵まれていた。その筆頭がエリック・トムリンソンで、彼はわたしが入ったときからすでに上級エンジニアで、間違いなく世界最高のひとりだった。(略)

この上なく複雑なオーケストラものであっても、ランスルー(通し演奏)をたった1回聴いただけですべて記憶し、バランスを調整し、レコーディング態勢に入れた。彼にはとても親切にしてもらい、わたしはその匠の仕事ぶりから多くを学ばせてもらった。

(略)

 偉大なる故ジョー・ミークはIBCをたまに使った。彼は自宅に自前のスタジオを持っていて、そこでかの非凡なサウンドを育んだわけだが、しばしばIBCにテープを持ち込んでは、同社の自家製イコライザーのひとつに通し、サウンドを軽く元気づけていた。(略)

彼は優れた革新的エンジニアで、寡黙で優しく、過大なエゴとは無縁の人物に思えた。

ジミー・ペイジ、ニッキー・ホプキンス

 わたしがIBCに就職してからの2年間、週末はレコーディングの予定がまったく入っていなかった。なので、日曜は自分たちのプロジェクトをスタジオで録っていいことになった。

(略)

その時間を利用すれば実験ができる、コンソール卓での経験も少しばかり積めると気づいたわたしは、僕が仕切る日曜のセッションは無料でスタジオが使えるぞと、知り合いに触れ回った。この言葉に惹かれて、やる気に満ちた若いミュージシャンが団体でやって来た。そのひとりがジミー・ペイジで、彼の噂は友人のコリン・ゴールディングからすでに耳に入っていた。ふたりともキングストン・アート・スクール(略)の学生で、エリック・クラプトンもそこに通っていた。わたしはジミーに、君にならちゃんと金をもらえるセッションの仕事を取って来られるかもしれない、と伝えた(略)

あれよあれよという間に、ビッグ・ジム・サリヴァンに代わり、ロンドン随一のセッション・ギタリストの座についた。

 シリル・デイヴィスは、ある日曜日にふらりと現われた。優れたハーモニカ奏者でヴォーカリストで、イアン・スチュアート、アレクシス・コーナー、ブライアン・ジョーンズと並び、英リズム&ブルース・ムーヴメントを起こしたひとりでもある。彼は相棒としてニッキー・ホプキンスを連れて来ていた。 わたしがマイクをピアノにセットしに行くと、そこにいたのが、穏やかな声の、極端にひょろりとした、灰色がかった青白い顔の、見るからに何サイズも大きな服を着た若者だった。その立ち居振る舞いには何から何まで、活力がまるで感じられなかった。ところがセッションが始まったとたん、そのプレイにわたしは仰天させられた、それまで聴いたことがないほど滑らかで、メロディックで、技術的に完璧だったからだ。しかもそれをすべて、最小限の動きとまったく変わらない表情のままやってのけた。その日の終わり、わたしは彼に言った。どうしてこれまで出会わなかったのか不思議でならないよ。君さえ良ければ、ぜひ今後セッションに推薦させて欲しいんだけど、どうかな?それからわたしたちは親友になった。その後長年にわたり、わたしはニッキーをザ・フーキンクス、そしてストーンズのセッションに呼び、彼はイアン・スチュアートがブルースじゃないからと言って嫌がった曲群で常に甚大なる影響力を発揮してくれた。ストーンズの最高傑作群を生んだのは、ニッキーとミック・テイラーがいた時代に他ならないとわたしは思っている。

ローレンス・オリヴィエ

 1960年、私はエンジニアとして初めてコンソール卓の前に座る機会を手にした。それはトラファルガーの海戦を題材にした[録音で](略)

ネルソン提督役のサー・ローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リーと離婚してジョーン・プロウライトと再婚するというニュースがその朝、大々的に報じられたばかりだった。

(略)

興奮した何人もの取り巻き軍団とBスタジオに飛び込んで来たオリヴィエは、全身の穴という穴から湯気をシュウシュウと立てている状態だった。

(略)

 オリヴィエはその日、劇中で最も重要かつ感動的な台詞を読むことになっていた。 トラファルガーの海戦で絶命する前の晩、ネルソンが愛するレディ・ハミルトン宛てに書いた手紙だ。 彼が役の中にするりと入り込み、一気に変容するさまは、まさに見物だった。そのたった一度のテイクが終わる頃、その場にいたわたしたちは全員、呆然として言葉を失っていた。午前中の遅い時間に、若い役者の一団がやって来た。(略)わたしの目にも明らかに、彼らはオリヴィエの存在に恐れをなしていた。が、わずか数分の内に、オリヴィエは皆を和ませ、緊張を解いてやった。真のプロだ。彼は個人的問題をすべていったん脇に置き、周囲の人々や目の前の仕事への意識を最優先させていた。

 IBCで働く面白さは、仕事の多様性にあった。扉を通って次に何がやって来るのかは、予想もつかなかった。午前中の粉石鹸のCMジングルに始まり、午後はトラディショナル・ジャズ・バンド、晩は流行りのポップ・スターを従えた30人編成の楽団。翌日は、60人から成る聖歌隊を伴うロンドン交響楽団をロンドンの公会堂で録る、といった具合だ。

(略)

 わたしがエンジニアとして初めて臨んだ音楽セッションは、ジョー・ブラウンのものだった。これまでに会った誰よりも優しい男だ。彼は当時大スターで、そうなって然るべき人物であり、その日は最新ヒットに続くシングルを録りに来ていた。一方、担当A&Rはパイ・レコードのトニー・ハッチといい、彼もまた巨大なエゴを抱えた不愉快な男だった。それこそ全身これ自尊心のような人間で、50年代のおぞましき英公営住宅群ほどの魅力もなかった。(略)

 ハッチはやって来るや、猛烈な剣幕で怒鳴り散らし、わたしを落ち着かせるどころか、なおさら緊張させた。

(略)

 セッションは首尾良く運んだ。 ジョーは感じが良く、結果に至極満足しているようだった。ところが翌朝(略)[社長に]トニー・ハッチから電話があり、担当エンジニア、つまりわたしの経験不足のせいで昨日は大失敗に終わった、パイ・レコードはIBCにその責任としてセッション費の全額を持たせる意向であると言われたという。(略)

[テープに問題がないことを確認したIBCはハッチに]とっとと失せろ、と伝えた。(略)大口の取引をあっさりと失いかねなかったことを考えると、それはアラン・スタッグの非常に勇気のある決断だった。

イアン・スチュアート、ストーンズ

 1962年、プレジデンツのベーシスト、コリン・ゴールディングからイアン・スチュアート、通称〝ステュ〟を紹介された。コリンによれば、近所の知り合いに面白い男がいて、そいつはジャズとブルースのレコードの膨大なコレクションを持っている。だから絶対に会ったほうがいいという。果たして、その最初の出会いに端を発して育まれた友情は、わたしの人生に莫大な影響を与えてくれた。わたしたちはその日、ブルースに対する関心を語り合った。彼はいたって謙虚で、実はピアノを弾けることを、そしてブルースをこよなく愛する同好の士たちとザ・ローリング・ストーンズなるバンドを組んでいたことをわたしが知ったのは、ずいぶんと後になってからのことだった。 もっと言えば、彼はブライアン・ジョーンズと共にバンドを始めた張本人で

(略)

[家を出ることになり]

同居人候補として考えるに値する人物がステュしかいないことは、初めからわかっていた。ただ、彼は実家で快適に暮らしていた。(略)

彼の気が変わったのは、わたしが家に女の子を連れ込める自由という特典を指摘してからのことだ。(略)

ステュは家財道具のひとつとして愛用のアップライト・ピアノを持ってきた。今でもはっきりと覚えている、朝、わたしが目を醒ますと、居間から何とも美しいブルースの音色が聞こえてきて、ステュが毎朝焼く、わざと焦がしたトーストのおなじみの匂いも一緒に漂っていた。様子を見に行くと、ステュはピアノの前に座っていた。下着のパンツ一枚の半裸姿で、スツールの脇には開いたままの手紙。手紙は昔の恋人からのものらしく、彼はその中身に激しく動揺したのだろう、やり場のない気持ちを収めるのにブルースを弾くしかないという様子だった。(略)

それから1時間かそこら、これまでに出会ったなかでも最高峰に位置するブルース・ミュージシャンが即興で奏でる感情の送りに酔いしれていた。

(略)

[三人目の同居人]ブライアンは広告代理店に定職を持っていて、わたしは昼となく夜となくスタジオで働いていたし、ステュはストーンズのギグで家にいないことが多かった。その家のすぐ先に修道院付属の女子校があり、学生たちは下校途中、ストーンズのバンがうちの車寄せに停まっているのを見つけるたび(略)こぞってそのバンに口紅で落書きをし(略)ボディに隙間がなくなると、彼女たちは窓に書くようになり(略)

オールダムは見かけがそぐわないという独断で、ステュをバンドから外すとの裁定を下し(略)

[ステュは]ロード・マネージャーの職を供された。それはきっと、メンバーたちの彼に対する忠義心に基づく申し出だったに違いなく

(略)

わたしがその決定に対する嫌悪の念を伝えると、ステュは意外にも、「大いに満足している」と言った。「俺はそもそもポップ・スターとして暮らすという考えにはこれっぽっちの魅力も感じていない、それにあいつらはものすごい成功を収める気がする、だから俺にとっては世界を見て回るのに打ってつけの機会になると思う」。

(略)

ストーンズは間違いなく真の果報者だった。優れたピアニストの奉仕を受けただけでなく(略)信頼の置ける友人がロード・マネージャーとして付いていたのだから。キース・リチャーズは昔からいつも語っている。俺は今もスチュのために働いている、俺に言わせれば、ザ・ローリング・ストーンズはあくまでスチュのバンドなんだ、と

ジェフ・ベック

あの界隈の水には何か特別なものが入っていたに違いない。ジミー・ペイジジェフ・ベックエリック・クラプトンにスチュを生んだ地域は、それこそ投網に収まるほど狭かったのだから。

(略)

 ある日、スチュが非常にかわいい、ノルウェー人の若い女性を家に連れて来た。

(略)

[スタジオから明け方に帰ると]目の前に立っていたのは、ジェフ・ベックだった。 スチュが運良くノルウェー人の友達を捕まえたという話をどこかで聞きつけ、彼が不在であることを知り、その留守につけ込むことにしたのだ。(略)

[二度とうちに来るな、と警告したが]

 それから何年も後、ARMSツアー中に、ジェフはわたしに明かした。あの晩の後もこっそり家の裏に回っては、ステュの部屋に窓から忍び込み、同じルートで見つからずに帰りおおせたという。ほぼ毎回、隣の部屋でわたしが寝ていたというのに。

(略)

 ステュはストーンズに徹頭徹尾、平等主義をもって接した。彼は常に歯に衣着せぬ物言いをした。 その振る舞いに気取りは一切なかった。誰に対しても、あけすけな、腹の皮がよじれるほど笑える意見をまっすぐにぶつけていた。メンバーたちはしばしば、そんな物言いを話半分に聞き流してはいたものの、ステュがうまいことを言ってだまくらかそうとする他の連中と違うことは彼らにもよくわかっていたし、わたしが思うに、ステュの言動の多くはバンド全体にもメンバー個々にも極めて前向きな影響を確実に与えていた。彼は毎回、ショウの出番の時間になると、「さあ行こうぜ、俺のかわいい糞野郎ども」と言って彼らを楽屋から追い立てていた。ステュが1985年に早世して以来、ストーンズにそんな口をきいた人間は、間違いなく、この地球上にひとりとしていない。

 彼らがオリジナル曲を書くようになり、進み出した新たな方向性について、ステュは完全には認めていなかった。彼はいわく「チャイニーズ」な、つまりマイナー・コードのものは、一切弾こうとしなかった。要するに、伝統的なリズム&ブルースかブギウギ形式以外のものはすべてお断りだったから、おかげでわたしたちは彼がやらないものをやるために別の人間を入れなければならなかった。

(略)

 ストーンズは長きにわたり代々、素晴しいピアノ奏者を擁してきた。最高の人材ばかりだ。個人的に天才だと思っていたニッキー・ホプキンス、チャック・リーヴェルビリー・プレストン、そして(略)イアン・マクレガン。いずれも独自のスタイルを有するその道のスペシャリストであり、それぞれまるで異なるタイプだったわけだが、ステュが弾いているときのローリング・ストーンズは躍動感が格別だった。ステュが入ると、まるで違うバンドになった。リズム・セクションはまったくの別物になった。わたしがこれまでに耳にしたなかでは、あれがベストの布陣だ。 ステュにはビル、チャーリー、キースと寸分違わず共感しているとしか思えない、並外れた感覚が備わっていた。

次回に続く。

ベルリン音楽異聞 明石政紀

辺境ベルリン、ディー・テートリッヒェ・ドーリス

 ベルリンは東西陣営の辺境と化しただけではない。(略)自国の辺境ともなってしまった。たしかに街の東半分は、東ドイツの首都として、この田舎っぽく垢抜けないソ連衛星国の中心の体裁は一応保っていたが、西ドイツに属したもうひとつの街の片割れ、西ベルリンは、本土よりずっと東に位置していたため、周囲を敵対する東側の領土に囲まれた飛び地「陸の孤島」と化し、一歩街の外に出るとそこは外国、それも敵の巣という文字通りの辺境となってしまったのである。こうして二百万もの人間が毎日寝起きする西ベルリンは、全ドイツ最大の都市でありながら、地理的にも政治的にも社会的にも巨大な辺境と化したのである。

 西ベルリンが辺境と化したことで、かつてこの中心の地に集積していた権力も金もつぎつぎに西ドイツ本土に移っていった。中央政府ライン河畔の穏健な大学町ボンに移り、大空港と大銀行の本拠はマイン河畔の見本市の街フランクフルトとなり、各種大企業もベルリンからおさらばしていった。この機に乗じて、かねがね北独プロイセンの都ベルリンを目の上のたんこぶのように嫌っていた南独バイエルンの都ミュンヘンは、自ら西ドイツの「影の首都」を名乗るようになった。

 権力も金もないところには、人は集まらない。とくに働き盛りの人間は集まらない。だが権力も金もないところだからこそ、西ドイツ各地から集まってきた人間たちがいた。若者たちである。その最大の理由は、西独本土で施行されていた徴兵制が、連合国の軍政下に置かれていた特別行政区の西べルリンには適用されなかったということだ。(略)軍事を嫌う徴兵適齢期の若者たちが、たくさんこの辺境のメトロポールに移り住むようになったのである。

(略)

 権力も金もないところは物価も家賃も安い。これも実入りの少ない若者たちには有利だった。こうして西ベルリンは(略)ドイツきっての貧乏人が大量居住する大都会となったのである。たしかに豪勢な目抜き通りクアフュルステンダムは、資本主義の豊かさを貧しい東側に見せつけるための「ショーウィンドー」の役割を果たしてはいたが、西ベルリン自体も、けっきょくのところ「奇跡の経済復興」を果たした西ドイツ本土からカンフル注射される補助金で生き長らえていたハリボテの金欠都市だったのだ。

(略)

第二次大戦が終わるまで、ベルリン西地区はドイツきってのジャズ・タウンだったが、戦後西独ジャズの中心となったのは「フランクフルト・サウンド」で有名な中部のフランクフルト・アム・マインのほうだったし、六〇年代末から七〇年代にかけてのロック・ミュージック最盛期には、西ベルリンでもタンジェリン・ドリームやアシュラ・テンペルのようなサイケ・グループ(略)などが生まれはしたが、発想の特異さや後代への国際的影響という点では、クラフトワークやカンといった西部ライン地方のバンドの存在のほうがはるかに大きかった。かつてベルリンを拠点としていたドイツの大音楽産業も、とっくのとうにハンブルクやケルンといった西ドイツ本土の街に移転していた。

(略)

ではこの西べルリンの辺境的側面をもっとも反映していた音楽はいったいなんだったか?

(略)

パンクやニューウェイヴの追い風を受けて出現したアンチ・プロ反抗アンダーグラウンドサウンドだったとわたしは思う。

(略)

 たしかに西ドイツ各地でもこうした音が生まれた。メディアはこれら新手の音楽を十把一からげに「ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(ドイツの新しい波)」などと呼んだが、その内実はてんでばらばらで、典型的な怒号パンク三和音のみならず、素直に歪んだ電子童謡 (デュッセルドルフのデア・プランやハンブルクアンドレーアス・ドーラウ)、疑似バウハウスモダニズムアナクロ表現主義サンプラー・ゴシック(ハンブルクのホルガー・ヒラー)、踊り踊らせる脱臼肉感ビート(デュッセルドルフDAF)、政治思想を背景にした純粋ノイズ・コンポジション (フランクフルトのP16. D4) と千差万別だった。共通点といえば、せいぜい歌詞が以前のドイツ産ロックのように借り物の英語ではなく、地元言語のドイツ語で歌われるようになったことくらいである。それと並行してバンド名も、英語ではなくドイツ語で命名されるようになり、ヴィルトシャフツヴンダー(奇跡の経済復興)、フライヴィリゲ・ゼルプストコントロレ (自主規制)、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン (倒壊する新築) などと、いかにも戦後西ドイツらしい名前を掲げたバンドも生まれた。こうした烏合の西ドイツ新音楽のなかで、個々の差はあるとはいうものの、西ベルリンのバンドは、総じてパンクの基本発想に即したデッドエンド、デッドテック、ディレッタントの3D効果に抜きん出ていたと言えるだろう。

(略)

この辺境の大都会では、ディー・テートリッヒェ・ドーリス、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、マラーリア、シュプルング・アウス・デン・ヴォルケンといった閉塞感たっぷりの各種デッドテック・バンドが生まれることになる。

(略)

楽器が弾けなくとも機材がなくとも、さっそく音を出してしまうという思いっきりのよさが身上だった。楽器がなければそこらに落ちているものを拾ってきて楽器をつくればいい。ベルリンのバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンはほんとうに廃品置き場で拾ってきた鉄くずでパーカッションをつくったし、スタジオ機材がなければ、スーパーマーケットで買ってきた卓上カセット・レコーダーでさっさと録音すればいい。

 そこではコード進行があってなくてもいいし、無調だろうがノイズだろうがなんでもいいし、音がどんなに調子っぱずれでも、歌がどんなにヘタックソであろうと、機材がどんなにチープであろうといいのだ。

(略)

 さて、デッドエンド西ベルリン・デッドテック・バンドの一部が一堂に会した象徴的イベントが、一九八一年九月四日の金曜日、壁の間近のポツダム広場に張られたサーカス・テント、テンポドロームを会場に催された《大没落ショー~天才的ディレッタント祭》だった。

(略)

発起人ヴォルフガング・ミュラーがやっていたグループ「ディー・テートリッヒェ・ドーリス」(略)

ノイジーでチープなサウンド、ヘタウマ頓狂ヴォーカル、真面目なのか冗談なのかわからない人を食ったユーモアを湛え、同じベルリンのバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのように「音楽プロ化」することもなく、技法的にこれといって進歩することもなく、進化しようともしなかった。その音盤も、最初のうちこそ「ふつうの」レコードだったが、そのうち専用プレーヤー付きのカラフル極小音盤セット、ライヴでテープを流して自分たちは口パクをやり、各コンサートの会場音を重ねていった「ライヴ再生」盤、べつべつにリリースした二枚のレ コードを同時にかけると第三の音楽が生まれる企画と、脳細胞を活性化させる意表を突く発想に満ちたものになった。

(略)

グループ名、ディーは定冠詞、テートリッヒ(ェ)は「死にいたらしめる」を意味する形容詞、ドーリスは女の子の名前で、「必殺ドーリス」といった感じだが、同時にドイツ語で「致死量」を意味するディー・テートリッヒェ・ドージスにひっかけた洒落でもある。というわけで日本では「致死量ドーリス」、「致死量子ちゃん」と呼ばれることもある。

(略)

ドーリスの名のもと、音楽のみならず、オブジェから8ミリ映画、エッセイからラジオ・ドラマまで、さまざまな天才ディレッタント的産物が発表された。

 ドーリスの最後の音盤企画は、二枚のレコードを同時に再生すると第三の音楽が生まれるというものだ。そのうち一枚は西ドイツのレーベル、もう一枚は東ドイツの国営レコード会社に発売の話が持ち込まれ(略)二枚を同時にかけると新しい音楽が生まれるという音盤上のドイツ統一を狙った企画だったが、東独側が発売を拒否。けっきょくは西ドイツのレーベルが二枚とも出すことになったが、奇しくもそれからまもなくして、ドイツはほんとうに西独主導のかたちで統一することになる。

ドイツ国歌の怪――替え歌から国歌へ

 ドイツ国歌のメロディはよく知られている。あのハイドンの簡素で美しい旋律だ。でもハイドンはドイツ人じゃなくてオーストリア人じゃなかったっけ?

 そんなことはどうもいい。ハイドンが生きていたころはドイツとオーストリアの区別はなかったし、べつに作者が外国人だってかまわない。

(略)

 ハイドンが生きていたころは、今のような「国歌」の概念は存在しなかったし、この大作曲家もあの旋律をドイツ国歌として作曲したわけではない。(略)神聖ローマ帝国の最後の皇帝でもあったフランツ二世への君主讃歌として書いたのである。

(略)

 さて、ハイドンの君主讃歌の歌詞はどんなものだったのだろう。

(略)

 神よ、皇帝フランツを護りたまえ

 われらのよき皇帝フランツを(略)

 

 この歌詞、よく読んでみると英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》(略)によく似ている。歌詞だけでなく、ゆったりとした讃美歌風の曲調も似ている。じつはこのハイドンの君主讃歌、英国の国王讃歌を範にとったものだったのだ。

 ハイドンがこの曲を書いたころは、オーストリアがナポレオンの革命軍に脅かされていたときだった。 ナポレオンの軍勢が歌っていたのはフランス革命の闘争歌《ラ・マルセイエーズ》。というわけでハイドンの讃歌は、革命軍から君主政を護ろうとする反動チューンだったのである。

(略)

 いったいどうしてこんな曲がドイツ国歌になってしまったのか?

 答えは簡単。替え歌されたのである。

(略)

ホフマンがこの《ドイツ人の歌》をつくったのは、ハイドンの原曲が誕生してから半世紀近くを経た一八四一年のこと。(略)

歌詞は三番まである(略)

まずは一番。

 

ドイツ、至上のドイツ

この世界の至上のドイツ

マースからメーメルまで

エッチュからベルトまで

いかなるときも

友愛をもって結束すれば

(略)

熱烈な統一主義者だったホフマンは、プロイセンバイエルンザクセンといった領邦分裂世界を超えた「至上の統一ドイツ」という意味をそこに込めていたからだ。それが一八七一年のドイツ統一の実現後、しだいに帝国主義的、国粋主義的に解釈されるようになり、ドイツの世界覇権を標榜したヒトラー第三帝国では、ほんとうに「世界に冠たるドイツ」の意で歌われるようになってしまったのである。

 この第一番のもうひとつの特徴は、ドイツはどこかという地理的限定がなされていることだ。

(略)

ホフマンが理想として頭に描いていたドイツとは、ドイツ語圏全域を統一した国であることがわかってくる。

 これはドイツという国が存在しなかった時点の夢としてはいいのだが、後年の第三帝国時代にはヒトラーの領土拡張政策と危なく重なってしまう。

(略)

ホフマンの詞が想定していたドイツにほぼ近いかたちが、ヒトラーの魔の手によって一時的に完成したことは皮肉な事実である。とにかくよそ様の土地を自分のもののように扱うこの歌詞第一番、かなり問題がある。というわけで、今ではこの一番は歌われない。

 それでは第二番。

 

ドイツの女性、ドイツの忠節

ドイツの酒、ドイツの歌

これぞ世界に保たれるべき宝

(略)

 うってかわって飲み会で杯を交わしているノリで、いかにもこの替え歌がつくられたロマン派時代にふさわしい心情・美徳ものである。じっさい(略)統一の夢を謳うと同時に、酒を酌み交わしながら声を合わせる宴会ソングとしても構想されたものだ。

 この第二番の詞の意は(略)

宴会で酔っ払った迷惑サラリーマンが、

「女はやっぱり日本人にかぎるよ。女房もけなげなもんで、なんやかんや言いながら、おれに尽くしてくれるしなぁ。日本の女は最高だぁ、最高。酒もやっぱり日本酒じゃなくちゃいけねぇ。(略)」などとクダを巻いている図を想像してみればいい

(略)

国粋ロマンチシズムに酔いしれた旧時代の酒宴向きである。

 というわけで(略)この歌詞も今では歌われない。

 

 それでは第三番。

 

統一と正義と自由を

ドイツの祖国に(略)

友愛をもって身も心も邁進せん(略)

ドイツの祖国に栄えあれ

 

 今度は、統一と正義と自由の理想社会像である。これが自由主義者として官憲のブラック・リストに載っていたホフマンが夢に描いた統一ドイツの理想社会像である。(略)原曲の君主讃歌を逆手にとった歌であることがはっきりしてくる。

 そして、この第三番が今でも歌われる歌詞だ。

 

 ハイドン/ハシュカの原曲とホフマンの替え歌の決定的な違いは、原曲では君主が主人公、替え歌では民族国家が主人公ということである。この相違に(略)十八世紀の専制君主制から、十九世紀のブルジョワ主導型民族国家形成への移行の意志が反映されているとも言える。(略)

[反体制ソングのホフマンの替え歌は]おおっぴらに歌うことはご法度だった 。(略)

おおっぴらに歌われていたのは(略)《ラインの守り》と言う。(略)

 

(略)

この大河の番人にならんとする者はだれなのか?

愛しき祖国よ、安心されん

忠実な守りが決然と立っている

ラインの守り!

 

(略)ライン河を越えてくる敵は、いったいだれなのか?(略)

西の隣国フランスだ。

(略)

《ラインの守り》がどんな曲か聞いてみたい方は(略)《カサブランカ》を観てみるといい。(略)

シュトラッサー少佐の音頭によりドイツ将校たちが歌っているのが《ラインの守り》だ。

(略)

ホフマンの替え歌が生まれてから三十年後の一八七一年、 ドイツは帝国として統一された。(略)

統一ドイツには正式な国歌はなかったし、国歌扱いで歌われていたのは、プロイセンの国王讃歌をもとにしたドイツ皇帝讃歌である。ドイツ統一プロイセン首相ビスマルクの主導で実現し、プロイセン国王が統一ドイツ帝国玉座に就いたからだ。反体制活動家ホフマンが夢見たドイツ統一はたしかに実現したが、「国の歌」として歌われていたのは、皮肉なことに反動的な君主讃歌だったのである。

 歌詞は次のとおり。

 

勝利の栄冠の汝に万歳

祖国の支配者よ

汝、皇帝に万歳!

(略)

 これもじつは替え歌である。

 旋律は英国の国王讃歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》をそのまま流用したものだからだ。というわけで当時は、英国とドイツは同じメロディで君主を称え、それを国歌ないしは準国歌としていたのである。

 かたや当時、反体制派の社会主義者たちはフランス革命の歌《ラ・マルセイエーズ》を替え歌し、自分たちの闘争歌にしていた。

(略)

君主賛美の英国国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン》と(略)革命行進歌のフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》は、その後各国で生まれていく国歌の二大プロトタイプとなったものだ。

(略)

[ホフマンの《ドイツ人の歌》の浸透に]拍車をかけたのが第一次大戦だ。

 第一大戦では英国が敵国となったため、視界の悪い戦場でイギリス国歌と同じ旋律のドイツ皇帝讃歌を口ずさむと敵と間違われてしまうという危険があったし、友軍に誤射されていた部隊が《ドイツ人の歌》を歌ったら、銃撃がとまったという逸話も報告された。万歳愛国主義が猛威をふるったこの時代、若き志願兵たちがホフマンの《ドイツ人の歌》 を歌いながら敵に向かって進撃し、お国のために命を捧げたというランゲマルク英雄伝説も生まれ、これが大々的に流布された。そして帝国主義列強の覇権争いのなか、かつてホフマンが統一の夢を込めて謳った「至上のドイツ」に、世界に冠たるドイツとの解釈が付着するようになり、英語でも冒頭のくだり が「ドイツ、世界第一の国ドイツ」などと訳され、僭越国家ドイツのイメージが広まってく。

 けっきょく第一次大戦は一九一八年、僭越な後進列強ドイツの敗北で終わり(略)皇帝讃歌もお払い箱となった。すでにドイツの「音の標識」と化していたホフマンの《ドイツ人の歌》が、共和国大統領フリードリヒ・エーベルトにより公式に国歌として制定されるのは終戦から四年後の一九二二年のこと。つまりそれまで「正式な国歌」はなかったのだ。この制定は、国際試合などでお宅の国歌はなんですかと開催国からきかれ、外交上の必要に迫られてくだされた決定でもあった。社会民主党員のエーベルトは、理想社会を訴えた歌詞の三番を歌うのが望ましいとしたが、「われらはドイツをなによりも愛している」との理由で第一番の歌唱も認めた。そしてじっさいに歌われていたのは、覇権主義的な匂いがまとわりつくようになっていた一番だった。

 こうしてホフマンの替え歌は、とうとうドイツの国歌として公式認定されたわけだが、もうひとつ同じハイドンの旋律を歌っていた国がある。それがこの曲の原産地オーストリアだ。

 

 オーストリアではハイドン/ハシュカの皇帝讃歌が、陛下が交代するごとにそれに応じて歌詞を少々変えられ、ハープスブルク帝政が崩壊するまでずっと歌われつづけてきた。

 第一次大戦の敗戦でハープスブルク体制が崩壊し、大国から小国に縮んでしまったオーストリアは、お隣のドイツがハイドン/ホフマンの《ドイツ人の歌》を国歌として公式認定するのと前後して、首相カール・レナーじきじきの作詞、ヴィルヘルム・キーンツェルの作曲による新曲を国歌として採用する。(略)

[しかし]国民のあいだで浸透せず、帝国崩壊から十年ほど経た一九二九年には昔馴染みのハイドンの旋律が国歌として復活。それが「かぎりなく祝福あれ、いとしき故郷の土!/緑のモミの枝と金色の穂が地を朗らかに飾る…」というオトカー・ケルンシュトックの詞で歌われるようになった。こうしてお隣さんどうしのオーストリアとドイツは、歌詞はちがえど、同じ旋律で自国を称えるようになったのである。

 さらにそれから十年ほど経た一九三八年、オーストリア人のドイツ国家元首アードルフ・ヒトラーは、オーストリアをドイツに併合(略)オーストリア人民はドイツ国民となり、ハイドンの旋律をそのままに今度はホフマンの《ドイツ人の歌》を斉唱するようになる。

 

 《ドイツ人の歌》にこびりつくようになっていた覇権主義の匂いが、強烈な悪臭となって世界を覆うようになるのはこのヒトラー時代のことだ。(略)

「世界に冠たるドイツ」が(略)侵略戦争に乗り出すことになるわけだが、この時代、「第二の国歌」として歌われていた曲がある。

 それがナチ党歌《ホルスト・ヴェッセルの歌》だ。

 

旗を高く掲げよ!

隊列は固く組まれた!

突撃隊は行進する(略)

同志よ、赤色戦線と反動を撃ち殺し(略)

ともに行進せん……

 

 露骨な歌である。こういうのをみんなで一緒に歌っていたのだ….。とはいってもこのナチ党歌、「血塗られた軍旗は掲げられた……」と革命の血なまぐささを露骨に漂わせるフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》の伝統に連なる闘争行進歌である。

 この曲は、共産党員に殺害されてナチ聖人に祭り上げられた突撃隊員の学生ホルスト・ヴェッセルの作とされるが、旋律の出所ははっきりとしない。

(略)

問題なのは、旋律が同じ、あるいは同じようなものでも、つけられる歌詞、曲に託される機能、歌われる状況、歌い方、楽器の使い方などによって、オペラの一節にも、戯れ歌にも、ナチ行進歌にも、左翼闘争歌にもなりうるということだ。たとえば「赤色戦線と反動を撃ち殺し」という下りを「ファシストと反動を撃ち殺し」とちょっと変えただけで、すぐさま左翼赤色戦線の闘争歌に早変わりする。

(略)

地獄に堕ちた勇者ども》を観てみるといい。風光明媚なヴィース湖畔で繰り広げられるナチ突撃隊の乱痴気騒ぎシーンで、ご乱交に興じていた隊員たちが突然起立して真顔で歌うのがこの《ホルスト・ヴェッセルの歌》だ。

(略)

 第三帝国が阿鼻叫喚と瓦礫のなかで消滅したあと、ふたたび独立国となったオーストリアは、自分たちが歌っていたハイドンの旋律を復活させようとしなかった。(略)

オーストリア共和国の国歌となったのは、もうひとりのヴィーン古典派の代表格モーツァルトの作とされていたフリーメイソンカンタータの一節の替え歌《山々の国、大河の国》

(略)

[西ドイツ]は、世界中から白い目でみられるようになっていたハイドン/ホフマンの《ドイツの歌》を国歌として復活させるどうかでもめ、新国歌創出の試みもいくつかあったが、けっきょく一九五二年、お馴染みの《ドイツ人の歌》の三番だけを歌うことで決着がついた。この決着がつくまで、国際スポーツ大会などで西ドイツの「臨時国歌」の役割を果たしていたのは 、ベートーヴェン/シラーの《歓喜の歌》だ。一九六四年の東京オリンピックで、東西ドイツが合同チームを送り込んできたときに使われたのもこの曲だったし、《歓喜の歌》は今やヨーロッパ連合EUのシンボル・チューンである。

(略)

いっぽう[東ドイツ](略)は、西ドイツに先んじて新しい国歌を制定する。東ドイツは、上っ面だけではやたらと反ファシズムを標榜していので、もともとヒトラー時代の国歌の旋律を使うつもりはなかったようだ

(略)

東ドイツの歌詞は、西ドイツ国歌のハイドンの旋律で途中まで歌える。ほんとうに最後の三行をのぞいて歌えるのだ。ということは、作者ベッヒャーも詞を書くとき、ハイドンの旋律を念頭に置いていたということだろう。

踊り場ベルリン、デルフィ・パラスト

 さてベルリンが本格的に一大ダンス・シティと化すのは、第一次大戦後の 一九二〇年代、ヴァイマル共和国の開放と混乱の空気のなか、ベルリンがヨーロッパ最大の文化都市に躍り出たときだ。このころには午後のティーダンスや夜のダンス歓楽が人々の日常文化の一部と化し、ヴァイマル時代末期の一九三一年には、ベルリン各地に九百近くもの踊りのできる娯楽飲食施設があったといわれる。ひとりでやってくるご婦人の踊りのお相手をするアインテンツァーという職業も生まれ、当時ベルリンに住んでいた後年の映画監督ビリー・ワイルダーもこの仕事をしたことがあるらしい。こうした踊り場のなかで圧倒的な威容を誇っていたのが、タンツパラスト(ダンス宮殿)と呼ばれる巨大ダンスホールで、これらの多くは経済が安定していた一九二〇年代の後半に建てられたものだ。

(略)

 これらの踊り場でダンスのために供されていた音楽は、流行歌や古典名曲のダンス・アレンジ、あるいはワルツ、タンゴと各種さまざまだったが、そのなかで圧倒的人気を誇っていたのは、アメリカ合衆国から渡来した新音楽種「ジャズ」だった。ベルリンでは第一次大戦後の開放的雰囲気のなか、アメリカのダンス音楽がつぎつぎに流行、ラグタイムだろうがフォックストロットだろうがチャールストンだろうが、なんでも「ジャズ」と総称され(略)

当時のジャズはモダン・ジャズ以降の傾聴型音楽とは違い、なによりも踊り場のための実用ミュージックだったのである。

(略)

十九世紀の世界の覇者たるヨーロッパ産のダンス音楽だったワルツやポルカは古くなってしまい、今度は二十世紀の新覇者アメリカのジャズが若々しく活力のある新鮮な音楽として世界を席巻するようになったのである。

(略)

クルシェネク、クルト・ヴァイル、 ヒンデミットといった刷新の心意気に溢れた若い作曲家たちは、ジャズの語法を、肥大化しどん詰まりになっていたヨーロッパ音楽言語を活性化させるカンフル剤として、あるいは世相を反映する舞台装置として自作に積極的に導入した。

(略)

 ヴァイマル共和制がヒトラー独裁制に変わっても、ベルリンのジャズ・ダンス・フィーヴァーは収まらなかった。いくら偏狭なナチ教条派がジャズ旋風をドイツ民族を蝕む疫病とみなし、ジャズ踊りを破廉恥な行為と攻撃しても、当のドイツ人民はジャズ、あるいはジャズもどきの音楽で踊っていた。局地的にジャズ禁止令が出されることもあるにはあったが、ジャズはドイツの流行曲のなかにも奥深く浸透して混交、もはやどこまでがジャズでどこまでがジャズでないかという区別も曖昧になってしまい、禁止令の効果も薄かった。それどころか、ジャズ熱に浮かされたベルリンの大ダンスホールが全盛期を迎えるのは、よりによってナチ時代の一九三〇年代から四〇年代初期にかけてのことだったのである。

 このナチ時代、ことに若者たちを熱狂させたのは、一九三〇年代半ばから流行しはじめたスウィング・ジャズだ。よりによってベニー・グッドマンやアーティ・ショーといったユダヤ系ミュージシャンを筆頭スターとするスウィング・ミュージックが、反ユダヤ・ナチ体制下の若者たちのお気に入りのチューンとなってしまったのだ。

(略)

ヒトラー時代、「スウィングの殿堂」との異名をとっていたベルリンの巨大ダンスホールがある。それがデルフィ・パラストだ。

(略)

座席数六五〇、ダンスフロア、レストラン、バー、カフェを擁する大娯楽宮殿で、六メートルはあると思われる天井には夜の星空世界が演出され、周囲に置かれた疑似ギリシア風の彫刻が壮大な神託的雰囲気を醸し出すという、うっとうしくなるほど豪華な雰囲気に包まれていた。

 かたや外の世界では、世界大恐慌がドイツを直撃して経済は混乱の極みに陥り、急速に台頭した極右ナチス極左共産党が街頭で乱闘を繰り返していた。夢と幻想を演出するデルフィのような仮想楽園は、まさに日常からの逃避場だった

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 ヒトラー政権が成立すると、ナチ突撃隊のユダヤ系市民に対する嫌がらせや暴行が横行するようになり、デルフィのユダヤ系オーナー、ケーニヒもナチ突撃隊員だった従業員のひとりにピストルで脅かされて国外に脱出した。それでもデルフィの営業は滞りなくつづけられていった。 ケーニヒはペーパー・カンパニーをつくって自分の伴侶だった非ユダヤ系女性エルフリーデ・シャイベルに経営権を譲渡、こうして表面上デルフィ・パラストは、ナチ政府の望むような「非ユダヤ系」 企業に早変わりした。だからナチ時代になっても間断なく営業がつづけられたのである。

 ドイツがスウィング全盛期を迎え、デルフィ・パラストが「スウィングの殿堂」と化すのは、よりによってこのおぞましいナチ時代で、その頂点が一九三六年のベルリン・オリンピックの夏である。このときには、諸外国からやって来る観光客におもねったナチ政府が、各所に掲げられていた「ユダヤ人お断り」の看板を取り外し、ヒトラーも口先では世界平和を訴えて幻想を振りまき、ナチ・ベルリンが「開かれた国際都市」を気取った。それどころか観光客がヒトラー・ドイツに好印象を抱いていただくよう、ゲッベルスの音楽界監視機関 「全国音楽院」も、ベルリンのバンドに英米の国際ヒット・チューンの楽譜を取り揃えるよう指示したほどである。

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まだ敵国ではなかったアメリカン・カルチャーは音響面でも映像面でもベルリンを席巻、とりわけ一九三六年二月末に公開されたエリノア・パウエル主演の音楽映画《踊るブロードウェイ》は、ベルリンで四ヶ月にわたる大ロングランを記録。このハリウッド・ミュージカルは、第三帝国時代をつうじて最長上映記録を誇る映画のひとつとなったし、その主題歌《ユー・アー・マイ・ラッキースター》も大ヒット、二十種以上のカヴァー・ヴァージョンのレコードが発売された。景気のよいスウィングとタップダンスに彩られた軽快なアメリカ文化は、ヒトラーの国粋民族共同体のむさ苦しさを逃れようとする若人を水面下で感化、それがアメリカナイズされた戦後カルチャーにつながっていくことになる。

 開戦後アメリカ映画が輸入されなくなると、今度はゲッベルスのドイツ映画界がその需要を「穴埋め」するためにハリウッドの向こうを張ったような豪勢なミュージカルを製作するようになる。(略)

暗い戦時に「国民を良い気分に保っておく」ため、景気のいいポピュラー音楽の重要性を唱えた文化界の主ゲッベルスも、この手のミュージカルを奨励する傾向にあったし、ごりごりのナチであるはずの親衛隊員が純血イデオロギーに反した雑種音楽ジャズにどっぷり染まっていたことさえあったのだ。ナチ時代の音楽文化は、一般に想像されるよりはるかに複雑怪奇かつ複層的なものだったのである。

(略)

[42年以降]締めつけも強くなった。(略)当局は私服取締官を踊り場にもぐりこませ、敵性音楽が演奏されていないか目を光らせるようになったが、アメリカの生きのいい曲は客に受けたし、ミュージシャンのほうもそういう音楽をやりたがったので、禁断のチューンに即席ドイツ語名をつけ、あたかも問題のない自国産の音楽であるかのように見せかける偽装工作もおこなわれた。取締官のほうもこの手の音楽に疎い者が多かったので、それに騙されることが多かったらしい。

(略)

ドイツ軍がスターリングラードで決定的敗戦を喫した翌一九四三年、スウィングの殿堂として知られたデルフィは、とうとうその門を閉じ、国防軍の物資貯蔵所として徴用され、それとともにこの建物の踊り場としての歴史も終わりを告げる。

(略)

[戦後]戦争で損傷を受けたこの建物は、かつての豪勢な装飾を再現されることもなく、簡略化された外装と内装で映画館となった。今では地下一階に入っているライブ・ハウス「カジモド」が、デルフィの踊り場としての歴史を間接的に偲ばせているにすぎない。