ボブ・ディラン 指名手配

ボブ・ディランのことだけを書いた雑誌『ザ・テレグラフ』掲載記事をまとめた二冊目の本。

学生寮におけるボビー・ジマーマン 

[ミネソタ大入学、ユダヤ人の多い学生寮に入寮]

現在ミネアポリスで弁護士をしている同寮生だったスティーヴ・バードは、ボブ・ジマーマンのことをよく覚えている。

 

 彼は背が低くて、頭はクルーカットで、顔には桃の綿毛のような産毛があった。まるで未熟な15歳の高校生のようだった。正直に言って、彼の印象は、他の連中も同じ意見だったけれど、高校でよくいじめられるタイプの子って感じだったんだ。わかるだろ、みんなにからかわれるさえない奴さ。

 

 ボブの隣の部屋にいたリチャード・ロックリンの記憶も同様のものだった。

「彼はいつも回りの連中がからかいたくなるような、実際からかっていたけど、馬鹿みたいなうす笑いを浮かべていたんだ」

 未発表の詩の中で、ボブはクリスマスにひとり学生寮に残された自分のことを次のように書いている。自分を「変なやつ」だとして、絶えず自分を見てくすくす笑い、困惑させるような同窓の連中とはほとんど交友関係がなかったため「ぼくは単なる友だちですらなかった」と。これはまさしく告白の詩である。

 さらに別の未発表作では、彼が学生寮を嫌い、どう感じていたかがはっきりと歌われている。彼は自分自身を、ジェイムズ・ディーンのように「体制的なすべてのこと」との絆を断ち切る、感傷的な人物に置き換えている。学生寮はボブにとって「体制社会」を代表するものであり、彼が、そこに住む連中と彼らの「いいかげんな見当外れの笑い」を嫌悪していたことがはっきり表現されている。またボブ自身「かなり神経質だったみたいだ……」と告白している。 

Girl from the North Country

Girl from the North Country

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北国の少女

 ジャハラナ・ロムニー、旧名ボニー・ビーチャーは、〈北国の少女〉で歌われている主人公だ

(略)

 私は当時、18歳のミネソタの女の子とは思えないような、難解なレコードをたくさん集めていました。ハイスクールの同級生だったバリー・ハンセン、今はデメント博士として誰もが知ってる有名人になっていますが、彼の影響で早くから不可解なブルースなんかに興味を持っていたのです。(略)

上級生になって、私はニューヨークに劇場巡りに行くようになり、サム・グッディ・レコード店を見つけました。そしてファンキーなシンガーやブルース・シンガーの類いだろうと思う古いレコードを何でもいいから集めたのです。(略)キャット・アイアンやラビット・ブラウンのレコードを買いました。1959年にミネソタの田舎娘がそんな洗練されたブルースに傾倒していたなんて信じられないでしょう。

(略)

[ある日隣に座った二人の]話の中に、何人か知ってる名前が話に出てきました。キャット・アイアンやスリーピー・ジョン・エステスが何者かなんて知ってるような人は聞いたことがなかったので、つい聞き耳をたてて、とうとうふたりの方を向いて、口を出してしまったんです。するとハーヴィーがこっちを向いて(略)

[どうせお前が知ってるのは、キングストン・トリオとかだろ、と意地悪く言ってきたので]

私は頭にきて自分が集めている難解なアーティストの名前をずらりと並べました。するとディランは首を伸ばして私に向かって「本当? 彼らのことを知ってるのかい?いったいどうやって知ったんだい?」と話しかけてきたのです。私は「みんな家にレコードがあるのよ」と答えてやりました。そして、気がつくと私はディランと一緒に家に向かっていました。彼は結局私のレコードコレクションを借りて帰りました。数年間も返ってきませんでしたが!ハハハハ!

 翌年私たちはふたりともミネソタ大学に入学しました。(略)

例えばブッカ・ホワイトやフレッド・マクドウェル(略)

ディランは、自分の曲を書き出す前によくそうした曲をいくつか聴いて、古いレコードから吸収していました。私たちは繰り返しそうしたレコードを聴いたものです。キャノン・シティ・ジャグ・ストンパーの〈Stealin'〉もそのひとつでした。ディランがその歌を練習していたのを覚えています。それにラビット・ブラウンの歌も聴いていました。後に彼はその歌詞の一部を自分の歌で使っています。

 次の年、カレッジ 2年生の時、ディランはすでにグリニッチ・ヴィレッジにいました。(略)

彼が人前で演奏した初期の頃のひとつ、ガーズ・フォーク・シティでの演奏も見ることができました。そして、彼が私をウディ・ガスリーに紹介してくれた時は、もう最高の感激でした。

 ミネソタに戻ってから彼は2、3か月姿を消しました。旅に出ていたんです。戻ってくると、ひどいオクラホマなまりでしゃべるようになっていて、カウボーイハットにカウボーイブーツといういでたちでした。彼はそれはもう大変なくらいウディ・ガスリーにかぶれていたので、私はこう言ったんです。あなたはあなたなのよ。あなたはミネソタ・ボーイなんだから、自分以外の何者かを装うなんて馬鹿げているわって。でも彼はどっぷりウディ・ガスリーに浸っていて、魂を奪われた感じで、酔っぱらうと、自分をウディと呼ばない相手には返事もしなかったくらいでした。冗談じゃありません。まったく、ウディ・ガスリーに狂っていたのです。その時は馬鹿馬鹿しくって、見栄っぱりで、愚かなことだと思っていましたが、今は、偉大なボブ・ディランが生まれ出る兆しだったのだと思うと納得できます。

 彼がニューヨークに行った時、彼はウディを病院に見舞うことができるくらいの関係になっていました。でも。彼がそのことを手紙に書いてきても、ミネソタのみんなは誰も信じませんでした。またあいつのたわごとだって。だから彼が私を入院中のウディ・ガスリーに会わせてくれたのは、私にミネソタに帰って(略)彼が本当にウディの友人のひとりだってことを言ってほしかったんだと思います。実際彼はウディの友だちになっていました。あれには本当に感激しました。

(略)

 ――当時のボブ・ディランの曲をテープに録音していましたか?

 

 ええ、私のベッドルームで何度か録音しました。(略)先生が持っていた小さなオープンリールのテープ・レコーダーでしたが、後にテープは盗まれて、その中の多くの曲が海賊盤で流れてしまいました。1本のテープに40か50曲は入っていたでしょう。あるパーティで録音したのには、〈Who Killed Davy Moore?〉の初期のバージョンや〈One Too Many Mornings〉が入っていました。彼は少し酔っていました。〈Corrina Corrina〉のとってもすてきなヴァージョンもあって、うっとりするようなとても愛らしい感じでした。

(略)

初めてのハーモニカホールダーは、私がシュミット・ミュージック・ショップで買ってあげたものなんです。同じ日に、私は彼が爪を割らないようにに、「ハード・アズ・ネイルズ」っていう爪磨きを買わなくてはなりませんでした。

(略)

 ――周囲の目が変わったのはいつですか? テン・オクロック・スカラーで演奏を始めたでしょう?

(略)

[スカラーで演奏するようになり]次第に町でも知られるようになって、コーナー、レイ、グローヴァー、デイヴ・モートン、デイヴ・ウィッテイカーといった仲間もできました。(略)デイヴはキャンパスの中に大きなアパートを持っていて、とっても知的な人物で、私たちみんなが彼の影響を受けました。ディランは彼から本を読むことの楽しさを教わって、夢中になったのです。それまでは読書なんて軽蔑していた彼がです。私たちは集まって時間をつぶしたり、古いゴスペルソングを歌ったりする仲間でした。

(略)

 ディランの歌い始めた頃の声は、そう、アルバム〈Nashville Skyline〉の声ってわかるかしら? 他のアルバムとは声が違うでしょう……ディランの初期の頃の声はあんな感じでした。再びあの声が聴けるなんて驚きでした。彼は気管支炎を患って、ほとんど1年近く咳が止まりませんでした(略)[が、声が荒れるほどウディ・ガスリーに近づけると医者には行かず]

あの1年近い咳が、結局彼の甘い声を失わせてしまったのだと、〈Nashville Skyline〉を聴くまでは思っていました。

(略)
彼はずいぶん早い時期に〈Song To Woody〉という曲を書いていました。おそらくそれを書いた頃はまだミネソタにいたと思います。

(略)

 彼が私のアパートにやって来て「大至急!手伝ってくれ!おふくろの見舞いに家に帰らなけりゃならないんだ!」(略)急遽ヒビングに帰ることになって、髪を切って欲しいって言うんです。「ごくごく短くしてくれ。おふくろは、ぼくが長髪だって知らないんだ。短く!もっと短く! もみあげも全部切ってくれ!」って。私は彼の言う通りに一生懸命に切りました。するとちょうどデイヴ・モートンとジョニー・コーナー、ハーヴィー・エイブラムが部屋に入ってきて、ディランの頭を見て「おお、何てひどい頭なんだ!いったいどうしたんだい?」と叫びました。ディランは「彼女がやったんだ!少しそろえてくれって言っただけなのに、全部切っちゃったんだよ。怖くて鏡が見られないよ!」と答えました。そして彼は歌を作りました。〈Bonnie,Why'd You Cut My Hair? Now I Can't Go Nowhere!(ボニー、どうしてぼくの髪を切っちゃったの?もうどこへも行けないよ)〉という歌です。彼はその夜コーヒーハウスでその歌を歌いました。ある人からごく最近聞いたのですが、ミネソタに行くと今でもあの歌を歌っている人がいるんだそうです。(略)もうミネソタの名曲になってるみたい!それで、私の名前が歴史に残ることになったのです! 

One Too Many Mornings

One Too Many Mornings

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Song to Woody

Song to Woody

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ニューヨークのボブ・ディラン 

 ぼくは自分がやろうとしていることに完全に夢中になっていた。200曲ものウディの歌をマスターした後、ニュージャージー州モーリスタウンの病院に彼を訪ねる機会を見計らってウディに会いに行った。ぼくはニューヨークからバスに乗った。ウディが隣にいるようで、ぼくはずっと彼の歌を歌っていた。

(略)

その葉書は、ワークシャツ姿のウディがギターを抱えている写真を使った有名な絵はがきで、ディランの興奮が文面にあふれている。

「ウディに会えた。ウディに会えた……彼を知り、彼に会い、彼と向いあって、彼のために歌った。ウディと知り合った。やった!」

(略)

ディランは、ガスリーが毎週日曜日(略)ボブ&シドセル・グリースン家で過ごしていることを知った可能性が高い。(略)グリースン夫妻に会い、週末彼らの家を訪れることを承諾してもらっている。

 

 彼は、ウディを愛しており、彼といっしょにいたいということ以外ほとんどしゃべらなかった。小さめな丸い顔と美しい瞳を持った彼は、大天使のようで、聖歌隊の少年みたいだった。当時の彼の髪は、長い巻き毛で、濃い青緑色の帽子をかぶり、2サイズは大きいと思われるようなブーツを履いていた。彼の身に着けているものすべてが、小さいか大きいかのどっちがだった。彼は間に合わせに全然身体に合ってないジャケットを買ったようて、想像するにヴィレッジの古着店で75セント位で買ったのではないかと思われた。

1961年2月13日ガーズ・フォーク・シティ

 1年ほど貨車に乗っていたようなよれよれの服装をした、変な格好の少年が、その夜、みんなが思わず足踏みをしてしまうような調子の歌を歌った。ディランの初期のスタイルはブルースとロックとカントリーを合わせたようなものだった。そのスタイルは初めてガーズ・フォーク・シティのステージに上がった時から身についていた。

(略)

ディランはいわゆる普通のフォークシンガーのような歌い方を試みたこともあるが、結果は滑稽にしか聞こえなかった。しかし、彼がハンク・ウィリアムズ風の哀愁を帯びた声と、ウディ・ガスリー風の装飾音、ジミー・ロジャーズ風の叫び、リトル・リチャード風の嘆きを込めてヒルビリー風に歌うと、これまでの普通のフォークシンガーの歌い方はすべて滑稽に思えるようになったのである。彼のようなミュージシャンはこれまでどこにもいなかった。トム・パクストンも初めて見たディランに衝撃を受けたひとりだ。

 

 ガーズ・フォーク・シティのフーテナニーの夜だった。デイヴ・ヴァン・ロンクとぼくは並んで座っていた。その時、少年のようなディランがステージに上がって歌った。ぼくたちはふたりともすごいと思った。無限の可能性を彼に感じた。

(略)

[ナット・ヘントフの感想]

やせこけた少年の声を初めて聴いた時は、とても耐えられなかった。それまでぼくが聴いていたどのサウンドの基準にもあてはまらなかった。それが聴く者を魅了するものじゃなかったという意味ではなく、ただそれが音楽として認められるものだとは思わなかっただけだ。でも彼には何かがあった。確固とした存在感のようなものが……

(略)

ジョーン・バエズはこう語っている。

 

 ガーズ・フォーク・シティで、ディランは〈Song To Woody〉を歌っていた。その時私は完璧に打ちのめされました。今でも覚えているけど、彼は背が5フィートくらいしかないんじゃないかと思うほどちびに見えました。本当に背が低くて、間の抜けたような小さな帽子をかぶっていて……でも、すばらしさには驚かされました。私は完璧に打ちのめされ、彼のスタイル、彼の目、何か霊感を感じさせるようなすべての虜になり、何日も彼のことだけを考えました。私は驚嘆し、幸福感に浸っていました。これほどまでに才能豊かな人物がいるということが私を幸せにしました。その天才に私は完全にくぎづけになり、それからいつも彼のステージを見る度に興奮しました。

アイドルはチャップリン 

 ロバート・シェルトンも彼が書いた記事『カリスマ・キッド』の中で、同じような見方をしている。

 彼は若干19歳の少年だ。しかし、彼の青白い顔を見ると、まるである部分は聖歌隊の子供みたいで、ある部分はビートニクのようでもあり、ニュージャージーからのトンネルのどこかで迷い子になり、マンハッタンの出口の前であわてて自分を取り戻したような感じがした。ヴィレッジのクラブでディランは、ブルージーな歌や即興詩のような語りで客を感動させることもあったが、ほとんどの場合、客を笑わせていた。彼は不思議なことに、人を引きつけるチャーリー・チャップリンのような雰囲気を持っていた。彼のよろめくような足取りは、マイクに向かった単なるミュージシャンを越えるものであり、彼はその帽子とヘアースタイルとハーモニカで数多くのステージの仕事を得た。

 

 このように、彼の初期のクラブでの様子をいくつか回想すると、驚くことにどの場合にもチャーリー・チャップリンとの比較がなされている。実際にディラン自身も、チャップリンの影響を受けたことをビリー・ジェイムズのインタヴューで語っている。

 

 ステージの上で、いや、ステージを離れても、ぼくの頭からいつも離れずに憧れていたアイドルはチャーリ・チャップリンだ。理由は……説明するには難しいが、つまり……彼は男の中の男だったんだ。

次回に続く。

エルヴィス・コステロ・バイオグラフィー その3

前回の続き。

 『パンチ・ザ・クロック』

〈シップビルディング〉は(略)本質的にはフォークランド紛争に触発された極めて印象的な反戦バラードだ。(略)どこか陰鬱で、くどいほどポップであることをのぞけば、そのコンセプトは六○年代ニューヨークの〈ブリル・ビルディング・ソング〉に近いものだった。[共同プロデューサーの]クライヴ・ランガーは、ワイアットを特に念頭に置きながら曲づくりを行った。

(略)

ランガーとウィンスタンレーをプロデューサーに起用したもう一つの理由は、この二人が当時イギリスで最もホットなプロデュースチームだったからだろう。自分のつくってきた音楽に(多くの音楽評論家と世界中のファンからは高い評価を得ていたものの)、ヒットシングルに欠けていることをコステロは痛感していた。

(略)

そこで、コステロは当代きってのプロデューサーのお手並みを拝見することに決めたのだ。「これまで、しっかりしたプロダクションデザインに沿ってやったことはなかった(略)ニック・ロウはいつも僕らのやったことをまとめてくれた。ビリー・シェリルは僕らのやったことに我慢してくれた。ジェフ・エメリックは、僕らに可能性とアレンジをとことんまで追求させたうえで、そのつじつまあわせをしてくれた。だから、正式なアプローチを採用したのは今回が初めてだった。あるところまでは、本当にうまくいった」 

Goodbye Cruel World

Goodbye Cruel World

 

『グッドバイ・クルエル・ワールド』

 実際、コステロはこのアルバムの制作・収録の間、かなり悲惨な状態にあった。作品の大部分を台無しにしてしまったことは分かっていたが、どうすることもできなかった。途中で止めることさえできなかった。「発売するしかなかった。そうしなければ、そこで破産してただろうし、離婚を控えていて破産するわけにはいかなかった。アルバムをオジャンにはできなかった。だから、そのまま発売した。いま聴くと、情熱的なパフォーマンスも感じられるけど、アレンジに打ち消されてしまってる。でも、それはクライヴとアランのせいじゃないんだ。気に入ってくれてる人には悪いけど、あれがいいアルバムだってウソをつくことはできない。特に、チャートを意識しながら計算してかいたポップソングはね」

(略)

「あれは最低のアルバムだ。すべてのアレンジが新鮮味に欠けているうえに、間違ったプロデューサーを起用して、およそ不可能な仕事を押しつけた……僕の結婚生活は崩壊しようとしてた。今となっては、バカげた泣き言にしか聞こえないけど、多分あれは僕の人生で最悪の時期だった」

 数年後、〈コメディアンズ〉をロイ・オービスンのアルバム『ミステリー・ガール』のためにかき直したとき、コステロはその歌詞が実際になにを意味していたのか忘れてしまっていた。(略)

「はっきり言うと、女遊びをしているソングライターのやっかいなところっていうのは、いつも暗号を使って曲をかくことなんだ……僕は最初から、ホテルの部屋の出来事は歌にしないって誓ってた。でも、僕が経験した最も鮮烈な出来事の多くはもちろんホテルの部屋で起きたわけで、それも仕事のうちだった……誇りには思ってないよ。前の女房に辛い思いをさせたことは、今でもこころから悪いと思ってる……。でもそれが事実だし、僕は逃げも隠れもしない。それが人生なんだ。乗り越えていかなきゃ。初期の作品のほうが曖昧な歌詞が多いのはそういうワケなんだ」

『グッドバイ・クルエル・ワールド』収録後の大混乱と、発売前に世間の評価をあれこれ思い悩むのを避けるため、コステロはソロツアーのためにアメリカに旅立った。

(略)

 サポートを努めたのは(略)T・ボーン・バーネット。コステロは彼につながりを感じ、人間としても、アーティストとしても尊敬していた。 

King of America (Dig)

King of America (Dig)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『キング・オブ・アメリカ』

[ジ・アトラクションズとは一曲だけ]

「最初は、半分は彼らとやって、残りは外そうと思ってた」と、コステロは〈NME〉に説明した。「だが、そうはいかなかった。彼らがやってくる前のセッションはすべて期待以上の成果をあげているように思えた。それに、その時点で少なくともアルバムの四分の三は仕上がっていたんだ。ほかのミュージシャンから彼らとのセッションに移ったとき、緊張感が突然高まった。それで、彼らも追い詰められ、自分たちを守ろうとして敵意を見せるようになった。そのせいで、僕まで敵対的になって……あのセッションは最悪だった。なんとか一曲(〈スーツ・オブ・ライツ〉)だけやって、彼らは去って行った……あとはさまざまなミュージシャンとの組み合わせでアルバムを完成させた。ジ・アトラクションズ抜きで『キング・オブ・アメリカ』を作ったことで、クライヴ・ランガーとアラン・ウィンスタンレーとやったアルバムの問題が一つ見えてきた。あのバンドは崩壊しつつあったんだ。僕らはお互いに顔を合わせすぎていて、親密な関係が軽蔑やありきたりな表現につながっていた。本当に時間はあっという間に過ぎていっていたんだね……」

(略)

 セッションを通じて、友人であり共同プロデューサーのT・ボーン・バーネットコステロの編集アシスタントとしての役割を果たした。コステロはそれぞれの曲の構成要素を分解し、過剰だと思われる歌詞はすべて削除して、不自然なボーカルもすべて切り落とした。 

Blood & Chocolate (Dig) (Spkg)

Blood & Chocolate (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『ブラッド・アンド・チョコレート』

 このアルバムはコステロの個人レーベルであるインプから発売され、イギリスにおけるRCAとの契約関係は終焉を迎えた。一方、アメリカではコロムビアとの関係に暗雲がたれ込めつつあった。「もう一度『ディス・イヤーズ・モデル』か『アームド・フォーシズ』みたいな作品を作ってくれれば、あとはこっちで何とかするからって、ヤツらはそればっかりだった(略)

だから、ご所望の通りのものをくれてやった。実際には、よく考えて一定の方式に沿って作ったわけじゃないが、まあ可能な限り近いヤツをね。『ブラッド・アンド・チョコレート』についてはこう言ってやった。これが正真正銘の僕らだって。もう三二歳で、離婚してるヤツもいる。ムカついてて、あらゆる薬に手を出したし、そんな経験は全部終わらせて、それでもまだ生きてる。それがこのサウンドだ。言っておくが、今のほうが僕らは断然イケてるぜって」

「あっちは気に入らなかった。コロムビアの連中はあのアルバムを毛嫌いしていた。だから、ヤツらのところに行ってこう言った。聞けよ、もうこんなヨタ話はたくさんだ。どんな作品がいいのか言えよ、それを作ってやる。プロデューサーも指名していい、そいつと上手くやるさ。誰とだって戦う。マット・レンジだろうが、今をときめく大ヒットメーカーだろうが、誰でも相手になる。この僕の音楽性と主張と意思の力をぶつけていく、もしそれでなんとかなるならって。でも、連中はそれを望んではいなかった」

ブルース・トーマスの回想録

名誉、素晴らしいライブ、愛、結婚――物事が流れるようにうまく進んでいたこのとき、ふって湧いたように、ジ・アトラクションズのベーシスト、ブルース・トーマスが書いた回想録が出版されたのだ。朗らかで寛容なムードの作品ではなかった。

 [90年]八月に発売された『ザ・ビッグ・ホイール』で(略)ブルースは皮肉たっぷりに告白した。生涯友だちでいたいとも思わない大勢の人間(なかでも特にその一人)とバンドをやるという、ときに地獄のような生活を非常にうまく描き出した作品だった。ジ・アトラクションズは本質的には『マイ・エイム・イズ・トゥルー』ツアーのために特別にコステロが寄せ集めたバンドであり(略)内部対立が、それなりに起きるのは当然でもあった。

(略)

 物悲し気な追想と正確な攻撃を織りまぜながら、トーマスはジ・アトラクションズのメンバーを名指しせずに「ドラマー」や「キーボード奏者」といった具合に間接的に表現している。当然ながら、コステロもただの「シンガー」として登場する。ほかには「可愛気のない口答え屋」「くそガキ」「映画『ボディスナッチャー』に出てくる生物をさらに強烈にした性格の持ち主」さらには、コステロがヨーロッパやアメリカ、オーストラリア、日本のライブ会場に切れたギターの弦を残していくのが好きだったことから(ギタリストとしての技術ではなく)「証拠だけ立派なヤツ」とも呼んでいる。 

ジュリエット・レターズ

ジュリエット・レターズ

 

ブロドスキー・クァルテット

 初めてクァルテットと出会った時には、コステロは譜面を読むことも、書くこともできなかったが、九二年初頭にはできるようになった。コステロが覚えようと決断したおかげで、コラボレーションが楽になったことは間違いない。もう一つ、やる気になった理由は『GBH』のサントラでのリチャード・ハーヴェイとの共同制作だった。「これを見ろよ、この通りにやってくれよ、そこの楽器はこれだ……って、リチャードに説明できなくて、ちょっとイライラしたからね」

 実際にこの技術を覚え、さらに音楽性の幅を広げたいと考えたコステロは、ダブリン在住のあるアイルランド人作曲家の特訓を受けた。九一年一一月には「コロラチュラ」が何かすら分からなかったが、九二年一月末には楽譜をかけるまでになった。すぐに、コステロはアイデアを楽譜にしてクァルテットに送った。普通の人なら一年かかるところを、コステロは一カ月で習得したと彼らはいう。

「分かったんだよ、まあ、これは悪いシステムじゃないなって(略)

だてに七〇〇年間使われてきたわけじゃない。きちんと書きおろすことで、そのフレームのなかでのびのびやれるようになる。ブロドスキー・クァルテットはロックバンドみたいに騒々しくはないけど、彼らなりのやり方で暴れまわってるんだ」 

Now Ain't Time for Your Tears

Now Ain't Time for Your Tears

  • アーティスト:James, Wendy
  • 発売日: 1993/05/11
  • メディア: CD
 

ジ・アトラクションズ再編

[人気に翳りが出てきたトランスヴィジョン・ヴァンプのウェンディ・ジャイムズは偶然遭遇したピート・トーマスに駄目元で]ソロ活動にコステロが力を貸してくれないだろうかと尋ねた。

(略)

トランスヴィジョン・ヴァンプがアメリカ・ツアーに出ている間、コステロとピート・トーマスは二、三日でデモアルバム一枚分の曲を作成した。

(略)

[ツアー中に解散し]疲れ果てたジェイムズは、ロンドンのアパートに戻り、一本のデモテープを見つけた。

(略)

 ジェイムズはコステロの広報担当者に連絡し、曲が欲しいと告げ、アルバム『ナウ・エイント・ザ・タイム・フォー・ユア・ティアーズ』(タイトルはボブ・ディランから拝借)をクリス・キンゼイのもとでレコーディングした。

(略)

 コステロとピート・トーマスがジェームズのデモアルバム収録したのが、ロンドン北部にあるパスウェイ・スタジオだった。『マイ・エイム・イズ・トゥルー』をつくったこじんまりした8トラックのスタジオだ。ピートとのセッションが終了したとき、コステロは自分でもいくつか曲を書いて、レコーディングしたいと思うようになった。こうして、ジ・アトラクションズ再編に向けた動きが始まった。

(略)
ピート・トーマスのドラム以外、すべての楽器をコステロが演奏した。自分たちでアルバムがつくれるだけの曲づくりができることに気づき、二人は共同作業を続けた。

(略)

[ほどなくして]サム・ムーアのセッションに参加していたスティーヴ・ニーヴと偶然に顔をあわせた。ニーヴと会うのは久方ぶりだったが(略)話に花が咲いた。そして最後には、「シンガー」は「キーボード奏者」にパスウェイ・スタジオに足を運び、できたてホヤホヤの新曲にピアノパートをつけてくれと頼んだ。

 こうしてどんどん曲がつくられていくなか、コステロはまずニック・ロウにベースとして参加を要請した。彼の独特のスタイルが曲にぴったりだったからだ。だが、仕上がりに不満を覚えたロウは、このメンバーは「ジ・ディストラクションズ(散漫)」だという言葉を残して去った。コステロはほかの誰かにベースを頼まなければいけなくなった。それまでに、コステロはセルフプロデュースは無理と判断していたため、〈コステロ・ショー〉時代の仲間ミッチェル・フルームに連絡をとっていた。フルームは妻スザンヌ・ヴェガとのレコーディングに取り組む一方、ジ・アトラクションズのベーシスト、ブルース・トーマスとも仕事をしていた。そして、次の展開には誰もが驚かされることになった。

 コステロとトーマスは、それまでの数年間絶交状態にあった。コステロは当然ながらブルースの回想録『ザ・ビッグ・ホイール』をクズと一蹴。〈ハウ・トゥ・ビー・ダム(バカになる方法)〉では、同じように痛烈な批判をブルースに投げつけた。ところが、成熟性の証明か、大人になって丸くなったのか、意識的かつ一時的な記憶喪失か――なんと呼ぼうが自由だが、コステロはブルースに新曲のベースを担当する気はあるかと打診したのだ。それに対して、短く簡潔な回答が寄せられた――「イエス」。 

How to Be Dumb

How to Be Dumb

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 『ブルータル・ユース』

 パスウェイ・スタジオでのデモ収録は、テープのヒスとコンソールのノイズの味わいある懐かしい時代への回帰だった。コステロの最近のスタジオアルバム三枚は、いずれもトラック機材を使ったオーケストレーション、または「楽譜」に基づくサウンドだった(マニアックなファンの間ではそれについて熱い議論が巻き起こった)。だが、素朴な8トラック機材を使うパスウェイは、意識的に自然なサウンドを重視したデモのマテリアルにぴったりだったうえに、さらにはっきりその路線を打ち出すこともできた。望みどおりのサウンドに辿りついたところで、オリンピック・スタジオに移り、『ブルータル・ユース』という仮題のついたアルバムの収録曲のうち一三曲をレコーディングした。残りの〈カインダー・マーダー〉と〈20%記憶喪失〉はパスウェイ収録のサウンドがそのまま使われた。

 コステロにはまだ再結成の具体的なプランはなかったにも関わらず、アルバム発売に向けて、ワーナーはジ・アトラクションズを前面に押しだした。ウェンディ・ジェイムズのデモアルバムをつくったことで、コステロのなかで本質的な部分で基本に立ち戻り、率直なアプローチをするアイデアが生まれた。そして、曲づくりが進むなかで、自然の流れでジ・アトラクションズを起用することになったのだ。だが、ワーナーは都合のいいようにプロモーション素材に「エルヴィス・コステロ」と「ジ・アトラクションズ」の名前を並べた。八年間の空白を超え、ついに再結成! 「復活」のときがやってきた!

(略)

「モノを売る常套手段だよ。ボブ・ディランはこれまで何回「戻ってきた」と思う?(略)

怠慢なやり方だったし、いまではヤツらだってそれに気づいてると思うよ。あれが大混乱の始まりだったんだ……ワーナーの狂気じみた企業精神、それがあの会社全体に影響を及ばしてた。そのせいで、あの会社の戦力部隊はどんどん創造性を失っていった。だから、売りになると思った唯一のものにしがみついたんだ。バンド復活! ロック魂始動!ってね。ちょっと、単純だよね」

 それが単純な考え方だったのか、またコステロ&ジ・アトラクションズ再結成というマーケティング上のアイデアが成功したのかはさておき(結局はアルバムにはバンド名はクレジットされなかった)、九四年三月に発売された『ブルータル・ユース』は大絶賛を浴びた。イギリスではコステロ最大のヒットとなり、『ゲット・ハッピー』以来最高の第二位をマークした。

(略)

 ツアーがイギリスに移っても、人間関係はまだ友好的にみえた。(略)

観客にとってはノスタルジアをかき立てる夢のようなひとときだった。とはいえ、コステロにしてみればオールドデイズとはおよそかけ離れていた。当時、コステロとバンドのメンバーは四五分間演奏しては「一発キメる」ために舞台裏に消え、観客を罵りながら一〇分後にステージに戻り、もう一曲歌うとへトヘトになってホテルに姿をくらましていたのだから。

「あの頃は、観客を乱暴にあつかうのが好きでね」(略)

「三五分やれるだけの曲があって、何曲か終わると、まずアンフェタミンを一発キメる。それで二五分ぐらいやると、もう曲がなくなっちまう。それからは、アンコールをやらないのが通例になった。アメリカでは、ラジオで生放送されてたんだけど、DJに『うーん、きっとステージに戻ってくると思うよ』ってくり返させといて、もう自分たちはホテルに戻っちゃってたりしてた。ツアー中のグループにとっては、そんなイタズラが楽しくてしょうがなかった。一緒に塹壕にこもってるみたいな破滅的な気分の連中にはね」 

エルヴィス・コステロ・バイオグラフィー その2

前回の続き。 

 『アームド・フォーシズ』  

セカンドアルバムは大好評、ナッシュビルではカントリーの大御所と共演、そして離婚関係の書類をもった弁護士に追いかけられながら、一九七八年は過ぎた。翌七九年、スキャンダルが世間をにぎわすなか、ニューアルバムが完成。だが、そこには私生活と同じぐらいに熾烈なプレッシャーが待ちうけていた。三カ月間のアメリカツアーを目前に控え、アメリカの所属レーベルであるCBSコロムビアは、ブルース・スプリングスティーンの『明日なき暴走』のような形で『アームド・フォーシズ』を売り出し、コステロを超スーパースターに押しあげようとしていたのだ。

『マイ・エイム・イズ・トゥルー』は、すぐに輸入盤として過去一〇年最高の売り上げを記録したが、『ディス・イヤーズ・モデル』はそれほどは売れていなかった。

(略)

『アームド・フォーシズ』はコステロにとってビジネス上の勝負をかけた作品であり、宣伝キャンペーン関係者は全員がそれを意識していた。

(略)

「俺たちは『アームド・フォーシズ』で大成功するか、コケるかどっちかだ」と、ジェイク・リヴィエラは〈クリーム〉に語った。「アメリカでブレイクしなければ、契約は切られないにしても、コロムビアポンコツの役立たずだと思われることになる」

(略)

 『アームド・フォーシズ』はあっという間に、これまでで最高の成功を収めた。

(略)

コステロは余命いくばくもないといった勢いで曲を書いていた。すでに、次のアルバムの曲のほとんどは仕上がっていた。ツアー中(略)同室だったベーシストのブルース・トーマスは(略)書きためていた曲だけでアルバムが四枚つくれると主張した。

(略)

 だが、ここでも現実はそう甘くはなかった。まず、コロムビアの上層部が『アームド・フォーシズ』の曲目リストに手をくわえたのだ。〈日曜日は最高〉は削除され(アメリカのマーケットには「あまりにイギリス的」という判断だろうか?)、代わりにラジオ受けのいいニック・ロウのヒットシングル〈ピース、ラブ・アンド・アンダースタンディング〉が収録された。正しい選択ではあったが、コステロの脳裏には、コロムビアがポップソングライターとしての自分の才能を信頼しているのだろうかという疑念がよぎるようになった。

 二月からアメリカツアーが始動した。

(略)

ジェイク・リヴィエラはローディーに古着のアーミールックを着せ、深紅の縁どりがほどこされたシルバーイーグルのツアーバスには『ノースカロライナ州キャンプルジューン基地』と書かれた横断幕が張られた。マスコミ向けの全面広告ではコステロが銃をくわえ、その刺激的なイメージの横には「警告」「傭兵になれ、武装しろ」と書かれていた。

(略)

 最初から、先行きには不穏な影がちらついていた。シアトルでは、一時間の予定だったライブが敵意と軽蔑をむき出しにした四〇分の演奏に短縮され――パンクに慣れていたイギリスのオーディエンスなら喜んだかもしれないが――音響スタッフは観客のネガティブな反応を抑えるために、歓声の入ったサウンドを作って応酬することになった。

(略)

[カリフォルニアでは]カネを返せとチケット売場に乱入する客まであらわれた。その夜、サンフランシスコでライブを行ったザ・クラッシュが「聴く価値のある唯一のUKバンド」というポスターを張り出していたことにコステロは激怒していた。それで、四〇分で切り上げてステージから姿を消してしまったのだ。腹を立てた観客は会場のシートをひきはがし、会場外に停めてあったツアーバスに八つ当たりしてその窓ガラスを割った。 

Armed Forces (Dig) (Spkg)

Armed Forces (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

 

オハイオ州コロンバスでの舌禍事件

事件を再現してみよう。よどんだ空気が漂うホリデイイン・ホテルのバーで、退屈なライブを終えたコステロはベーシストのブルースと一杯ひっかけている。(略)

[そこへ同様にライブを終えたスティーヴン・スティルス一行、ボニー・ブラムレットらやってきて、一緒に打ち上げをしようと誘った]

すぐに白熱した議論が持ち上がったが、それぞれが冗談を飛ばしながらうまくかわしあっていた。バーには数人のコステロのファンがヒーローを間近で見ようと集まっていた。

 その一人がコステロに悪魔の囁きとも思える質問を投げかけた――アメリカやアメリカ人のこと、どう思う?コステロはまさに墓穴を掘ろうとしていた。「ヘドが出るね」(略)「ここに来たのはカネになるからだよ。純粋な白人ってのは、僕らのことさ。あんたらは植民地の人間だろ」

(略)

ティルスコステロの言葉にユーモアのカケラを感じることはなく、瞬時にキバをむいた。

 次になにが起こったかについては、さまざまな証言がある。スティルスのツアースタッフが、コステロを殴ったとも言われている。〈ローリングストーン〉の雑記欄によれば、コステロはスティルスパーカッショニストであるジョー・ララを「油ギトギトのラテン野郎」と呼んだ。そこでスティルスコステロを攻撃。その後、罵倒されたスティルスは怒りに震えながらながら、バーから出ていった。「消えやがれ、このスチールっぱな野郎!」コカイン中毒だったスティルスが鼻腔修復手術を受けたというゴシップに当てつけた中傷だった。

 あとには、酔っぱらってすっかり熱くなったコステロとブルース、そして興奮したブラムレットが残された。緊張を和らげようとしたのだろう、ブラムレットは自分はコステロの音楽の大ファンだと言った。そこまではよかった。だが、そこで彼女はジェームズ・ブラウンについて、コステロに意見を求めてしまった。これは大きな間違いだった。

 「ケツをふるしか能がないニガーだろ」と、彼は答えた。なるほど。ブラムレットはさらに続けた。レイ・チャールズは?「あいつは単なるノータリンの『めくらニガー』だよ」

 今度は完全にジョークの域を越えていたし、その言葉も聞くに耐えないものだった。そういう意見は自分の胸にしまっといたほうが身のためだと言って、ブラムレットはコステロを殴った。コステロは応酬した。「レイ・チャールズも、ニガー野郎も、てめえもファックしやがれ!」

 そこで大乱闘になったという話もあるが、ホテルのバーテンダーによれば、ちょっとした小競り合いが起きてすくに収まったという。(略)

ブラムレットがある決定的な決断をくださなければ、それですんだことかもしれなかった。

(略)

 その後数日間は、暴露記事も逆襲もないまま過ぎた。コロンバスでの一件は、記憶も定かではない酔っ払いの不作法であり、素面に戻ればしぶしぶ許してもらえる類いのこととして忘れ去られつつあった。ニューヨーク公演まであと二週間を切り、街中にポスターがはりだされた。

(略)

ニューヨークはコステロをついにスターダムに大きく押しあげる場所として位置づけられていた。

(略)

事件の直後、彼女は東海岸の報道機関や新聞・雑誌にホリデイインのバーで起きたことについて事細かな情報を提供していた。手心を加えることなく、ブラムレットはコステロを偏見に満ちた人種差別主義者だと糾弾した。

(略)

[コステロ一行がNYに到着した頃には噂は全米に広がっており]「エイプリル・フール・マラソン」ライブの話題は、すっかりコロンバス事件に食われてしまった。 

(略)

[弁明のための記者会見に現れたコステロの]ジャケットの襟もとには「オレに欲情しろ」と書かれた緑色のバッジがつけられていた。(略)

矢継ぎ早に飛んでくる鋭い質問に、コステロはできるかぎり辛辣に、そして断定的に答えた。発言の内容はなぜ黒人アーティストに集中したのかという質問に対して、コステロはCSN&Yのことも言ったが、それはマスコミには取り上げられなかったと答えた。イギリス人男性一般に対するブラムレットの発言も同じようにもみ消されていた。(略)

その発言とは次の通りだ。「……あんたらみんな、満足にオッたてることもできないフニャちんばっかりじゃない」。さらに、ブラムレットは「意地悪くて、憎々しげな連中ってのはアソコもちっちゃいもんだって、アイツに言ってやったの」語っていたといわれる。

(略)

「愚かな差別主義者」以外のコステロのイメージはヒステリックな興奮の渦にかき消されてしまった。

(略)

興味深いことに、コステロは記者会見で「ロック・アゲインスト・レイシズム」との関係や(略)反ファシズムの曲をかいてきたことは主張しなかった。いずれにせよ、マスコミはコステロを嫌っていた。どんなに頑張ったところで、コステロの負けだった。

 

Get Happy (Dig) (Spkg)

Get Happy (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『ゲット・ハッピー』  

 七九年一〇月、カムデンタウンの〈ロックオン・レコードストア〉から出てくるコステロの姿が目撃された。(略)

コステロはたった五〇ポンドで、〈タムラ/モータウン〉や〈スタックス〉、〈ハイ・アンド・アトランティックレコード〉の懐かしいレコードを買い漁った。流行にうるさいモッズ小僧だった一○代に聴いていたこうした音楽は、『ゲット・ハッピー』のいい下準備になった。さらに制作関係者が自分のコレクションを持ちより、リサーチは完了した。

(略)

「きてれつな」ニューウェイヴバンドのつややかなサウンドは絶対に避けたいのは分かっていたので、『ゲット・ハッピー』のいくつかの曲はもっとゆったりと、ソウルフルに演奏することにした。(略)

今回の狙いは、曲を深く掘りさげ、よりリズミカルでよく計算された作品をつくることだった。

 偉大なソウルアーティストの影響を大胆に取り入れ、神経をすり減らし、大量のアルコールとドラッグを消費しながら、新たな方針のもとでセッションが始まった。

(略)

〈テンプテイション〉はブッカー・T&MG'sの〈タイム・イズ・タイト〉を思わせるリフを使用。〈オポチュニティ〉はアル・グリーン、〈クラウンタイム・イズ・オーヴァー〉はカーティス・メイフィールドからの精神的な盗用であり、〈ラヴ・フォー・テンダー〉と〈ハイ・フィディリティ〉はテンプテーションズの曲を引用している。さらに、〈キング・ホース〉はフォー・トップスの〈リーチ・アウト、アイル・ピー・ゼア〉

(略)

なかにはさらにダイレクトな要素をふくませた曲もあった。例えば「ブラック・アンド・ホワイト・ワールド」はバーバラ・スタンウィック主演の映画『教授と美女』(『白雪姫と七人のこびと』をベースにしたコメディ。スタンウィックは「シュガーパス・オシェラ」という奔放なストリッパーを演じた)を観てかかれた作品だ。

(略)

 当然ながら、セッション中にはピリピリとした雰囲気が漂っていた。アルバムがリリースされるとそれが表面化した。〈ライオット・アクト〉は迫真の一曲であり、コステロを崖っぷちに追いつめた、プライベートと仕事のトラブルすべてに対するリアクションが込められていた。コステロは(略)ソロ活動を念頭に置くようになっていた。ソロシングルのために〈ニュー・アムステルダム〉のチープなデモまで収録したほどだ。

(略)

「あのアルバムは極度の精神的ストレスのなかでつくられた」と、コステロは〈フェイス〉に語った。「僕とバンドのメンバーが置かれた状況という点からみれば、限界ギリギリのアルバムだった……アメリカでの事件の余波でものすごく感情的になってたし、神経はズタズタだった。酒は飲みすぎだったし……ドラッグも十分やってた。やりすぎだった。ちょっとだってやりすぎだよね……。中途半端な印象を受けるのはそのせいだと思う。僕らのキャパシティの問題だったんだ」

『オールモスト・ブルー』

『オールモスト・ブルー』が制作された背景には、コステロがオリジナル曲に飽きていたという事実だけでなく、「オリジナル」アルバムでは接点をもつことのない人々と一緒に仕事をしたいという意向があった。自分の固定ファンに彼らが進んで聴かないような音楽を聞かせたいとも考えていた。パッツィー・クラインの〈スウィート・ドリームス〉なんて冗談じゃないと思っても、それをコステロがカヴァーすれば聴いてみようと思うはずだ。ちょっとどんな感じなのか試すだけでも……。

(略)

「当時、僕は完全にカントリーのとりこだった。今じゃ、滅多に聴かないけど。情熱が枯れてしまったんだ。とはいえ、まだお気に入りの作品はあるけどね。あの作品には別のもっと陰鬱なものが内包されている。むしろ宿命論的なタイプの音楽なんだ。今聴くと、『おいおい、こんなに落ち込んでたのか』って思う。すごく憂鬱なサウンドのアルバムだ……七九年の余波かもしれない。ありとあらゆる不幸の最後の厄落としだったのかもしれないな」

 コステロフランク・シナトラの『オンリー・ザ・ロンリー』にオマージュを捧げ、物悲しいバラードアルバムを作ることを考えていた。シナトラのカヴァーも数曲考えていたのだが、その調整手続は(そのアイデア自体も)過密スケジュールのなかであえなく消えていった。「いずれにしても、ナッシュビル入りした時はかなり憂鬱な気持ちだったんだ(略)悲しい気持ちだった。理由は分からない。具体的になにかあったわけじゃなかった。ただ、自分をそこまで追いやってしまった……どうしてあんな落ち込んでるのか想像もつかない。あるがままの感情だった。だから、僕の歌い方がわざとらしかったっていう批評は絶対に認めない」

 コステロ一行の約八日間のナッシュビル滞在は、混乱のなかで電光石火のよう過ぎ去った。レコーディング風景は〈サウスバンク・ショー〉の特別番組のために撮影され(略)すでにギリギリの状態にあった収録の進行にさらなるプレッシャーを与えた。コステロはそのとき気づいていなかったが、プロデューサーのビリー・シェリルは最初こそ楽しんでいたが、最後にはレコーディングにすっかり関心を失ってしまった。気まぐれにいつもよりやる気をだす日もあったが、シェリルが情熱を失ったのは、コステロが選んだマテリアルをカントリーミュージックの墓場から引きずり出してきたような退屈な代物だと感じていたからだった。「僕らのファンにとっては、聴き飽きた曲なんかじゃなかった」と、コステロ

ベベ・ビュエル、再び 

 さらに(当時は)あまり知られていなかった要因に、ベベ・ビュエルとの関係再燃があった。七九年末にかけて、コステロは妻子のもとに戻っていたが、八〇年代初めにはふたたびビュエルと会うようになった。(略)
[関係が数ヶ月続き、ついに妊娠]

 シングルマザーとして、もう一人子供を生むことに強い不安を感じ、また深く愛しているコステロを失うことを恐れ、ビュエルは中絶することにした。「ちょっと頭がおかしくなってたのね。真実も、それがなんなのかも理解してなかった」(略)

ビュエルは、流産したと伝えた。「真っ赤なウソだったわ(略)彼を傷つけることができれば、なんでもよかったの。彼は電話を切って、二度と私と口をきいてくれなかった。今でも、あんな別れ方を後悔してるわ。私がどんな思いをしてたか、彼は知らなかったのよ。私のことをなかなか自分のものにならない、思わせぶりでフラフラしてる、軽薄で淫らな女の子だって思ったんだもの」 

Imperial Bedroom (Dig) (Spkg)

Imperial Bedroom (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『インペリアル・ベッドルーム』

(コステロのスタジオの並びでは、ジョージ・マーティンポール・マッカートニーの「タッグ・オブ・ウォー」をプロデュースしていた)。

(略)

共同プロデューサーであるジェフ・エメリックは、ジョージ・マーティンの友人であり[ビートルズのレコーディング・エンジニア]

(略)

 この作品の華麗なロックサウンドは完全にエメリックによるもので、それはコステロの現代的なレコーディング技術に関する懐疑的な見方とも一致していた。彼らが目指したのは、バックトラックをタイトにまとめ、音楽全体に対するボーカルの役割をより重視する六〇年代のウォーカー・ブラザーズやダスティ・スプリングフィールドのようなサウンドだった。エメリックの豊かな経験から、コステロは自分が仕事をする上でより幅広いフレームワークを創出することができた。「彼は理解不能サウンドと方向性をごちゃまぜに投げつけられ、それになんらかの意味を持たせるのに慣れていた(略)サイケデリック時代の頂点を極めていたビートルズと一緒に仕事したこともあって、時代を先取りしたり、ちょっとヤバめな方向性に走ることにも慣れていた」

 批評家からの絶賛にも関わらず、セールスはこれまでのアルバムをかなり下回り、コステロは商業的な停滞状態から抜け出すことはできなかった。レコード会社との問題は、作品がリリースされるごとに顕在化していった(このアルバムはFビートからリリースされたが、WEAはライセンス契約により、大幅な裁量権を握っていた。アメリカでのレコード会社であるコロムビアとの間にも同様の問題が存在していた)。

(略)

「彼らが間違った曲をリリースしただけさ。作品をつくるのが僕らで、売るのは連中ってことがずっと問題だったんだ。つくる立場にいれば、いつだって自分を鼓舞する新しいものを求める。でも、僕が『インペリアル・ベッドルーム』で本当に独創性にあふれる作品をつくったって思ったときも、連中はまだ僕らを『アームド・フォーシズ』のバンドだと思ってた。あの手の作品をノドから手がでるほど欲しがった。だから大胆な〈ビヨンド・ビリーフ〉やこころにしみるバラード〈オールモスト・ブルー〉をリリースしてこのアルバムを新たな出発点に位置づけるかわりに、〈ユー・リトル・フール〉を選んだ。あれは優れたポップソングだけど、それまでにやってきた曲によく似ていた。大バカだよ。ヤツらは腰が引けてた。おまけに、そういう不手際のせいでアルバムに対する熱が冷めてしまったところで、〈マン・アウト・オブ・タイム〉をリリースした。第一弾シングルだったらうまくいったはずの曲なのに、それがコケるとヤツらは『ほら、たいした曲じゃないって言っただろ』なんて抜かしやがった」

(略)

僕は他人の意見は聞き入れずにやってきた……楽曲の方向性について、特に『インペリアル・ベッドルーム』では、プロデュース上の判断はすべて自分でくだした。自分の作品を判断するのはとても難しい。みんなに間違ってると言われても、意見を通したことがいくつかあって……半年後に間違ってたのは自分だって気づいたんだ!〈キッド・アバウト・イット〉で、僕は全然しっくりこないのにオクターブで歌うと言い張った。僕としてはボーカルが一本調子になるのを避けたかったんだ。自分のテクニックに縛られてると思われたくなかった。だから対極を目指して、重複したり、相反するスタイルを取り入れ、さまざまな視点が曲に込められていることを表現しようとした。それが完璧にうまくいった曲もあったよ。むしろ、もっと演劇調の歌唱法がね。ソウルっぽい歌い方はやめて、もっとクールにオールドファッションな感覚を出したかったから」

次回に続く。