見田宗介対話集 山田太一、吉本隆明

超高層のバベル 見田宗介対話集 (講談社選書メチエ)

超高層のバベル 見田宗介対話集 (講談社選書メチエ)

  • 作者:見田 宗介
  • 発売日: 2019/12/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

山田太一「オウムを生んだ母子関係の力学」

『大航海』1995年8月掲載

母子関係と日本社会:「オウムを生んだ母子関係の力学」

山田 見田さんは、お母さんはご健在ですか。

見田 母は、僕が七歳のとき、死んだんですよ。

山田 私も一〇歳の時に母を癌で亡くしました。やはり戦争末期です。だから、母というもののしんどさ、そういうものはなかったといえばなかったんです。よさというか、甘美さもなかった。ですから、ちょっとそこらへんが分からないところもあるんです。自分の女房と息子との関係を見ていると、それは甘美でもあるかもしれないけれど、けっこう息子もしんどいだろうな、という気もしています。

(略)

泉鏡花もわれわれと同じくらいの時に母親を亡くしているんですね。鏡花はもうずっと母恋しという感じで生涯を終えましたね。逆に言うと、非常にイリュージョンを作りやすい年齢だった。ただ、僕はそういうイリュージョンを作り損なってしまったというか、母子関係についてあまり自分の経験から出発することがちょっと難しいところがあって、今日の対談はどうなるか(笑)。

(略)

[子が育ち]

母親が、ここでもう子どもは離れていくんだ、というリアリズムを受け入れられるかどうか。しかし、母親としては、一歩も二歩も後退して「さあ、あなたは私の手から離れなさい」と言うことがなかなかできない。なぜかと言えば、一つは母親がやはり個の確立をしてしまい、そしてその個の拡張が広く社会の中で羽ばたけないために、不自然に強く子どもに及んでいるからでしょう。子どもが生成子的な母性を必要としなくなったあと、母の個の行き場所が狭い。その皺寄せが子どものほうにいっているのでしょうね。

(略)

母性を脱して、女としての個の確立欲はあるんだけれど、それを社会が満たしてくれない。まだ男性社会ですから。(略)

母親が子どもに痕跡をいつまでも残しておこうとする。今、母性と「女性」性というような力が非常に強くなってきているから、男の子が飛び出せない。飛び跳ねられない。母性から抜けるための一つの契機としての性欲が衰えてきている、という話がありますね。それは、そういうお母さんたちの強い力が影響を与えているのではないでしょうか。

(略)

生成的な母性は、多くの場合、家族は維持していたほうがいいわけですね。ところが離婚したりして家族が壊れた場合、それでもやはり維持するんだ、という意識を強くもつためには、超越的なものをもつ訓練をしていないと維持できないでしょうね。そういう意識が非常に母性社会ではもちにくいと思うんですね。非常に生成的に家族を作っていって、それが壊れたとき、それでもなおかつ自分を抑制して秩序を維持するためには、ただ生成的では難しい。何か超越的なものが欲しいという欲求、それを父親的と言っていいかどうか分かりませんが、そういうものをもちたいんだけど、今の父はそれをできないでいるのではないでしょうか。

 いわば母性の範囲で「そんなに揉めることはないでしょう」とか「温和でいましょうね」と言っているうち、どんどん平穏の価値ばかりが高くなってしまってきて、平穏であること自体が価値の高い社会になってしまった。ちょうど長生きの価値が高いと言っているのと同じでね。どういう長生きか、という質の問いかけがない。「おまえの長生きの仕方じゃだめだよ」という言い方が少ないのと同じで、平穏な家族ならとりあえずいい、ということになる。その抑圧は、すごく強くなっている。

 平穏な家族を維持する、父親を含めた母性の世界から飛び出そうとするのが、やっぱり宗教、オウム真理教みたいなものとか、超越的なもの、家族から飛躍できるものとしての宗教という形になっている。

(略)

僕は以前、小市民生活をうんと批評するドラマを書こうと思って、けっこう意気込んで書いたことがあるのですが(『早春スケッチブック』)、視聴率が低くて、息も絶え絶えで終わりました。生活実感派、小市民派に対して超越的世界を差し出す父性というのは、ほとんどリアリティを失っているんですね。仮にあっても、商業文化の中では抑えられてしまう。せいぜい趣味的な部分ですね、幻想文学で逃れるとか。

(略)

そういうところで、小市民万歳を切り崩すところを探さないとね。あからさまにニーチェみたいなふうな形で出ていくとコテンコテンに叩かれてしまう(笑)。でも、実は超越的なるものを必要としている社会だと思うんですよ。だから、いったん火がつくと、ドドッと小市民否定にも行きやすい。ガラッと変わる怖さがあると思いますね。

(略)

見田 今の話とつながると思うんですけど、アメリカ人の場合は、どんどん家族を作り直しているわけですね。(略)

第二次の家族というか、一回幻滅したあとに来る家族をシニカルに作り直して、何回も作っているように日本人の目には見えるけど、実際のアメリカ人というのは、そのつどロマンチックな感じがしているように見える。例えば、何回も結婚しているアメリカ人から手紙が来るとすると、そのたびに「今度は本当に素晴らしい人と出会った!」とか書いてある(笑)。こっちは、あ、また、と思うけど(笑)。アメリカ人は、第二次家族をそのたびに第一次の家族のように大事にして、でも、なかなかそうはうまくはいかないので、また壊れてしまったりする。日本人は、第一次家族に幻滅しても、表面上は保つ。

 言ってみれば、第一次家族をそのまま第二次家族にするでしょう。(略)メンバーは同じで、規約だけを変える。いわば第二次の家族として、平穏でいこう、という感じでね。

(略)
山田 (略)以前、『岸辺のアルバム』に出演した人たちが集まったことがあるそうなんです。僕はいなかったんですけど。そこで、俳優さんたちが、あの頃の家族は実に不機嫌だったなあ、と言ったそうなんです。全体に不機嫌というか、怒っているというか。母子関係で言えば、お母さんも子どもも不機嫌だった。今はみんな機嫌がよくなったね、と杉浦直樹さんなんかが言って、みんなでそうだって共感したという話を聞いたんです。

見田 面白い。そして、不気味な話ですね(笑)。

山田 そうなんです。機嫌がよくなった分がオウムにつながったというのかなあ。つまり醒めていて、いまさら争ったり、「お母さん不倫はだめだ」とか、言わなくなってしまった。いわば見田さんのおっしゃった第二次の醒めた家族を形成して、それは表面は昔よりずっと機嫌がいいんだけれど、実はものすごく内部に、人によっては、諦めがあったり、否定性があったり、超越的なるものを求めていたりしている。

(略)
見田 オウムに惹かれた人が相談に来たことがあるんです。(略)今考えると全部理科系の学生なんですね。

(略)

なんで来るかというと、世間で言われているとおりで、書いてあることが面白いので、ちょっと行ってみた、そしたら自分の膝も浮いたとか(笑)、教祖はすごいと言うので、どんなものでしょうと相談に来るわけです。でも、ぼくもインドに行ったりしてますけど、そのくらいのことは何でもないんですね。ヨガなんかちょっとやれば、日本人から見て不思議なことはすぐできるようになるし、大したことはない。だから、学生には、きみが言ったことは疑わない、本当だと思う。たぶん浮き上がったりもするだろう、だけどそれがなんなんだ、と言うんです。空中浮遊したから人が救えるわけでもないし、第三世界の飢えがなくなるわけでもないしね。きみが言ったことは疑わないけれど、それは大したことないことなんだ、と言ったんですね。その後、思いとどまったか、入信したのか、来なくなったから分かりませんけど。西欧近代的な見え方だけでずっと育ってきたから、ちょっとその外部のリアリティに触れると世界観が崩れてしまうんですね。オウムに理科系の人が多いのは、とても納得できるんです。

(略)

山田 父の役割というのは、生来的にはないのかもしれないけど、今は必要としているんじゃないか。それなら意図して父性を作ろうじゃないか、という欲求はリアルじゃないか、という気がする。例えば、神戸でボランティアをやりたい、とみんな言ったりする。あれは家族関係ではない世界、別の人間関係を求めていることでもありますね。認知されたいという欲求は、親が見ていれば満たされるというものではない。やはり、もっと社会的に自分を認めてくれる人を欲している。そういうことを含めて、動物的な母子関係だけではないものを、何か欲している。ただ、生成的な関係と違って、後天的な関係は非常にヘンな方向にいく危険性ももっている。

(略)

見田 フィクションとか情報の中で生きて自己増殖していくんだけど、それが実際には外の世界を巻き込みますからね。でも、ナチズムなんて、もっと大きな規模で、そういう幻想をもっていたわけでしょう。だから、ユダヤ人を何人殺しても平気だった。天皇制だって、そうだった。あの頃は、一億総マインド・コントロールだったわけです(笑)。ある意味では、オウム程度のものが出てきて、いろんなことを学んだというのは、もしかしたら、まだよかったかもしれない。あれが、いきなりもっと大きなスケールで出てきたら….。

(略)

今、ナチズムとか天皇制を言いましたけど、基本的には、戦後民主主義だって――被害はそれと比べれば、はるかに少ないけれど――マインド・コントロールと言えるし、今の僕たちだって何らかのマインド・コントロールの中にいるわけです。人間というのはマインド・コントロール内存在だと思うんです。

(略)

その中で、どういうマインド・コントロールを選ぶか。あるいは、複数のマインド・コントロールを相対化する目をもつとか。そういうことしかないと思うんですね。(略)

マインド・コントロールは自分たちの外にある、と考えるのが、いちばん危険だと思うんす。「自分たちはかかっていない」という思い込みが、いちばん危ない兆候ですね。しかし、世間の論調は、ほとんどそうですね。オウムの人たちだけマインド・コントロールされていると思っているけど。

(略)

五〇年前だって、一億人がかかっていたわけですから。

山田 お母さんたちが戦争は二度とごめんだ、というメッセージを強くもってらっしゃった時期がありましたね。僕だって戦争は二度といやだけれど、その延長線上の平穏至上ではやっていけない部分を子どもたちはもっている、ということですね。つまり、戦争さえなければ質は問わない、というイデオロギー。それでは済まなくなってきた。(略)

だから、何かを本当に求めている。心を紛らわすものではなく、満たすものが欲しい。でも、母親は、お小遣いもあげているし、何か文句あるの、と言う。(略)

だけど、生の質を、多くの場合は無意識に、ある数の子は意識的に求めている、ということですよね。

(略)

吉本隆明「世紀末を解く」

東京新聞』1997年1月掲載

根柢を問いつづける存在:「世紀末を解く」

吉本 (略)[京都での講演で]「京都は、香港とかシンガポールといちばんよく似ているんですよ」てなことを言ったら、みんなにいやな顔をされたんですが(笑)、本当にそうなんですね。ハイテク産業は盛んだし、ちょっと中心から外れると田畑などの日本の古い原型的な自然の光景もある、不可思議なところなんですね。

 原型的ということと近代以降的ということが二重写しになっている地点があり、それがうまく統合していけば、ギャップと思っていることが解けていくような気がします。見田さんの、日本なりの近代というのと、ある普遍的な現代というのと、ある原型的な共通性という問題を、僕が決めつけたり単純化せずに、この二重写しのところをきちっと忍耐強く考えれば、僕らの焦燥感や強迫観念は解けていくと思えますね。

(略)

世代的に、本当の市民感覚は僕にはないのかもしれませんね。おまえはまだ戦争中のファシズムや軍国主や天皇主義を引きずってるぞ、と言われると、ある程度、納得できるところもあるんです。ですから、本当の意味で現代の社会に適応できていないのかなあ、という気もします。

 でも、自分が戦後を生き続けてこられたのはなぜなんだと言えば、それはアメリカの占領軍が僕を納得せしめた。占領ってこういうものなのかと驚いて、自分の考え方が変わっていく糸口をつかんだ気がします。民主主義とはこういうものか、と感じた。戦後の日本人から市民主義感覚をつかんできたというのは僕ら戦中派にはあまりなくって(笑)、僕らのあとの世代はアラアラという具合にいつのまにかできちゃっている(笑)。そこへ行けと言われても、そう簡単には行けないぞ、という気持ちが、どっかに残っていてしょうがないですね。

(略)

宮沢賢治への関心も世代による違いがありそうで、賢治はあまりにセイントで超人的すぎるんで、時々まったく無関心になっちまいます。見田さんは、存在論として、自然と人間を外側と内側から融かして一つにしてしまう賢治をよく追求しておられますが、僕なんかはこの人の悪口を言いたくてしょうがないところがあります。すると、この人は人間の嫉妬感情に大変固執したんじゃないか、というところにぶつかります。この人は心理的にそんなところがあった人だぜ、というのが僕の悪口の一つなんです。

 また、賢治は、苦労して泣きながら身につけたものが本当の勉強だ、といったことを詩や童話で強調しますが、この理念は違うと思います。現在性で言えば、教える人が放蕩しようがテニスが好きだろうが、関係ない。また、苦労して涙流して身につけたものがいいんだ、というのも嘘です。鼻歌うたいながら身につけたって、身につくことでは同じです。僕の観点は、そうです。宮沢さんは、苦労の倫理に強調点を打ちます。で、それが賢治の欠陥だと思います。でも、実はそれくらいしか文句のつけようがないわけです。それくらい、この人は超人的で、死を覚悟して、それを実践しているわけです。そういう、ちっぽけな悪口しか言いようがないんです。

 賢治の影響を受けて現在運動してる人もいるけど、それは左翼的な宗教性のヒューマニズムに近いやり方でやっています。でも、それも僕らから見れば、二重写しになります。エコロジカルな人間主義的な運動として現在やっている人もいるんでしょうし、その人たちもそれ以外の目的でやってはいないでしょうが、人間の精神の可能性から見れば、この人たちは、もし戦争中だったら、間違いなくファシズムの運動に行くように見えます。そういう二重写しの観点は、僕らからはどうしても拭えずに、すっきりしないんです。

 でも、課題としては、戦後も半世紀経ってるんですから、これからどうするんだということで言えば、ぐじゃぐじゃ二重写しになってるところばかりに固執してないで、一つの方法で集約できるんじゃないかと思います。

 でも、あえて利点があるとすれば、例えば世論がオウム真理教をどんなに殺人集団だと言っても、僕は「いや、その面だけで言ってはいけない」と思うんです。人間の精神の可能性から言えば、あれは可能性の範囲に入るということを主張したいのは、二重写しの経験からだと思います。そういう部分で、見田さんのようなあとの年代の人から、違う言葉で僕らに橋を架けてもらいたいという気がします。

見田 吉本さんは『宮沢賢治』のあとがきで、きつい仕事や生活のあいだを縫って宮沢賢治の人や作品について感じ、思いをめぐらす時間は、鬱積した雑事を片づけては心せきながら入り込んでゆく解放感にあふれた時間だった、と書かれているのが実に印象的でした。

(略)

[賢治の]無意識というのはフロイトユングの「無意識」よりもっと広がりがあって、宇宙的な存在の無意識のような気がします。そういう「無意識」の水平性や垂直性ということをめぐって、吉本さんはどう捉えられていますか。

吉本 (略)『銀河鉄道の夜』のジョバンニの描写などを考えますと、ふつうの作家の描写と違って、賢治の描写は類例のない描写と感じるところがあります。例えば、ジョバンニの行動を描きながら、同時にまったく違う視線がそこに働いている。それは、あたかも作者のものではないような、違う視線なんです。たぶん、宮沢賢治の独特の無意識の出所がそうさせているんじゃないかと考えます。それは、描写している作者じゃない人の目が描写の中に入っている二重のイメージなんですが、僕らがフロイト流に考える無意識とはちょっと違うと感じます。

 意味としてあるように見えたり、リズム感としてあるように見えたりして、確かに賢治の独特の無意識なんじゃないかと思います。賢治の仏教的な輪廻観からそれは来るんでしょうけど、本当はこの世とかあの世とかの境界を融通無碍に透過してしまう何かを賢治は身につけている感じです。それは名づけようがない不思議なイメージのあり方で、別に賢治が作為したものでもないのかもしれません。

 ですから、おっしゃられたとおりで、賢治の批判をそういう理念の次元だけでやっても意味ないですね。仕方ないから、このイメージのふくらみ方を天才と言うのが無難なんじゃないでしょうか。ふつうの人のイメージよりは次元が一つ多いように思います。

 宮沢賢治の宗教性には、詩や童話の中にはとても出てこないような独特のイメージや怖さがありますね。中国の軍人で詩人でもある人が晩年の賢治を訪ねたとき、何かわけの分からない宗教の話を聞かせてくれて、ただ怖いと感じた、という文章があります。そういう怖さが賢治の言葉にはあって、「銅色の青」みたいな言葉は言いようがなく怖いなと思います。この人は超越的な聖なる感性を積んでいて(略)次第に法華経と直接交感して、それを獲得していきます。そして、晩年になってくると、怖いなと思わせるような宗教性、それはどういう宗派とも宗教とも言えないようなものを獲得していった気がするんです。

 無意識の範囲では、宮沢賢治はそういうものをちゃんともっているわけですが、それを意識的に整えようとすると、科学者ですから、突っかかるものが出てきます。賢治も法華経信者ですから、来世というものを疑ってはいけないわけです。例えば、僕はカトリックの作家の小川国夫に、あんたキリストの再臨を信じてるんですか、と聞いたら、「信じてます」と答えられたことがあります。宗教者としての賢治も、来世は信じていたと思うんです。科学者としての彼、あるいは得体の知れない無意識まで含めた賢治の宗教性を考えると、来世があるということがいちばんネックになっていたのではないでしょうか。

「青森挽歌 」という詩には、妹が死んで「けしてひとりを祈ってはいけない」なんて言って、その突っかかりを破りたいと思っているんですね。それは、ジョバンニが言う「ほんとうの神」、「ほんとうの、ほんとうの神」であり、誰もにとって違う宗教ではなくて、それを賢治は「ほんとう」という言葉で言いたかったんじゃないかと考えます。

 だけど、どうすればその突っかかりをとることができるか、ということで僕が唯一考えていることがあるんです。

 無意識と言われている領域を、もしも受胎にまで科学的・医学的に遡れるようになったら、たぶん宗教と科学の境界を除くことができるんじゃないかな、という気がします。宗教家が前世とか来世とか言うことは、無意識の領域を受胎し、子宮に着地した瞬間まで遡ることと同じなんじゃないと漠然とながら考えます。

(略)

 でも、あまりこういうことを大きな声で言うと、あいつ、だんだん神がかってきた、と言われるんです(笑)。でも、宗教というのは、そこが解決点ではないでしょうか。

(略)

銀河鉄道の夜』の中で、キリスト教を信仰している姉弟から、あなたが信じている宗教は、と聞かれたジョバンニが「ほんとうの宗教です」と答える。尋ねた姉弟が「私だって本当の宗教を求めている」と言うと、ジョバンニが「いや、そうではなくて、ほんとうの、ほんとうの宗教」と言う。そういう言い方しか、賢治はできない。また、同じ話の初期型では、人間というのは一つの現象だし、人間の考えることも現象だと言う。それを基にして、賢治は普遍的な宗教を考えます。

 そこに突っ込んでいくのが宗教的な賢治の経路だと思いますが、しかし、見田さんのおっしゃられるように、『銀河鉄道の夜』はそういうことを言うために書かれたんじゃない、作品で本当に言いたかったのは、書き手以外にもう一つの視点が加わっている、何とも言えない豊かなイメージの芸術性で、それを読者に体験させるのが本意なんじゃないか、という見方になります。

(略)

見田さんの『宮沢賢治』のモチーフは、僕たちが近代的人間であるかぎり、自然は外にあるもので、人間の無意識も含めた精神は内部にある、というのがふつうでしょうが、宮沢賢治の場合は、精神を外部にもできるし、自然を内部にも自在にできる、というような一種の存在論だと思います。その存在論の中に、賢治の宗教の問題も、文体と表現の問題も入ってくる、ということが見田さんの賢治論の骨格ですね。

見田 それは、個性をいかに表現するかという、当時の近代文学の価値観とは逆のありようだと思うのです。賢治の場合は、いちばん内側に自然がある、という感じですね。

吉本 賢治には人間も自然の一部だという考えがあって、それはマルクスにも同様の考えがあります。マルクスは外在的なものだけを追求して、外部にある自然を人間が手を加えると自然は価値化していき、それを「生産」だと言います。

 マルクスは外へ外へと徹底的に向かうわけですが、賢治はそこを自在に往還できる、というのが見田さんの独特な観点でしょう。そのとき、僕は、国柱会に入会したりとか宗教的関心を考えると、どうして賢治は国粋主義者にならなかったのか、という問題が興味深いんです。

(略)

日蓮とも、賢治は違うんですね。『法華経』に「安楽行品」という章があって、その中で法華経信者は文学や芸術なんかやってはいけない、と書かれています。賢治が引っかかったのは、そこなんです。日蓮が引っかかったのは、法華経信者でない人間は刀で切って殺してしまってもいい、という教えにいちばん引っかかったんです。賢治は、その日蓮からもちょっと外れて、法華経との独特の対し方をしました。それが、この人の宗教性の怖いところでもある気がします。それが賢治の語った「普遍宗教」だと思います。

 僕は、戦後の政治の党派性にもみくちゃにされたやりきれない体験をもってるから、何とかして党派性を政治から外して、普遍的にしたいんだ、という願望をもちました。それは、元を正せば、宗教の宗派性にあるわけです。それはいくら争っても解決しようがないもので、自分が中身から変わらないかぎり、信仰は変わりませんから。イデオロギーも同じで、信じているかぎりは党派性はなくならない。そういうのがいやだな、というところに僕の関心と宮沢賢治が引っかかってくるんです。(略)

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試される民主主義(下) その2

前回の続き。

憲法裁判所  

一九六五年にカール・レーヴェンシュタインは「一九世紀には究極の政治的智慧と考えられた議会主義が……広汎な価値低下を経験した」のに対し、ヴェーバーが議会の役目とした官僚制の抑制という課題が、いまでは裁判所の手で十分に果たされていると断定した。

 憲法裁判所はまた、この新しい秩序全体を、とりわけ個人の権利の保障を通じて保護した。これらの権利も、議会の手の及ばぬ、自然法のような絶対的諸価値に基礎づけられた。これは、民主主義は必然的にある種の価値相対主義を含むというケルゼンの主要な哲学的立場とは全く矛盾するものだった。懐疑的な自由主義者たちですら、過去からの直接の教訓として、そのような客観的価値の不動の基礎の必要性を認めた。アイザイア・バーリンは「先のホロコーストから何が生まれたか」という問いに対し、「人類に本質的と呼びうるような普遍的価値が存在するという新たな認識に西側が近づいているようだ」と答えている。

 ヨーロッパ統合は、人民主権に対する不信を内蔵している点と、行政を国民国家の細かい監督下にある機関に委ねた点で、新しい「憲法精神」に十分に適っている。加盟国は、自由民主主義的合意を「固定」し、権威主義への堕落を防ぐために、選挙によらない制度と超国家機関に意識的に権力を与えたのである。

 欧州司法裁判所は二つの基本的判決で、「ヨーロッパ」が選挙による民主主義に対する一連の制限を意味するという捉え方を強めた。一九六三年と六四年の画期的判決で、ヨーロッパ共同体(EC)が国内法に優位すること、並びに加盟国に直接効力を及ぼすことが確定した。

(略)

一九六九年には、基本的人権は事実上「共同体法の一般原則に含まれて」おり、そうした権利が原条約に言及されていない場合でも「欧州司法裁判所の手で守られる」ことまで裁判官は付け加えている。この基本的人権の発見(というより創造)は、ドイツとイタリアの憲法裁判所が自国憲法の基本規定の名のもとにヨーロッパ法に対抗する可能性への恐れから促進されたものであった。(略)

欧州司法裁判所は自力も用いて並はずれた法的権力を備えた地位によじ登ったのである。そして各国の裁判所と政府は大筋において欧州司法裁判所の権力を受け入れた。

 そういうわけで、戦後の憲政秩序の中核は、無制約の議会優位という考え方がイギリス以外では正統性を失ったという点にある。(略)

民主主義の正当化は、各自の見解が効果的に議会に代表されることよりも、責任ある政治エリートが選挙を通じて定期的に交代することを保障する点に置かれるようになった。

 これはヨーゼフ・シュンペーター、つまりカフェでのロシア革命をめぐる論争でヴェーバーを冷笑した相手が、世紀中葉に唱えた民主主義の解釈そのものであった。彼は第一次世界大戦後にオーストリア財務大臣を短期間務めたが惨憺たる結果に終わっていた。シュンペーターは、ヴェーバーと同様に、一貫した人民の意志など存在しないと考えていたし、普通の人びとにとって政治参加は意味があるという考えを否定していた。しかし他方でヴェーバーとは異なり、彼は公的領域に特別の尊厳を認めなかった。投票をめぐるエリートの競争は望ましい。しかし、それ以外の民主主義イデオロギーは、経済から独立し、集団的意味を創造できる領域としての政治へのヴェーバーの希望も含めて、幻想でしかない。戦後の思想家の多くが同様の想定を共有していた。

(略)

 いまや政治は意味の主たる源泉と思われなくなった。そもそも意味の源泉ですらなかった。しかし、意味(および政治を通じて達成される人格的実現)への期待とともに、集団的自由の場としての公共圏の感覚も失われてしまう。その点は、ナチにもソ連にも共鳴しないハンナ・アレントのような批判者たちが苦言を呈しているところである。ヨーロッパの自由主義者は、個人生活が干渉を受けない「消極的自由」を強調した。おそらくそれが、個人的ないし集団的自己決定として理解される「積極的目由」の理想の名のもとに、全体主義の悪夢が生じるという事を防ぐ唯一の道だったのだろう。しかし批判者たちにとっては、この表面的な自己制約(略)が、実際には民主主義の劣悪な形態に通じると思われた。アレントのような観察者の目には、このような制限的自由主義は、実際には「大衆人」の孤独を強め、逆に全体主義への回帰を容易にするように見えたのであった。それに加えて、戦後秩序の制限的自由主義のせいではなく、安定を約束した合意の政治のせいで全体主義が復活するのではないかと悩む自称「古典的自由主義者」もいた。

 

主権はつねに下から、それを恐れる人びとによって作られる。―― ミシェル・フーコー

 

民主主義者であるということは、何よりも恐れないことだ……。――イシュトヴァーン・ビボー

 

経済は手段に過ぎない。目的は魂を変えることにある。――マーガレット・サッチャー

 

わたしが思うに、共産主義の終焉は全人類に対する深刻な警告だ。それは、高慢で絶対的な理性の時代が幕を閉じようとしていることの兆候であり、そして、このことから結論を引き出すときが来たことを示している。――ヴァーツラフ・ハヴェル

 

高度資本主義が……「民主主義」や「自由」と特に結合しやすい親和性があるなどと見なすのは笑止千万である。問いはかく立てられねばならない。資本主義の支配下で、民主主義と自由が長期的にいかにして「可能」なのか、だ。――マックス・ヴェーバー

ニクラス・ルーマン 

 ルーマンの「システム理論」はパーソンズの影響を深く受けたものであり、パーソンズの理論はまた、ヴェーバーの多くの考えを定式化させ体系化させたものであった。ドイツの一官吏であったルーマンは、ヴェーバーパーソンズの中核的な洞察のひとつを極端に推し進めた。近代社会が、社会自身の論理もしくは「機能」(たとえば経済や芸術や政府)に応じて稼働する「複数のシステム」に次々に分化していくことで、つねに進化し続けるものであると論じた。システムは、システムの周りの世界をそれ自身理解可能なものとすることによって、世界の複雑さを縮減してきたのである。あるシステムによる別のシステムへの干渉は、どんなものであれただちに逆効果を生み出す。したがって、政府が国家行政システムの外部からの「価値」を実現できるなどと考えること自体が、一種のカテゴリーの取り違えである。政治が経済を支配しようとすればどんなことになるかは、まさに「鉄のカーテン」の東側で日常的に目にすることができるではないか。

 ルーマン理論の結論は、政府の仕事を政治家に、究極的には官僚機構に委ねるべきだというものだった。そして、もし政府が、自らの良心のみに従う社会運動の活動家による方向性の誤った要求や、彼らの政治参加への幻想に応じてしまえば、近代社会に多大なダメージを与えることになるというのである。明らかに信条倫理に対するヴェーバーの批判から着想を得たルーマンのこのような分析には、しばしば「敵対文化」の担い手への侮蔑が伴っていた。ルーマンの師である社会学者ヘルムート・シェルスキーも、知識人に対して、他の者がなすべき仕事をしている間に、自分たちの勢力を伸ばすことだけを考えている「新しい高聖職者階級」だと嘲笑していた。ただ、ルーマンの理論にはさらに独創的で不穏な教訓が含まれており、それは、政治(および国家=統治機構)には、人が考えているほどの重要性はないというものだった。政府は社会全体の「舵を取る」ことなどできないし、国家とは専門化された自足的な「政治システム」による「自己記述」に過ぎず、たとえばそれが経済システムを改革するなどということは不可能だというのである。

 ヴェーバーの理論と違い、ルーマンの理論では意味を生み出す役割は政治に与えられておらず、公共空間が「崇高な諸価値」の発祥地となるチャンスはなかった。それどころか、「いくつもの社会を統合する」市民宗教やイデオロギーといった包括的な信条体系は必要とされなかった。このように、ルーマンの理論は、一九五〇年代から六〇年代に支配的だった技術者支配的な思考法の単なる復活の兆候というよりは、むしろ、 経済と政治への期待が先細りした時代(略)に適合した理論なのである。

 ルーマンはまた、批判理論のフランクフルト学派の傑出した継承者であるユルゲン・ハーバーマス、最大の論敵という役割を引き受けることになる。ハーバーマスは六八年の学生反乱とは距離を置いていたけれども、大局的には国家行政や経済を民主化することに対して望みを抱き続けていた。(略)

ハーバーマスは、彼が「生活世界」と呼んだ、家族や他者と人格的につながる親密圏、および市民社会を、経済や公行政の特徴である手段・目的論理――もしくは冷徹な戦略的思考――から守らなければならないことを強調した。ハーバーマスが論じるには、市場と国家は、「生活世界」をつねに「植民地化」する傾向にある。公共空間のなかで、社会運動と、とりわけ知識人は、このような植民地化に対できる存在であり、そうすることでおそらく漸進的な脱植民地化というものが達成できる。

 自らを「社会学的啓蒙」に携わる者と見ていたルーマンは、[脱植民地化という]このような希望に対して正面から反対はしなかったが、皮肉をもって対応した。なぜなら、社会とその進化を理解するためには、政治的な価値への賛否のもとに戦おうとする個々の人間や運動ではなく、システムに目を向ける必要があるからだ。ルーマンのシステム理論は、ヴェーバーにおける鋼鉄の容器や、ジンメルにおける文化の悲劇といった診断、つまり社会の複雑性が、個人の実際の自律能力をはるかに凌駕するという視点をある程度まで追認しているように思われる。しかしルーマンは、自らが提供する種類の脱魔術化は、その先に現れる「諸システム」(これはただひとつの「システム」とは厳密に区別される)が独自の強靭な論理を強いるにしても、人びとを解放する性質も持ち合わせていると主張した。

(略)

 ルーマンの理論の多くをやがては自らの思索のなかに組み込んでいったハーバーマスが、経済と国家行政のさらなる民主化という野望を、一見すると諦めてしまったのは興味深い。これに代わってハーバーマスの望みうる最良のものとなったのは、国家という城塞の周りを恒常的な包囲網のような形で取り囲む、活発な公共圏、油断のない報道、そしてそこから生じる精力的な公論といったものであった。

フーコー 

 敵対者から見れば、構造主義は技術者支配の時代に完全に適合した哲学だった。ジャン=ポール・サルトル構造主義を嘲笑して、「マルクス主義に対抗するためにブルジョアジーが立てることのできた最後のバリケードだ」と述べている。その思想は、人類には自らの歴史を構築してゆく能力が一切ないと言っているように思われたのである。

(略)

個人の自由を強調する実存主義に対して、一九六八年にフーコーは「知の対象としてではなく、自由と実存の主体としての人間が、哲学において消えさろうとしている」と主 張した。フーコーはまた、権力に対して道徳的真実を説く者としての普遍的知識人という理想を拒絶した。普遍的知識人を誰よりも体現していたのはサルトルだったから、フーコーのこの主張は実存主義マルクス主義、双方への攻撃を意味していた。

(略)

 しかし、やがてフーコーは考えを変えるようになる。その変化とは、普遍的知識人の限界に関してではなく、人間の自らの歴史形成能力に関してであった。何が彼の考えを変えたのだろうか。その端的な答えは、六八年とその後(その最大の教訓のひとつは、「構造は街頭でデモ行進をしない」というよく知られたジョークに表現されている)だった。確かに[六八年]五月の出来事の最中フーコーは[チュニジアにおり](略)権威主義的なブルギバ体制に抗議する学生運動に対する、はるかに野蛮な(しばしば死者を伴う)弾圧を目撃した。フランスに帰国したフーコーは、ポスト六八年(一部は毛沢東主義者でもある)団体「監獄情報グループ」に深く関わるようになる。(略)

何人かの指導者が投獄されたのち、残されたメンバーは、フランスの監獄における身の毛もよだつ状況に世論の注目を集めようと試みていた。刑務所の内部を直接調べることはできなかったが、囚人に面会に来た配偶者たちに質問票を配ることはできたし、かつての収監者に自らの体験について筆を執るよう勧めることもできた(略)

フーコーは封筒に調査票などを入れて発送する作業も厭うわなかった。(略)

すべての政治的事件を解釈する枠組みとしてのマルクス主義が一九五六年以来その信用を失墜した以上、いまや哲学者は文字通りジャーナリストとならなければならない、と唱えてきた自らの考えに忠実な行動であった。こうした活動はさらに、一九七〇年代にフーコーが展開することになる思想の少なからぬ部分の下地を用意した。とりわけ、フーコーは「権力」を再構築し、その新たな概念を提示した。権力には国家によって上から行使される抑圧だけでなく、より精妙な方法で機能するものもある。それは、特に病院のような慈善的な機関や、わけても自分自身によって規律化されるやり方を通じて機能する。つまり、見世物社会ではなく監視社会なのであり、国家は執行者の役割を果たすのではなく、「従順な身体」を欲するサナトリウムの医師の役割を果たすのである。

 しかしながら、これと関連しつつ、より前向きな教訓も六八年はもたらした。政治的変革は必ずしも、国家機構との正面衝突(そしてレーニン主義のモデルにおいては中央集権化された官僚的権力の掌握)を意味しないという発見がそれである。この発見は一見すると、個人の解放をより容易にするように思われた。(略)

フーコーは、解放されるべき「真正なる自己」なるものが存在するとは信じていなかった。さらに彼はまた、近代的国家、とりわけ自由主義国家は、主体の自己規律化を、 認識も破壊も難しいやり方で強化するものであり、そこから自由になるのは一層困難だと考えた。

 フーコーは「今日における政治的、倫理的、社会的、哲学的な問題は、個人を国家から解放することではなく……国家ならびに国家と繋がっていながら自分は自由だと信じているある種の個人の双方からわれわれを解放することなのだ」と主張した。かくして、攻撃の的は自由主義的な「統治様式」へと移っていった。自由主義的「統治様式」とはつまり、前近代的な国家や権威主義国家で見られたように国家が自由な主体を抑圧するのではなく、自由な主体が自分自身を効率的に律するように仕向ける、一連の統治の技術と「技法」なのである。

(略)

 フーコーによれば、自由主義とは人びとの自由を阻害せぬようにする思想を指すのではなく、むしろ自らを自由と思いこむ人間ひとりひとりの挙動を、とてつもなく精妙なやり方で「操作する」国家に関わることなのだ。これは、人びとの素朴な思い込みを逆撫でする強烈な一撃だった。

(略)

しかしこのような問題は、ずっと以前にヴェーバーが政治的な論稿で提起したものでもあった。すなわち、近代はいかにして自己規律と「人民の質」(これはヴェーバーがあからさまに求めたものだった)を互いに関連させたのだろうか、という問いである。ナチの生物学的支配は、実は一般に考えられているほど西側の歴史の基本線から逸脱しておらず、フーコーが書いたように、それは「近代権力の夢」だったのではないだろうか?答えは、明白かつ衝撃的なものだった。フーコーによれば、「近代国家はある地点において人種主義と関わらないとほとんど機能しない」のである。

 同時にフーコーは、権力を上意下達の支配として認識すべきではないという点に断固としてこだわった。

(略)

「思想や政治的分析において、われわれはいまだに王の首を刎ねそこなっている」とフーコーは主張した。なぜなら、「政治理論がいまだ主権を握る人物に執着しているから」であり、そしてこの執着によって権力の認識は伝統的な「主権に関する法・政治理論」に縛られ、歪められているのである。権力をもっぱら法(と抑圧)という観点から認識することによって、どう分析しても国家に特権的な地位を与えてしまうという伝統から決別することこそが緊急の課題なのだ。

(略)

 フーコーの考えは、奇妙な形でルーマンの考えと類似していた。どちらも、理論家や一般市民は何世紀も遡る時代遅れの政治用語を使うことで国家の役割を過大視していると主張し、どちらも権力は政治の公的な領域の「頂点」に位置しているわけではないという考えを提示したのである。そしてまさに二人の考えが共鳴したのは、新たな経済的困難や社会的不満に直面した国家が奇妙にも「力を喪失」しているように見えたときであった。

(略)

ルーマンにとって理想の知識人が官僚への助言者だったのに対し、フーコーにとっては、それは囚人、精神病患者、同性愛者に取り組んだ具体的な専門家であっただろう。これまた、きわめてポスト六八年的な思考であった。知的エリートは高みから普遍的なものを代表するのではなく、特定の他者とともに(しかももっぱら間接的に他者のために)働くべきなのだ。フーコーはこのような議論をさらに進める。

 

知識人の仕事は、他者の政治的意志を形作ることにあるのではない。そうではなく、知識人が自らの専門領域で行う分析を通じて、自明視されている思いこみや物事を再び問題とし、慣習を揺さぶり規則と制度の実態を見極め、そしてこの再問題化(そのプロセスにおいて知識人は知識人として固有の役割を発揮する)から出発して、政治的意志の形成(そのプロセスにおいて知識人は市民として役割を発揮する)に参加すること、それが知識人の仕事である。

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試される民主主義(下) 20世紀ヨーロッパの政治思想

試される民主主義 その3 - 本と奇妙な煙 上巻の続き。

キリスト教民主主義

自身国防軍の兵士で、ソ連で捕虜生活を経験したドイツの歴史家ラインハルト・コゼレックがのちに述べたように、死は「もはや何かに対する答えとは考えられず、ただ問いと見なされたし、もはや意味を与えるものとしてではなく、ただ意味を叫び求めるものとして理解された」のである。

 ハンナ・アレントは、「悪の問題が、戦後ヨーロッパの知的生活の根本的な課題となるだろう――第一次世界大戦の後に、死が根本的な問題となったように」と予言した。さらに彼女は、全体主義の経験がヨーロッパ史における深い断絶をなすこと、過去はもはや現在を照らさないこと、そしてナチが誰にも不可能と思われたことを試みたため、それを目撃した世界では政治的思考を根本的に再検討する必要が生じたことを強調した。

 しかし、「悪の問題」をめぐって多くのヨーロッパ知識人が無理やりながら出した解答は、全体主義をヨーロッパの政治経験におけるひとつの断絶として深刻に捉えるものではなかった。彼らの時代診断は、二〇世紀の大変動が「大衆」の興隆に起因しているという、全く陳腐な紋切り型のものだったのだ。オルテガの『大衆の反逆』のような本が、一九三〇年代初頭から五〇年代後半にいたるまで、多くの西欧諸国において哲学書のベストセラーであり続けたことは、その点で示唆的である。大衆の政治への闖入という不吉な運命のお話は、フランス革命に始まっていたが、どんどん引き延ばされていって、いまや第二次世界大戦をも含むようになった。結局、第二次世界大戦は、どことも知れぬところから出てきた、「大衆」的人間を体現した男によって始められたのではなかったか。一九四六年に「ドイツの崩壊」の原因を論じたドイツの歴史家フリードリヒ・マイネッケは、「ヒトラー主義」を「大衆マキアヴェリズム」の一形態と断じたのち、大衆はまださらに「前進している」と主張した。アレントは、大衆の出現が全体主義の前提条件であったという考えを提示した。その際、大衆は、固有の自己をもたないという意味で、「余計者」で「無個性」という印象によって特徴づけられた。彼女はまた、「大衆的人間の主たる特徴は、野蛮さや後進性ではなく、孤独と、通常の人間関係の欠如である」と主張した。

(略)

伝統的なヒエラルヒーと権成関係の解体は第二次世界大戦を通じていっそう進んでおり(略)

いまでは誰もが「大衆」になりえた。

(略)

 最も鮮やかな過去との決別を約束し、しかも最も根源的な自由の捉え方を強調したのは実存主義であった。人間は自分自身をゼロから作り上げることができる。あらかじめ定められた「人間の本質」などはなく、ただ実存だけが存在する。確かに歴史というものは存在したし、それをヨーロッパ人は最も恐ろしい形で経験したところだ。しかし、その過去との関係においてさえ、進歩の確実性が存在しないところで、自己超越し、新しい種類の行動を自ら選び、状況に倫理的に対決する個人の可能性は存在するのである。

 これは抽象的に、あるいは若干青臭い風に聞こえただろうか。それにもかかわらず、もしくはそれゆえに、実存主義は文化のスタイルとして途方もない影響力をもったのである。

(略)

 確かに、戦争直後の雰囲気は一九一八/一九年に劣らず革命的ではあった。資本主義は大恐慌のせいで信用を失なっていた。多くの知識人の目には資本主義がファシズムへの地ならしをしたように見えた。権力を維持する目的で資本家が手にした道具がファシズムだったという見方がマルクス主義者以外にも広まっていた。ところが、第一次大戦直後と違って、巨大なストライキの波は発生しなかったし、工場評議会なども生まれなかった。

(略)

 戦間期とのもうひとつの明らかな(略)違いは、ヨーロッパが全体として、もはや自分自身の運命の主人公ではないという点だった。

(略)

 安定こそが戦後西ヨーロッパの政治的想像力の主要な目標、希望の星となった。法律家や哲学者に劣らず政党指導者たちも、とくに過去の全体主義の再現を回避するよう設計された秩序を樹立しようと目論んだ。彼らの見るところ、ヨーロッパは過去に無制限の政治的ダイナミズム、制御の利かない大衆、それに抑制を全く欠いた政治主体――浄化されたドイツ民族共同体――に振り回されてしまった。それに対抗するため、西ヨーロッパ人は、人民主権に対する不信に色濃く刻印された――実際には伝統的な議会主権にさえも懐疑的な――高度に抑制された形の民主主義を作り出したのである。

(略)

 別の言葉で表現すれば、戦後の西ヨーロッパでは、新しい、緩和されたヴェーバー風の政治が勝利したのである。

(略)

西ヨーロッパに出現したのは、かつて存在した自由主義秩序の復興ではなく、全く新しいポスト・ポスト自由主義の秩序で、反全体主義を強く刻印された諸制度とそれに付随する正当化言説(道徳的判断は前面に出されなかった)とから成り立っていた。

(略)

 新たな半自由主義的な諸制度と、反自由主義とは言わないまでも明らかに非自由主義な政治言説の組み合わせ――これこそ一九四〇年代後半から五〇年代にかけて政治思想と政治制度との関係に存在した巨大な逆説であった。(略)

キリスト教民主主義である。これこそ戦後の最も重要なイデオロギー上の革新であり、ヨーロッパの二〇世紀全体のなかでも最も重要なもののひとつである。一九四五年以降の数十年、西ヨーロッパでは社会民主主義がついに全面開花した、とよく言われる。しかし、そういうことはほとんどなかった。スウェーデンデンマークのようないくつかの国では以前から社会民主主義が開花してきたけれど、大陸西ヨーロッパの核になる国々、つまりドイツ、イタリア、ベネルクス諸国、フランスで実際に戦後の国内秩序の建設、なかでも福祉国家、現代行政国家の建設を中心になって進めたのはキリスト教民主主義だったのである。

(略)

戦後のキリスト教民主主義が、カトリシズムと近代社会との融和をもたらしたのである。さらにキリスト教民主主義は、異なる宗派間の平和(少なくとも休戦)も達成した。ドイツのような国では、間違いなく宗教改革以来初めてのことであった。

ジャック・マリタン

 前章で見たように、ファシズムは戦争のおかげで完全に信用を失っていた。カトリック権威主義体制は、かつてもっていたファシズム的傾向からいまや距離を置くようになった。つまり、ますますカトリック的になったのである。フランコサラザールはさらに数十年死んだふりをして体制を維持し、他国に多くの崇拝者をもっていた。けれども他方で、西欧で永く続いた反革命の伝統に戦争がとどめを刺した点も否定できない。反革命の発祥の地フランスでそれが最も鮮明に現れた。ヴィシー体制は占領のおかげで「国民革命」に失敗し、さらには王党派と宗教右翼運動の夢が長い間博してきた信用も失わせてしまった。

 しかしながら、最も大きな変化は、戦後ヨーロッパでキリスト教民主主義が近代世界と折り合うからといって、恨みがましさや、嫌悪感をもたずに仕事ができるようになった点である。キリスト教民主主義者が本当に民主主義者になったのだ。(略)

キリスト教民主主義者はさらに人権をカトリック固有の世界観に不可欠なものとして受け入れた。この展開はフランスの哲学者ジャック・マリタンの役割を抜きにしてはほとんど理解できないだろう。マリタンは著名な共和派の家系に生まれ、ソルボンヌの哲学生としてその知的生活を始め、右派勢力に抗してドレフュス大佐を支持した。一九〇一年にマリタンはロシアからの亡命ユダヤ人の、ライサ・ウマンソヴァと大学で知り合った。(略)

一九〇三年、日の輝く夏のある日、植物園で恋人同士は、もし一年以内に無意味に見える人生に対する答えを見つけることができなければ一緒に自殺しようと言った。しかし彼らは答えを見出した。それはカトリック信仰だった。

 マリタンは熱烈な、そして明らかに右翼的なカトリックとなった。(略)

一九二六年に教皇庁が「アクシオン・フランセーズ」を、実際には無神論者であるのに、カトリックを政治の道具として使っていると非難すると、暫くの間マリタンは運動の指導者シャルル・モーラスとヴァチカンとの間を取り持とうと努め、その後、運動から完全に足を洗った。そうは言っても、彼は依然として近代世界にはきわめて批判的であり、とりわけプロテスタンティズム自由主義に対して厳しかった。彼の信仰は台頭してきた人格主義とぴったりだった。

(略)

スペイン内戦でのフランコの行動を現代の十字軍として支援することを拒否した点で、マリタンはヨーロッパの多くのカトリックと異なっていた。そうして彼は、人権および民主主義という近代思想と力トリックとの哲学的宥和という課題にとりかかった。

 一九三〇年代半ば、アメリカとカナダの大学がマリタンを講義に招待し始めた。大戦が勃発したとき彼は北米におり、そのまま留まる決心をした。(略)

 いくぶんかはアメリカの例に刺激されて、マリタンは、彼が考えた民主主義とキリスト教との間にある内的連関をもっと率直に宣伝し始めた。一九四二年に彼が書いた『キリスト教と民主主義』というパンフレットは、連合軍の飛行機でフランスの空からばら撒かれた。そのなかで彼は「民主主義はキリスト教と繋がっており、民主主義の衝動は福音の霊感の道徳的表明として人類の歴史に初めて現れた」と主張した。そしてさらに大胆に「民主主義こそ政治の道徳的合理化をもたらす唯一の道である」と宣言した。(略)さらにもっと強い調子で「民主主義は脆弱な器に人間のこの世の希望を、もっと言えば生物学的希望を入れて運んでいる」と言明したのだった。

(略)

彼は国家に懐疑的であり、とりわけ主権の概念に批判的だった。人民主権概念の創始者とされるルソーだけでなく、ルターも二〇世紀中葉の災厄のゆえに非難された。マリタンは次のように論じる。「政治哲学は「主権」を言葉としても概念としても除去しなければならない。それが古くなったからではなく……主権の概念が克服しがたい困難と理論的紛糾とを国際法の世界に作り出すからである。さらに、真の意味で考えると……この概念は本質的に誤っており、これを使い続ければ必ずわれわれを誤った方向に導くからである」。

 マリタンにとって「主権」は「分離」と「超越」を意味した。そして国王も人民も政体から適正に分離することはできない。神のみが主権者なのだ。同時に「人格」の概念は、超越性に対して開かれていることのシグナルそのものであった。彼が、多元主義的で人格主義的な民主主義のもとで実現することを願った「神中心の」人間主義とは、「自然にして超自然的な全体存在としての人間」を正当に取り扱おうとするものであった。だが、「神中心の(theocentric)」とは「神権的(theocratic)」という意味ではない。「新しいキリスト教の現世秩序は(類比的に言えば)中世のそれと同じ原理に立つけれども、世俗的キリスト教徒の、聖化されない現世秩序を意味するだろう」と彼は主張した。

 マリタンの見解を支えていたのは、究極的には神法に由来し、人類固有の目的を特定する、強度にトマス主義的な自然法概念であった。したがってマリタンにとって、自由とは放縦や欲望への恣意的従属ではなく、自然法の与える目的の十分な実現にあった。彼が労働者の権利や、ついには生存権全般の重要性に固執した背景はここにあった。そうした権利はこのような人格の適正な実現に欠かせないものだったからである。

 マリタンの思想はカトリック思想家内の議論に留まってはいなかった。彼は国連の人権宣言作成にあたって中心的役割を果たしたし、ド・ゴールは戦後、彼を説得してフランスのヴァチカン大使を引き受けさせた。聖庁の側も彼の考えの多くをのちに承認した。(略)

しかしながら、妻が一九六〇年に亡くなって以来、トゥルーズ近郊の修道院に隠棲していたマリタンは、教会が「近代主義」の方に行きすぎたと考えるようになった。自由主義的な立場に対する彼の辛辣な批判は、彼の支持者の多くからは怒りと無理解をもって迎えられた。彼は自分の生涯をかけた哲学を否定するというのか。それでも、カール・シュミットのような頑固な右翼カトリックは彼を「悪夢マリタン」と非難し続けたし、他方、ハンガリーのアウレル・コルナイのような保守派にとっては「かわいそうなトマス・アクィナスに民主主義の世俗的使徒のぼろをまとわせる」マリタンの努力は全く信用できないものであった。鉄のカーテンの東ではポーランドの哲学者レシェク・コワコフスキが、新トマス主義の傾向全体を、私有財産を正当化し維持するための絶望的手段だとして攻撃した。

 しかしながら、西ヨーロッパで新たに立ちあがったキリスト教民主主義政党にとって、マリタンの思想は重要な引照基準を提供した。もっとも、フランスのトマス主義者マリタンは公然とキリスト教政党を創ることには必ずしも好意的ではなかった。キリスト教は政治生活の「酵母」のような存在であるべきだと彼は感じていたのである。マリタンの哲学が特に重要性を帯びたのは、イタリア憲法の起草に関わった左よりのキリスト教民主主義の思想家グループに対してだった。(略)

彼らは人格主義の著作を貪るように読み、個人主義を批判し、なかでも人格は共同体と結び付いているという点を推奨した。

産業社会

大陸では技術者支配[テクノクラシー]、あるいはヴェーバーの「鋼鉄の容器」はずかしげもなく推奨された。その「容器」のなかに安全があるように見えたからである。「容器」は、バーカーの言う「愉快さの場」ではないにしても、消費中心の新たな時代にあっては、少なくとも快適なものであった。フランス共産党の詩人ルイ・アラゴンのような批判家が「冷蔵庫の文明」と嘲笑しても、気にするには及ばなかった。

 産業社会、あるいはフランスの社会学者レイモン・アロンが言う「科学的」で「合理化された」社会は、いまや国家に依存しなくとも、何とか自ら安定化できると断定したい空気があった。シュミットの弟子のひとり、ドイツの法学者エルンスト・フィルストホフは一九六〇年代末に「社会総体の中核はもはや国家ではなく、産業社会である。そしてこの中核の特徴は完全雇用とGNPの増加である」と明言した。フォルストホフの診断の当否は別として、西ヨーロッパが急速に近代化しており、近代化が永く続いたイデオロギー対立、端的に言えば階級闘争を終わらせるだろうという感覚は広く見られたのである。ドイツの社会学者ヘルムート・シェルスキーはこれを「平準化された中産階級社会」と診断した。

(略)

 それどころか「大衆」という表現も消滅した。「大衆」がヨーロッパ知識人の議論の中心から外れたのはいつからか確言はできないが、一九六〇年代初頭には価値中立的な「社会」や「産業社会」がそれに取って代わったことは疑いない。少なくとも暫くの間、文化批判に代わって、社会学が、その高度に抽象的な概念とともに、政治的思考の通奏低音となる傾向を見せた。

 憲法裁判所の創設

政治制度にも安定を担う役が期待され、最後にはハンス・ケルゼンが「憲法技術」と呼んだものに決定的な革新がもたらされた。二〇世紀のヨーロッパ全体を通して最も重要な技術革新のひとつが、憲法裁判所の創設である。(略)

司法審査というこの固有の概念は三〇年以上前に遡る。ケルゼンは第一次大戦後に起草したオーストリア憲法にこの制度を含め、一九三〇年に反ユダヤ主義の攻撃を受けて辞任するまで自ら憲法裁判所判事として活躍した。(略)

[シュミットとの論争で]ケルゼンは、そうした憲法裁判所だけが憲法の最終的「番人」たりうると主張した。それに対してシュミットは、大統領にその役を割り当てマックス・ヴェーバーにより近い立場で論じた。当時のドイツの政治エリートたちは、ケルゼンよりもシュミットと歩みを共にした。

 一九四五年以後、伝統的に司法審査に懐疑的だった諸国――とりわけフランスでは「裁判官の統治」として忌避されていた――でも、違憲立法審査権の概念は結局受け入れられた。憲法裁判所は伝統的な人民主権に制限を加え、ときにはそれと矛盾するように見えたが、民主主義のもつ潜在的全体主義の危険に敏感だった戦後の時期にあっては、抑制・均衡をもっと強化することにまさに主眼点が置かれた。予期していなかったのは、憲法裁判所が行政とも矛盾したことである。西ドイツ基本法の設計者のひとりだったアーデナウアーが、彼の再軍備案に憲法裁判所が反対し始めたとき、「われわれが想定したことと違う」とこぼした通りである。

次回に続く。