ボブ・ディランという男 その2

前回の続き。

ボブ・ディランという男

ボブ・ディランという男

 

カール・サンドバーグを訪ねる

[64年仲間たちと『オン・ザ・ロード』を再現する旅へ]

 ボブは、冒険をして、それまで自分が歌ってきた人々に会うつもりで旅を始めた。(略)世界は鉄道の制動手や追いはぎやカウボーイや流れ者や密造酒づくりでできているはずだった。しかし旅に出て、ボブはそのなかのたったひとりにしか出会っていなかった。

(略)

ディランたちは、シュガーローフマウンテンのふもとの二百四十五エイカーの土地に住むカール・サンドバーグを訪ねた。森の縁で山羊が草を食んでいた。ボブは車から降り、ひどく驚いているサンドバーグ夫人に自分は詩人であると自己紹介した。それで家に迎えてもらおうと考えていた。

(略)

ウールの格子のシャツに印刷屋がかぶる緑色のサンバイザーという姿で、前庭に立った髭づらのサンドバーグは、正真正銘のアメリカン・タイプというキャラクターをつくりあげていた。彼は人々に伝わる知恵に新しい形を与えて表現しただけでなく、八十三歳の肉体で自身の考えるヒーローを体現していた。

(略)

そこにいるのは、庶民のなかの庶民、山羊を飼う農夫のカール、素朴な口調で話す文学界のキンキンナトゥス、ポピュリストの一株の転がり草だった。本の世界のウディ・ガスリーのように、素朴な格言、ことわざ、そしてウィル・ロジャーズのような言いまわしが彼から溢れ出た。カールは詩人であり伝記作家でありバラッド歌いであり、民俗学者だったが、その前はペンキ屋だったこともホーボーだったことも皿洗いだったことも新聞記者だったことも石炭をシャベルで集める係だったことも無政府主義者だったこともあった。いま、その彼は山羊を飼う農夫であり、多方面においてくだけた虚言家だった。「やあ、おはよう、いったいまたどうして、こんな森の奥に来る気になったかね?」。ディランのなかに仲間の天分を認識しなかったとしても、サンドバーグはやさしいよい人間だった。

(略)

 ディランとおなじように、サンドバーグはいなか風の人間を模写する厚顔の大根役者だった。

(略)

サンドバーグは、強力で珍妙な民間伝承の発掘者、考古学者であり、詩の領域での人類学者であり、人を魅了する蒐集家であり、熱心にアメリカを語ろうとするほかの人々とおなじように、自分とアメリカをひとつのものと見ていた。

 ディランが知ったころには、サンドバーグの作品の評価は低下していた。

(略)

どちらにしても、サンドバーグが書くような真偽の嘘か怪しい話が大好きだった。自分の作品にも、そうしたものがたくさんあったのだ。しかし同時に、サンドバーグの気さくないなか者の演技を見て、考えるところがあったにちがいない。待てよ、いつまでもウディ・ガスリーの真似に執着していると、自分もこうなるのかもしれない、と思ったはずだ。いつまでもおなじ演出を続けた結果がそれだった。百八十歳を越えた偽物のいなか人。

(略)

ボブはサンドバーグに『時代は変る』のアルバムを贈呈したあと、ウディ・ガスリーがずっと応援してくれていることを話しはじめた。サンドバーグはそれを聞いて喜んだが、執筆をする書斎を見せてほしいというボブの頼みには応じなかった。会談は、それで終わった。

『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン

 一九六四年七月、ボブはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに二度目の出演をした。彼の「どうでもいい」という無関心な態度に、フォーク運動の指導者を自認する者たちは脅威を感じた。ボブはドラッグの歌として知られていた「ミスター・タンブリン・マン」を歌うことができないぐらいストーンしていた。はっきりとした離脱は始まっていなかったが、すでに背教者呼ばわりされていた。

(略)

 その夏の終わりごろ、ボブはウッドストックのカフェ・エスプレッソの上階に部屋を借りた。熱に浮かされるように『タランチュラ』を書きつづけ、恍惚が誘導するリリシズムに没頭をした。思いつくとすぐに書かないではいられない性分のディランは、封筒やナプキンやたばこのパックの裏に書いた。また絵葉書や雑誌から破り取った写真や絵画の複製やジャングルが燃えている写真や昔の物売りの写真などを壁に貼り、そうしたものをインスピレーションを得る材料とした。

 八月、『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』が発売された。ボブがどちらのサイドにいるのかをだれかが考えたとしても、彼はもうそこにはいなかった。

(略)

新アルバムは『時代は変る』とただちがうのではなく、その正反対だった。プロテストソングがひとつもないばかりか(略)

「マイ・バック・ペイジズ」では、プロテストソングの放棄が歌われていた。

「悲しきベイブ」で、ディランは政治性と個人性を融合してラヴバラッドの新しい形態をつくりだした。この歌はそれまでの多くの政治的な聖歌(アンセム)より急進的で、それまでのプロテストソングを一面的で卑小なものに思わせた。

(略)

彼のつぎの段階を示すものは、容赦のないヒップスターのスタンスだった。

(略)

 八月、ディランはニューヨークのアルモニコ・ホテルでビートルズに会った。(略)

彼らにマリファナを教え(略)ポールは、名前のもととなった新約聖書パウロとおなじように、予言的な幻覚を見た。「七層になっている。宇宙は……」

 ハロウィンの日はニューヨークのフィルハーモニックでコンサートがあった。このころになるとディランは大量にアンフェタミンを摂取するようになっていた(覚醒剤の使用でもとから持っている妄想症的傾向が強まっていた)。

(略)

 一九六四年の秋には、ディランのレコードが初めてミリオンセラーとなった。ジョージ・ハリスンは外へ出るのをやめてホテルにこもったほうがいいと助言した。ディランは「金持ちロックスターの怪物」になりたくないと抵抗したが、ほかに選択肢はなかった。

(略)

 ボブの新しい一面は、フォークの信奉者たちの気持ちを逆なでした。十一月、アーウィン・シルバーは(略)ディランが自己中心主義の創作活動をおこなっていると批判した。十二月、ポール・ウルフは『ブロードサイド』誌で、ディランをペテン師、偽善者と呼び、ファンを食い物にしていると攻撃した。

(略)

 一九六四年が終わるころ、新しいディランは新しい声で語るための新しい人物像、新しいキャラクターを必要とするようになった。

(略)

[ピーター・スタンフェル談。65年の大停電の時、ディランが言った]

『じつはね、もう曲はつくらないと決めたんだ。本を書きたくてね。だからアンフェタミンをやって、覚悟を決めて本を書こうとしたが、できたのは〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉だった』とね。

フォークの救済者からロックスターへ 

一九六五年の時点でディオンが何らかの形でディランのアイドルのひとりであるなどと考えた人はひとりもいなかった。当時はあきらかになっていなかったディランのポップミュージックへの愛着がわかる。ディオンはディランにとって、希望を象徴していた。

(略)

 ディランはつぎのように言う。「ディオンの声は、アレン・ギンズバーグが五〇年代に――しーんとした静かな時代だ――水素のジュークボックスと呼んだものから爆発するように飛びだしてきた。ばらばらのものを魔法のように――冷静に落ち着いて、大げさにリズムで騒ぎたてないで――、みごとにひとつにまとめ、秘密の言語のように思えることばでいまだ語られていなかった物語をその声で教えてくれた

(略)

 どのようにしてフォークの救済者からロックスターへの変身を果たしたのかについて、ディランは率直に説明する。「フォークをすこし」変えて、「それに新しいイメージと考え方を加え、キャッチフレーズと比喩を新しい決まりと組みあわせると、それがいままでとまったくちがう聞いたことのないものへと進化した……もうあと戻りする気はないし、なんと言われようと引き下がる気もない」

(略)

なぜプロテストを捨てたのかについては、公式化してしまったからだと主張する。「イギリス・ツアーのあと、つくるのをやめた。簡単になりすぎた……パターンになってしまったんだ」。

(略)

 一九六四年、エレクトリックのレコードをつくると決めたとき、どのようなレコーディングをすればいいのか、ディランにはまったくわかっていなかった。プロデューサーのトム・ウィルソンは、フォークのヴォーカルとアコースティック・ギターのバックに、エレクトリックのトラックを加えればよいと考えていた。ウィルソンは一九六五年九月に発売されたサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』で、本人たちに知らせることもないまま、この方法を使用している。彼の最初の考えは、ディランが「朝日のあたる家」を歌うアコースティック・トラックのバックに、ファッツ・ドミノ・タイプのロックンロールのトラックを付け加えるというものだった。

『わたしは別のだれかである』 

スージーに教えられてフランスの象徴派の詩人、アルチュール・ランボーの詩を読むようになった。これも大きなことだった。そして『わたしは別のだれかである』という題の彼の書簡を知った。このことばを見たとき、鐘が一気に鳴りはじめた。ぴったりのことばだった。(略)

そのことばは、ジョンソンの暗い夜の魂にも、ウディの熱っぽい組合集会の説法にも、海賊ジェニーで学んだ歌づくりの基本的概念にもうまくなじんだ」

 別の言い方をすれば、ディランの新しい言語は、神話、寓話、民話、聖書、競馬新聞、漫画本、闇社会の隠語などから成り立っている。そこはベートーヴェンクレオパトラやマ・レイニーやポール・リヴィアやコロンブスやエイハブ船長やアブラハムやイサク、かわいそうなハワードやジョージア・サムが住む世界だ。政治的な歌から寓意的な歌へ移行したディランの新しい手法は、「廃墟の街」「親指トムのブルースのように」「ボブ・ディランの115番目の夢」「追憶のハイウェイ」「トゥームストーン・ブルース」で、それまでとまったく異なる形で示される。なかでももっともみごとな例は、「ジョアンナのヴィジョン」だった。

ニューポート事件の真相

フォークの番犬たちは離れていくディランに襲いかかったが、ディランはそれに負けずに、エレクトリック演奏まで始めた。このことが、一九六五年七月二十五日、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルで起こった大騒ぎの原因だったと言われている。ファンがディランを非難したというあの事件だ。野次が飛び交ったと!それはあくまでお話だ。メディアが、そしてボブ自身が好んでひろめたお話だ。それにもかかわらず、ボブのニューポート事件は伝説となった(ポップ音楽史の聖堂にたいせつに保管されている)。頑固なフォーク純粋主義者の何人かがざわめいたかもしれないが、わたしがその日、実際に聞いたのは、ほとんどがお粗末なPAを怒る声だった。

 会場の大勢の若者は、ディランがエレクトリックに転向し、そして難解で複雑なこの歌をつくったからやって来たのだった。ニューポートは忠実な信者の集まりというより、春休みの雰囲気だった。来場者は主としてビールを飲んでいる大学生で、彼らはラジオで「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞き、ディランがロックンロールを演奏するのを聞きにきていた。

(略)

[バンドと演奏しステージを降りたあと]

ディランはひとりでステージにもどり、アコースティックで「ミスター・タンブリン・マン」と「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を歌った。最後の歌がだれに向けたものであろうと、ニューポートのアンコールでそれを歌うことは、強い主張であり、フォークの仲間たちへのあからさまな別れの挨拶だった。嵐のような拍手と「もっと」と叫ぶ声があったが、ディランがもう一度出てくることはなかった。

(略)

 ステージにいたアル・クーパーは、ブーイングはディランのエレクトリック転向を非難するものではなかったとする。みんなが怒ったのはディランがひっこんだからで、怒りの矛先はディランのステージを切り上げさせた司会者のピーター・ヤーロウに向けられていた。「ブーイングの理由は(略)ディランが十五分しか演奏しなかったからだ。客は金を巻きあげられたと感じた。

(略)

 その夏のあいだに、ニューポートのブーイング事件が伝説となってひとり歩きをはじめた。

(略)

マスコミにそそのかされた一部の若者たちは嬉々としてそれを受け入れた。ディラン自身もそれを煽るようなことをした。

(略)

やがてディランは、この真偽の疑わしいできごとを自分の伝説の重要部分と見るようになった。

(略)

ボブが変わったことを示すのは、エレクトリック転向やサングラスやビートルズ・ブーツといったロックスターの恰好だけではなかった。ボブは自分のまわりに、高級なドラッグやヒップなひそひそ話や悪意に満ちたこきおろしを供給する冷笑的な取り巻きを集めた。こうした意地悪な連中の親玉が、冷酷なウィットを持つ画家、そして最先端を行く遊び人、ボビー・ニューワースだった。

(略)

[アル・アロノウィッツオ談]

刃物のように鋭い独創的なことばでけなして、相手を軽蔑するんだ。彼に徹底的にけなされたあとは、ドアの鍵穴しか出口がなくたって逃げたくなる。彼は、一滴の血も流さずに相手の首を切り裂くことができる男なんだ」

 アル・クーパーによれば、ディランがなりたいと思っていたのがニューワースであり、毎夜、恐るべきふたりのボビーは人格攻撃という邪悪な術を実行していた。

ドラッグ 

 ナット・ヘントフの質問に答えて、ボブは自分について話している。「ドラッグを使うことはすすめない。とくにハードドラッグはだめだ。ドラッグは薬品だ。でもオピアムとハシシとポットはちがうけどね。あれは薬品じゃなくて、すこし心をたわませるだけなんだ。みんなもときどき心をたわませたほうがいいと思う。LSDは使わずにそれをするんだ。LSDは薬品だ――別の種類の薬品だ。LSDはいわゆる宇宙を意識することができる。物体なんていかにばかばかしいかわかるよ。だけどLSDは、きまってる人たちのためのものじゃない。復讐を望む憎悪に満ちた狂った人間たちのものだ。いつも心臓発作を起こしている人用だよ。その使用を赤十字ジュネーヴ条約に追加するべきだね」

 いつものことながら、ボブが、言っていることを本気で考えているのか、ほんとうに考えていることを言っているのか、それはわからない。しかし、話のなかで自分が使っているドラッグの名を避けていることに少々の衝撃を覚える。

「ものすごい勢いのアンフェタミン摂取で、彼はすでに電気を帯びた存在、放射性のある存在になっていた」とアントニアは言う。

イメージは南北戦争復員兵

『地下室』の録音は(略)非常に変則的な形で始まった。ディランは(略)リチャード・マニュエルとリック・ダンコをウッドストックに呼んでいたが、それはふたりを写して『イート・ザ・ドキュメント』のいくつかのシーンに使いたいと考えたからだ。当時のふたりはそのままで、ドッジシティの酒場のカウンターに向かう南北戦争の復員兵に見えた。そしてふたりのその姿は、ディランのつぎの段階、時間旅行の段階にぴったりだった。

 ディランは『ボブ・ディラン自伝』で、南北戦争はすべてのものの中心だと書いている。(略)

やがてホークスのほかのメンバーもウッドストックに集まり、南北戦争にとりつかれたディランに合わせて、南北戦争復員兵の銀板写真を下敷きに意識的に自分たちのイメージをつくりあげた。彼らはのちにザ・バンドとして、ロック・ミュージックに大きな変革をもたらすことになる。

(略)

[ビッグ・ピンクと呼ばれる家での]

レコーディングは単純なきっかけから始まった。「振りこみの金」(印税)が底を尽きはじめ、グロスマンはディランに言った――ツアーをせずレコードも出さないなら、曲をつくってデモテープをつくり、それを売るのだと。ディランは一九六九年後半、『ローリング・ストーン』のインタヴューのなかで「いや、あれは自分用のデモテープじゃなかった。曲のデモだった。せっつかれていたんだ..…曲をつくれって。そういうことってよくあるじゃないか」と言っている。

 実際、グロスマンはそのときの曲を売った。主な売り先はイギリスで、ジュリー・ドリスコールは「火の車」をカヴァーし、マンフレッド・マンは「クイン・ザ・エスキモー」をヒットさせた。ディランのデモテープを聞いたマンフレッド・マンは「このへたくそな歌手はだれなんだ?」と訊いたという。史上初のブートレグ・アルバム『グレイト・ホワイト・ワンダー』に収められた曲のほとんどは、このときのデモテープからのものだった。

 (略)

ディランとザ・バンドたちは、「サイケデリックのたわごと」もロックもプロテストもフラワー・パワーも否定した。

(略)

民話や伝説や歴史といった時間を超えたもののなかにひきこもっていた。ロビー・ロバートソンは「ぼくたちは反抗に対して反抗していたのだ」と言う。

(略)

ディランは過去と現在の時間が放つ微細な周波数をとらえて、受信したものを増幅させる名人なのだ。言い伝えや警察の事件簿やコーヒーショップのカウンターやバス停留所で洩れきいた会話。かつては六〇年代の火花を散らすエネルギーを活力にした彼が、今度はアメリカのことばが積み上げられた土まんじゅうを創作の源とするようになった。

 民間に伝承されたもの(略)には新世界のさまざまな経験がこめられている。ディランは狂った夢の本から恨みや守られなかった約束や盗まれた馬をとりだし、さらにタイニー・モンゴメリーというように地名の擬人化をおこなった

(略)

 音楽を通して仲間とエネルギーを交換しあう。だれもが意識的に聞いているのではなく、ただ自身の歓喜のために演奏する。(略)

[ディラン談]

「あれが、本来のレコーディングのあるべき形だ。だれかの家の地下室で、落ち着いたなごやかな雰囲気に包まれて演奏する。明かりとりの窓から気持ちのいい風が入ってきて、犬がかたわらで寝そべっている」

『ジョン・ウェズリー・ハーディング』 

最重要曲は「見張り塔からずっと」で、ほかの曲はこの曲を中心に回っている。聖書に関連する表現、終末の日の戦慄によって、この曲は、最後の審判の日が切迫しているというティーネイジャーたちの独我論的幻想のテーマ曲となった。

(略)

ジミ・ヘンドリックスはディランの凶兆の感覚をみごとにとらえ、それを増幅させ、冒頭の吠えるようなコードはことばに電気を帯びさせ、恐怖を導き出す。ディランは不吉な警告にあわせて威嚇のリズムをつくるうちに、意図せずして初めてのヘヴィ・メタルを創出していた。

(略)

 ディランはつぎつぎとカメレオンのように変身し、わたしたちにはもはや、どのディランがほんとうのディランなのかわからない。やがてディランは、高く張った綱の上で保護ネットもなしで、このいくつものディランをお手玉のように投げてはつかむを繰り返す。(略)わたしたちが知らなかったのは、彼がジャグルしているのはわたしたちだったということだ。

次回に続く。

ボブ・ディランという男 デイヴィッド・ドールトン

ボブ・ディランという男

ボブ・ディランという男

 

故郷ヒビング

 弟のデイヴィッドが誕生した一九四六年、父のエイブはポリオに感染し、スタンダード・オイル社の事務所長の職を失った。一家は北の鉱山の街、ヒビングに移る。ビーティの両親が貧しい親戚を受け入れ、一家は彼らとともに暮らす。ビーティは社交的なタイプだった。彼女の実家はショービジネス関係の仕事をしていて、ハワード・ストリートにある映画館と地元のラジオ局(WMFG)を所有していた。

 父親のエイブは無口で陰気でうちとけない性格だった。つねに恐れられる存在でもあった。エイブはいくつもの点で、このあとディランのマネジャーになる気難しくて陰気で冷笑的なアルバートグロスマンに似ていた。一九六八年にエイブが他界したあと、ディランは「最後まで父と知り合うことができなかった」と語っている。

 ミネソタ州ヒビングは、世界最大の人造の穴がある場所だ。(略)

鉄鉱石を求めて強引な掘削を続け、おとぎ話の村のように自らをむさぼりつづけた。五〇年代に鉱石は尽き、同時に雇用は消えて不景気に陥り、その後ヒビングが完全な回復をみることはなかった。

(略)

 エイブは義理の兄弟が営むマイカ・エレクトリックの共同経営者となり、五〇年代の電化ブームにのって収入を増やした。

ジェームズ・ディーン、エルヴィス、マーロン・ブランド

教師たちが事実と年号から成る歴史を教えても、彼は受け入れなかった。歴史の勉強を拒絶した。以降、「歴史のなかに見るべきものはない」が、彼の基本的な考え方になった。『プラネット・ウェイヴズ』の最初のライナーノーツでは、「歴史は、真実でない!」と書いている。

(略)

 一九五三年の元日は、ハンク・ウィリアムズ死去の日となった。ヒルビリー界のシェイクスピア(二十七歳だった)は、酒とドラッグの過剰摂取により自分のキャデラックの後部シートで崩れ落ちていた。

(略)

ボビーが最初に集めたレコードはハンク・ウィリアムズの78回転盤だった。「彼の声が電気棒のようにぼくを貫いた」。まもなくして、ディランは音楽と曲づくりに熱を入れるようになる。彼はハンク・ウィリアムズをアメリカの伝説の民間記録者とみて、やがて自分にもおなじ役割を課す。

(略)

一九五五年九月(略)ジェームズ・ディーンが死んだ。(略)

十四歳だったボブは、ディーンのポスターや写真や雑誌の追悼号を集めた。

(略)

[一年後プレスリー登場]

ディランのエルヴィスへの執着が始まる。(略)

「エルヴィスは……なにごとも可能だった開かれたアメリカで、神のいる場所と大自然のあいだの道を歩いた。商業主義の申し子としてではなく、燃えあがるような激しさで人々を音楽的に扇動する一匹狼として、西洋社会を征服した」。ディランにとっての「ザ・ジプシー」、つまりエルヴィスとは一種の魔法の使い手であり、ゴスペル、ポップ、R&B、カントリーといったアメリカの穀物を蒸留して酒をつくる真の意味での人々のヒーローなのだ。

(略)

 ディランは反逆者のお手本を蒐集しはじめ、貨車に載せたバイクにまたがって写真のポーズをとった――バイクと異常だけれどかっこういいマーロン・ブランドのように。

ディンキータウンのコーヒーハウス

 ディランはフォーク界を見渡して地方出身のアイドルたちをさまざまな形で組み合わせた。耳がよくて、とくにくだけた言い回しやアクセントや地方独特の発音のしかたを真似るのがうまいことが役に立った。そうすることでそれを使っている人たちを魔法で呼びだそうとしているかのようだった。

(略)

そのころのフォークとは、組合の歌、黒人霊歌、アパラチアのバラッドだった。こだわりのないディランは、ソニー・テリーやブラウニー・マギーのサウンドにゆっくりとバディ・ホリーの要素をとりこんだ。いっときは、当時のディンキータウンのフォークヒーローだった“スパイダー”・ジョン・コーナーを真似ることもした。ディランはこうしたフォークタイプの人物像に憂愁を混ぜあわせ、バイロン流の悲哀をまとって歩いた。

(略)

黒のコーデュロイのダッチボーイ・キャップ(略)にもルーツがある。(略)『罪と罰』の挿絵のなかで、ラスコリニコフがそういう帽子をかぶっていたのだった。

(略)

 ディンキータウンのコーヒーハウスで、アメリカ各地に伝わるさまざまな発音のしかたをカメレオンのように真似て、新しい人物像をつぎつぎと練習した。

「ソング・アンド・ダンス・マン」

 一九六一年のギャスライト。(略)

いなか出の少々奇異な感じのする若者。ダッチボーイ・キャップ、機関士の縞シャツにブルージーンズ、バイク用ブーツ

(略)

[スージー・ロトロ談]

「わたしは彼のことを、古風で冴えないけれど、なぜかかわいいと思った。ジーンズもシャツもくしゃくしゃで、暑いのにいつも黒いコーデュロイ帽をかぶっていた。いたずらっ子のようで親しみやすいハーポ・マルクスを思わせたが、同時に軽く受け取ってはいけない一途なものを感じさせた」

(略)

[デイヴ・ヴァン・ロンク談]

ステージの上の彼はものすごくひょうきんなやつだった。ステージ以外では、おもしろいやつだとは思われていなかったけれどね。チャーリー・チャップリンの小さな男に似ているとしか言えないようなキャラクターだった。よく動くパフォーマーで、じっとしていることがなく、話も動作も落ち着きがなかった。ひとこと言って、ひとりごとを呟き、口のなかでもぐもぐと何かを言い、またひとこと言い、ギターをバンと鳴らす。とくにタイミングの感覚がすごかった。不器用で落ち着かない感じを演出して、ハーモニカラックやそのほかのものをいじったりして、ひとことも発しないで客を大笑いさせることができた」

 彼の演技は、ヴォードヴィルに近かった。(略)「ソング・アンド・ダンス・マン」と自称しているのは、そういう意味だ。これは演出だったが、ミンストレル・ボーイというキャラクターは、それ自体がアメリカの民間伝承のひとつだった。

ほら吹きディラン

一九六一年一月、二十年ぶりの大雪の日、ディランは(略)グリニッチヴィレッジに到着した。(略)

ハックルベリー・フィン顔負けの冒険話をいくつも練り上げて持っていた。(略)

北西部の大自然のなかできこりをしていた、ミネソタで蒸気掘削機を操作していた。強盗の容疑をかけられて逮捕されたことがあるし、ブラインド・レモン・ジェファーソンの墓へ行ったこともある。四人のホーボーといっしょにミシシッピー川のワシントンアヴェニュー橋の下の土手で暮らし、ナッシュヴィルジーン・ヴィンセントとジャムをし、ボビー・フリーマンの「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス」に参加し、ボビー・ヴィーのバンドでピアノを弾いたと言った(すくなくとも最後の話だけはほんとうだ)。

(略)

 「嘘だとわかっていても楽しめた」。ヴァン・ロンクは言う。「たとえばある夜、ボブは一時間ぐらいかけて、みんなにインディアンのサインランゲージの使い方を教えた。話をしながら創作していたのだと思うが、それでもすごくうまくそれをやったんだ」

(略)

当然辻褄が合わなくなり、周囲のだれかがかならず嘘を嗅ぎつけ説明を求めてくる。しかしいつも素速いディランは完璧な逃げ道を用意している。(略)

だれかが嘘を見破りそうになると、ハーモニカを吹いて話を打ち切る」

残忍なフォークソング

 ディランの初期のレパートリーには暗いテーマの歌がたくさんある。

(略)

「あのころはサン・ハウスやレッドベリーやカーター・ファミリーやメンフィス・ミニー、それに死への憧憬を歌ったバラッドを聞いていた」とディランは言う。

(略)

 やがて、プルースやフォークの伝説上の人物が大勢、再発見されることになる。レコードの音からは、彼らが大昔の人たちであるように思えた。しかし彼らのほとんどが、大ホテルのエレベーター係をしたり、鉱山や製材所で働いたり、ハイウェイ61で給油をしたりして、元気で暮らしていることがわかった。

(略)

「昔のカントリー・ブルースのシンガーはもう死んでしまっている。だれもがそう思っていた。大恐慌のあとはいっさいレコードがなかった。一九六三年にふたたびブルースが流行りだした。

(略)

ふたりは南部へ逃げて、ミシシッピー州アヴァロンという街へ行き着いた。男のほうが、ジョン・ハートの歌にアヴァロンが故郷という歌詞があるのを思いだした。そこで街のドラッグストアに行き、ハートのことを知っている人がいないかと訊いた。店の男は『そこを歩いている、そこだ』と言った。そしてハートの歌も前とおなじようによかった。たくさんのカントリーブルース・ファンは『えっ!?』と驚くと同時に南部へ向かった。電話帳がとても役に立つのがすぐにわかった。『ブッカ・ホワイトはどこの出身だったけ? ブッカー・ホワイト、あったぞ!』という具合にね。

(略)

 南部の山岳地帯の人々の暮らしは、聖書のなかの物語や神話のように謎めいている。

(略)

南部の山でのドック・ボッグスの暮らしは、暴力的で突発的で気まぐれだった。流血の争いがあり、強姦があり、赤ん坊殺しがあり、自殺があり、身の毛のよだつたことがあった。彼らは人を殺すがために殺す。そして七〇年代になっても、まだその状況があった。

(略)

フォーク愛好者たちが育った清潔な郊外住宅地の社会では、遭遇するもっとも劇的なできごとが不倫と横領と酒酔い運転くらいでしかなかった。

 地方のフォークの世界には、奇妙で魅力的なさまざまなタイプの人間が集められている。ずっと純粋だった時代、人間性の黄金期からの伝説となった非凡な人たち。汽車の制動手や鉱夫や騾馬追いや密造酒づくり、山賊、罠猟の猟師、保安官、鉄道の保線手、機関士、税務取締官、鉱山探鉱者、流れ者、密売人が生きているフォークの世界では、変わり者たちが大きな存在感を放っている。さらにその世界には、知ってのとおり、かなりの数の殺人者や放火犯や強姦犯や猟奇魔がいて、黒いビニールのなかに閉じ込められている。

(略)

フォークソングには、残忍で恐ろしい内容のものが多い(略)

「プリティ・ポリー」では、男が結婚の約束をして若い娘を誘惑し、娘が妊娠したあと、掘っておいた墓穴に誘い入れて殺す。「ラヴ・ヘンリー」では、女性が不実な恋人を毒殺し、それを見て騒ぎだした鸚鵡まで殺そうとする。おかしなことに、こうした歌がやがて、均質化され甘く無害な新しいポップ曲の仲間入りをした。

(略)

ブルックス・ブラザーズボタンダウンシャツにチノパンツのいでたちの健全な優等生タイプの連中が、甘い味付けをしたフォークソングをつぎつぎとポップチャートに送りこんだ。常識的で洗練された退屈な連中。

(略)

こぎれいな身なりの男子とペチコートでふくらませたスカートの女子が、古くから伝わる災いと破滅を載せた物語を歌っていた。

第二期フォーク・リヴァイヴァル

 一九六一年、ボブ・ディランがやって来たときのヴィレッジのフォークシーンは、第二期のフォーク・リヴァイヴァルの真っ最中だった。

(略)

フォーク復興運動(第二期の)正式なメンバーたちは、金儲け主義の決まり文句とはびこる偽善のアメリカの主流の物質文明を軽蔑したが、やがて自分たちのひとりよがりの陳腐な常套をつくりだした。彼らの信条のなかでも、もっとも大きなまちがいは、フォークソング聖典であるかのように、形をすこしも変えてはいけないとしたところだ。そしてこのことから転じて結果として、それぞれの曲のもっとも古いヴァージョンを探すという誤った探索がはじまった。

(略)

 フォーク派とは基本的には、失われた牧歌的なアメリカをみつけようとするロマンに満ちた運動だった。そのアメリカとは、彼らの両親や祖父母たちが破壊した、あるいは逃げ出そうと必死になっていたアメリカだった。

「フィル・オクスが現れた当初、すごくいやだった」。ピーター・スタンフェルは言う。「ギャグのように思えたんだ。それにぼくは当時のフォークの状況に怒りを感じていた。ぼくから見るかぎり、ニューヨークのフォークシーンには(略)金持ちの子弟が集まっていた。

(略)

 フォーク興隆の本質とは、郊外に住むミドルクラス出身の大学生と昔の左翼がいっしょになって抱いた幻想、かつての農村生活へのあこがれだった。

ウディはわたしの最後のヒーローだ 

ディランは、やせっぽちの家のない子と古典的なホーボーのふたつのイメージを交互に見せて、さびついた厭世的な声で陰惨な死にとりつかれたバラッドを歌った。彼のひきのばされた発音は複数の音節にまたがり、音節を強めたりたわませたりした。フォーク/ブルースの表現法の考古学博物館のようにさまざまなテクニックを使い、その発音は、シナトラのように個性的で感情を効果的に伝えた。

(略)

スージー・ロトロは言う。「ボビーはいつでもどこでも、大勢の人がいる騒がしい部屋のなかでも、ふたりきりでいるときでも、自分のなかにひきこもることができた。わたしはたびたび、彼の心がどこかに行き、しばらくしてもどってくるのを眼にした。

(略)

夜を明かして書いたりタイプを打ったりギターを弾いたりして曲をつくった。一日に二曲を書きあげることもよくあった。その方法は音のコラージュとも言えるものだった。聞こえてきた会話や新聞記事や聖書の比喩や映画の台詞をうまく使って「ことばやフレーズを書きつけ」、それらを通常の口語体の音楽に合わせる。

 (略)

 

ディランはほかのフォーク愛好者とおなじように、フォークミュージックをアメリカの神秘に満ちた魂に至る鍵と考えていた。しかしほかのフォークシンガーとちがって、自身がアメリカの魂が織りなす物語の一部となることをためらいはしなかった。

 この初期のディランの姿――列車でさまざまな土地へ移動をする一昔前のホーボー、砂嵐の中西部から来た歌う少年――、これこそが彼の最大の創作のひとつだった。

(略)

ディランは言う。「ウディはわたしの最後のヒーローだ。世界でいちばん、偉大で清らかで敬虔な人だ」。強欲と偽善の世界の真ん中で、十代のボブは真実の存在を、絶対に腐敗していない人をみつけなくてはならなかった。それがウディ・ガスリーだった。

(略)

 ウディとの面会は異様だった(略)生きた蝋人形、人がやって来て話しかける偶像だった。

(略)

ディランが主張するところによれば、ウディ・ガスリーは「ピート・シーガーフォークソングを歌うシンガーだ。ジャック・エリオットもフォークソングを歌うシンガーだ。しかしボビー・ディランはフォークシンガーだ。そう、フォークシンガーなのさ」と言ったのだった。

 ガスリーのマネジャーのハロルド・レヴェンタルは「ウディは会いに来ただれとも口をきいていない。そのころにはだれとも会話をしなかった。できなかった」と言う。

(略)

ディランによる再現のすごいところは、自分とウディの混交体を創造したところだ。

経歴詐称を暴かれる 

「つぎに出てきたのが『ニューズウィーク』の記事だった。エミリー・コールマンの署名記事で『この新進の革新的人間の本名はボブ・ジマーマンで、その父親はミネソタ州ヒビングで家庭用品店をやっている』といったような内容だった。

(略) 

[それは]単なる中傷以上の被害をもたらした。(略)

コールマンは皮肉をこめてディラン風に、「彼は苦しんだ。どうにか生きてきた。食べ物もなく、恋人もなく、ただ心のなかでよこしまな種を育てながら」

(略)

プロテストシンガーにとってもっとも大きな打撃となったのは、彼の窮乏生活が嘘だったという点だったろう。コールマンは、ディランの聞き手の大半は郊外に住む中産階級の子弟であり、彼らは彼の貧しい育ちにうらやましい思いを抱いていると書き、しかしじつはディランもまた彼らとおなじぬくぬくと子供時代をすごした中産階級の子なのだとすっぱぬいた。

(略)

[コールマンに本名を確認され]

ディランは即座に否定し(略)「このカードを見てくれ。ほら!ボブ・ディランと書いてある」と証明のために徴兵カードを見せた。たしかにその時点での彼はボブ・ディランだった。一年前に法律上の改名をして、ボブ・ディランになっていたのだ。

 コールマンは両親に関する嘘についても暴きにかかった。そこまで追及されたなら、もうすこし発言に気をつけてもよさそうなものだが、ボブはそうしなかった。無謀にも嘘を押し通そうとした。(略)

両親には何年も会っていないと断言した。まったく連絡をとっていないと。コールマンは、それをしらじらしい嘘と指摘した。コールマンがディランと話をしている数ブロックさきのモーターインには、エイブとビーティ・ジマーマンが滞在していた。(略)その夜に行われるカーネギー・リサイタル・ホールのステージを見られるよう、ボブがふたりに航空券を送ったのだった。

(略)

 父親のエイブ・ジマーマンは、孤児でインディアンやサーカス芸人に育てられたという話に激怒し、つぎのように言った。「息子はひとつの企業のようなもので、彼が打ち出しているイメージは脚色によるものだ。それを知ってわたしたちは心おだやかではいられなかった。いまも落ち着いてはいない。だがすべては演出の一部なのだ」

エリオット・アドノポス 

「ある日の午後、ボブはカフェ・フィガロで、ジャック[エリオット]がユダヤ系だという事実を知った。バリー・コーンフェルドがいて、あと何人かがいた。みんなでばか話をしていたとき、ジャックがほんとうはオーシャン・パークウェイ育ちでエリオット・アドノポスという名だという話になった。ボビーはほんとうに椅子から転がり落ちた。床で笑い転げて、落ち着いて立ち上がるまで何分もかかった。そのあと、こういうときにはすごく悪いやつになるバリーが小声で『アドノポスだって』とボビーに言ったら、ボビーはまたテーブルの下に落っこちたよ」

 ユダヤ系で名前を変えていて、しかも自分とおなじように自己イメージをつくっているミュージシャンがほかにもいる。このときのディランはそれを知って驚き、そして笑いだした。

(略)

 アメリカにおいて、アウトサイダーでいるのはよいことだ。しかしアウトサイダーとして生きるには、正直でなくてはならない。ディラン初のポップの傑作「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、そういう歌だ。ヒップスターの物語を綴る歌詞は、徹底的に体制順応を要求し、貪欲な口で人を飲み込むアメリカ文化に対するアウトサイダーの倫理的主張を歌っていた。 

次回に続く。

建築史的モンダイ その2

建築史的モンダイ (ちくま新書)

建築史的モンダイ (ちくま新書)

  • 作者:藤森 照信
  • 発売日: 2008/09/01
  • メディア: 新書
 

茶室は世界にも稀な建築類型である

 現在につながる茶は(略)鎌倉時代禅宗の僧たちが中国から入れた。(略)

今日の茶道からみると、ずいぶん無骨で、簡単で、いってしまえばただグイと飲むだけ。

 ビタミンCの補給とか、眠気ざましとか、覚醒作用とかが期待されたのだろう。

(略)

精神的、文化的なエリートの習いとして喫茶ははじめて日本に定着したのである。

(略)

彼らの赤子のようにナイーブな肉体と脳神経細胞にとって、覚醒剤そのものであったにちがいない。喫るとえらくハイになることができた。(略)

 そんな薬効顕かなるブツを、時代の遊び人たちが放っておくわけがない。

 その名も「バサラ大名」たちである。

(略)

 仲間が集り、茶を飲むのだが、ただ飲んでもつまらないから、出された茶の産地を当てて楽しむ。産地当てだけではつまらないから賭けをする。バクチとしての茶にほかならない。当時、これを闘茶と呼んだ。(略)

美術品それも舶来の超高級美術品を賭ける。

 バサラ大名として名高いのは佐々木道誉(高氏)で、道誉は派手なファッションをまとって都大路をのし歩き、朝廷に対しては乱暴狼藉の限りを尽くしているが、同時に和歌、連歌に秀でる当代一の文化人でもあった。歌だけでなく絵画や陶磁器にも目が利き、明国から続々と入ってくる唐物と呼ばれた美術品を買い付け、自慢していた。

(略)

会所と呼ばれる部屋で、闘茶は行われていた。(略)

南の庭に面して設けられ、三間四方の九坪を基本とする。これを九間[ここのま]と言う。

(略)

[もうひとつの別の場所が]

文学性と精神性を求める隠者たちや世捨て人たちが都の郊外に建てて住んだ草庵である。(略)

四畳半の囲炉裏で湯を沸かし自分で茶を点てて喫んだ。

(略)

日本の家のなかに、まず九間が出現し、ついで四畳半が取り込まれた。

(略)

やがて、会所で行われていた闘茶の時代が終り、茶は賭け事でなくなり、ふつうの文化的楽しみとして茶会(茶寄合とよばれた)が開かれるようになる。

(略)

九間の会所にはじまった茶の空間は四畳半の茶室に行きついた。

(略)

会所の茶会での闘茶と草庵の一人茶が合流した。少数の客を招き、主人が茶を点てて深く味わいながら、道具と書画を鑑賞する。寂びた文学性と精神性は草庵から、芸術鑑賞と茶の深い味わいは闘茶から

(略)

四畳半は、中心に火を置くと、四人が入ることができる。火の周りに四人が座す。起きて半畳寝て一畳。四人が寝そべることもできる。四角形の中に四つの起臥が納まる。

(略)

[会所では]使用人が別室で点てて運び、給仕した。

(略)

草庵は独居だから、囲炉裏の前に座って自分で点てて自分で喫むしかない。道具の選択も、室内のしつらいもすべて自分でやる。そして、そこにたまに親しい友が訪れるとなると、友の顔を思い浮べて茶碗を選び、花を切り、軸を掛け、とっておきの茶を出して、歓待する。心から歓待する。

 こうした草庵の一人茶のあり方が、四畳半の茶室にも導入された。招く側と招かれる側ははっきり分れており、亭主は一人、客は一人もしくは数人。茶の空間は一人の亭主が設定した世界であり、少数の客はそこに入って亭主の世界を味わう。

茶室における炉の存在とは

[茶室開きをやる煎茶家元が“炉は切ってくれるな”と注文]

炉は煎茶のカタキ。

(略)

 まず、抹茶が入ってきた。(略)

 では、煎茶はいつどこで発生したのか。

(略)

形式化し幕府や朝廷とつながる茶道を批判し、高雅な文化性と市民的自由を求める茶の流派として煎茶が出現したのが江戸中期

(略)

煎茶の家元がカタキとするということは、利休が完成させた侘び茶の草庵風茶室の本質は、その空間的核心は炉にあるのではないか。

(略) 

 冷静に考えてみれば、一坪強の空間にわざわざ炉が切ってあるなんてヘンだ。

(略)

[侘び茶は]広い座敷をわざと狭くするのと併行して、炉を切ることを始める。

 炉を切るには二つの意味があったと思う。一つは、主人が自ら点てる。使用人に運ばせるのはやめ、主人が点てて客に出すことで主・客だけの場が生れる。しかしこのためならコンロの持ち込みでもよかったはずだ。侘び茶にも風炉という移動式の炉があって、冬は炉、夏は風炉と使い分けている。

(略)

上を見上げれば、ススケた丸太梁がクログロと架かる。(略)都市の上層の家の中で、炉やカマドのある台所だけは農家の作りになっていたわけである。

(略)

 炉があって火がある空間としての台所は、田舎の農家へとつながり、農家の建築はさらにさかのぼると縄文時代の竪穴住居へと抜ける。

(略)

利休は、茶室に確信犯として火を持ち込んだ。そのために炉を切る必要があった。お茶という上流階級の洗練された文化的行いの中に、利休は、火を投げ込んだのである。

ガラスは「石」でありえるか? 

産業革命。手吹きから機械吹きへと変わり、[ガラスの]大量生産が可能になる。(略)

[しかし]建築家の反応は意外に鈍く、窓を少し広げる程度にとどまり、ガラスをテーマにして果敢なデザインを展開したりはしなかった。

 ガラスと真正面から取り組んだのはイギリスの植木職のおやじのJ・パクストンである。鉄筋コンクリートを発明したのはフランスの植木職のモニエおやじであったが、今度も建築家は植木職人に遅れをとってしまった。

 植木職人出身のパクストンは、植民地から運ばれてきたヤシの木をはじめとする珍しい熱帯植物を冬も育成しようと企て、安価に出回りはじめたガラスに注目し、鉄骨の骨組の間に板ガラスをはめ込んで今日の温室を作り上げる。これが一八四〇年頃のこと。(略)

一八五一年にはその名も水晶宮と呼ばれる史上に名高い万博会場をロンドンに完成させ、ガラス建築の無限の可能性を技術上も表現上も明らかにしてみせるのだが、建築界の反応はごく一部を除いて相変らず鈍い。

(略)

イデオロギーが邪魔した。

 一九世紀の建築家の頭んなかには、美の典範として、ギリシャ、ローマやらゴシック、ルネサンスやらがギッシリ詰まっており、ガラスの入る余地なんてなかった。(略)

[ようやく]

一九一四年、ケルンにその名も〈ガラスの家〉が作られる。設計したのは、日本人にはなじみの深い若き日のブルーノ・タウト

(略)

 日本でのタウトは二重に誤解されていると言わざるをえない。一つは、“桂離宮の発見者”という伝説。 いくらなんでもこれは間違いで、タウトなら理解するだろうと当時の京都の若い建築家たちが日本上陸翌日に案内し、予想通りに喜んでくれただけのこと。日本のタウトファンのもう一つの誤解というか無理解は、タウトの世界建築史上での仕事についてまるで知らないこと。桂離宮の啓蒙よりもっと重要な決定的業績を残しているのである。

 それが〈ガラスの家〉。

(略)

タウトには申し訳ないが、模型を見るまで、パクストンの温室との本質的な差をちゃんと認識していなかった。

(略)

 模型を見て驚いたのは、まず、色。温室のように透明ガラスがはまっていると思っていたが、間違いで、黄色を中心に青や赤や紫の色ガラスが使われ、室内には色付きの光があふれていた。原始人でなくとも、一歩中に入れば、極楽じゃないかと疑うほど。鉄の回り階段をグルグル回りながら、五彩の光の中を上昇してゆくのである。

 もう一つ驚いたのはガラスブロックの存在で、一階の外壁にグルリと積み上げられているばかりか、二階の床もガラスブロック。

(略)

[なぜ色付きガラスとガラスブロックなのか]

“ガラスを薄い石として見ていた”

から、と私は推測している。

(略)

二〇世紀の建築家は、ガラスを前に、一つの問を問われた。ガラスとは、そこに何もないと考えるのか、それとも、水晶のような透明な薄い石があると考えるのか。

(略)

 タウトとミースの答は、ガラスは石の一つ。グロピウスの答は、ガラスは何もないと同じと思った。

 ガラスは水晶のような透明な石と同じと考えたタウトは、ガラスの実在を視覚的に明らかにするため、色を付けた。色付き水晶のように。

(略)

タウトの石としてのガラスは、ミースに引き継がれ、ナチスに追われてアメリカに渡ったミースは、水晶のように透明でありながら味わい深いガラスの超高層ビルを作りあげる。同じくアメリカに亡命したグロピウスは、一見ミースと似ているが、薄味で深みの感じられないガラスの超高層ビルを手がける。

 日本の超高層ビル の大方がどっちの系統に属するかは言うまでもない。

奈良の都に煉瓦が!? 

 幕末に開国して西洋館が入ってくるまで、わが日本列島には煉瓦造の建物はなかった、ということになっている。

(略)

[だが、煉瓦自体は]

一度、入っているのだ。それ奈良の都に。戦後、平城宮の遺跡が発掘されるようになってはじめて明らかになったのだが、宮殿の主要な建物の基壇に使われていた。

(略)

 奈良の都に中国から煉瓦が入ってきた時、一緒にもう一つ日干し煉瓦も入ってきたのではないかと疑っている。

(略)

法隆寺の近所を歩いていた時、戦前に造られたとおぼしき崩れかけた作業小屋の壁に日干し煉瓦が積まれているのに出くわした。ちゃんと四角に成形されていない大きなダンゴ状のシロモノだが、これも日干し煉瓦にはちがいなく

(略)

[さて]

どうして、日本の建築は木造一本槍になってしまったのか。世界的に見るときわめて特異な現象というしかないのだ。

 ギリシャのかの神殿のスタイルが木造起源であることから分るように、地中海沿岸地域は元々は木造だったが石造へと変った。ポルトガルとスペインは大航海時代に船用の木を伐りすぎて森を亡ぼし、木造建築を捨てざるをえなかった。イギリスは、産業革命の初期に製鉄用木炭を得るためとロンドン大火の後に不燃の煉瓦造建築を推進するため、森を食い尽くした。

(略)

 世界の建築の変化は、木造から煉瓦、石造へと決っているのに、どうして日本だけは煉瓦が根付かず木造を続けたのか。

打放しコンクリートの父

 日本の戦後建築界は打放しと共にあった。(略)

[磯田光一さんは二十年近く前]

打放しコンクリートが日本の私小説の伝統を終わらせた。と断言しておられた。たしかに、硬く乾いてザラザラした打放しの肌には、湿った私小説のとりつく島はない。

 二〇世紀後半を象徴するといってかまわない打放しは、しかし、長い鉄筋コンクリートの歴史の中では、最後に生れた鬼っ子みたいなものなのである。(略)ずっと、コンクリートは石や煉瓦やタイルで包まれるのが決りだった。

(略)

コンクリートのままでは肌はザラザラボコボコ、そして何より顔色が悪い。灰色なのだ。こんなもんを誰が表に出すか。

(略)

突破口を開いたのは理論だった。理屈の力。二〇世紀に入ると、機能主義、合理主義、科学主義が叫ばれるようになり、実用性を持たない装飾的なものが建築から取り除かれてゆく。まず脱ぎ捨てられたのは、やれギリシャだゴシックだルネサンスだといった歴史的スタイルで、次がウネウネクネクネしたアール・ヌーヴォーなどの装飾。

(略)

 理論に背中をどつかれて、アバンギャルドな建築家たちが、様式と装飾を捨てた後にも、どうしても脱げない最後の一枚がコンクリート構造には残った。打ち上げた後、ザラザラの地肌に白い漆喰を薄く塗らないと落ち着かない。

(略)

建築界に広く影響を与えるような打放しを世界ではじめて試みたのは、

 オーギュスト・ペレ

にほかならない。打放しコンクリートの父として二〇世紀建築史に輝くフランスの建築家である。

 はじめペレおそるおそる打放しをはじめている。一九〇三年完成のパリのフランクリン街のアパートの建設にあたり、骨組はすべて鉄筋コンクリートで作り、そのうえをアール・ヌーヴォーのタイルでおおうのだが、テラスなどのごく一部にコンクリートをムキ出しにした。(略)

意識的だったかどうかは分らない。なぜなら、全面打放しを実現するのはそれから二十年も経ってからなのである。(略)

一九二三年、パリのル・ランシー教会が完成する。タイルや石もない。すみからすみまで打放し。打放しコンクリートの堂内に、ステンドグラスからの光が差し込んで、灰色の地肌を五彩の色で染めてゆく様子は、今思い出しても心にしみる。見事な建築である。

(略)

[だが]なかなか後続建築家が現れない。孤立するペレ。ペレに学んだ建築家としてはル・コルビュジエが知られるが、この二〇世紀建築の横綱も(略)その革命的意味を理解できない。誰がペレのバトンを継ぐのか。

(略)

歴史のグラウンドを眺めていると突然、場外から一人の人物が飛び出してきた。(略)

日本からやってきた若い建築家(略)アントニン・レーモンドである。

(略)

[日本の二〇世紀建築は]

大正期の堀口捨己、昭和戦前のレーモンド、そして戦後の丹下健三、この三人を軸として歴史は流れている。

 レーモンドは一八八八年、チェコの田舎町に生れた。(略)

プラハで建築を学んだ後、アメリカに渡り、大正八年、フランク・ロイド・ライトのスタッフとして、帝国ホテル建設のため来日する。工事途中で、ライトとケンカ別れして独立し、以後、第二次大戦中をのぞいて、建築家としての生涯のほとんどを日本で過ごすことになる。

 レーモンド事務所で働いた建築家としては前川國男吉村順三など戦後の日本の建築界をリードする面々がおり、さらに、前川のところからは丹下が出、丹下のところからは磯崎新槇文彦黒川紀章谷口吉生などが出ることを思うと、日本の二〇世紀建築の最大の人脈はレーモンドから発したといっていい。

(略)

 二三年にパリでペレが初の打放しを完成させ、翌年、東京でレー モンドが自邸を打放しで仕上げた。

(略)

世界の打放しの開拓者二人は、しかし、そう自信たっぷりというわけではなかったようだ。(略)

自信がなかった証拠に、ペレは単価が高い仕事が入るようになると、大理石なんか貼って仕上げているし、レーモンドも、自邸の後しばらくはまた昔式に戻ってしまう。

 一時は日和るが、レー モンドは十年のブランクの後、再び取り組み、後から参戦したル・コルビュジェと並んで、一九三〇年代の世界の打放しをリードしてゆく。

(略)

レーモンドは、どうしてあれほど素早くペレの打放しに反応することができたんだろうか。私は日本の伝統が利いていたと睨んでいる。

(略)

日本熱はますます高じ、その魅力をどう現代建築の中に生かせばいいのか考えるようになる。彼が感じていた魅力の一つは、木という素材の扱いで、欧米とは異なり、ペンキやニスを塗ったりせず、地肌をそのまま見せて仕上げとする。材料が本来持つ素材感の魅力。おそらくその魅力に感づいていたから、それも外国人ゆえにきわめて意識的に知っていたから、ペレの打放しの意味がただちに理解できたにちがいない。

 戦後になるが、レーモンドは、打放しの魅力は素材感にあることを語り、さらに、近代的工業材料のなかでは打放しコンクリートだけが大地と親和性を持つと述べている。

本野精吾、 打放しは型枠の表現

 戦後になって、レーモンドの弟子の前川國男や前川の弟子の丹下健三らによって、すでに述べたように打放しは花盛りとなり、衰えは見せるものの、現在の世界のアンドーにまでいたる。(略)

“打放しは日本のお家芸

なのである。二〇世紀前半はフランスがリードし、後半は日本がリードした。

 ここでレーモンドからアンドーにいたる栄光の歩みの陰に隠れた一人の建築家のことも書いておこう。京都の本野精吾。

(略)

 レーモンドが打放しの自邸を東京に造ったのと同じ年に、本野もコンクリートむき出しの自邸を京都に造っている。にもかかわらず長いこと注目されずにきたのは、そのむき出しのコンクリートが打放しじゃなくて、ブロックだったからだ。かくいう私もなんだブロックかと軽く見ていたが、実物を訪れて驚嘆した。ブロック造の安っぽさはまるで感じられず、打放しの兄弟のように目に映る。

(略)

 その五年後に手がけた鶴巻邸(現・栗原邸)を訪れてまた驚いた。もちろんコンクリートむき出しなのだが、打放しでもブロックでもなく、コンクリートの表面を皮一枚削っているのだ。皮一枚下の砂利とセメントが露出し、それがコンクリートの表情となっている。こんなヘンなコンクリート仕上げはこれまで見たことも聞いたこともない。コンクリートそのものの材質感をどう表現するかというモダニズム建築のテーマに対し、本野精吾は試行錯誤を繰り返しながら、しかし結局打放しという正解には行き着けなかったのである。

 と、一昨年、あるシンポジウムの席上、本野精吾論をレーモンドとからめて展開した。すると、会場から手があがる。誰かと思いきや、日建設計の林昌二さん。戦後モダニズムの推進者の一人で、建築界の長老格。

「打放しをコンクリートそのものの表現と言っていいのでしょうか。あれは、型枠の表現ではないか。打放しに収束しなかった本野精吾の努力の方がむしろ正解に近いのではないか」

 コンクリートを論じて、これほどショッキングな見解に出くわしたことはない。たしかに(略)杉板を使えば杉の木目がきれいに写し出されるし、現在の合板型枠でも金属型枠でも事情は変らず、型枠の継ぎ目やセパ跡(略)がくっきり浮き出る。だからこそ、建築家は重要な壁面デザインとして型枠の並びを決めるし、型枠大工も注意深く合板をカットし、組み立てる。ノコギリの刃の乱れ一つが跡として浮き出てしまうのが打放しなのである。

柔構造か剛構造か、それが問題だ! 

 日本でも超高層ビルを作ろう、という計画が起こったのは今から四十五年前の昭和三二年

(略)

十階以上になっても地震に大丈夫なことを証明してもらわないといけない。で、白羽の矢が、建築構造学者の武藤清に立つ。(略)二十四階建ての構造計算を、タイガー計算機というソロバンに毛が生えたような手回し式計算機でせっせとやってみたのだった。(略)

一階の角柱の太さは一・八メートルになる。柱と柱の間(梁間、スパン)は七メートルの設定だから、実際に使えるのはわずかに五・二メートル。エジプトのファラオの神段ではあるまいに、面積一坪もの柱が林立するオフィスになってしまう。

 これでは何のために作っているのか分らない。頓挫。

 鉄筋コンクリートの柱と梁でガッシリ頑丈に作ろうとすればどうしてる柱だらけになる。なぜ超高層の先進国アメリカに倣って鉄骨造で検討しなかったんだろう。じつはアメリカ流の鉄骨造に対してはトラウマ(心的外傷)があったのだ。

 (略)

大正期、アメリカの鉄骨構造に倣い[作られた丸ビルと郵船ビル](略)構造を担当したのが武藤の恩師の佐野利器、内田祥三の一党(略)かくかくしかるべき寸法の鉄筋が必要と、施工を引き受けたニューヨークのフラー社に伝えるのだが、フラー社はそんなに太いものは不要と答える。日本には地震があって……と主張しても、風の揺れしか想定しないニューヨークの技術陣には遅れた国の技術者の杞憂としか思えない。(略)[NYから届いた]鉄骨の包みを開けてみると、日本の主張は通っていなかった。(略)

工事は始まり、郵船ビルと丸ビルは大正一二年、完成する。

 そしてすぐ、関東大震災が襲った。どうなったか。(略)

駆けつけると、外壁のテラコッタは落下して路上にはじけ飛び、ビルの中は内装がはがれ落ちている最中。(略)

ぼう然としていると、老齢の曾禰達蔵は、「死にどころです」と言い残して、重要箇所のチェックのため、ホコリが立ち込めて入口から噴き出すビルの中に飛び込んでいった。桜井さんは足がすくんで動けないまま唸った、「さすが白虎隊の生き残りはちがう」。曾禰は若き日、白虎隊に加わり、会津で戦った過去を持つ建築家だった。

(略)

 丸ビルは、関東大震災の少し前に起った“東京地震”で大きな被害をうけ、大補強をした直後にまたやられた。

 鉄骨造は壊れないものの、全体として柔らかく、グラグラ揺れて外壁や内部の仕上げや配管がダメになってしまうという地震国ならではの思わぬ欠点があったのである。

(略)佐野はもう一つ痛い目にあっていた。若い頃、明治四三年に、日本最初の本格的鉄骨ビルとして構造を担当した丸善ビルが、関東大震災でアメのようにクニャリと潰れてしまった。耐震の工夫はちゃんとしたのに、むき出しの鉄骨が火災により溶けてしまったのである。

(略)

 東大の佐野、内田(略)早稲田の内藤多仲ら当時の日本の建築構造学のリーダーたちは(略)厳しい教訓をえた。人知にはかぎりがある。明日は、何が起るかは分らない。

 この時受けたトラウマは、生きているかぎり続く。

(略)

 内田は、日本の超高層ビルを鉄骨だけで作ることに最後まで不安をぬぐえず、弟子の武藤清が鉄骨の霞が関ビル(昭和四十三年)を推進するのはしぶしぶ認めたものの、自分が指導する東京駅前の東京海上ビル (昭和四十八年)の建設にあたっては、鉄骨を鉄筋コンクリートでくるむ構造を採用している。

(略)

鉄骨造で地震にどう対応すればいいのか。ここで柔構造の理論が登場する。

(略)

武藤さんは、日本最初の超高層ビルを柔構造理論で実現した功績で文化勲章をもらうが、その時、新聞記者のインタビュー記事のなかで、五重塔に学んで柔構造を思いついた、と語っていた。(略)

まことにいい話だが、武藤さんが自分からそのように説明したとは思えない。

(略)

なぜなら、私がかつて建築史家としてお話しをうかがったおりには、けっしてそのような俗耳向けの説明はしなかったからだ。

 ゆっくり変形することで地震力を吸収するという理論は、霞が関ビルはおろか東京駅超高層化計画よりもずっと前の関東大震災の直後にすでに主張されはじめていた。佐野・内田の一党が、鉄骨造から鉄筋コンクリート造へと大きく舵を切ったちょうどその時に(略)柔構造の鉄骨造の方が地震には強いという真正面からの反対論が主張されたのである。

(略)

海軍の技術陣にその人ありとうたわれた土木構造学者の真島健三郎。(略)日本の鉄筋コンクリート構造の開拓者として知られ、その発言はあだやおろそかにはできない。海軍の真島と建築界を牛耳る佐野・内田一党との間で、柔剛論争と呼ばれる論争が起き、大正から昭和にかけて十年近くにわたり激しい議論が交わされる。そのなかで、武藤は、佐野・内田門下の最有望な若手として、昭和六年、その名もズバリ「真島博士の柔構造論への疑い」と題する論文を発表した。

 霞が関ビルの計画にあたり五重塔に学んで柔構造理論を思い付いた、などというのは、ジャーナリズム上の作り話なのである。

 武藤は、東京駅超高層化計画の失敗の後、剛構造から柔構造へと柔軟に転じ、タイガー計算機を回して構造計算を行い、昭和四三年、無事、本邦初の超高層ビル(三十六階・百四十七メートル)を完成させたのだった。