スタン・ゲッツ その3 ボサノヴァ

前回の続き。

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 

ローゼン伯爵の孫モニカ

モニカは貴族の出だった。エリック・フォン・ローゼン伯爵の孫にあたり(略)

母親のメアリはフォン・ローゼンの領地で育った。数千エーカーの農地と森林といくつかの湖がロッケルシュタッドを囲んでいた。ロッケルシュタッドは一六四〇年頃に建てられた、数十の部屋を持つ城だ。城は中世の外見を残していた。

(略)

[父親は]活動的な共産主義者であり、祖父のエリックはナチ政権下のドイツに旅行をしたとき、スワスティカ(逆)を掲げていたことで名を馳せた。それは一九二〇年二月のある雪の日に、伯爵がロッケルシュタッドまで飛行機をチャーターしたことに端を発している。その飛行機を操縦していたのは、第一次世界大戦の空の勇士として数多くの勲章を受けた若者、今では民間のパイロットをしているヘルマン・ゲーリングだった。この未来のナチ指導者の伝記を書いたデイヴィッド・アーヴィングは、そのときの情景をこのように描写している。激しく揺れる、胃の締め付けられるような飛行の後、ゲーリングは城の隣にある凍った湖の上にこともなく着陸し、一晩そこに泊まっていかないかという伯爵の誘いを受けた。(略)

[その夜ゲーリングはエリック伯爵の妻の妹、フォン・フォックス伯爵夫人カーリンと出会う]

 二人はほどなく恋愛関係を結び、それは一九二〇年代初期の、堅苦しいスウェーデンの上流社会にスキャンダルを巻き起こした。

(略)

[22年]二人はヒトラーにすっかり魅せられ、熱烈なナチ党員になった。(略)

[カーリンは離婚を勝ち取り、ゲーリングと結婚]

(略)

 麻薬中毒の妻に比べれば、スタンにとってモニカはまるで信じられない贈り物だった。(略)

彼女は知的で、理想主義的で、洗練されており、若いエネルギーに満ちていた。おまけに禁酒主義者だ。彼の頭はぼうっとしてしまった。

破産、モーズ・アリソン

 スタンはそれまで一風変わったやり方で財務処理をおこなっていた。彼はすべての請求書を父親のところに送りつけ、父親はそれらを鞄の中にそのまま放り込んでおいた。債権者がうるさく請求してくると、スタンはアルに電話をし、父親はその請求書を鞄の中から見つけ出し、小切手を書いて先方に送った。しかしながらスタンがほとんど完全に無視していたきわめて重要な債権者が存在した。国税局だ。スタンは自分のグループのミュージシャンたちから源泉徴収を集めておきながら、それを国税局に一度も納めてこなかったのだ。また自らの税金も滞納していた。モニカはナイーブに、それはそんなに大した金額ではないだろうと考えていた。容易に解決のつく問題だろうと。そして滞納ぶんを解消しようと、軽い気持ちで国税局に乗り込んでいった。しかし請求総額が二万一千ドルだと判明したとき、彼女は青ざめた。一九九六年の物価に換算すると、約七万ドルに相当する。

 彼女はドナ・リードに助けを求め、ドナは彼女とスタンのために超一流の法律事務所を見つけてきてくれた。弁護士たちは国税局の滞納金を調査し、スタンのその他の借金を調べ上げ、それ以外にも二万一千ドルの債務が存在することを発見した。ニューヨークで破産申告を専門とする弁護士を探した方がいいと、彼らは言った。(略)

スタンは一九五七年三月七日に破産申告をおこなった。

(略)

借金はすべて帳消しにされたが、税金の滞納分だけは残った。そして国税局はその二万一千ドルを、無慈悲にスタンから取り立てていった。彼らは給与を差し押さえ、支払日にあわせてクラブに定期的に顔を出し、経営者からじかにその収入の大半を取り立てていった。

 スタンは支出を抑えるために、才能はあるが無名のミュージシャンたちを自分のカルテットのメンバーに雇った。そのような次第で、彼はユニークな才能を持つ歌手兼ピアニスト、モーズ・アリソンを見つけてきた。アリソンはミシシッピ・デルタのフォーク・ブルーズとビバップ・ジャズを合体させることで、風変わりだが説得力のあるスタイルを造りあげていた。彼は一九五七年の冬にスタンのバンドに加わり(略)

彼の作曲した二十部構成の『バック・カントリー組曲』の中から何曲かを演奏した。その夏の終わりまで彼はスタンと一緒に演奏したが、三月に録音した彼自身の『バック・カントリー組曲』のレコードがヒットすると、その成功に乗るためにバンドを離れた。

スカンジナヴィアの夏

[モニカとの間に]パメラが生まれたあと、ゲッツ一家はロッケルシュタッドに四、五週間滞在した。真夜中になっても日の沈まない夏の夜を、スタンはのんびりあてもなく過ごした。何時間も続けて泳いだり、日光浴をしたりした。松林を抜けて散策し、スティーヴやデイヴィッドと共に釣りをし、小さな娘たちと遊んだ。五年にわたる混乱の後に彼は、ようやく静寂を見いだすことができた。そして自分たちはスカンジナヴィアに居を構えるべきだという、徐々に固まりつつあるモニカの確信に同意するようにもなってきた。そのような彼の気持ちは、演奏に出かけるたびに強いものになった。彼はヨーロッパの聴衆が好きだった。人々は敬愛に近い念を持って、彼を温かくもてなしてくれた。そして毎週のようにやってきて、ギャラを掠め取っていく国税局の役人たちと顔を合わせなくてよくなったことに、ほっとしていた。合衆国の税金は収めなくてはならなかったが、もう少し穏やかなやり方でそうできた。彼は収入を郵便でニューヨークに送った。そしてまた角を曲がるごとに麻薬の密売人と顔を合わせなくていいことで、安らかな気持ちになれた。一九五八年のスカンジナヴィアは麻薬とはまったく無縁の場所だった。

(略)

[モニカの母は]コペンハーゲンの郊外にある町に、ゲッツ一家のために美しいヴィラを見つけてやった。もともとそれは王室の住居の別館だったのだが、静かな公園の中にあり、白鳥の群れの泳ぐ池が目の前にあった。

(略)

[スタンが]白鳥たちに向かってサキソフォンでロマンティックな曲を吹くと、彼らはいつもすぐに大人しくなった。

〈クラブ・モンマルトル〉、オスカー・ペティフォード

スタンは他のヨーロッパの都市で演奏することで、収入の不足を埋めた。

(略)

[59年パリのギグ、レスター・ヤングは]

スタンが舞台から降りてくると、大きな笑みを浮かべて彼を迎えた。そして言った。「あんたは俺のシンガーだよ」と。スタンはそのあともずっと、自分はこれまでそれに勝る賛辞をもらったことはないと言い続けていた。それがプレスに会った最後になった。長年にわたる深酒が彼を疲弊させていた。その二ヶ月後にニューヨークで亡くなったとき、まだ四十九歳だった。スタンがレスターに会って間もなくモニカは、コペンハーゲンの一流ホテルでアナス・デュルップと会って昼食を共にする約束をとった。スタンが彼の傘下で演奏する可能性について話し合うためだ。デュルップは建築家であり、裕福な塗料製造業者の息子であり、まだ三十歳になったばかりだったが、十年間にわたってリサーチャーとして、レコード・プロデューサーとして、マネージャーとして、ジャズ・クラブのオーナーとしてジャズ界で意欲的に活動していた。彼は数年間ルイジアナに滞在し、研究者であるウィリアム・ラッセルに協力して、ニューオーリンズやデルタ地帯の、老齢を迎えたジャズの草分けともいうべきミュージシャンたちの録音をおこなった。ジョージ・ルイス、ジム・ロビンソン、スヌークス・イーグリンといった人々だ。また彼はニューオーリンズの演奏会場〈プリザヴェーション・ホール〉の設立者、三人のうちの一人でもあった。そのホールは今日においてもなお、正統的なディキシーランド音楽の本拠地として盛んに活動を続けている。デュルップの音楽的な情熱はトラディショナル・ジャズのみに留まらなかった。彼は二つのレコード・レーベルを所有しており、ディキシーランド・ジャズを〈ストーリーヴィル〉レーベルで、モダン・ジャズを〈ソネット〉レーベルでプロデュースしていた。一九五四年にアメリカからデンマークに戻ると彼は、〈クラブ・モンマルトル〉という名の非営利のジャズ協会を立ち上げる広告を出したが、それに対して一万人もの反応が返ってきたことに驚き、また喜びを覚えた。協会はコンサートやその他のイヴェントを主催し、会誌を発行した。

 コペンハーゲンのあちこちで、四年にわたって成功裏に活動をおこなったあと、彼は思いきって〈モンマルトル〉の名を用いて、市の中心近くに購入した小さく魅力的なスペースで、営利目的のビジネスを始めることにした。新しい場所に近づいていくと、ビルディングの壁から、巨大なカウント・ベイシーの写真がじっとこちらを見下ろしているのが見える。そのアイコンの他には、デュルップは店の存在を示すものを何ひとつ出さなかった。

(略)

 ほどなくスタンは〈モンマルトル〉で月曜日から木曜日までのギグをこなし、ヨーロッパの他の都市で公演するために週末をあけておくようになった。生まれて初めて、彼は定職というものを持った。そして生活のために忙しく走り回る必要がなくなった。スタンは記者に語った。この心地よい日常生活を自分は満喫しているのだと。

 

ぼくは競争することに疲れた……ここでは家族とともにいる時間をゆっくりとれる。アメリカにいるときほど高い収入は得られないが、こちらの生活費は安いからね。またあくせくする必要もない。ヨーロッパでのリラックスした生活を楽しんでいるよ。

(略)

 ぼくの意見ではこちらの人々はより啓かれているし、人種的問題みたいなものは存在しない。(略)ぼくは人種差別が大嫌いなんだ。

 

(略)

スタンの〈モンマルトル〉における喫緊の課題は、優秀なバックアップ・ミュージシャンを見つけることだった。だから超一流のアメリカ人ベーシスト、オスカー・ペティフォードが最近ヨーロッパに逃れてきて、落ち着き先を探していることを知って、スタンは驚喜した。

(略)

ペティフォードがアメリカを離れたいちばんの理由は、自分の子供たちのためにより寛容な人種的環境を求めたからだった。(略)彼は一九二二年にオクラホマのインディアン居留地に生まれた。母親は純粋なチョクトウ族であり、父親はチェロキーと黒人の混血だった。そのために彼は合衆国にあっては二重の差別を受けた。そしてまた白人の女性と結婚したことで、先住民の偏狭な人々の怒りをも買うことになった。

 ペティフォードは一九四〇年代の初め、その少し前に亡くなったジャズ・ベースの草分けともいうべきジミー・ブラントンのやりかけていた仕事を引き継ぎ、それを完成させた。つまり、以前はただのタイムキープの役しか果たしていなかったベースを、即興演奏のできる旋律楽器に変えることだ。彼はビバップ革命における先駆者となり、〈ミントンズ〉でセロニアス・モンクと演奏し、一九四四年にディジー・ガレスピーと共同で、五十二丁目通りにおける最初のビバップ・バンドのリーダーとなった。

(略)

 スタンにとってペティフォードはまさに天の恵みだった。彼はすべてを具えていた。驚異的なテクニック、完璧なイントネーション、非の打ち所のないタイム感覚、そして幅広いメロディックな想像力。

新しいラテン音楽ボサノヴァ」 

一九六一年度の〈ダウンビート〉人気投票では、彼はジョン・コルトレーンに二対一以上の大差をつけられ、首位を奪われた。

(略)

 十二月のある夜、ワシントンDCのクラブで演奏していると、その近所に住んでいたギタリストのチャーリー・バードと、奥さんのジニーが彼のところにやってきた。「新しいラテン音楽を見つけたんだが、君にも聴いてもらいたいんだ」と彼は言った。

(略)

 バードは一九四〇年代終わり頃にジャズ・ミュージシャンとしての活動を始めたのだが、一九五〇年から五六年にかけては、クラシック音楽をほとんど専門に演奏し、一九五四年には巨匠アンドレス・セゴビアに学んだ。

(略)

 一九六一年の三月から六月にかけて、バードとジニーと彼のトリオは、十二週間にわたる国務省主宰の南米ツアーに参加した。音楽的好奇心の旺盛なバードは、ベネズエラ、ブラジル、チリ、パラグアイ、ペルー、アルゼンチンで、それぞれ固有の音楽のテープやレコードや楽譜を収集した。そしてとりわけ、最近になってブラジルで人気が高まっている「ボサノヴァ」という、ジャズとサンバの混合音楽に心を惹かれた。

 (略)

 合衆国に戻ると、彼はいくつかのボサノヴァ曲をアレンジし、実際にステージで演奏したが、そのブラジル音楽をレコード化するようにレコード会社を――彼の所属レーベルのリヴァーサイドをも含めて――説得することができなかった。バードはテープに録音したボサノヴァ音楽を、スタンに一刻も早く聴かせたくてたまらなかった。というのはその温かくメロディックな音楽は、彼の叙情的なスタイルに実にぴったりだと確信できたし、また自分よりはスタンの方がレコード会社に対してずっと大きな影響力を持っていると知っていたからだ。

 昼食のあとでバードは自分のギターで何曲かのブラジル音楽を演奏し、それから二人のボサノヴァ音楽の立役者の音楽を録音したテープを聴かせた。ギタリストのジョアン・ジルベルトは自分の曲と、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲を歌っていた。スタンは即座にその音楽に参ってしまった。アレンジメントの単純さにもかかわらず、澄み切った曲調と、リラックスはしているが、揺るぎなく強固なリズムに魅せられた。それは彼の血液に危ういまでに容易く入ってきた。この音楽にかぶせて即興演奏をするのは楽しいかもしれない。そのリズムの脈動は、まるで優しい波のように、抗しがたく彼を前に推し進めた。

 スタンはクリード・テイラーボサノヴァの素晴らしさを説いた。そしてバードと一緒にレコードを作らせてくれと頼んだ。そういう企画には商業的な価値はあまりないとテイラーは思ったが、それでも了承した。しかし最初から彼らは音楽的困難さに直面させられた。ニューヨークのミュージシャンたちとのセッションは不毛に終わった。彼らはブラジルのリズムをマスターできなかったからだ。バードは、彼がブラジルから連れてきた人々を使って、あらためて録音しなおすことにした。バードは彼らを徹底的に仕込み、二月の初めまでには録音できる態勢に持って行った。

 一九六二年二月十三日、スタンとクリードシャトル便に乗って、ニューヨークからワシントンに飛び、音響の素晴らしさの故にバードが選択した場所に向かった。市の北西にある〈全霊ユニタリアン教会 ピアース・ホール〉だ。スタンは楽譜をうまく摑めなかったが、あっという間に曲を覚え、二時間のうちにバードと、二人のベーシストと、二人のドラマーと共に七曲の録音を終えた。それはカジュアルなセッションだった。

(略)

 ジョビンが説明しているように、ボサノヴァとは彼の母国語で「新しい感覚」のことだ。

 

 ポルトガル語ではボサ(bossa)というのは突起物のことだ。つまり、こぶ・でっぱりのことだ。そして人の頭脳というのはそういう突起物を持っているものなんだ。(略)だからもし誰かが何かにボサを感じたなら、それは実際に頭脳にどすんと来ているということなんだ――つまり何かに対する才能があるということだ。「彼はギターのボサを持っている」と言えば、それは「彼にはギターの才能がある」ということになる。それは何かに対する「天性の感覚」を意味している。だからボサノヴァとはつまり、新しい感覚のことなんだ。

 

 ジョビンとジョアン・ジルベルトと彼らの仲間たちは、激しいストリート・ダンス音楽であるサンバを取り上げ、それを二つの異なった方向に変形させることによって、彼らの「新しい感覚」を創出した。彼らは洗練されたジャズのハーモニーをそこに加え、シンプルで対称的なリズムを、精妙で非対称的なものに、うっとりする流れを持つものに、再編成した。そうした彼らの作業は、デューク・エリントンがフォーク・ブルーズを取り上げ、複雑にしてリリカルな作品を作り上げていった作業に比べられよう。彼らが影響を受けたジャズは主に「クール・スクール」だった。一九五〇年代のブラジルのポピュラー音楽の大半は、彼らの耳にはうるさく、いかにも見え透いたものとして響いた。そして一九五〇年代初期のマイルズ・デイヴィスの「クールの誕生」九重奏団の和声や、スタンのカルテットや、ジェリー・マリガンのピアノレス・グループなどの和声が、彼らが既存のブラジル音楽のスタイルに対抗する、精妙で刺激的な新しい様式を創出する作業の手助けをした。

(略)

 ジョビンはそのリズムの革新をジルベルトの功績としている。

 

 我々にそのビートをもたらしてくれたのはジョアン・ジルベルトだ。ボサノヴァには数多くの人々が関わっているが、ジョアン・ジルベルトは天与の明かりとして、天空の巨大な星として登場した。彼が中心人物となった。彼はギターをこっちの方向に引っ張り、歌唱をあっちの方向に引っ張った。そしてそこに三つ目の深いものが産み出された……ボサノヴァというのはサンバから抽出されたものだと僕は思っている。サンバの洗練された派生物であると。

 

 ジルベルトがリズム面での革新者であるとすれば、メロディー・メイカーとしての素晴らしい才能を持ち合わせたジョビンは、その形式を他の誰よりも見事に定型化し、大衆化した。

(略)

ジルベルトとジョビンはカウンター・カルチャーの英雄となり、伝統主義者たちがその新しい音楽に腹を立てるのを見て、若者たちは快哉を叫んだ。ジョビンは回想する。

 

 当然のことながら、純粋主義者たちは僕らに対して怒り狂った。彼らにとってサンバとは一種の信仰だったんだ。彼らは言った。「これはサンバじゃない。これはジャズだ」って。連中は頭から受け付けなかったね。

(略)

 ゲッツ= バードのアルバムに「ジャズ・サンバ」というタイトルをつけたとき、クリード・テイラーはブラジルにおける、そのような名称に関する論議に注意を払ったわけではなかった。彼はこう語る。

 

 営業の連中は発売を少しばかり遅らせようとした。アルバムのタイトルを変更させたかったからだ。私は断った。実にぴったりそのままのタイトルだったからね。ジャズ・サンバ、それはジャズとサンバの結婚なんだ。アメリカのオーディエンスは、ボサノヴァが何かなんて知るまい。しかしこのような字義通りの説明なら理解するはずだ。

イパネマの娘」、アストラッド・ジルベルト 

アストラッド・ジルベルトはあっという間にポップ・アイコンとなり、プロ歌手として活動を始めた(略)

ジョビンが目にした、浜辺を歩いて行く一人の十代の娘が発するセックスとロマンスの若々しいオーラを、アストラッドは数百万の人々のために具現化していたのだ。

 

 僕のパートナーであるヴィニシウス・ヂ・モライスが、その曲のためにポルトガル語の歌詞を書いてくれたんだが、僕と彼はリオのバーでよく一緒に飲んでいた。フランス風のバーで、歩道に椅子を出していた。そしてそこはビーチから一ブロックしか離れていなかった。

 彼女は緑の瞳で、とても美しかった。僕らは彼女に声をかけたりしなかった。彼女は学校に行くか、ビーチに行くかするところだったんだろうし、僕らはただじっと彼女を眺めていた。彼女は金髪で、肌が浅黒く、その組み合わせが見事に美しかった。神が創り出した美の権化だった……

 その娘は何かの――愛とか安逸とかの――象徴だったんだ。まるで夢のようだった。

 

 現実のそのイパネマ出身の娘はエロイーザ・エネイダ・ピニェイロといって、ジョビンとモラエスはやがて彼女と友だちになり、結婚式にも列席した。彼女は今ではテレビのトークショーの司会者であり、女優であり、四人の子供の母となっている。

 アストラッドは大衆にとってだけではなく、スタンにとってもまた、セックスとロマンスを体現する存在になった。そしてサラリーやレコードの印税のことでしょっちゅう口論をしていたにもかかわらず、一九六四年のツアーのあいだに二人は関係を持つようになった。そのようにして、モニカと結婚して以来もっとも悪名高い不倫関係が始まった。二人の関係については何も知らなかったとモニカは主張している。

鬱、妻への暴力、自殺未遂

 鬱はスタンの人生における絶え間のない、苦痛に満ちた宿痾だった。成功していようが挫折していようが、それとは無関係に。精神の苦痛はきわめてしばしば彼を襲い、それを紛らわせるための、彼の知る唯一の手段は飲酒だった。グラミー賞受賞の少しあとのある夜、家族と何人かのゲストと共に夕食をとっているとき、彼は思わず跳び上がりたくなるほどの激しい苦痛に襲われた。スコッチを立て続けに五、六杯あおり、それで苦痛は和らいだが、かわりに激しい怒りが解き放たれた。

 更に酒が入るにつれて、怒りはますます強まり、彼はモニカに摑みかかり、罵りの言葉を叫びながら、彼女の髪を持って引きずり回した。それから彼女を放し、いろんなものを投げつけ始めた。電気スタンドを投げ、窓を割った。モニカはみんなを連れて二階に逃れ、そこで全員が固まって震えていた。

 スタンは半時間ばかりものを壊しまくり、さんざん毒づいたあとで、ようやく腰を下ろした。彼には自分がどこまでも情けなく感じられた。妻や子供たちを傷つけることがやめられず、家の中を破壊することがやめられないのだ。しばし彼はすべての感情を抜き取られたような状態になったが、そのうちにまた苦痛が戻ってきた。みぞおちから吐き気がじわじわと広がり、やがてはすべての細胞が苦悶に脈打つのだ。これほどひどい苦しみはないと彼は思った。終わりなくそれが続くのだ。出口はどこにも見当たらない。こんなことにはもう耐えられない。

 彼はガス・レンジのところに行って、ガス栓をひねり、ひざまずいて頭をオーヴンの中に突っ込んだ。息を吸い込むと、その臭いが鼻腔を満たした。そしてゆっくりと、深い平穏な眠りの中へと引き込まれていった。階下が静まりかえると、モニカは十六歳になっていたスティーヴに言った。「下に行ってお父さんの様子を見てきてちょうだい。お願い。あなたはいちばん年上なんだから」

 スティーヴが台所のドアを開けると、ガスの臭いがした。そして父親が意識を失い、ぐったりとそこに横たわっているのが見えた。少しのあいだ彼の気持ちは二つの方向に引き裂かれた。一方で彼はとても腹を立てており、こんなやつはそのまま死なせてしまえばいいと思った。でももう一方の気持ちが彼をオーヴンに向けて走らせた。そしてオーヴンから父親を引きずり出して、床に仰向けに寝かせた。ガス栓を閉め、父親の脈を測り、窓をいくつか開け、それから二階に駆け戻った。モニカは一家の主治医であるジョン・フォスター医師を呼んだ。医師はスタンを診察して、もう心配はないと宣告し、彼をベッドまで運ぶのを手伝った。

(略)

 スタンの創造力がどんどん開花していく一方で、彼の鬱、彼の飲酒、彼の怒りはますます激しさを増していった。一九六〇年代後半は、彼の家庭にとって「戦争の年月」であったとスティーヴは表現する。

 

(略)その時期、父は毎日一クォートは飲んでいた。そして手のつけられない状態になっていた。家庭内には暴力がはびこり、彼は正気を失っていた。僕らはよくあの時代を乗り切ったものだよ。

 

(略)

[タイム誌は]一九六五年の彼の収入は二十五万ドルに及ぶだろうと書いた。「ゲッツ/ジルベルト」の印税があり、『ミッキー・ワン』の報酬があり、全席完売の合衆国内における演奏契約があり、大成功に終わった日本と南米とヨーロッパのツアーがあった。

 一九六五年十二月十八日のスタンの家において、家庭内の平穏も板ガラスのドアも、どちらも見事に砕け散った。彼は酔っ払って、自動車のキーを巡ってモニカと争いになり、右足でドアを突き破ってしまったのだ。何本かの腱が損なわれ、動脈が切れて、血があたり一面に飛び散った。近隣にある病院の外科医たちが全力で傷の治療にあたり、片足とくるぶしにギプスをあてた。しかし彼は右足の親指以外の四指の動きを、永久に失うことになった。〈ダウンビート〉は慎重に言葉を選び、スタンは「家の中をうろついているあいだに」怪我をしたと記事に書いた。

 病院から戻ってくると、スタンはまた乱暴な真似を始めた。松葉杖で鏡と家具を叩き壊し、モニカと五人の子供たちは難を避けてモーテルに逃げた。

アンタビューズ

 スタンは自らの常軌を逸した破壊的乱行に驚愕し(略)アルコール中毒の治療を専門にする精神科医、ルース・フォックス医師のもとを訪れた。

(略)

 フォックス医師はアンタビューズの信奉者だった。(略)

 スタンが毎日アンタビューズを服用することが必須であると、フォックス医師は言った。そしてもしスタンがそれを怠るようなことがあれば、モニカは錠剤を砕いて、オレンジジュースに入れなくてはならないと、彼女は二人に言った。

(略)

 チック・コリアはファルカーク病院でのどたばた騒ぎにうんざりして、スタンの元を離れ、ゲイリー・バートンのカルテットに加わった。

(略)

 こっそりアンタビューズを飲ませるのは、ひとつの方便ではあるものの、危険性をも含んでいる。(略)何故ならそれは体内でアルコールと一緒になると、強力な毒素を発生させかねず、服用者に危険をもたらし、死に至らしめることもあるからだ。

(略)

モニカはベヴァリーに白いアンタビューズの錠剤を砕いて粉にし、いろんな食品に混ぜ込む方法を教えた。そして言った。「お父さんに言ってはだめよ。そんなことをしたら、みんな殺されちゃうから」。

(略)

 ロニー・スコットのクラブに出演しているあいだ、モニカはパメラとスタンを二人で残して、週末を過ごすためにロンドンからスウェーデンに飛んだ。パメラはスタンが怒りっぽく、いらいらしていることに気づいて、不安を感じた。というのは、そういうときには酒を飲んで荒れることが多かったからだ。彼女はキッチン・キャビネットに隠してあったアンタビューズを取り出して細かく砕き、自分でつくったパンケーキの上に振りかけ、その上をバターと砂糖で覆った。スタンはそれを食べ、そのあとでアルコールをいくらか口にして、少しばかり気分が悪くなった。彼はモニカに電話をかけて言った。「素晴らしいことが起こった。本当にアルコールに対するアレルギーが出てきたかもしれない」

 モニカは大喜びした。というのは彼女はそれを聞いて、適量のアンタビューズを注意深く、こっそり与えることで、今ではスタンの飲酒をコントロールできるようになったと考えたから。それまで彼女は、どちらかといえば場当たり的にその薬を彼に与えていた。これからは規則的に与えるようにしようと彼女は決心した。最初のうち、アンタビューズの投与に関していえば、ベヴァリーとパメラだけが彼女の協力者だった。最終的に彼女はスティーヴとデイヴィッドをも引き込んで、二人を協力的な同志とした。全員が秘密を守ることを誓った。その結果はモニカを喜ばせた。彼女は一九七〇年代初期を黄金の時代として振り返る。彼女は後日こう語っている。「彼は初めて、お酒を飲まなくても暮らしていけることを示したのです。その期間は次第により長いものになっていきました」

 一九七〇年代に躁鬱症の治療の標準的な薬として用いられたリチウムが、ロンドンの医師によってスタンのために処方され、それもあってその時期、彼が酒を飲まないでいる期間はより長くなった。鬱がスタンに酒を飲ませる主要な原因であり、アルコールが彼の躁的な怒りを解き放つのだが、リチウムは、彼のそのような破壊的感情の状態の深刻さを、双方共に軽減する働きをした。その薬はスタンの鬱を全面的に抑えることはできなかったが、一九七〇年代の半ばにエラヴィルという新しい薬が登場した。

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スタン・ゲッツ 音楽を生きる その2

前回の続き。

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

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ベニー・グッドマンフレッチャー・ヘンダーソン

ベニー・グッドマン楽団からオファー(略)

スタンはすぐに、自分が混乱を極めている楽団と契約を結んでしまったことに気づいた。

 グッドマンは、アメリカのポップ音楽のトップ・スターとして十年近く君臨したあと、一九四四年三月に突然バンドを解散してファンを驚かせた。それは彼のブッキング・エージェンシーであるMCAとの葛藤を原因とするものだった。しかし彼はすぐに自分が第一線から外れたことを淋しく思うようになり、いざこざがまだ片付いていないにもかかわらず、一九四五年三月に新しいバンドを立ち上げた。

 かつてのバンドの楽団員たちの全員近くが、軍隊にとられているか、あるいはよそのバンドで気持ち良く仕事をしているか、どちらかだった。だから新しいグループはおおむねあまり経験のない顔ぶれで(略)

思うような成功を収めることはできなかった。

(略)
 演奏仲間であったテリー・ギブスが語る。

 

 彼は人の名前を覚えることができなかった。(略)

[妻からメンバーにトーストでも出そうかと訊かれたベニーは言った]

「いや、今はいいよ、パップス」。自分の奥さんの名前が思い出せなかったのさ。最後には、彼にとってはすべての人が『パップス』になった。女も子供も犬も消火栓も、何もかもが『パップス』なんだ。

 

(略)

一人の男がベニーの成功に決定的な役割を果たしたアレンジメントを提供してくれた。フレッチャー・ヘンダーソンだ。ヘンダーソンデューク・エリントンと肩を並べ、一九二〇年代の黒人音楽の覚醒の中から、今日に至るまで機能を発揮しているビッグバンドの基本的手法を創造した。それは先行する脆弱なダンス・バンドにとって代った。ヘンダーソンのアレンジメントは、それぞれに力強くハーモナイズする木管楽器金管楽器の音塊と、即興演奏をおこなうソロイストと、バンド全体とのあいだに展開する見事なインタープレイ、そして緊密に連携する四人のリズム・セクションによって送り出されるドライブ感のあるビートを中心としていた。

 ヘンダーソン自身のバンドは、ルイ・アームストロングコールマン・ホーキンズベン・ウェブスターといったソロイストたちに脚光を浴びせながらも、十二年間にわたる革新的でエキサイティングな活動の末に、一九三四年には挫折の憂き目を見た。グッドマンは番組「レッツ・ダンス」で演奏を開始した当初、ヘンダーソンの既存のアレンジメントを使用したが、そのあとはヘンダーソンをせき立てて、放送の続く六ヶ月のあいだ、毎週三つの新しいアレンジメントを用意させた。ロス・ファイアストーンは彼らの関係の重要性を認識していた。

 

 (略)(ヘンダーソンによる)十二年にわたる実験と、進歩と、ビッグバンド編曲方法の段階的完成を、ベニーひとりが手柄とするところとなった。(略)

 

 ベニーのために言い添えておくなら、彼はヘンダーソンへの賛辞を決して惜しまなかった。それから半世紀以上を経た後、ベニーは自分の最後のテレビ・ショーをフレッチャーに捧げている。そしてこう言っている。「彼のアレンジメントに対する感嘆の念は決して色褪せない。彼こそはまさに天才だった」と。

(略)

[スポンサーのナビスコの工場がストで封鎖され番組は打ち切り、ツアーに出たが]

多くのボールルームはベニーに「スウィートな」アレンジメントを強調するように要求し、おかげでツアーは惨めな失敗に終わった。デンヴァーでほとんど解散寸前まで追い詰められた。

(略)

 バンドは相変わらず死に向かっていた。(略)

サイドマンの一人――バニー・ベリガンだったかジーン・クルーパだったか――がベニーに言った。どうせ命尽きるのなら、いちかばちか、好きなだけスウィングして駄目になりましょうや、と。

(略)

ベニーはこのように回想している、「まったくたまげたことに、人々の半分は踊るのをやめて、ステージを取り囲んだ……私の前に道が開けたのはまさにそのときだった。三千マイルの旅をしてきたあとで、我々はようやく巡り会ったのだ。我々のやろうとしていることをちゃんと理解してくれる人々に。このように演奏したいと我々が望んでいる音楽を、そっくり受け入れてくれる人々に。最初のわああっという聴衆の怒号は、私が人生で耳にした最もスウィートなサウンドだった。そしてそのときを境に、夜はどんどんビッグになっていった…」

 

(略)

一世代あとのエルヴィス・プレスリーと同じく、彼は堅苦しい白人の中産階級の子供たちに、ホットで祝祭的な黒人音楽を送り届け、彼らをワイルドな気分にしたのだ。ただしエルヴィスとは違って、彼はアメリカのポップ・アイコンになりそうなタイプではまったくなかった。内向的で、常に放心状態の、眼鏡をかけたユダヤ人の音楽的完璧主義者だった。しかし彼はホットな音楽を愛し、それを完璧に演奏することができた。大事なのはそのことだけだった。ベニーが発火させた狂熱は、一九三六年の終わりから一九三七年の初めにかけて、大きなはずみをつけていた。 

ビバップ革命

ビバップ革命は、彼らが感じていたフラストレーションに根ざしていた。一九四〇年代初めに入手可能だったリズムとハーモニーのマテリアルでは、これらの人々は、自分の感じているものを十分に表現することができなかったのだ。だから彼らはそれらのマテリアルに大胆な変更を加えていった。

 もっとも主要な変更はリズムだった。ビバッパーたちはみんなレスター・ヤングを聴いており、彼の導くところに従い、音楽のリズムの配置換えを自分たちの音楽にとって不可欠な部分とした。そして彼らはドラマーの基本的役割をただのタイム・キーパーから、アンサンブルのひとつのヴォイスとして、ホーン奏者と同等の役割を持つものに変えた。彼らは終始同じタイムを刻み続けるバスドラムのビートを、ドラマーによって打ち出されるちらちらと瞬く、流動的なシンバルの脈動に変更した。この軽い脈動の上で、即興演奏家たちはこの上ないリズム的自由さを満喫することができた。彼らは様々な長さを持つごつごつした、非対称的なフレーズを創り出し、自分たちが楽しいと思うところに、あるいは人があっと驚きそうなところに、自由気ままにアクセントを置いた。そしてドラマーたちは自由な手と両足とをつかって、ソロイストの演奏するラインと絡み合う、ポリリズム的効果を生み出していった。

 ビバップ以前にはハーモニーは(デューク・エリントンアート・テイタムという特筆すべき例を別にして)、十九世紀中葉のクラシック音楽と同じレベルにあった。それがビバッパーたちの不満の種だった。彼らは西洋音楽において入手可能なすべての音のコンビネーションを使ってやろうと決意した。そして彼らは和声の水門を開けてしまった。彼らは自分たちをクラシック音楽の作曲家になぞらえたわけではなかったが、彼らの音楽はストラヴィンスキーの不協和音を、ドビュッシーの神秘的な和音を、そしてその中間にあるすべてを取り込んでいる。四年間にわたる実験の末に、彼らはジャズのハーモニーをブラームスからバルトークにまで移動させてしまったのだ。

 自分たちの和声的「資源」を拡大するために、彼らはコードの構造に重きを置かざるを得なくなった。不協和音を加えてコードを半音拡大し、指定されたコードをより複雑な新しいコードに置き替え、曲のハーモニックな速度を上げるべくより頻繁にコード・チェンジすることで、その効果の多くを得ることができた。彼らはコードに深く関与したが、その一方でレスター・ヤングの教えも忘れてはいなかった。ヤングのリズムの捉え方に対しても、ハーモニーを横切って自由にメロディーを紡ぐそのやり方に対しても、彼らはしっかり門戸を開いていた。

 ビバッパーたちの主要な達成は、ジャズ即興演奏家が手にすることができる「資源」を大胆に拡大したことにある。そしてスタンのような若いミュージシャンがいちばんの受益者になった。スウィング・ジャズのパレットの純粋な原色の代わりに、彼らは今では音楽的色彩の総合的な虹の中から自由に色を選べるようになったのだ。 

バードランド開店

 階段を半分ほど降りたところにある切符売り場で、観客はまず九十八セントを払って店に入り、それから懐具合と相談して、三つに分かれたセクションのどこに行くかを決める。左手の壁に沿ったバーに行くなら、少なくとも一杯の飲み物を注文しなくてはならない。部屋の反対側にはテーブルとブース席が並び、そこに座ればカバー・チャージが付いて、飲み物のほかに南部の田舎風に調理された、上等とは言いがたい料理を注文することができる。リブとかチキンとか、その手のものだ。真ん中にステージがあり、ステージとバーとの間は「ブリーチャーズ(簡易観覧スタンド席)」になっており、そこでは最初に払った九十八セントだけで、一晩中音楽を聴いていられる。しかしその数少ない席を確保するには、早いうちにやって来る必要がある。たいていの「ブリーチャー客」は立って音楽を聴いている。店の壁はジャズの巨人たちの、人目を引く等身大の白黒写真で覆われている。パーカーやガレスピーや、そんな人々だ。そしてオープニングの夜には、いくつものかごに入れられたカナリアたちがバーの背後にいた。立ち込める煙草の煙のせいで、鳥たちは数週間しか生き延びられなかったが。

(略)

[司会の]ピィー・ウィーは心付けをくれない演奏者の名前を、よく言い間違えたものだった。あるときレスター・ヤングは彼のしつこいせびりに頭にきて、「half a mother fucker」と呼んだことがあった。

ノーマン・グランツ

ルーストとの契約が切れた十二月十日に、彼とクレフ・レーベルとの間の専属契約を結んだ。

 スタンはグランツの傘下に入ることに興奮を覚えた。クレフ・レーベルはルーストよりも遥かに広い販売経路を持っていたし、プロモーションのためにより潤沢な資金を使えたからだ。それに加えて、グランツにくっついていれば、彼が主宰する豪勢なツアーに、超一流のミュージシャンたちと共に参加することを約束されたようなものだった。たとえば一九五一年の秋のツアーには、エラ・フィッツジェラルドジーン・クルーパ、レスター・ヤング、ロイ・エルドリッジ、フリップ・フィリップス、ビル・ハリス、イリノイ・ジャッケー、レイ・ブラウンオスカー・ピーターソンハンク・ジョーンズが参加していた。

 

 ノーマン・グランツはひょろりとした、どこまでもエネルギッシュな人物であり、骨の髄までリベラルでありながら、同時に容赦を知らぬ功利的な資本家だった。そもそもの最初から、彼の第一のモチベーションは人種的公正の達成だった。(略)

 

私の目指すものごとはこのような順番になっている。第一は社会的なものだ。人種的差別をより寛容なものにし、消滅させること。第二は純粋にビジネス的なもの。あっさり砕いていえば、金儲けだ。そして第三には――いいかね、これが最後にくるわけだが――ジャズを売り込むことだ。

 

 グランツとジャズの関わりは一九四三年に遡る。当時まだ二十四歳で、MGMのフィルム編集者として働いていた。彼はロサンジェルスのジャズ・クラブが白人の客しか入れないことに猛烈に腹を立てていた。そして仕事のない夜にクラブを借り切り、人種混合の聴衆のためのジャム・セッションを催した。その信念は(略)

スリーピー・ラグーン弁護基金のための慈善コンサートを開催し、それが成功裏に終わったとき、より確固としたものになった。その基金はいわゆる「ズート・スーツ」暴動で誰かが殺害されたあと、サン・クエンティン刑務所に送られた若いメキシコ人たちのグループの弁護費用を捻出するために設けられたものだった。

(略)

[四週間後にカウント・ベイシー楽団等でコンサートを開き成功]

毎月定期的にそのコンサートを催すようになり、それに「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」という名を冠した。略してJATPだ。

(略)
グランツは記者にこう語っている。

 

私のコンサートはまず何よりエモーショナルな音楽なんだ……もしお望みなら、もっと内省的なコンサートを催すこともできる。でも私はどちらかといえば、エモーショナルな方を選びたい。そして、いいかい、大衆の好みも私のそれと一致している。私が生涯で最も大きくこけたのは、デイブ・ブルーベックジェリー・マリガンといった内省的なミュージシャンを、何人かツアーに加えたときだった。

 ジャズはとても生き生きしたものであり、それは人を生き生きさせる……人を幸福にしなくちゃならないと私は思っている。そいつはエネルギーを、たくさんのエネルギーを持っていなくてはならない。オスカー・ピーターソンやロイ・エルドリッジやディジーやベニー・カーターを聴くとき、私はエネルギーやグッド・フィーリングの見事な噴出に身を包まれる。

 ロイ(エルドリッジ)はすべてにおいて熱烈な男で、彼にとっては安全な演奏をするより、たとえ失敗に終わったとしても、何かしらの頂点に達するべく、敢えて挑戦することの方が大事なんだ。それこそがジャズだよ。

 

 グランツはミュージシャンたちに高額のギャラを払った。そして社会的問題については痛烈な姿勢をとった。

 

ステージに立っているときのミュージシャンを、曲がりなりにも敬意と尊厳をもって扱い、でもステージを終えたら裏口にまわってくれみたいなことは、許されるべきじゃない。我々は黒人に対する差別と闘うだけではなく、すべてのジャズ・ミュージシャンに対する差別と闘っているんだ。私は主張する。私のミュージシャンたちは、レナード・バーンスタインハイフェッツと同じ扱いを受けてしかるべきだと。なぜなら彼らは同じくらい優れているからだ。人間としても、音楽家としてもね……

 あちこちにはびこる偏見に対して、我々はまだいくらかの譲歩をしなくてはならない。しかしながらそのような譲歩は、徐々に少なくなりつつある。ゆくゆくは我々はみんな一緒に、アトランタの最高級ホテルに部屋をとれるようになるだろう。そしてそのことについて、誰もなんとも思わなくなるだろう。

 

 そしてミュージシャンたちは彼を愛した。ディジー・ガレスピーが述べるように。

 

ATPの大事なところは、それがジャズ・ミュージシャンを最初に「ファースト・クラス」扱いしてくれたことだ。ノーマンと一緒だと、ファースト・クラスで旅行し、ファースト・クラスのホテルに泊まれるんだ。そして座席が人種別になっている場所では何があろうと演奏しなかった。グランツは一刻も早くスタンを録音スタジオ入りさせたかった。

 

(略)

ノーマン・グランツはスタンをジャズ界のエリートたちと組ませて、次々にレコーディングした。条件の良い出演契約もどんどん入ってきた。二人は共に麻薬中毒である夫婦としては、最高に満ち足りた暮らしをしていた。二人の年収は、一九九六年の水準に換算すれば、十六万ドルにも達していた。確かなヘロイン・コネクションを確保し、一日中ハイな状態で暮らすことができた。

コールド・ターキー、強盗

 スタンは刑務所の中でコールド・ターキーを迎えたくなかったので、ツアーのあいだにその習慣を断つことにした。禁断症状の苦しみはバルビツール剤によって緩和されると彼は信じており(略)[ツアー三日目に]ヘロインをこの薬品に切り替えた。

 (略)

 麻薬を断ってから三日目の水曜日、身体症状がまるで鍛冶屋の大槌のように激しく彼を打った。(略)肌が焼けるように熱くなり、すべての骨と筋肉が痛みに脈打った。

(略)

[ヤク切れの苛立ちをトゥーツ・シールマンスに向ける]

スタンは叫んだ、「ミュージシャンにとってのいちばんの侮蔑的なことは、おまえは鈍感だと言われることだ。それでだな、おまえは実に鈍感なやつだよ、トゥーツ」。ズート・シムズがすぐに割って入り、スタンを彼の席に戻した。(略)「おまえだってそうだぜ、ズート。おまえだって鈍感そのものだ」。ズートはスタンを保護する兄貴分のような存在になっており、ツアーの最後までそのような立場を維持した。

(略)

[チェックイン後、耐えきれず、ドラッグ・ストアへ]

彼は右手をウィンドブレーカーのポケットに入れ、人差し指を銃口のように見せかけて、彼女に言った。「モルヒネのカプセルを一つくれ。叫んだりするな。もし騒いだら、脳味噌を吹き飛ばすからな」。(略)

「あなたの銃を見せてちょうだい」。そう言われて彼はすっかり怖じ気づいてしまい、店を出て行った。彼が通りを横切ってホテルに入っていくのを、メアリは見届けた。

 ホテルの部屋に戻ると、スタンはメアリに電話をかけて謝った。このときにはパトロール警官アール・フィッシャーは、「武装強盗が発生」という無線の緊急連絡を受け、乗っていたパトカーからそれに応答し、ドラッグ・ストアの店内に既に入っていた。彼は内線電話をとって、その会話を聞いていた。

 スタンはメアリに言った。「馬鹿な真似をして申し訳なかった。こんなことをするのは初めてなんだ。ぼくは強盗なんかじゃない。ぼくはきちんとした家庭の出だ。水曜日になったら出頭するよ」

「どうして出頭するのが今日じゃ駄目なの?」とメアリは尋ねた。

(略)

 警察署の留置場に腰を下ろし、静かな声で質問に答えているあいだ、スタンの脚はゼリーのようにふにゃふにゃしていた。麻薬の習慣にはまったのは六ヶ月前からだと彼が言うと、刑事たちは笑った。両腕に残った深い注射針の傷あとは、彼が長年にわたる中毒者であることを示していたからだ。しかし彼はもごもごと言い訳を続けた。

(略)

 看守が三十分後に定時の点検にまわってきたとき、スタンは簡易寝台の上に丸まって意識を失っていた。留置場の医師は、その呼吸と脈拍が危険なほど浅くなっていることを見てとり、彼を即刻ハーバービュー郡立病院の緊急治療室に移送した。

 最後に飲んだ一握りのバルビツール剤が、彼の呼吸システムを遮断状態に近いところまで追い込んだのだ。言い換えれば喉を詰まらせて死にかけていたわけだ。医師たちは緊急の気管切開手術をおこなった。スタンの喉に穴を開け、そこから気管にチューブを差し込み、肺に酸素を送り込み、そこから唾液や痰を取り除いた。それらの処置によってスタンは死を免れた。短い縦の傷跡が彼の喉ぼとけの下に残った。その騒動の消えることのない記念品として。

次回に続く。

スタン・ゲッツ 音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 

誕生

[難産だったスタンリー]

赤ん坊の頭があまりに大きかったので、鉗子は彼の耳を危うく切り落としてしまうところだったのだ。(略)

[退院時、耳の縫合料金も請求された父は]

「五十二ドルだって?そいつは高すぎるぜ。赤ん坊は置いていくよ」とアルは軽口を叩き、それから料金を支払った。

ウクライナから

 ゲッツ家もヤンポルスキー家も、一九〇三年にウクライナキエフ近郊をあとにしていた。当時の恐怖に満ちたポグロム(ユダヤ人集団虐殺)から逃れるためだ。(略)

[アルの両親は]あちこちで半端仕事をしながら、苦労してヨーロッパ大陸を西に向けて横切ってきた。二人はなんとかロンドンにたどり着き(略)ハリスはそこで小さな仕立て屋の店を構えた。

(略)

 ファミリーの人々は全員、アメリカに着いたときに、名前をガエツキスからゲッツに縮めていた。ハリスの兄の一人であるネイサンは、その後もう一度改姓をしている。彼はマンハッタン・サード・アヴェニュー高架鉄道の職に就きたかったのだが、そこはユダヤ人を社員に加えない方針だったので、姓をゲッツからハリスに変えた。ネイサンの息子は医師になり、スタンの叔父のベニーにこう言わせた。「おれたちはすべてのユダヤ人ファミリーの夢をかなえたよ。身内に医者が一人いて、そいつはおれたちと姓が違うんだものな」

 両親

[母ゴールティーの異母妹の証言]

 私の父は軽い仕事には重過ぎる人で、重い仕事には軽すぎる人でした。仕事をするのが好きではなく、常にぱりっとめかしこんで(略)女性たちを相手にカード遊びをしました。(略)

ハンサムだったし、ダンスも最高にうまかったから。

(略)

 頭も切れました。打てば響くと言うのかしら。話もうまかったし。私たちは父のことを哲学者と呼んでいました。

ショーティー・ロジャーズ 

[パーティーなどで得た3ドルのギャラをできるだけ両親に渡しつつも、楽器のために貯金]

 テナーを手に入れて間もない頃、彼はショーティー・ロジャーズに出会った。(略)ショーティーは印象深い二人の出会いのことを記憶している。(略)

 

 スタンとは家が近所どうしだったんだが、ブロンクスの〈チェスター・パレス〉でのダンス・パーティーのギグに一緒に呼ばれるまで、顔を合わせたことはなかった。僕らは出来合のアレンジメントを演奏した。カウント・ベイシーとか、グレン・ミラーとか、ベニー・グッドマンとか。譜面をしっかり読まなくちゃならない仕事だ。

 僕はそのバンドでは何度も演奏しており、自分のパートはかなり頭に入っていた。新顔がサキソフォンをケースから取りだしているのを目にして、あれは誰だいと僕は尋ねた。「あれはスタン・ゲッツ、十四歳で、ビル・シャイナーの生徒だ。バンドで吹き始めて四ヶ月になる」ということだった。

 こう思ったね、「四ヶ月だって? 四ヶ月だけの経験でこの譜面を読み込めるわけがないだろうが」。それはまるで、パリの街角でフランス語の新聞を渡されて、四ヶ月後にそれがすらすら読めてしまう、みたいなことなんだよ。(略)

彼がひとつもミスをしないので、僕は仰天してしまった。それから僕らはグレン・ミラーの『イン・ザ・ムード』をやったんだが、彼が立ち上がってテックス・ベネキのソロを吹いたのさ……それがもうサウンドから、何から何までそっくりそのままなんだ。思ったね。「いったいどうなってるんだ、こいつは」って。そのあと『ワン・オクロック・ジャンプ』になり、彼はレスター・ヤングのソロを吹いた。そりゃ、もう完璧にね。

ジャック・ティーガーデン

 ティーガーデンはジャズの師匠だった。そしてまた彼は大酒飲みでもあった。「彼はぼくに右肘の曲げ方[酒を飲む動作]についてずいぶん教えてくれたよ」とスタンは後年、新聞記者に語っている。

(略)
サキソフォンコールマン・ホーキンズトロンボーンティーガーデンは、それまではヴォードヴィルのコミカルな楽器としか考えられていなかったものを、ジャズを表現するための見事な手段に変えてしまったのだ。

(略)
ティーガーデンが七歳でその楽器を与えられたとき、彼の両腕はスライドを一番端まで動かすには短かすぎた。だから彼は唇を徹底的に鍛え、唇の動きだけですべての音を出せるようにしなくてはならなかったのだ。キャリアを通して彼は、七つある標準的スライド・ポジションのうち、身体にいちばん近いところにある三つのポジションしか使わなかった。

 そして彼のダイナミック・レンジは囁きから咆哮にまで及んだ。

(略)

 ビックティーは常に美しいメロディーを作り出した。そしてそこには伝染性のあるスウィング感と、骨の髄にまで染み込んだブルーズ・フィーリングと、天然のリリシズムが付き添っていた。

(略)
 若いスタンに最も深い影響を与えたティーガーデンの芸術的要素は、その後見人の強力なリリシズムだった。

(略)

[ツアー中]ティーガーデンはほとんど絶え間なく音楽セミナーを開催していた(略)

たとえば彼はピアニスト、アート・テイタムの革新的な和声のアイデアに魅せられていた。そしてティタムの最良のソロをレコードから一音一音楽譜に書き取り、それをスタンや他の若手楽団員たちと共に綿密に検証した。

傷つきやすい人間のまま 

 スタンは自分の音楽には自信を持てるようになっていたが、彼自身は怯えた、傷つきやすい人間のままだった。顔つきはいつもクールで、感情を表に出さないようにしていたが、その奥には常に緊張し、びくびくしたスラムの少年が潜んでいた。その少年にとって自分の値打ちを測れるものといえば、ただサキソフォンしかなかった。男性としてのモデル像を誰に求めればいいのか、それもわからない。彼の父親は甲斐性がなく、おかげで自分は十五歳にして旅回りの身になったわけだし、後見人は偉大で心の広い音楽家ではあるものの、ひどい酒浸りだ。そのような環境の中でスタンは「今一緒にいる相手を愛する」ことを選んだ。

スタン・ケントン

[両親と弟をロスに呼寄せ]

 スタンはロサンジェルス近辺で有能なビックバンドのサイドマンとしての評価を急速に高めていった。そしてスタン・ケントンが(略)二人のサキソフォン奏者を徴兵にとられてしまったとき、週給百二十五ドルで仕事しないかとスタンに声をかけてきた。彼は即座に引き受けた。

(略)

ティーガーデンとは対照的に、一九四四年の初めにはケントンの株はうなぎ登りだった。苦難の年月を経たあと、その三十三歳のバンドリーダーにとって、何もかもが順風満帆というところだった。

(略)
 ティーガーデンの美学がアメリカ黒人のブルーズに根ざしているのとは対照的に、ケントンは(略)

一九三七年に一年の休暇を取り、ヨーロッパ音楽のハーモニーを学び(略)[ラヴェルショパン、ワグナー、ストラヴィンスキードビュッシーのモチーフを用いた]

(略)

 ケントンの聴衆に訴える力はますます増大していったが、それはビッグバンド音楽への新しいアプローチが基盤になっていた。そのアプローチは大量の音の上に築かれていた。一九四四年におけるケントンのグループの、平均的なビッグバンドに対する位置関係は、一九七〇年代におけるヘヴィー・メタルの先駆者たちの、平均的なロックンロール・バンドに対するそれと同じだった――音が大きく、熾烈で、パワフルなのだ。そのサウンドは主に金管楽器で構成されていた。咆哮し悲鳴を上げるトランペットの集団、それをがっしり底で支えるトロンボーンの和音。リズムはスウィングするというより叩きつける感じに近い。そしてサキソフォン奏者たちがその音の混合の中で自分の存在を明らかにさせるには、力の限り強く吹かなくてはならなかった。アルト・サキソフォン奏者のアル・ハーディングはこう語っている。「我々はいちばん音の大きなバンドだった。アンプを使っている今の連中よりもまだずっと大きかったよ。そのバンドで演奏するには肉体的努力が必須だった」

 ケントンの指揮スタイルは、バンドのダイナミックな音楽にぴったり相応しいものであり、そのパフォーマンスは現代のどんなロック・アイドルに負けず劣らず劇的だった。(略)

亜麻色の髪で、細い骨張った顔を持ち、両手はきわめて大きく、腕と脚は長い。がりがりに痩せて、身長は百九十センチもある。音楽は彼を活気づけ、動きを熱狂的なものにした。そのビートに打たれたように、彼は跳ね、大股でステージを闊歩し、ひょろ長い四肢はワイルドにくねり曲がった。そして音楽がそのクライマックスに達すると、彼は狂乱の表情を顔に浮かべ、頭をがくんと後ろにやり、まるでフットボールの審判がタッチダウンを告げるときのように両手を高々と宙に突き出しつつ、感極まったうめき声をあげた。

 ケントンは即興演奏家としてはとくに傑出してはおらず、彼の真の情熱は作曲と編曲にあった。フルバンドが彼の楽器だった。彼はジャズをそのいくつかの要素のひとつとして組み込んだ、新しいクラシック音楽を創出したいと望んでいた。そしてダンスをする人々のためにスウィングする音楽を演奏してもらいたいという要望に、いつもいらいらさせられた。彼は記者にこう語っている。

 

ダンスのための音楽ということになると、ガィ・ロンバルドやサミー・ケイやフランキー・カールのバンドが最高だろう。我々のバンドは空気や興奮を創り出すようにできている。我々のバンドはスリルを生むために作られたんだ……

 我々の音楽は音が大きすぎて騒々しいだけだと、したり顔にいうものもいるが、我々の音楽を聴くために雪の中を百マイルも車を運転してやってくる若者たちもいるんだ……彼らはステージのすぐ前に立って、うっとりとした顔で我々の演奏に耳を澄ませている。そういう人たちの顔を見てもらいたい……

 ダンス音楽を演奏するとき、それは常に役目への奉仕になる。そこにあるのは実用性だ。テンポに留意しなくてはならず、人々のことを考えて演奏しなくてはならない。しかし耳を澄ませる聴衆のために演奏するとき、我々は自由になる。

レスター・ヤング 

[ビリー・ホリデイレスター・ヤングにニックネームをつけた]

当時いちばん偉い人はフランクリン・D・ルーズヴェルトだった。そして彼は大統領だった。だから私は彼のことをプレジデントと呼び始めたの。ザ・プレジデント。みんなはそれを縮めて、プレスと呼ぶようになった。

 

 レスターはそのお返しに、彼女にとって終生のニックネームとなった「レディー・デイ」という名を贈った。

 一九二〇年代、ジャズの形成期に、ジャック・ティーガーデンがトロンボーンに対してなしたのと同じことを、サキソフォンに対してなしたのがコールマン・ホーキンズだ。彼はそれまで主にコミカルな効果を出すことのみに使われていた新奇な楽器を取り上げ、それを感情の全域を表現するための手段に変えた。ヤングが最初のレコード録音によって一九三六年に華々しくシーンに登場するまで、ホーキンズの手法がサキソフォン演奏を仕切っていた。既存の決まりごとに対して、プレスは三つの核心をなす分野で挑戦した。ハーモニーとサウンドとリズムだ。

(略)
 ヤングが出てくる前は、即興演奏の中心をなしていた方法は、心地良い音も心地良くない音も含め、和音の派生音を追求していくことだった。そのスタイルの最も偉大な例がコールマン・ホーキンズだ。彼は最初から最後まで連続性をもって、コードの調性上の可能性を徹底して掘り進めることによって、その曲を解釈した。プレスはコードをまったく違うやり方で扱った。彼はコードをそれ自体で完結したものとしては見なかった。むしろそれを、自分が新たなメロディーを創作していくための背景として用いた。コードはもはや建物の中核をなすブロックではなく、メロディックな創作のための枠組みとなった。プレスは、ハーモニーの上に大胆に自分のメロディーを書き込むことで、水平的にコードをまたぎ越えていった。

(略)

 ヤングのハーモニーが行動の支配から自由になったように、彼のリズムはビートの支配からも自由だった。(略)

彼はすべてのものに大いなるスウィングの感覚を吹き込んでいく。しかし絶え間なくビートの置き方を変更させていく。遅らせたり、前にぐいと押し出したり、もそもそと引きずっておいて、正しい瞬間にそれを爆発的に浮上させたり。

 バークレー音楽院音楽学者であるルイス・ゴッドリーブはこのように語っている。

 

 レスター・ヤングは枠を移動させることにかけてはまさに名人だ。彼のソロには、その無数の例がある。強いビートと弱いビートとの差を見えなくしてしまうし、ひとつのビートの強い半分と弱い半分との差を見えなくしてしまう。ワシントンDCのレコード店で彼の演奏する『アイ・ネヴァー・ニュー』を初めて聴いたときのことを、私は忘れることができないだろう。(彼がサード・コーラスの真ん中で、ひとつのビートをこねくり回しているのを聴いたとき)そのレコードは同じ溝を繰り返しているとしか私には思えなかった。

 

一九五〇年と一九五一年にプレスと共演したジョン・ルイスは(略)ヤングのアプローチを明快に要約している。

 

もしあなたが十分に確固としたメロディーの構想を持ち合わせているなら、あなたはその構想の上に、またそれについてくるリズム・パターンの上に、いかなる 和声 (和音)進行をも好きに築いていくことができる。それだけの揺るぎないリズミックな資質がそこにあるなら、間違いなくそれは可能だ。レスター・ヤングは長年にわたってずっとそれをやってきた。彼にはそもそも、和声パターンに頼る必要はないんだ。自分のメロディックなアイデアとリズムだけで、ワン・コーラスを吹き切ることができる。コードはそこにあるし、レスターはどんなコードであろうが常に、それを必要なもので満たすことができる。でも彼が通常の進行に寄りかかることはない。

首席サキソフォン・ソロイスト 

一九四四年の夏にデイヴ・マシューズがバンドを去ったとき、スタンは圧力を強め(略)[ソロを取らせろと]ケントンに詰め寄った。(略)

 スタンの最初のレコーディングされたソロは、一九四四年十二月十九日の米軍放送からのエアチェックで聴くことができる。彼は『アイ・ノウ・ザット・ユー・ノウ』において、ワン・コーラスをテナー・サックス奏者のエメット・カールズと分け合っている。

(略)

スタンの即興演奏は、あたかも荒れ狂う金管楽器の海の中の静かな島のようだ。そして彼のプレス風の軽い演奏のせいで、彼とカールズはまったく違う楽器を吹いているみたいに聞こえる。スタンのソロは、いかにもヤング風の下降する長いフレーズのまわりに築き上げられているが、安定したロジックと、心地良い優美さを具えている。

(略)

一九四五年二月二日にスタンが十八歳の誕生日を迎えたすぐあと、ケントンは彼を首席サキソフォン・ソロイストに指名した。新しい地位に勇気づけられて、スタンはケントンに、ヤングのコンセプトのいくつかを、バンドのアレンジメントに持ち込めないだろうかと持ちかけてみた。ヤングの音楽は単純すぎると言ってケントンが退けたとき、スタンは自分の耳が信じられなかった。単純なのはヤングの音楽ではなく、ケントンの音楽なのだ。そしてケントンにそれがわかっていないことに、スタンは唖然とし、腹を立てた。このバンドでの日々ももう長くはないなと彼は悟った。

次回に続く。