ハービー・ハンコック自伝 その3

前回の続き。

コカイン、LSD  

 マイルスはドラッグの問題を抱えていたことで知られているが、私の知っているかぎり、それが理由で仕事に現れなかったことはない。私がクインテットで演奏し始めたころには、すでに彼はヘロインの悪癖を断ち切っており、その後もけっして手を出さなかった。しかしマイルスは、私も含めて当時の多くのミュージシャンがそうだったように、コカインをやっていた。六〇年代のニューヨークでコカインを吸っていないミュージシャンを探し出すことは、干し草の山のなかから針を見つけるようなものだった。コカインはアルコールと同様、たやすく手に入った。

(略)

[ドラッグで逮捕されると“キャバレー・カード”が取り消しになり仕事ができなくなる]

これは人種差別の臭いがする政策だと考える人が多かった。黒人ミュージシャンの多くが麻楽中毒だったからだ。

(略)

 私はニューヨークに来てすぐにマリファナを吸ったが、あまりいい気分にならなかった。だが初めてコカインを試したときは気に入った。マリファナをやると動作が緩慢になり、ぼんやりした気分になったが、コカインはエネルギーと明確な意識を与えてくれた、またはそう思い込ませた。コカインをやると、感情が活性化され、気持ちが解き放たれ、物事の核心に迫り、音楽を深く掘り下げることができるようになる、とミュージシャンの多くが感じていた。私もときどきそう感じることはあったが、ほとんどの場合、私がコカインをやるのはたんに気持ち良くなるからだった。実際のところ、ドラッグをやってマイルスとともにステージで演奏することなど不可能だった。音楽性があまりにも高かったので(略)本来の純粋な自己を保たなければ演奏できなかった。

 同じ理由で、マイルスと演奏するとき、私は酒を飲まなかった。

(略)
[ヴィレッジ・ヴァンガードで知り合ったビョルンというスウェーデン人にLSDを何度も勧められ、ついに決断]

ビョルンがアパートにやって来て、まるでサイケデリック・ツアー・ガイドのようにすべてをセットアップした。「どんなレコードが聴きたい?」と彼は訊いた。「あんたはこれからハイになるけど、ぼくがぜんぶ面倒を見るから大丈夫だ」。私は二十枚ほどのアルバムを選び出したが、ビョルンはそのなかからジョン・コルトレーンアナーキーなレコードを含む何枚かを取り除いた。コルトレーンはそのころフリー・ジャズに傾倒していた。「これは初めてトリップするにしては激しすぎるサウンドだと思う」とビョルンは言った。それから彼は自分がもってきた数枚のレコードを取り出した。インディアン・フルートのレコードだった。彼によると、LSDのトリップにはそんな音楽が相応しいとのことだった。

(略)

LSDは液体だった。初期のサイケデリック時代には、LSDは液体でしか手に入らなかった。彼は適切な量をオレンジジュースの入ったグラスに注ぎ、かき混ぜた。

(略)

ジュースを飲んで二時間ほど経ったころ、私はすっかりハイになった。マリファナやコカインをやったときとはまったく違った感覚だった。

(略)

間もなく壁が動きだし、天井に生き物が現れた。いくつかは人間のように見えたが、すぐに形が変わった。カラフルで奇妙な生き物だったが、何なのかはよく分からなかった。それからアパートが汽車になった。(略)玄関に向かって歩いていると、とつぜん周りがジャングルになった。

(略)

私はピアノを目指して進んだ。トリップしているあいだにピアノを弾くのは素晴らしいことだと思ったからだ。しかし鍵盤がUの形にねじ曲がっており、どうやって弾いたらいいか分からなかった。(略)

ビョルンは、私がトリップしていた十時間ほどのあいだ、レコードをかけ、静かに座って、ずっとそばにいてくれた。

(略)

[一度経験しただけで満足したが、半年後、研究所でやらないかと誘われ]

“うーん、本拠地に行ってみるのも悪くはないな”と私は考えた。

 ミルブルック研究所は広大な敷地に立ち並ぶ納屋や建物からなっていた。(略)途中、偶然ドクター・リアリーと出会った。私たちは短い挨拶を交わした。彼はそのあとどこかに行ってしまった(略)

建物には、すでに私が知っている三人のミュージシャンが来ていた。(略)

ミルブルックでは、トリップが始まると、腕が無数の虫で覆われているのに気がつき、ぞっとした。まるで腕に生えている毛が黒い虫に変身して這い回っているかのようだった。それらは払い落とすことができなかった。

 バッド・トリップについて警告されていたので、パニックに陥ってはいけないことは分かっていた。トリップはいったん始まると止まらなかった。そのため、怖気に支配されると、苦悩と恐怖が何時間も続くことになる。そこで私は(略)自分の感情を分析し始めたのだ。(略)

[いないはずの虫が見えるのは、自分がハチ恐怖症だからだ。それに立ち向かわなければならない]

変容した意識のなかで、私はハチと仲良くなれると考え、興奮を覚えた。

(略)

不思議なことに(略)その日以来、私はハチが怖くなくなった。

〈処女航海〉と初めての映画音楽

 私が作ったあらゆる曲のなかで最高の作品(略)はもしかしたら生まれなかったかもしれない。飛行機のなかでアイデアを書き留めたナプキンを失くしてしまったのだ。

(略)

 私たちはハリウッドで三日間を過ごし、クインテットのニュー・アルバム『ESP』のレコーディングを行なった。(略)〈エイティ・ワン〉を録り終えたあと、ミキシング・ルームでプレイバックを聴いた。最後にフェイド・アウトするところで、とつぜん飛行機のなかで書いたリズムを自分が弾いているのが聴こえた。「待ってくれ!」と私は録音エンジニアに言った。「いまのところをもう一度聴かせてくれ――あれを書き留めたいんだ」。

(略)

 もともとそのリズムをジャズの曲に採用するつもりはなかった――テレビのコマーシャル・ソング[男性用オーデコロン]に使おうと思っていたのだ。

(略)

 ニューヨークに戻った私はコマーシャル・ソングを書き始めた。最初のコード、二番目のコード、三番目のコードと書いていったが、そこで行き詰ってしまった。そのあとどのように続ければいいのか、アイデアが浮かばなかった。(略)

[諦めてベッドに行くと妻のジジが言った]

「ハービー、起きなさい。完成するまで寝ちゃだめよ。今日中に終わらせなきゃ!」(略)

[再度ピアノの前に座り]

もう一度三つのコードを弾いた――そしてとつぜん答えが分かった。最初の二つのコードを最後のコードにすればいいのだ。(略)曲の構造をらせん状にするのだ。

(略)

 広告会社はこれに多少手を加え、ドラムスを省き、ベースのラインをタンゴ風にした。こうしてコマーシャルは完成(略)だが、そのアイデアは私の頭から離れなかった。

(略)

[ジャズ作品として録音することに]

まだ曲名を思いついていなかったので、マスターにはたんに“TV-CMソング”と記載されていた。これは私にとって重要な曲だと感じたので、時間をかけてでも適切な曲名を付けるべきだと考えた。(略)

[家を訪れた妹のジーンと友人に聴かせると]

ジーンの友人が「なんだか水を連想するわ(略)最初の曲は航海のような感じだわ。処女航海ね」。私は叫び声をあげ、手を叩いた。それだ!

(略)

 それは私にとって特別な意味をもつ曲になったし、いまもそうだ。ソロ・ピアノをやるときはかならずこの曲を演奏する――一曲だけしか演奏しない場合はかならずこの曲を選ぶ。 

プラグド・ニッケル(Vo.1+Vol.2)

プラグド・ニッケル(Vo.1+Vol.2)

 

 プラグド・ニッケル

一九六五年十二月(略)

クインテットで演奏し始めてから一年以上が経過しており、バンドとしての結束力は高まり、お互いに気持ちよく共演できるようになっていた。(略)

[だが]私たちにはリスクを冒して挑戦する要素が必要だった。(略)

シカゴへの機内で会話の口火を切ったのはトニーだった。「おれに考えがある」と彼は言った。「アンチ・ミュージックをやるんだ」。(略)

[だがプラグド・ニッケルに入ると]ライヴ・レコーディング用の機材がセットされていた。「ああ、まずいな」と私はトニーに言った。「あれはやらないほうがいいかな?」。(略)だが恐れを知らないトニーは言った。「何を言ってるんだ。もちろん、やるぞ」

 ファースト・セットが始まる前、ロンとウェインを入れて――マイルス抜きで――打ち合わせをした。二人ともそのスタイルでやることに賛成した。(略)

盛り上げるべきところで静かに演奏して勢いを削いだ。トニーも同じように(略)バスドラムを思い切りキックすべきところでシンバルをそっと叩いた。私たちはまた曲が徐々に静まるところで、逆に激しさを強めた。

(略)

 予期したとおり、マイルスは何も言わなかった。彼はいつもとは違うことが起こっているのを誰よりも早く察知したはずだ。しかし彼は私たちに訊かなかったし、私たちも彼に告げなかった。彼はそれを受け止めていつものように演奏した。彼のプレイは最高だった。そしてウェインも素晴らしかった。私は演奏しているあいだ、ずっと手探り状態だった。(略)

[ひどいサウンドだろうとプレイバックは聴かなかった。17年後レコード化されたときもすぐには聴かなかった]

左手を使うのを止めろ 

『マイルス・スマイルズ』のレコーディングの最中、彼は「ハービー、左手を使うのを止めろ」と言った。

(略)私は左手を脇に垂らした。そのため右手によるラインしか演奏できなくなった。(略)

[左手によるハーモニーがつけられないため]演奏のなかにたくさんのスペースが生じてしまう。それこそマイルスが求めていたことだった。

 最初のうち、スペースを埋めるためについ左手を使いたくなるのを我慢しなければならなかった。だが、しばらく経つと曲がそれまでとは違って聴こえるようになった。右手は本能的に新しいラインを紡ぎ出していた。自覚していなかったが、私はオーソドックスなリズムとハーモニーに捉われすぎていた。つまり、右手が左手に頼りすぎていたのだ。左手を使わないことによって、私の右手は自由に動かせるスペースを得た。それはまさに天啓だった。

(略)

[レコーディング後も]私はライヴで左手を脇に垂らしたまま、右手だけで演奏し続けた。クインテットに在団しているあいだ、私たちは何度となくそのような大胆なアプローチに挑戦し、飽くことなく新しいアイデアを探求していた。

 『欲望』

[ミケランジェロ・アントニオーニから映画スコアの依頼があり初めてのファースト・クラスでロンドンへ]

試写がスタートした。映画のシーンはすべて美しかったが、内容はさっぱり分からなかった。(略)

“まいったな。何だ、これは?”(略)いったいどうやって書けばいいのだろう?(略)

[制作会社の用意した五つ星ホテルのスイートで数週間贅沢な生活、スウィンギング・ロンドンのセレブパーティ三昧。]

 私は核心に踏み込んで質問した。「この映画が何を語っているかについて、スタッフの人たちはみな異なった意見を持っているようだ(略)あなたの頭のなかにある考えを正確に知っておきたい」(略)

 しかしアントニオーニはこう言った。「どの解釈も正しい。私はいくつかの出来事をつなぎ合わせた。見る人は、それが何なのか、自分なりに解釈することができる」。

(略)

「アービー、芸術とは何だと思う?」(略)

 私が答えに苦しんでいるのを見た彼は、私に代わって自分で答えた。「芸術などというものはないんだよ」と彼は言った。「個々に絵画、音楽、彫刻などがあるだけだ。それが受け取る側の心に響くか響かないか、ということなんだ」。そして少し間を置き、こう付け加えた。「芸術なんてものはない――あるのは作品だけだ」

(略)

 最良の音楽はリスナーを刺激し、その創造性に働きかける。そしてリスナーに独自の解釈を生み出させ、ストーリーの一部になりたいと思わせる。自らを解き放つことは容易ではない。しかし映画においても音楽においても美術においても、制約から自分を解き放つことによって、アーティストと観客双方の前にまったく新しい地平が立ち現れるという真理を、アントニオーニは私に教えてくれた。私は自分の音楽においてそれを推し進めようと思った。(略)

[ロンドンのミュージシャンの水準が低く満足のいく録音ができない。映画会社としては税金の関係上イギリス連邦のミュージシャンでなければまずい。カナダのミュージシャンで録音すると嘘をついてトロントに行き]

私は急いで飛行機に案り、トロントからニューヨークに向かった。ニューヨークで、できるだけ早く、ジャック・ディジョネットロン・カーターフレディ・ハバードジョー・ヘンダーソンなどの一流ミュージシャンをスタジオに集めた。レコーディングを終え、出来上がったテープの箱に“カナダ”と書き、それを携えてロンドンに戻った。手渡したテープを聴き始めたアントニオーニは、すぐに分かった。「これはジョー・ヘンダーソンかい?」と、彼は目を輝かせながら言った。「ドラムスはジャック・ディジョネットだな?」。根っからのジャズ・ファンだった彼は、楽器のサウンドとプレイ・スタイルを聴いて誰が演奏しているかを言い当てることができた。(略)

その後、『欲望』のサウンドトラック盤が発売されたとき、ニューヨークのミュージシャンの名前がジャケットに載り、すべてが明らかになったが、それまではアントニオーニと私しか知らない秘密だった。

『スピーク・ライク・ア・チャイルド』

『マイルス・アヘッド』を聴いて、感動のあまり涙がこぼれた。曲もアレンジも素晴らしかった。初めて聴いた日、立て続けに五回もそのレコードをかけたと記憶している。それまで聴いたなかでもっとも美しいレコードだった。いまに至るも『マイルス・アヘッド』は私がいちばん好きなアルバムのひとつだ。いまでもそれを聴くと目に涙が浮かぶ。

(略)

『処女航海』の次のレコードを作ることになったとき、私はギル・エヴァンスサウンドの精髄を捉えた曲を録音したいと思った。だが同じ楽器編成にはしたくなかった。私は不可能に挑戦することにした。最小限の数のホーンを使ってギルのサウンドの核心に迫ることはできないだろうか?

 ギル・サウンドの核心をなすカラーとニュアンスを捉えるためには、少なくとも六本のホーンが必要だ[が不可能に挑戦するため](略)

私は三本のホーンを使うことに決めた。

 だけど、どの楽器を使えばいいだろう?(略)私はまずアルト・フルートとフリューゲルホーンを選んだ。だがもうひとつのホーンをどれにするか、なかなか決めることができなかった。マイルスは「バス・トロンボーンだ」と言った。(略)

楽器は決まったが、どうやってアレンジしたらいいだろう?[電話でジョー・ザヴィヌルに相談](略)

 ギル・エヴァンスのアレンジに耳を凝らすと、ベースが多少カウンターメロディを弾いているように聴こえた。ギルはときおりチューバも同時に使ってそれをやっていた。ビッグ・バンドの標準的なアレンジではなかったが、その手法はサウンドに安定感を与えていた。同じような手法を使いたかったが、トロンボーン奏者にベースの役割をもたえると、パレットで使えるホーンはたった二本だけになってしまう。ギルが用いるある種のカラーは、それだけを取り出すとハーモニーがぶつかっているように聴こえるが、音楽の流れのなかではまったくぶつかっていない。彼はどのようにしてそれを実現したのだろう?

 頭のなかでいろんな考えが渦を巻いているとき、ジョーが言った。「ハービー、こうしたらどうだろう。まずピアノから離れるんだ」。彼が提案したのは、ピアノで音を出さず、頭のなかでいろんな楽器の音を聴きながらアレンジを書けということだった。「そうすれば」と彼は言った。「ピアノのラインをなぞることから逃れられる」。(略)

「それから」とジョーは続けて言った。「ホーンが演奏するラインをメロディックなものにする必要がある」。通常、メロディを演奏しないホーンには垂直的なハーモニーが施される。(略)「たとえメロディ同士がハーモニー的にぶつかったとしても」とジョーは言った。「メロディのもっている力によって衝突は避けられるだろう。つまり衝突しても衝突には聴こえないはずだ。それはある種のスパイスのように作用し、耳に心地よく響くだろう」。(略)「おれを信じろ。うまく行くよ」とジョーは言った。

(略)

おそらくリスナーの多くはこのレコードにおけるギル・エヴァンスの影響に気がつかないだろう。だが私にとってそれは明白だった。私は三本のホーンから得られたカラーをとても気に入った。いずれ自分のバンドをスタートさせるときはこんな楽器編成でやりたい、と考え始めていた。

 その日が近づいているとは思ってもいなかった。

次回に続く。

ハービー・ハンコック自伝 その2

前回の続き。

〈ウォーターメロン・マン〉 

 一九六二年末、私は初めてラテン・グループに入ってライヴを行なった。グループのリーダーはキューバのコンガ奏者モンゴ・サンタマリアだった。(略)

[三日目の夜、ドナルドが兄貴分として確認に来て]

 休憩のとき、ドナルドとモンゴが話し始めた。ドナルドは根っからの学徒で、興味のある人とは誰とでも音楽の歴史や理論を語りたがった。彼はモンゴとアフロ・キューバン音楽やアフリカン・アメリカン・ジャズについて話し込んでいた。モンゴは「この二つの音楽をリンクさせる素材を探しているんだが、いまだに適当なものが見つからない、でも、アフリカから発生した音楽を結びつけるものはかならずあると思う」というようなことをドナルドに語っていた。(略)
するとドナルドがとつぜん「おい、ハービー、〈ウォーターメロン・マン〉をモンゴに聴かせてやれよ」と言った。

(略)

[私の演奏を]頭を振りながら聴いていたモンゴは「続けて弾いてくれ!」と言い、ステージに上がってコンガでラテン・ビートを叩き始めた。彼はそれをグアヒーラ[訳注言う:三拍子を主体とする独特のリズムをもつキューバの農民の歌]と呼んでいた。そのリズムは曲に完全にマッチしていた。ベーシストが私の左手を盗み見て曲の流れをつかみ、ベース・ラインを弾き出した。間もなくバンド全員が加わり、ラテン・フレイヴァー・ヴァージョンの〈ウォーターメロン・マン〉の大ジャム・セッションになった。

 すると、それまで椅子に座っていた客が立ち上がり、カップルでダンス・フロアに向かい始めた。またたく間にフロアは人でいっぱいになった。(略)

演奏が終わると、メンバーは口々に「これはヒットするぞ!」と言いながら私の肩を叩いた。モンゴが「これをレコーディングしてもいいかい?」と言った。

「もちろんだとも!」と私は言った。夢を見ているような気がした。(略)

[23歳にならない]若輩の私が大ヒット・レコードに恵まれたのだ!出版に関するドナルドの忠告のおかげで、かなりの金を儲けることができた。

ACコブラ

[印税でプロモーションツアーに使える車を買うつもりだったが]

「ステーション・ワゴンだって!」とドナルドは顔をしかめながら言った。「冗談だろう」(略)

「ハービー、おまえはスポーツカーが欲しいと思ったことはないか?」

「ないよ」(略)

「いいか(略)ACコブラという新しい車がある。フェラーリを打ち負かしたレースカーの一般向けヴァージョンだ」(略)

[ドナルドに言われるまま、見るだけとショールームに行くが、店員たちから冷やかしの23歳の黒人と鼻であしらわれ]

「六〇〇〇ドルだろ。買うよ。金は明日もってくる」。私は頭にきていた。(略)

[書類にサインしている間に通りかかったジミー・ヒース達が整備士を横に乗せ先に一回り。サインが終わると]

ドナルドが私にジャガーのキーを放り投げ、私は彼にコブラのキーを渡した。そしてドナルドは私の代わりにコブラを運転してブロンクスに帰った。(略)

[半年後ドナルドが乗ってる時にもらい事故で修理に大金がかかったが、第六回生産モデルは]

とてもレアな車であり、価格は私が支払った五八二五ドルの何倍にもなっている。そして私はいまもその車を所有している。

マイルス・デイヴィスクインテット 

[マイルス宅に招かれ「何か弾いてみろ」と言われ無難に〈星影のステラ〉を披露、「いいタッチ」だと言われ、翌年、抜擢の噂が耳に入るも信じられず。だがドナルドは]

「いいか、ハービー、マイルスから電話がかかってきたら、いまは誰のグループでも演奏していないと言うんだぞ」(略)

[でもあなたには恩義があると言うと]

「いいから聞け!」と彼はきつい調子で言った。「もしおまえがこの話を受けるのにおれが横槍を入れたら、おれは鏡に映る自分の顔を見られなくなる(略)マイルスから誘いがあったら、おれの言ったとおりにしろ」

(略)

[翌日マイルスから誰のとこでも演奏してないか確認の電話、それからマイルス宅で三日連続のリハーサル、火曜日にスタジオに来いと言われ]

「マイルス」と私は困惑して言った。「おれはバンドのメンバーになったのかい?」マイルスは階段の途中で振り返った。顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。「おまえはレコードを作るんだ」。そう言い残して、彼は去って行った。

コブラvsマセラティ

[グループ加入前、最後の仕事]

ジュディ・ヘンスキはヴィレッジ・ゲイトに出演するウディ・アレンの前座を務めていた。(略)ライヴが終わったあと、マイルスがクラブに姿を現した。

「車に乗せてやろうか?」と彼は私に訊いた。

「いや」と私は言った。「自分の車で来たから。買ったばかりなんだ」

マイルスは、一瞬、私の目を凝視した。「だけど、それはマセラティじゃないだろ」と彼は言った。(略)

「そんなのじゃないよ」と私は言った。「でも、けっこう格好いいんだ」

 私たちは階段を上り、ブリーカー・ストリートに出た。そこには私のコブラが止まっていた。私がそれを指さすと、マイルスは鷹揚に「ああ、たしかに格好いいな」と言った。そして彼は通りを歩いて行った。(略)

信号のところでマイルスの車が追いつき、私の車に並んだ。彼が私を見た。私も彼を見た。二人とも次に何が起こるかを悟った。信号が青になると、私たちは同時にアクセルを床まで踏み込んだ。

 私たちは六番街を疾走した。信号は瞬時に青になった。私のコブラが彼のマセラティに勝った。二十ブロックほど進み、赤信号でマイルスが追いつくころには、私は悠然とタバコに火をつけていた。私は鼻高々で彼を見た。マイルスは車の窓を下ろして言った。「その車から降りろ」

「何だって?」と私は言った。「なぜだい?」

「そいつは危険すぎる」と彼は言った。そのとたん、まるで見計らったかのように信号が青に変わり、彼の車は急発進して夜の闇に消えていった。

マイルスの謎めいた言葉

 マイルスと共演して素晴らしかったのは、彼が私たちに大きな自由を与えてくれたことだ。彼は、あれをやれ、こんなふうにしろ、とはけっして言わなかった―――探求するための土台だけを私たちに与えた。曲を演奏し、深く入り込めば入り込むほど、私たちは新たなインプロヴィゼーションの地平に分け入った。どの曲も同じサウンドにはならなかったし、途中で曲の見分けがつかなくなった。どんなにお馴染みのジャズ・スタンダードでも、演奏しているうちに予想もつかない展開になった。私たちはそれを“コントロールされた自由”と呼んでいた。(略)

 私たちは毎晩、綱渡りをしていた。たまにマイルスでさえ曲の流れを見失うことがあった。

(略)

マイルスは音楽の構造、音符やキーやコードについては何も話さなかった。彼は自分が創り出したいサウンドを色や形にたとえて話した。あるとき、通りを歩いていた女性がつまずいたのを見て、彼はその女性を指さし、私たちに「あれを演奏してみろ」と言った。

(略)

 初めのうち、私は張り切りすぎた。マイルスに私ができることを見せようとして、必死になりすぎたのだ。マイルスがイントロを演奏するときは、彼のバックで、装飾音や分厚いコードでスペースを埋め、多くの音を使って弾いていた。彼は何度かピアノのそばに歩み寄り、静かにさせるため私の両手を切る真似をした。その仕草はマイルス特有の癖だろうと思っていた。だがのちに、それには重要な意味が込められていたことが分かった。

(略)

あるとき、どのように弾いたらいいのか確信がもてなくなり、何を期待されているのかが分からなくなった。(略)

[マイルスにどうすればいいと訊ねると]

「だったら何も弾くな」と、顔も上げずに彼は答えた。(略)

私はピンときた。そのとき、彼が私の両手を切る真似をした理由を理解した。楽器の音を出さないことにより、その楽器が発するサウンドが大きく変わるだけでなく、曲全体のサウンドも根本から変わるのだ。それが典型的なマイルスだった。

 (略)

 質問に対して謎めいた言葉を返し、その意味を解き明かさせる。これもまた典型的なマイルスだった。

(略)

[ある若手が自分の演奏について感想を求めると]

「おまえはガールフレンドとあんなふうにダンスするのか? あんなふうにキスするのか?」。その若者のプレイには情熱が欠けていた。だがマイルスはそれをストレートに言わなかった。

(略)

 マイルスはまた、つねに自分自身を開拓しようとしていた。デトロイトのクラブで演奏していたとき、彼はトニーと私を振り返り「どうしておれのバックで演奏するときのおまえらは、ジョージのときと同じやり方じゃないんだ?」と訊いた。ジョージ・コールマンがソロをとるとき私たちがリズムを複合させていることに、彼は気づいていた。そうすることによって、私たちの演奏はより自由になった。(略)

 私たちがそうしていたのは、当時ジョージがジョン・コルトレーンに影響を受けていたからだった。トレーンのバンドはリズムと拍子に関して並外れていた。(略)

私はマイルスが馴染んでいたのとは違ったアプローチ、違った雰囲気で演奏をスタートさせた。最初のうち、彼は悪戦苦闘していた。彼は途切れ途切れに短いフレーズをほとばしらせた。トニーとロンと私が彼のバックでリズムを壊し、バラバラにしていたからだ。そこには彼が慣れ親しんだパレットはなかった。それは彼を混乱させた。彼は肩を動かし、身をよじりながら、何とかしてリズムに乗ろうとしていた。マイルスは文句を言わなかった。私たちは一晩中そんなやり方で演奏を続けた。彼のソロは終始不安定だった。しかし翌日の夜、彼は私たちにもっとやれと言った。私たちはリズムをさらに予測もつかないほど不規則に変化させた。だがマイルスは前日より巧く対応し、長いフレーズを吹けるようになっていた。彼はそのリズムを自分のなかに取り込み始めていた。そして三日目の夜になると、彼は凄まじいサウンドでソロをとった。私は彼に追いつくため必死に演奏しなければならなかった。その夜、私はこのバンドがまったく新しいレヴェルに到達したことを知った。

「バター・ノートを弾くな」

[マンネリに陥り]私はもがき苦しんでいた。自分の演奏するすべてが同じサウンドのように感じられてならなかった。私が悩んでいるのを察知したマイルスは、ステージ上で私の背後に来て「バター・ノートを弾くな」とささやいた。

 その言葉が何を意味するのか分からなかった。(略)バターとは何だろう?バターといえば脂肪だ。脂肪といえば過剰だ。私は過剰に弾いていたのだろうか?(略)

コードのなかでもっとも明白な音はサードとセヴンスだ。(略)そこで私はサードとセヴンスを抜かした(略)

コードだけでなく、右手によるインプロヴィゼーションもそのやり方でやってみようと思った。(略)

 クインテットはいっさいリハーサルをしないので、実験は次の日の夜、ぶっつけ本番でやることになった。(略)私のプレイは一貫性がなかったし、随所で中断せざるをえなかった。(略)ぎこちないプレイになったと思う。しかしその夜、私が客から受けた拍手は、その週のどの夜よりも大きかった。彼らは私がアイデアを膨らませ、何か新しいことに挑戦しているのを感じ、それを気に入ってくれたのだ。(略)

私はときどき隣り合った二つの音――セカンド――を弾いた。(略)コードはとても開放的なものになった。そのためソロイストには余裕が生まれ、インプロヴィゼーションの方向についての選択肢が広がった。それは独特のミニマルなサウンドを生み出した。私にとって重要だったのは、それによって音楽とインプロヴィゼーションの作曲的な要素に関し、目の前にまったく新しい世界が開かれたことだった。

 いったんバター・ノートなしで演奏することに慣れると、私はもう一度その音を使って演奏し始めた。いまやそれはバター・ノートではなかった。それを弾かなかったのは、そうしなければいけなかったからだ。もう一度それを弾き始めたのは、そうしたいと思ったからだ。この経験によって私のすべてが変わった。

(略)

 皮肉なことに、何年も経ったあと、マイルスはじつのところ「ボトム・ノートを弾くな」と言ったらしいという噂を聞いた。

トニー・ウィリアムス

 クインテットで演奏し始めたとき、トニー・ウィリアムスはちょうど十七歳だった。それが問題を引き起こした。私たちが出演するクラブに入るには若すぎたのだ。彼はマイルスに言われて口髭を生やした。それでもトニーはティーンエイジャーに見えた。

 クラブのオーナーは合法的にトニーが店に入れるようにするため、いろいろと工夫を凝らした。彼らは未成年の客のためにクラブにロープで囲いをし、その囲いのなかではソーダしか飲めないようにした。またトニーがステージにいるときにはアルコール類を売るのを止めるクラブもあった。あるライヴで、マイルスは別のドラマーを雇ってファースト・セットを演奏した。その間、客は酒を飲むことができた。そしてセカンド・セットではトニーがドラマーを務め、アルコールの販売は休止された。

(略)

 トニーのプレイを愛していたマイルスは、彼のためにいろんな配慮をした。最初の約二年間、私たちはあらゆる曲をアップ・テンポで演奏していた。バラードでさえ速いテンポでやった。通常の三倍も速いテンポで演奏することもあった。(略)

マイルスはミディアムやスローにおける演奏能力が身につくまで、彼のパワーを最大限に生かしたアップ・テンポ・ナンバーを中心に演奏しようと思ったのではないだろうか。

(略)

トニーはマイルスが所有するアパートに住んでいた。(略)彼らはときどき家賃や借金のことで口論していた。トニーは喧嘩っ早く、若いシカが角の威力を試すかのようにマイルスにぶつかった。(略)

 後年になって聞いたことだが、大胆にもトニーは演奏に関してマイルスを責めていたらしい。トニーは憑かれたように学んでいた。さまざまなスタイルについてすべての知識を得ようとしていた。いくつかの曲の構造を最初から最後まで暗記しようとさえした。とつぜん、あたかもそれがみんなで議論していた話題であるかのように「ヨーロッパの和声における旋法の時期は十二世紀にさかのぼる」などとレクチャーし始めることもあった。一心不乱に勉強していた彼は、自分の言葉に関心を示さないマイルスに腹を立てていた。(略)

自分の父親ほどの年の差がある人間に説教することにまったく疑問を抱いていない様子で、「なぜ人の話を聞こうとしないんだ?」とマイルスに食ってかかった。トニーにとって、人が他人を批評できるかどうかの唯一の基準は能力だった――年齢でも経験でもなく、能力だけだった。

ウェイン・ショーター

 ウェインはコンポーザーとしてもプレイヤーとしても並外れていた。彼の心の動きは私の知っているどんな人間とも違っていた。おまけに彼には遊び心と好奇心があり、それが彼の音楽から滲み出ていた。

(略)

ソロに入ると、途中でストローリングをやり始めた。(略)とつぜんウェインは幽霊のような異様な音を出し始めた。彼のサックスから出るのは、空気が震えるような、あるかないかの微かな音だった。それを聴いてトニーと私は顔を見合わせた。“うわ、この音はいったいどこから出てくるんだ?”と私は思った。そのささやき声のような音は奇妙に美しかった。そんなサウンドは聴いたことがなかった。

(略)

だが、いったん話し出すと私たちを大笑いさせた。彼は物真似が得意だったし、多くのジャズ・ミュージシャンと同様、言葉遊びが好きだった。車に乗るときは「おまえはフロントに乗れ、あとのみんなはブラックだ[訳注: back を black と言い換えている]」と言った

(略)

ウェインは(略)ヨーダを思わせた。喋り方は風変わりだったが、とても思慮に富んでいた。(略)ファンタジーとコミックに入れ込んでおり、好んでスーパーマンのTシャツを着た。

(略)

 マイルスはウェインを愛した。ウェインが完璧な曲を書いたからだ。

次回に続く。

ハービー・ハンコック自伝

ジャズは瞬間に生きる音楽 

 一九六〇年代半ば、スウェーデンストックホルム。私はマイルス・デイヴィスクインテットのピアニストとしてコンサート会場のステージにいた。(略)

天才児トニー・ウィリアムスは炎のように叩きまくり、ロン・カーターの指はベースのネックを目まぐるしく上下し、ウェイン・ショーターのサックスは高らかに咆哮している。五人が一体となり、音楽は淀みなく流れている。(略)〈ソー・ホワット〉を演奏しており(略)

ソロを構築していたマイルスが、これから楽想を自由に羽ばたかせようとする直前に一息ついた。そこで私はコードを弾いたが、それは不適切な音だった。(略)

私はとっさに「あっ、しまった」と思った。みんなで築いてきた素晴らしい音の楼閣を私が壊してしまったのだ。

 マイルスはほんの一瞬、間をおき、奇跡的にも私の弾いたコードが正しかったと思わせる音を吹いた。その瞬間、驚きのあまり私の口はあんぐりと開いてしまった。いったいどんな魔力が働いたのだろう?そしてマイルスは自らを解き放って奔放なソロを展開し、この曲に新しい生命を植え付けた。観客は熱狂していた。

(略)

 その夜ステージで何が起こったのかを完全に理解するには数年かかった。私はそのコードを弾いたとたん、間違った音だと判断した。だがマイルスは判断しなかった――彼はただ演奏された音を聴き、とっさにそれを挑戦だと受け取った。“どうやったらそのコードをおれたちがやっている音楽に溶け込ませることができるか”と考えたのだ。

(略)

ジャズは瞬間に生きる音楽なのだ。自分を信じて臨機応変に対応するのがジャズだ。それができなければ、音楽においても人生においても、道を切り拓くことはできないし発展することはできない。

強迫的な探求心

 ごく若いころから、私は自分がやっていることに完全に没頭するという才能――というよりも衝動があった。私はメカニカルなものに魅了されていた。何時間もかけて置時計や腕時計を分解し、内部を覗いていた。私には装置がどのように動いているのかを知りたいという抑えがたい欲求があった。(略)理解するまでひたすら調べなければ気が済まなかった。(略)両親からピアノを与えられると、私の強迫的な探求心の対象はピアノの弾き方を学ぶことに移った。

(略)

兄と私は同じ先生、ミセス・ジョーダンにレッスンを受けた。(略)私たちが学んでいたのはクラシック音楽だった。当時は黒人といえども、学ぶのはもっぱらクラシック・スタイルのピアノだった――ブルースやR&Bを教えるレッスンはなかった。

初めてのジャズ 

 初めてジャズに出会ったのはWGES局のDJアル・ベンソンがやっているラジオ・ショウを通じてだった。シカゴの黒人向けラジオのゴッドファーザーとして知られるベンソンは一日中、番組でレコードをかけていた。ほとんどはブルースやR&Bだったが、ときおりジャズを挟み込んでいた。初めて興味を惹かれたジャズ・パフォーマンスは、ギタリストのジョニー・スミスがスタン・ゲッツのテナー・サックスをフィーチャーして演奏した〈ヴァーモントの月〉だった。美しいバラードだった。とはいえ、とつぜんジャズに開眼したわけではない。一九五二年のそのころ、私は近所の子供たちと同じように、もっぱらR&Bを聴いていた。

 私たちは街角に立ち、オリオールズ、ミッドナイターズ、ファイヴ・スリルズ、レイヴンズなど、好きなグループの歌い方を真似て歌っていた。少しあとにはフォー・フレッシュメンを聴くようになった。

(略)

三〇年代に人気があったバーバーショップ・カルテットよりはるかに洗練されたハーモニーを駆使していた。彼らはメジャー・セヴンスや、ときにはナインス・コードまで使い、とてもジャズ風なハーモニーで歌った。私はその歌唱に魅了され、そんなふうに歌いたいと思った。もうひとつのコーラス・グループ、ハイ・ローズも好きだった。(略)

 このタイプの歌が大好きだった私はハイドパーク校でヴォーカル・グループを作った。

(略)

[同級生のドン・ゴールドバーグ]のプレイを聴いたことが、私の人生を変えた。(略)

ドンのトリオ(略)演奏が始まると、私はドンのピアノに聴き入った。彼のパフォーマンスは私を打ちのめした。彼はインプロヴァイズしていたのだ!私たちの年の子供がインプロヴィゼーションをやれるとは思いもしなかった。もっと年上でなければできないと思い込んでいた。

(略)

[自分は]楽譜を読むことにかなり長けていた。だがドンは(略)瞬間的に自分で音楽を創り出していた。(略)

「どうやってあんなふうに弾けるようになったの?」と私は訊いた。「君のやったことを全部は理解できないけど、とても良かったよ、ぼくもあんな弾き方を覚えたいんだ――ジャズの弾き方をね」

 ドンは笑って答えた。「ぼくように弾きたいのなら、真っ先にやらなきゃいけないのはジョージ・シアリングのレコードをくことだね」。

(略)

走って家に帰り、玄関を開けて叫んだ。「ママ、ジョージ・シアリングのレコードを買いたいんだ!」(略)

「ハービー、もうもってるじゃないの」(略)

あんたは『これは欲しかったやつじゃない』って怒ってたけど、あれがジョージ・シアリングのレコードよ。戸棚を探してごらん」(略)確かにあった。(略)私はそれらを一度聴いたことがなかった。ジャズは年上の人たちのための音楽であり、自分には関係ないものだと思い込んでいた。

(略)

〈四月の思い出〉のレコードに針を落とすと、シアリングの演奏が聴こえてきた。ドンと同じサウンドだった!私はこれだと思った。ドンにできるのなら私にだってできるはずだ。私の練習はその日の午後からスタートした。

(略)

好きなフレーズを見つけ、それを何度も聴いて音の流れを解明しようとしたのだ。右手によるシングル・ノートのインプロヴィゼーションだけを識別することまでやった。

(略)

 いったん正しい音を把握すると、今度はレコードに合わせてそれを演奏しようとした。だが最初のうちは同じように音を響かせることができなかった。そこで私はひとつのフレーズができるようになると次のフレーズへというぐあいに、練習して習得するフレーズをどんどん長くしていき、最終的にレコードと同じように演奏することができるようになった。

 私は好きなフレーズを見つける作業を続けた。そしてそれらを採譜し、譜面に起こした。そのときは考えもしなかったが、いまから思うと、あのころ私は耳の訓練をしていたことになる。フレーズを学びながら同時に相対音感を養っていたのだ。(略)

エロール・ガーナーオスカー・ピーターソンなど、他のピアニストのものまで広げていった。学べば学ぶほどもっと学びたくなった。

 このように練習したおかげで、私はパターンを認識できるようになった。

 バードに誘われニューヨークへ

[ライヴのあとドナルド・バードに相談]

「いつもアップ・テンポの曲には苦労するんだ。何かそれを克服するいいアイデアはないかな?」

「ずいぶんにバリー・ハリスがこんなことを教えてくれた(略)『速い曲ができないのは自分が速く演奏するのを聴いたことがないからだ』ってな」。

(略)

ある特定の曲を数コーラス練習する。(略)さらにその構造に沿ったソロを数コーラスに書く。それが終わったら、今度は譜面に書いたものを演奏する。その練習を何度も繰り返し、だんだんテンポを速くしていく。

(略)

「ハービー、バンドの連中ともしたんだが、おれたちはおまえのプレイが気に入ったよ。バンドに入ってもらいたいと思ってるんだ(略)

だけど、そうなればおまえはニューヨークに来なきゃならない。どうする?」

(略)

「ぜひ行きたい(略)だけど、まず母に話してもらいたいんだ」私はすでに二十歳になっていたが、家のなかですべてを決定するのはいぜんとして母親だった。(略)

[心配する母に]

二十八歳のドナルドは独特の明快な口調で言った。「心配ありません!ぼくがハービーの面倒を見て、元気にやれるよう気をつけます」

話は決まった。(略)

[こうしてシカゴからマンハッタンへ] 

 ニューヨークに着いて最初の数週間で厳しい現実を思い知った。(略)[成功しているドナルド]のクインテットのメンバーならかなりの金を稼げるだろうと思っていた。しかし(略)ライヴは思ったほど多くなかったし、受け取るギャラも期待していた額より少なかった。

(略)

[色々あってドナルドとルームシェアすることになったが]

寝室がひとつしかなかった。居間にソファ兼用のベッドがあり、そこが私の寝る場所だった。おまけにジャガーは[ガールフレンドのもので]ドナルドの車ではなかった

 〈ウォーターメロン・マン〉

「ハービー、そろそろ自分のレコードを作る頃合いだな」とドナルドは言った。「いや」と私は彼に言った。「まだ無理だよ」「もう大丈夫だ」と彼は言い張った。「おれがどんなふうにやればいいか教えてやろう」

(略)

若手アーティストの場合(略)ニワトリが先か、卵が先かという問題だった。自分がレコードを作って売れるということを証明しなければレコードを作ってもらえないのだ。

 だがドナルドには戦略があった。(略)「アルフレッド・ライオン(略)のところに行き『私は徴兵された』と言うんだ(略)そして兵役に就く前にレコードを作りたいと彼に言え」(略)「それから、おまえはレコードの半分を自分のために作り、あとの半分をブルーノートのために作らなきゃならない」(略)

半分は自分のオリジナル作品でもいいが、残りの半分は(略)みんなが知っている曲をやらなくちゃならない(略)それによってレコードが売れるんだよ。これはビジネスなんだ、ハービー」

 二、三日かけて、ドナルドの忠告について[熟考し](略)

“なぜオリジナル曲だとレコードが売れないのだろう?”と自問した。(略)

私はアフリカ系アメリカ人としての体験に根ざすものを書きたかった(略)私は黒人だが、北部の都会で育った――綿畑や鎖につながれて働く囚人については何も知らなかった。(略)自分の曲は自分自身の人生に忠実なものにしたかった。そこで“シカゴ出身の黒人としての私自身の経験を物語る曲を書いてみたらどうだろう”と考えた。そのとき頭に浮かんだのが、子供のころによく見かけたスイカ売り(watemelon man)の姿だった。(略)

私は荷馬車が通るときのガタンゴトン、ガタンゴトンという音を聞いて育った。そのリズミックな音は何度となく耳にしたので、それを曲のパターンに取り入れるのは簡単だった。だけどメロディはどうしたらいいだろう?

 私はスイカ売りが叫ぶ歌のような呼び声を覚えていた。「ス~イ~カ~、赤くて、熟れた、ス~イ~カ~!」。彼は窓辺の人々に向かってそう叫び(略)三角形の小片を試食させるのだ。(略)その呼び声はあまりメロディックではなかった。私は路地に面したベランダに座っていた女性のことを思い浮かべた。スイカ売りがやって来ると、彼女たちは「お~い、スイカ屋さん!」と叫んだ。これだこれが私の曲のメロディだ。

(略)

 ドナルドの忠告どおり、まず私はフランク・ウルフとアルフレッド・ライオンにもうすぐ徴兵されると話した。そして、すでにオリジナルを三曲書き上げており、それに二曲のスタンダードと一曲のブルースのカヴァーを加えてレコーディングしたいと説明した。(略)

[所望されオリジナル曲を聴かせると]

ルフレッドが「あと三曲オリジナルを作れるかい、ハービー?」と訊いた。これには驚いた。プルーノートが全曲オリジナルで固めた新人若手アーティストのアルバムを作ることなど、ほとんどなかったからだ。

(略)

 しかしその時点で、話し合いはまだ終わっていなかった。ミーティングに出かける前、ドナルドは私にもうひとつの件について助言してくれた。「おまえが自分の出版社を立ち上げるのを手伝ってやろう。彼らはおまえの作った曲を自分たちの出版社に預けろと主張するだろう」と彼は言った。「でも、おまえはノーと言うんだ」。私はドナルドにそれは怖くてできないと言った。そんなことを言ったらブルーノートがレコード契約を止めると言い出すのではないかと恐れたのだ。「いや、心配無用だ」とドナルドは請け合った。「彼らはおまえのレコーディングをやるよ」

(略)

ルフレッドが「もちろん、きみの曲は私たちの出版社に預けるだろう?」と切り出したとき(略)

「もう自分の出版社に登録してしまったんで」[と嘘をついて言い訳](略)

「そういうことなら」とフランクに目をやりながらアルフレッドは言った。「きみのレコーディングはできないな」。そのとたん、体からすべての空気が抜け出たように感じた。落胆のあまり言葉も出なかった。(略)

[悄然と]ドアノブに手をかけたとき、とつぜんアルフレッドが言った。「ハービー、ちょっと待ってくれ」。二人で話し合ったあと、アルフレッドが言った。「オーケー、きみは自分の曲の出版権をもったままでいいよ」

(略)

翌日、自分の音楽出版社、ハンコック・ミュージックを設立した。(略)〈ウォーターメロン・マン〉がヒットし、私は多額の金を得た――もしかしたらブルーノートに払い込まれていたかもしれない金だ。ドナルド・バードのおかげで、私は再度、ジャズのキャリアのなかで大きな飛躍を遂げることができた。

ルディ・ヴァン・ゲルダ

ルディのスタジオは聖堂のような螺旋状の天井になっていた。音響が秀逸なだけでなく、内部のスペースも、ミュージシャンが個別に部屋に入ったり、高いバッフルでメンバー同士が遮断されたりすることなく、半円形に並んで演奏できるようデザインされていた。このユニークなデザインにより、ミュージシャンはお互いのプレイを聴くことができたし、全員がひとつの部屋で演奏しても、ルディはミックスによって各ミュージシャンの音をコントロールすることができた。

 ルディは自分の録音機材の扱いに関し、細心の注意を払っていた。彼はスタジオで何かに触るときはいつも白い手をはめた。ミュージシャンは機材に自分で触らないほうがいいことを知っていた。何かを動かしたいときは、たとえマイク・スタンドでも、彼に頼んで動かしてもらわなければならなかった。自分でそれをやったら、彼はセッションを中断させ、文句を言いながらコントロール・ルームから出てきた。ルディはそれほど大柄ではなかったが、怒ったときの彼は人を震え上がらせた。誰かが何かに触ったら、彼はその人間を殺しかねないような目でにらみつけた。

 私はその後もルディと一緒にたくさんのレコードを作った。彼と私は家族のような間柄になった。最初のレコーディング・セッションから何年も経ったあとのことだ。スタジオにいた私はヘッドフォンの端子を別のジャックに差し込まなければいけなくなった。「ルディ」と私は言った。「ヘッドフォンを動かさなきゃならなくなった。おれの側にあるジャックに差し込みたいんだ」。彼が「いいよ、動かしてくれ」と答えたとき、部屋にいた周りのミュージシャンは驚いた顔で私を見た。私は自分はすでに死んで天国にいるのかとさえ思った――あのルディがヘッドフォンを自分で動かしていいと私に言ったのだ!彼を見ると、小さな笑みを浮かべている。そのとき私はルディとの関係が、ある種の地点に到達したことを悟った。

 エリック・ドルフィー

深く影響を受けた(略)エリック・ドルフィはアヴァンギャルド・ジャズのリーダーだった。(略)

私は彼のサウンドを聴いて、その音楽に敬服していた(略)

私はエリックから一九六二年秋に行なう短いツアーへの参加をオファーされた。(略)

「演奏するための曲はあるの?(略)それとも素材なしにいきなり演奏するのかい?」

 エリックは笑って「ああ、曲はあるよ」と言った。「それにコード・チェンジだってある」

 その言葉は私を驚かせた。彼の音楽はそんなふうには聴こえなかったからだ。

(略)

 エリックは偉大なミュージシャンだった。思いやりのある穏やかな男で、いつも他のミュージシャンを励まし、新しいアイデアを進んで取り入れた。彼はジャズの伝統とアヴァンギャルドのあいだを綱渡りで歩き、他に類を見ない個性的な音楽を生み出した。

(略)

 一九六二年から六三年にかけての冬、エリック・ドルフィと過ごした数週間は、私の音楽的発展のなかで決定的に重要なステップになった。私は初めて、緩い構造の音楽にいかにして自分を適応させるかという課題に取り組んだ。エリックから学んだことは、のちのマイルス・デイヴィス・グループでの演奏に影響を及ぼしたし、さらにはエムワンディシ・バンドの結成と進化にもインスピレーションを与えた。エリックとの共演はジャズで何が可能かということについての視野を広めてくれた。

次回に続く。