プリファブ・スプラウトの音楽 渡辺亨

プリファブ・スプラウトの音楽 永遠のポップ・ミュージックを求めて

プリファブ・スプラウトの音楽 永遠のポップ・ミュージックを求めて

  • 作者:渡辺亨
  • 出版社/メーカー: DU BOOKS
  • 発売日: 2017/03/17
  • メディア: 単行本
 
スウーン

スウーン

 

 90年にロンドンで初めてパディ・マクアルーンにインタビューしたとき、彼は『スウーン』についてこんなことを語ってくれた。

「これが最初で最後のチャンスだと思ったので、あえて風変わりな曲をたくさんレコーディングした。今から振り返ってみると、アレンジはもっと簡潔にするべきだったと思う」

 また、99年にインタビューした際には、「あのとき、僕たちはまったく違う曲を選ぶことも可能だった。『スティーヴ・マックイーン』に収められている曲のような、もっとシンプルな曲を。そうした曲がすでにアルバム1枚分あったので、そっちの方を出せば良かった、と後から思ったこともある」

 これらの発言からわかるように、パディ・マクアルーンには、84年の時点ですでにたくさんの曲のストックがあった。たとえば、〈I Never Play Basketball〉や次のアルバム『スティーヴ・マックイーン』に収録されている〈Bonny〉、〈Goodbye Lucille #1〉などは、プリファブ・スプラウトを結成した当時から作ってあった曲だという。

 パンクから遠く離れて

[57年生まれのパディ。プリンス、MJ、マドンナ、ポール・ウェラーが58年]

ダラムで暮らしていたパディ・マクアルーンにとってパンク・ムーヴメントは、いうなれば、対岸の火事のようなものだった。現にパディは、パンクにもニュー・ウェイヴにも、音楽的にはほとんど興味を引かれなかったと語っている。

(略)

 パディが77年頃にパンクの代わりに聴いていたのは、スティーリー・ダンデヴィッド・ボウイなどだった。(略)

スティーリー・ダンのレコードを聴きながら、ギターでそれっぽい音をひとつずつ探り、まったく自己流でコードを編み出していたという。『スウーン』の曲が風変わり、つまりどこか不自然な理由のひとつは、この点に起因している。

 パディ・マクアルーンがテープレコーダーを使って、プリファプ・スプラウトという架空のバンドのための曲を作り始めたのは、70年代初期のこと。

「僕とマーティンは、常にトップ10番組をエアチェックし、録音したテープを繰り返し聴いていた。(略)

僕たちがレコードを作ろうと考え始めたのは71~2年頃で、その頃はデヴィッド・ボウイスティーリー・ダンが登場してきた時期にあたるけど、僕たちは彼らの音楽からビーチ・ボーイズボブ・ディランなどのポップ・クラシックスまで、何でも受け入れ、吸収していた」

パディとマーティンは、キャプテン・ビーフハートの、まったく風変わりなアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』も聴いていた。その一方で、ラジオから流れてくるジミー・ウェッブやバート・バカラック&ハル・デイヴィッドが作曲したヒット曲を好んでいた

(略)

[パディの]最初の音楽的ヒーローはT・レックスのマークボラン。(略)

惹かれたいちばんの理由は、その音楽が醸し出すミステリアスな雰囲気、謎めいたところだという。

トーマス・ドルビー

 トーマス・ドルビーは、ジョニ・ミッチェルの『夏草の誘い』に収録されている〈ジャングル・ライン〉もカヴァーしている。

(略)

ちなみパディ・マクアルーンがいちばん好きなジョニ・ミッチェルのアルバムは、『夏草の誘い』。プリンスも、このアルバムを称えていた。そしてトーマス・ドルビーは、ジョニの『逃避行』をもっとも偉大なロック・アルバムとして高く評価している。

 トーマス・ドルビーとプリファブ・スプラウトの接点は、トーマスがゲスト出演したBBC1のラジオ番組「Round Table」をきっかけに生まれた。このラジオ番組には、ゲストが番組中に当時イギリスでリリースされた何枚かのシングルを聴かされ(略)批評を求められるコーナーがあった。(略)

マリ・ウィルソンが、スティーヴ・ライトと一緒にDJを務めていたという。この日は、トイ・ドールズの〈Nellie the Elephant〉やアルヴィン・スターダストの〈So Near to Christmas〉などが紹介されたが、トーマスにとってこれらのシングルはまったく退屈な代物だったので、肯定的なコメントを述べることはできなかった。ところが、ある1曲だけは、トーマスの心を捉えた。それは、キッチンウェアからリリースされたプリファブ・スプラウトの〈Don't Sing〉。スティーヴ・ライトは「こんな曲はヒットしない」と切り捨て、マリ・ウィルソンは「私の好みじゃない」と述べたそうだが、トーマスだけがこの風変わりなポップ・ソングを気に入り、称賛した。このラジオ番組を、たまたまキッチンウェアの複数の関係者が聞いていて(パディ・マクアルーン本人も含むという説もある)、後日マネージャーの キース・アームストロングがトーマスにコンタクトを取ってきたそうだ。

[ダラムのマクアルーン兄弟の実家を訪ねたトーマスにパディは76年にまで遡るオリジナル40曲を弾き語りしてみせた。それをウォークマンに録音しつつ、トーマスは気付いたことをノートにメモし、ロンドンに持ち帰り]

40曲のなかから『スティーヴ・マックイーン』のためにレコーディングする曲を選んだ。その結果、彼が選んだ曲のほとんどは、『スウーン』よりだいぶ前の70年代後半に作ってあった曲だった。

(略)

後年、彼は、「『スティーヴ・マックイーン』を初めて聴いたときは、まるで他人のレコードを聴いているような気分がした」と僕に語ってくれたが、それほどまでにトーマスが果たした役割は大きかった。 

スティーヴ・マックイーン〜レガシー・エディション

スティーヴ・マックイーン〜レガシー・エディション

 

“プラスチック・カントリー&ウエスタン” 

[77年頃のパディはT・レックスと]デヴィッド・ボウイの熱心なリスナーでもあった。それだけに当時パディは、『ヤング・アメリカン』でソウル・ミュージックにアプローチしたデヴィッド・ボウイが、次にカントリー・ミュージックにアプローチするのではないかと想定して〈Faron Young〉を作ったという。すなわち〈Faron Young〉は、意図的な“プラスチック・カントリー&ウエスタン”というわけだ。

〈Hey Manhattan!〉

〈Hey Manhattan!〉の大胆かつ華麗な曲想やオーケストレーションには、パディが大好きなアルバムの1枚として挙げている『ウエスト・サイド物語』のオリジナル・サウンドトラックの影響も見受けられる。

(略)

〈Hey Manhattan!〉は、端的にいうと、『黒いシャフト』と『ウエスト・サイド物語』のサントラをかけ合わせたような作風の曲だが、「NME」のインタビューによると、パディはこの曲をアイザック・ヘイズに歌って欲しくてレコード会社に提案し[却下された]

〈Nightingales〉

〈Nightingales〉は、バーブラ・ストライアンドに歌ってもらうということを想定して作られた曲だ(略)

この当時のパディは、彼女の『追憶のブロードウェィ』にかなりのめり込み、ブロードウェイ・ミュージカルの音楽の素晴らしさを再発見していた。

(略)

キース・アームストロングは、スティーヴィー・ワンダーのマネージャーと知り合いだった。そこでマネージャーを通じて依頼したところ、たまたまスティーヴィー・ワンダーがこの年の9月にロンドンに潜在する予定だったことから、スティーヴィーの参加が実現したとのこと。スティーヴィーは、ウエスト・ロンドンにあるスタジオの現場で〈Nightingales〉を初めて聴き、わずかな時間で曲を覚え、ハーモニカを計4テイク録音してくれたそうだ。パディにとってスティーヴィー・ワンダーは、子供の頃からの音楽的ヒーローのひとりで、好きなアルバムの1枚として、『シークレット・ライフ』を挙げている。

 パディ・マクアルーンは、この〈Nightingales〉のように曲を作るときに歌ってもらいたい歌手を思い浮かべたり、カヴァーして欲しい歌手を考えることがあるという。「Time Out」誌のインタビュー記事では、A面3曲目の〈Remember That〉はレイ・チャールズ、B面4曲目の〈Nancy (Let Your Hair Down for Me)〉はグレン・キャンベルに歌ってもらえたらいいなと語っている。

 グレン・キャンベルは、〈恋はフェニックス〉や〈ウィチタ・ラインマン(略)といったジミー・ウェッブの一連の名曲の歌い手だから、ソングライターのパディ・マクアルーンにとっては憧れの存在だろう。 

Wichita Lineman

Wichita Lineman

  • provided courtesy of iTunes

 

クリムゾン/レッド

クリムゾン/レッド

 

〈Wichita Lineman〉 

〈Wichita Lineman〉は、グレン・キャンベルによって1968年に全米チャートで最高3位を記録した曲。カンザス州のウィチタで、見知らぬ誰かの会話を耳にしながら、野外の電話線の維持補修作業に従事している男性のやりきれない心情が描かれた名曲

(略)

しかも〈The Songs of Danny Galway〉の曲調は、ジミー・ウェッブの〈Wichita Lineman〉や〈Galveston〉に通じている。つまり、この曲はジミー・ウェッブへのオマージュ、別ないい方をするなら、パディからジミー・ウェッブへのファンレターのような曲である。

 パディは、ソングライターとしてのジミー・ウェッブのことを心の底から敬愛していて、しかも〈Wichita Lineman〉をフェイヴァリット・ソングのひとつとして挙げている。(略)

「子供の頃にグレン・キャンベルの〈Wichita Lineman〉をたまたま耳にしたんだ。僕が音楽を意識して聴くようになる前のことだったんだけど、何かが僕の心を打った。だから僕のなかでは、ジミー・ウェッブは特別な位置を占めているんだ」(略)

ジミー・ウェッブの父親はバプテスト教会の牧師なので、パディ・マクアルーンと共通する宗教的バックグラウンドを持っている。それだけに、パディは 〈The Songs of Danny Galway〉のなかで、ウェッブのコード進行を“バプテスト派の賛美歌 (Like Baptist hymns)”、サウンドと歌詞の関係を“キリスト教聖餐式 (sweet communion)”といかにも彼らしい表現で称えている。

〈The Songs of Danny Galway〉 では、ウィチタから来たダニー・ゴールウェイとはダブリンのバーで会ったということになっているが、実際にはパディはとあるホテルのバーでジミー・ウェッブに偶然会ったことがあるという。

 パディは、1991年9月4日にダブリンのテレビ局が製作した「An Eye onthe Music」で、憧れのジミー・ウェッブと初めて共演した。このとき、パディはアコースティック・ギターを弾きながら、ジミー・ウェッブのピアノ、そしてオーケストラの演奏に合わせてジミーの代表曲のひとつ〈Highway Man〉を彼と一緒に歌った。これは、パディのリクエストだったという。

ボブ・ディラン

 パディ・マクアルーンがいちばん最初に買ったレコードは、ボブ・ディランの「Lay Lady Lay」(略)

パディがこのシングル盤を購入したのは1970年、彼が13歳のときのこと。パディは、家にあったガット・ギターでこの曲を弾いてコードを学んだそうだ。10曲目の〈Mysterious〉は、まさしくミステリアスで神話的な存在であるボブ・ディランのことを歌った曲。 

民主主義を救え! その2

前回の続き。

民主主義を救え!

民主主義を救え!

 

 「独立行政機関」

[イギリス総務省の無駄遣いについて庶民院で追求されたる同省事務次官ハンフリー卿]

ハンフリー卿:「政府の政策にコメントする立場にはありません。大臣に尋ねるべきことです」

議 員:「よろしいですか、ハンフリー卿。大臣に何を尋ねても、行政に関する質問はあなたにするようにと答えます。そして、私たちがあなたに何を尋ねても、政策に関する質問は大臣にするようにと答えます。ならばいったい真相は何なのか、どうしたら知ることができるというのでしょう」

ハンフリー卿:「まったくもっておっしゃる通りです。完全なジレンマです。大臣と行政、官僚の責任に関わる政策に関する政府の政策である限り、行政の政策に関する質問は、行政の政策と政策の行政との間の混乱を招きますし、とくに政策行政についての政策責任が、政策行政との対立や重複が起きる時に問題が生じることになるかと思います」

議 員:「そのような発言は無意味な虚言としか受け取ることしかできません」

ハンフリー卿:「私は政府の政策についてお答えする立場にありません。大臣に尋ねるべきことです」

(略)

これは一九八〇年代に高視聴率を記録したテレビドラマ「イエス・ミニスター」の一シーン(略)

確かにハンフリー卿の抗弁と官僚答弁は荒唐無稽に過ぎるかもしれないが、核心的な真実を含んでいる。ドラマを評して、マーガレット・サッチャー首相は「権力の裏側で何が起きているのかをよく描写しており」、「心から楽しめる時間をもらった」とかつて述べているし(略)

デーヴィッド・キャメロンは「学生時代に『イエス・ミニスターはいかに真実ではないか』というレポートを書いたが、首相となったいま、本当のことを描いていることがわかった」と吐露している。

(略)

学界でも、政治家が官僚制を統御するのは非常に難しく、官僚機構が下している決定の重要性は、過去一貫して増加していることが指摘されている。

(略)

マックス・ウェーバーは裁判官や官僚は単なる「上から順に積みあがる法的書類や予算書を最後の一枚まで判断を下すような機械」ではなかったことに気づく。法の執行はむしろ、常に秘密裡かつ創造的になされるものだった。いくら入念に書かれた法案でも、細部については予期されず、重要な行政プロセスについても定められていない。その結果、現代官僚制において役人は重要な政治的役割を果たすことになる。政治の世界が私たちに教えるように、官僚が単なる使い走りであることは一度たりともなかったのだ。

 とくに最近の役人の数の増加とその役割の拡大には目を見張るものがある。(略)

イギリスの国家公務員の数は一九三〇年に一〇万人だったのが二〇一五年には四〇万人にまで膨れ上がっている(この間、人口は約三割しか増えていない)。

(略)

さらに質的な変化も二つ指摘しておかなければならない。一つは、議会で通る法案の起草に当たって、政府機関の影響力が強くなったことだ。次に、これらは議員たちとほぼ類似の働きをするようになり、金融や環境といった重要な政策領域で法案の策定と実行主体となった。この二つの発展が意味するのは、一般市民が主人であるはずの多くのルールが、選挙を経ない官僚たちによって書かれ、実行され、場合によっては主導されているということだ。

 伝統的な官僚機構は、立法府の定めた法令を執行する役割を負っており、大統領や首相が任命した──議会に議席を持つ議員の権能として──政治家によって主導される。しかし、こうした仕事は、ますます増える政策領域において、立法府や政府の長の目の届かない政策を自らの手で策定する、いわゆる「独立行政機関」によって補完されている。これらが立法府によって設立されると、こうした協議体や委員会は「法的に困難で、技術的に複雑で、政治的にセンシティブな決定」を任されるようになる。規制の権限を有して「規制を決定し、自らの法的地位と規制を強化する行政的活動を行い、行政決定を通じて判断を下す」ことになるのである。

(略)

 誤解しないでもらいたい。独立機関は、その名に恥じない働きをしている。総体としてみれば(略)[それらは]アメリカをより良い国にしたことは間違いない。(略)

他の機関によっては容易に達せられない問題解決を可能にする一方で、その重要な決定が政治的争議の場から隔離された場所で行われていることは事実なのだ。

 「ライバルの政治が、敵の政治に置き換えられていく」

民主主義が安定しているのだとすれば、原則として主要な政治アクターによって民主主義というゲームのルールが基本的に是認されていなくてはならない。

 ルールのいくつかは公式的なものだ。たとえば、一国の大統領や首相は、政権メンバーに間違った行いがあれば、検事を罷免するのではなく、司法の調査を受け入れなければならない。報道機関からの批判があれば、新聞社を閉鎖したりジャーナリストを告訴したりするのではなく、それを受けて立たなければならない。選挙で負ければ、権力の座にしがみつくのではなく、つつがなく退任しなければならない。

 しかし、多くのルールは非公式的なものであるため、それが破られてもグレーゾーンに留まることになる。たとえば、選挙で勝とうとして、その数カ月前に選挙法を改正したりしてはならない。政治運動は、過去の権威主義政治を称えたり、敵対者を監禁したり、民族的、宗教的マイノリティの権利を侵したりしてはならない。選挙で敗北しても、政権末期になって野党の行動を制約したりしてはならない。(略)

自らの党利党略には自制的でなければならず、主たる選挙で勝ったり、緊急の法律を可決させたりするよりも、システム維持を優先させるよう、自覚的でなければならない。何よりも、民主政治は全面戦争の様相を呈してはならないのだ。

 政治理論家でカナダ自由党党首だったマイケル・イグナティエフは「民主主義が機能するためには敵とライバルとの違いをわきまえないといけない。ライバルを前にすれば勝つことが目標となるが、敵を前にした場合には殲滅が目標となるからだ」と、少し前に書いている。

 アメリカ、そしてその他の国でも、こうした民主政治はもはや成り立たなくなっている。イグナティエフが言うように、私たちは「ライバルの政治が、敵の政治に置き換えられていく」のをますます目撃するようになった。そしてその責は、ここ数十年で目にするようになった政治を荒らしているポピュリスト政治家にこそ、問われなければならない。

(略)

 最も初期に現れたポピュリストは(略)イェルク・ハイダーだった。一九八六年に自由党党首に選出されてから、彼は党を極右政党へと変転させていった。ハイダーの強固な移民を争点とする姿勢は、それまで主流派政党が政治的課題として扱うことを避けてきたものであり、有権者の歓心を買ったという意味では、擁護されて然るべきものかもしれない。しかし、リベラル・デモクラシーの基本的な規範を捨象しようとしていたことは、彼がオーストリアのナチ時代を狡猾にも再評価しようとしたことからも明らかだ。

 ハイダーは、ナチ親衛隊出身者を含む聴衆を前に、「我々の兵隊は犯罪者ではなく、むしろ被害者だった」と述べ、第三帝国への惜しみのない賛辞を表明し、ヒトラーの親衛隊の中には「多くの抑圧にもかかわらず、信念を持ち続け、善意に溢れた尊厳ある人々」がいると持ち 上げた。

(略)

ベッペ・グリッロは、最初──真っ当なことに──シルヴィオ・ベルルスコーニ首相の汚職に対する激烈な批判でもって政界に殴り込みをかけた。彼が五つ星運動を立ち上げた際に約束したのは、自己利益に進進し長老支配が慣行となった「政治階級」から権力を奪い返し、より近代的で寛容なイタリアを取り戻すことだった。

 ところが、人気を博すにつれ、この運動は反システム的な様相を呈することになる。政治家個人の汚職に対する批判よりも、議会を含む政治システムのラディカルな否定へと変容していった。政治家支配に対する怒りは、陰謀論や敵対者に対する根も葉もない嘘の喧伝となって表れることになった。

 民主主義の基本的価値に対してポピュリストや政界の新参者が攻撃を仕掛けるのは、幾分、戦術的な側面もあるだろう。この種の攻撃は、既成政治家から総スカンを喰らうが、それはまた、ポピュリストが現状変更を本当に望んでいることの証明ともなるからだ。彼らの挑発的な言動も論評者の不評をかこつが、注目を浴びることはアピールにもつながる。しかし、真の問題はこうした無謀さではない。政治システムの構成員の一人がルールを破れば、他の者もそれに続く可能性が出てくる。そして、それが現実のものとなりつつあることなのだ。

(略)

二〇〇八年の大統領選で、共和党候補者ジョン・マケインは(略)ある有権者が、オバマが大統領になるのは恐ろしいことだと述べた際、彼はライバルを擁護してみせた。「彼は立派な人間だということをわからないといけない。だから彼が合衆国大統領になることは恐れなくてもいい」と述べた。この集会で、ある老女がオバマ大統領は「アラブだから」信用できないと発言した時も同様だった。「奥様、それは違います。彼は立派な家族人かつ市民の一人で、たまたま大事な点で私と立場を異にしているから、この選挙があるのです」と反論した。

 党派を超えて対立候補の正当性を認めたマケインのような道徳的明瞭さは、彼が舞台から去ってからというもの、共和党から失われていった。オバマ大統領が初めての所信表明演説をした際、ある共和党議員が「嘘つき!」と叫んだことで、長く保たれていた儀礼的雰囲気はもはや失われてしまった。

(略)

オバマ政権との正面からの対決は、共和党が例外状況を想定して作られた議会規則の乱用や、自らの責務を放棄する誘因となった。こうした事態が顕著だったのは、上院だ。同院の規則や過程は、必要とあらば、上院議員は自らの党派性を乗り越えて議会機能を優先させることを目的に作られている。しかし今日、上院議員憲法上すれすれのことを日常的に行うようになった。

(略)

 たとえばフィリバスター[議事妨害]は、歴史的には稀にしか用いられないものだった。リンドン・B・ジョンソンが大統領だった時、上院の野党がこれを用いたのは一六回だったのに対し、オバマ大統領になってからは、実に五〇六回も行われている。

(略)

さらに、全国的な注目を浴びることのない基本的な民主的価値の侵食がアメリカの各州で徐々に進んでいる。過去数十年で、次選挙で共和党が有利になるよう、党派的な委員会の手による選挙区割りが進んだ。過去数十年で、共和党の州議員は不必要な身元確認を求めたり、民主党の選挙区での投票所を閉鎖したりすることで、マイノリティを投票所から遠ざけてきた。ノースカロライナ州などでは、公正な選挙を実施することよりも、選挙に勝つことが長らく目的となってしまっている。

なぜミシガンの田舎でポピュリスト支持が高まるのか 

 こうした指摘は、多くの市民の日常生活が根本的な変容を被るのは、移民と定期的に遭遇する場合であって、出会う移民の数が増える場合ではないことを示唆している。多くの移民を抱える地域に住む人々は、彼らのコミュニティはもはや「純粋」でないことに慣れており、自分たちの言語や文化、民族性を共有しない人々との付き合い方を知っているのである。彼らの中には外国出身者を好まず、福祉国家による再分配に反対する者もいるだろうが、移民の増加が彼らの世界を変えてしまうわけではない。

(略)

 ニューヨークのクイーンズ地区やロサンゼルス郊外ではなく、なぜミシガンの田舎のような場所でポピュリスト支持が高まるのかについては、ここ数年、多くの調査が明らかにしている。

(略)

一九八〇年の段階で、これらコミュニティは、白人が九〇%以上を占める同質的な場所だった。その後三〇年間で移民の数が拡大したため、こうした場所も多様性が増すようになった。二〇一〇年には、白人が九〇%を占めるコミュニティは三分の一にまで減っている。

(略)

ある報道は、こうした人口構成の変化を被ったウィスコンシン州にあるアルカディア市の小学校教頭の「津波に襲われているようだ」との証言を紹介している。別の住民は「この街のすごい変化に対してどうにかしないといけない」と述べた。

 この「何か」はドナルド・トランプ支持となって表れた。

 多くの選挙分析はトランプの勝利を、伝統的に民主党支持だった白人労働者層が寝返ったためだとした。なかでも、こうした有権者は、かつては高度の同質性を有していたものの、その後多様性を抱え込むに至った北西部に位置していたことが重要だ。(略)

「北西部の各州──アイオワインディアナウィスコンシンイリノイミネソタ──は二〇〇〇年から二〇一五年にかけて、他のアメリカの地域でみられなかったほどの非白人住民が流入した地域である。白人層が主たる住民だった数百もの都市には、中米諸国やカリフォルニア、テキサスから北上してきた非白人が住み着くようになった」。この人口構成上の変異は、投票行動の明確な変化となって表れた。たとえば、共和党予備選でトランプは全米七一%の票を得ている。しかし、二〇〇〇~二〇一五年に「多様性指数」が倍となった郡部で、その割合は七三%にのぼり、同指数が一五〇%増となったところでは八〇%も得票するに至ったのだ。 

民主主義を救え! ヤシャ・モンク

民主主義を救え!

民主主義を救え!

 

日本語版によせて

三つの教訓

ポピュリスト政権は一般的な政権よりも、国の民主主義を後退させる可能性が四倍も高かったのだ。自由で公平な選挙で敗北した結果、あるいは任期満了から下野するポピュリスト大統領や首相はごくわずかだ。半数は、自らのより大きな権限行使を可能にする憲法改正を実現させている。多くは市民的・政治的自由を大きく制約した。また、選挙戦に汚職を根絶すると約束しておきながら、彼らの国は平均より腐敗していったのである。

(略)

こうした事例は、ポピュリストが民主主義を深刻な形で傷つけることを示している。

(略)

 他国の経験からは、大事な三つの教訓を引き出すことができるだろう。まず、対抗勢力が、ポピュリストの恫喝の奥底に潜む狡猾さに気づかず、過小評価してしまうことだ。チャベスは長らく権力を維持するほどの能力を持っていないだろうとしたベネズエラの上層階級から、ベルルスコーニは道化じみた詐欺師にすぎないと国民は気づくだろうとした教養あるイタリア人まで、高を括っていた人々は一掃されてしまったのである。(略)

 次に、ポピュリストに抵抗しようとする者たちは、自分たちの無力さに気づくまで、力を合わせて協働しようとしない。多くの国でポピュリストたちが権力を掌握できたのは、野党勢が選挙協力で合意できなかったからに他ならない。権威主義的な脅威が立ち現れた時、一致団結は容易いものと思われるが、実際はその反対であることが多い。苦痛と恐怖に駆られてポピュリストに対抗せんとする者たちは、政治に誠実さを求めるあまり、ポピュリストに背を向けたかつての味方にも踏み絵を踏ませようとしてしまう。

 三つ目は、国にとってよりポジティブなイメージを提供することに失敗した。同胞市民に対して何が提供できるかを説くのではなく、敵の失政を喧伝することに躍起になってしまうのだ。

(略)

 しかしポピュリスト支持者の多くは、自分たちがもり立てている相手が嘘つきで、憎しみに溢れ、がさつであることを十分承知している。彼らは既成政治家が無力であるからこそ、ポピュリスト政治家に惹かれるのだ。ポピュリストが非現実的な公約のわずかな部分でも実行してくれるかもしれない、と信じているのだ。そして最後には旧態依然とした政治家の偽善を一掃してくれると期待するのだ。

ハンガリーのデモクラシー 

すでにポーランドやトルコでは、非リベラルなポピュリストたちが指導者の座に収まっているのだ。彼らは、自らの権力基盤を固めるために、似たような手段に頼った。まず、名指しされた内外の敵との緊張関係を高め、次に自らの分身を法廷と選挙監視委員会に送り込み、そしてメディアをコントロールする。

 たとえばハンガリーのデモクラシーは、ドイツやスウェーデンなどと比べてまだ日が浅く、脆いともいえる。それでも一九九〇年代を通じて、その行く末について政治学者は楽観していた。彼らは、ハンガリーは民主制への移行を成功させるためのあらゆる要素を兼ね備えている、としていた。過去に民主主義の経験を持っており、他の東欧諸国と比べて全体主義の遺産も少なく、共産主義の旧エリートは新しい体制に組み入れられ、国自体も民主主義国に囲まれている、等々。(略)もしここでデモクラシーができ上がらなければ、その他のポスト共産主義国でも成功しないだろう、と思われていた。

 こうした予測は、一九九〇年代を通じて現実のものになるかと思われた。経済は好調で、政権交代もあった。活気ある市民社会は批判的なメディア、強力なNGO中央ヨーロッパで最も優れた大学を生み出すに至った。デモクラシーはハンガリーに定着したかにみえたのだ。

 しかし、困難が生じるのも早かった。多くのハンガリー人は経済成長の果実の分け前が少なすぎると感じ始めた。そして、大量の移民が到来して、(現実ではなかったにせよ)自らのアイデンティティが脅かされると感じるようになったのだ。そして中道左派政党による大規模な汚職事件が発覚すると、不満は一気に政権に向けられた。有権者は、二〇一〇年の議会進行でヴィクトル・オルバン率いる政党フィデスを圧倒的な多数派に押し上げた。

 首相の座に収まったオルバンは、自らのルールを手際よく作り上げていった。国営テレビ局や選挙監視委員会、憲法裁判所に腹心を送り込み、支配下に置いた。自らが有利になるよう選挙制度を変え、自分の仲間に資金が渡るよう外資系企業を追い出し、NGOに厳しい規制を課し、中央ヨーロッパ大学を閉鎖に追い込もうとした。

(略)

当初、オルバンは自らを保守的な価値観を持った実直な民主主義者だと規定していた。現在になって、彼はリベラル・デモクラシーへの敵対意識を隠そうとしなくなった。彼によれば、デモクラシーとはリベラルであるよりもヒエラルキカル(序列的)であるべきなのだ。こうしてハンガリーは彼の指導のもと「ナショナルな基礎に基づく新たな非リベラル国家」になるという。

 デモクラシーが安定していた時代

 まず、デモクラシーが安定していた時代、多くの市民は生活水準の急激な改善を経験していた。たとえば一九三五年から一九六〇年まで、平均的なアメリカ家庭の所得は倍増した。一九六〇年から一九八五年にかけて、さらに倍増した。しかしそれ以来、所得は横ばいのままだ。

(略)

アメリカ市民は政治家一般を好いていたとはいえないが、それでも政治家は公約を守り、結果として自らの生活も上向くはずと、概ね信頼していた。しかし今日、この信頼と楽観はもはや雲散霧消している。市民は将来を大きく悲観しており、もはや政治をゼロサムゲームとみなすようになった。移民やエスニック・マイノリティにとって得になることは、自分たちの損になる、といったように。

欧州愛国者がなぜ日本国旗を持っていたか

二〇一五年にドイツに難民数万人が流入したことへの怒りがピークに達し、恥ずかし気もなく「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(略称PEGIDA)」と名乗る運動が、メルケル首相とその政策に反対して結成された。

(略)

運動の中核的イデオロギーは「嘘つくマスコミ」であり、ほとんどのデモ参加者は私と話すことを拒否した。

(略)

PEGIDAの中核的な訴え──難民に対する嫌悪、アメリカへの不信、ドイツ民族の純潔さ(略)

[ドイツ国旗]の代わりに掲げられていたのは、赤色を背景色に黒の十字があしらわれた、「ヴィルマー旗」として知られる旗だ。これは、極右界隈ではドイツの北方系・キリスト教の伝統を象徴するものとして、好んで用いられている。(略)

群衆が手にしていたもので私の目についたのは、ロシア国旗(「プーチンは自国民を優先している」とあった)やアメリカの南部旗(「彼らは本物の反乱軍」)、そして日本の国旗まであった。日本の国旗の意味はわからなかった。

(略)

 少し慄きながらも、日本の国旗を持つ男性におずおずと尋ねてみたところ、彼は喜んでその理由を説明してくれた。彼は日本とドイツは同じ問題を抱えているという。それは人口減少だ。ドイツは、労働力不足に際して多くの移民を受け入れたことで、社会保障の負担が増えた。しかしそれは間違いだったのだ、と。反対に、日本のように移民に門戸を閉ざしたままの方が賢いのだという。「人口を減少させておく方が外国人を入れるよりは良い」ということだ。

(略)

メルケルやその大臣たちは「私たちを殲滅させる戦争をしかけている!」、「ドイツ人民の敵」であるとするもの。ほかにも「ヤンキーどもお前の操り人形と一緒に消えうせろ」というのもあった。(略)

「レイプ難民は来るな」「ムハンマドは来るな」というのもあった。(略)

抗議の中心的な感情(略)スローガンの叫びは四半世紀前と変わっていなかった。群衆は「私たちこそ民衆だ」と繰り返し、繰り返すほどに攻撃的になっていった。私たちこそ──ドイツになだれ込んでくる外国人でも、彼らと結託する政治家でもなく──が民衆なのだ、と。

 

 抗議に続く数カ月後、ヨーロッパでは権威主義的なポピュリストが脚光を浴び、アメリカでドナルド・トランプが大統領に選ばれる中で、私はこの凍てつく夜のことを思い出していた。

政党制の「解凍」 

歴史をみれば、自らこそ民意を体現するとする者が、権力の階段を駆け上るのは早い。

(略)

戦後の大部分の時期、北アメリカと西ヨーロッパの政党制は 「凍結」されていた。(略)

党派の構成は変わることはあっても、政党制の基本的な構造は驚くほど変わらなかったのだ。

 しかし、過去二〇年のうちに政党制は大きく「解凍」させられている。どの国でも、それまで周縁部分にいたり、ほとんど存在しなかったりした政党が、政治の表舞台で極めて確固とした存在感を示すようになった。

 このような過程を最初に歩んだ民主主義国は、イタリアだった。一九九〇年代初頭、この国の政治システムは大規模な汚職事件によって機能停止に追い込まれた。終戦直後からイタリア政治を支配してきた政党は解党させられるか、選挙で壊滅に追いやられた。長きに亘るこの空白を最初に利用したのは、政界入りしてから自身が汚職の嫌疑をかけられていた実業家、シルヴィオ・ベルルスコーニだった。システムを一掃し、国を豊かにすると約束した彼は、政権を手にする。続く数年で政権が取り組んだのは、ベルルスコーニの数々の失敗をつくろったり、収監されないようにしたりする措置をとることだった。結果、彼は四半世紀近くも国の政治の中心に居座り続けたのだ。

 この時期のイタリアは異常に見えた。しかし過去数年で、ヨーロッパ各国で政治の新参者が現れ、権力と影響力を持つに至るのを見るにつけ、むしろイタリアこそが正常であるかのように見える。

簡単な解決法の危険性

 ヒラリー・クリントンとは対照的に、ドナルド・トランプが「トランプ大学」の学生から取引相手への不払いまで、数多くの人を欺いてきたことは広く知られている。彼の掲げた政策の多くは、実現しないだろう。

(略)

それでも、何百万人という有権者がトランプの主張のシンプルさこそ、その信憑性と覚悟の証明であり、そしてクリントンの主張の複雑さは彼女の不実さと無関心の表れだと捉えたのだ。

 口当たりのよい簡単な解決法こそ、ポピュリスト的アピールの核心にある。投票する者は、この世が複雑であることを認めたがらない。自分たちの抱える問題に簡単な解決法などない、と言われることを嫌うのだ。

(略)

 ポピュリスト指導者が絶対に上手くいかない、簡単な解決法を提示するのは非常に危険なことだ。いったん彼らが権力の座についてしまえば、公慣のもとをさらに悪化させてしまうことになりかねないからだ。だから、引き起こされる混乱をみて、有権者らが既存の政治家に対する信頼を取り戻すと予想したくなるかもしれない。しかしさらなる痛みは、彼らの態度をもっと硬化させ、苛立たせるだろう。そして南米諸国の歴史が示すように、一人のポピュリストが失敗すると、有権者は旧エリートを権力の座に戻すのではなく、新たなポピュリスト──あるいは問答無用の独裁者──を探し求めるようになる。

 ポピュリストの原動力を理解すること

今日のポピュリストたちは、かつての極右運動が目指したように、民主主義を超えるヒエラルキカルな政治システムの創立を目指すというよりも、我々が持っている民主的要素をより強化すると主張しているのだ。これこそが問題なのだ。

(略)

彼らの非リベラルな処方箋では、彼らが不人気となった時、民意に歯止めをかけるのに必要な自由で公平な選挙といった制度を維持できなくなってしまうからだ。

 ポピュリストは、彼らが人々の現実の声を代弁していると主張する。彼らは、自身の統治への抵抗も正当化されない、という。それゆえ、彼らは過度に反対勢力の口を封じ、敵対勢力の権力基盤を破壊する誘惑に駆られる。彼らの原動力となっている民主的なエネルギーを理解しない限り、その本質は理解できないだろう。そしてそのエネルギーが、今度はいとも簡単に人々に対して牙を剥くのかを理解しない限り、ダメージがどう及ぶかも想像できないだろう。リベラル・デモクラシーの守護者たちがポピュリストたちに対して立ち上がらない限り、非リベラルな民主主義があからさまな独裁主義へと転じる危険性を避けることはできないのだ。

「我々が采配を振るうことが許される限りにおいて、お前たちが統治する振りをする」 

[東プロイセン・ヤヌシャウ村に選挙が導入されたが]

オルデンブルク家の土地監理官、封のされた封筒を手渡したが、その中にはすでに印のつけられた投票用紙が入っていたのだ。

 疑問に思った勇気ある農民の一人がその封筒を開けようとして、監理官の怒りに触れた。(略)「これは秘密投票なんだ、馬鹿者!」

(略)

民主主義の夜明けにみられたこのエピソードは、伝統的なエリートが持つ大衆に対する感覚が、私たちの政治システムの起点にあることを物語っている。それは、「我々が采配を振るうことが許される限りにおいて、お前たちが統治する振りをする」というものだ。

(略)

イギリスやアメリカの政治システムは、民主主義のためではなく、これに抵抗するために作られた。人民の統治を許容する民主的な性格を有しているとされるのは、後世になってからのことだ。

(略)

リベラル・デモクラシーとは人々による統治を意味するのだ(略)この主張は、一世紀かそこら、民主主義が史上ないほどの理念的ヘゲモニーを誇った時代にこそ、真実味を持った。しかし、もはやそうではない。その結果、私たちの制度が唯一正当なものであるという民主主義の神話は崩壊しつつある。

(略)

イギリス議会は人民の統治を可能にするためのものではなく、変化を求められた王政と国の上層エリートとの間の血塗られた妥協の結果にすぎなかった。一九世紀と二〇世紀の過程で、参政権が徐々に拡大されてからというもの、この統治システムは民主主義に類似しているという考えが広まっていった。

(略)

民意を政策に転換するために最も民主的な方法とされる選挙とは、アメリカの建国の父たちにとっては、人民を遠ざけておくための手段でしかなかった。

 ジェームズ・マディソンの言葉を借りれば、選挙とは「国にとっての真の利益を最もよく認識できる知恵を備え、愛国心と正義を持つ選ばれた市民の集団を経て、公的な見解が一時的もしくは部分的な検討しか国益に加えない」ためのものだった。人々が政府に決して影響を与えないようにしたのには理由があった。マディソンは続けて「人民の代表が表明する公的な声の方が、そのために集まった人民が個々に意見を言うよりも、公共の利益により一致することになる」という。

 簡単にいえば、アメリカ建国の父にとって代表制による共和政は次善の策などではなく、民主主義という世を分断する悪物よりも好ましいものだった。アレクサンダー・ハミルトンとジェームズ・マディソンが『フェデラリスト・ペーパーズ63番』で明らかにした通り、アメリカ共和政の本質は統治おいて「いかなる部分においても、人民とその集合的能力の完全な排除」だったのである。

 これが変わるのは、移民の大量流入や西部開拓、南北戦争、急速な工業化によって、アメリカ社会が大きく変化した一九世紀のことだった。この頃に新しい思想家たちが、新たな衣装をまとい、再生された民主主義によって、理念的な共和政を意識的に作り上げようとした。統治のいかなる部分からも人々を排除するために作られたかつての制度は「人民の、人民による、人民のための」の統治を可能にすると読み換えられた。

 こうしてアメリカは、民主的な国とますますみなされるようになった一方、現実の姿とは程遠かった。アメリカが民主的プロセスを経験するには時間がかかった。一八七〇年の憲法修正第一五条では「人種、肌の色あるいは以前の隷属状態」によって市民の投票権を奪ってはならないことが決められた(しかし実際にはしばしばそれが行われていた)。

(略)

ジョン・アダムズが書いたように、人々は「五〇〇マイルも歩けず、時間を捻出できず、会う場所もないのだから、ともに行動し、討議し、結論を導き出すことなどできない」からだ。(略)

 この制約は、一九世紀後半の民主的思想家たちが、アメリカ統治について不思議な再発明をする理由となった。代表制はもともと、民主主義の理念に対する意識的に対抗する制度だったにもかかわらず、現代の条件では、それが最も民主主義の理念に近い制度とされるようになったからだ。こうして、リベラル・デモクラシーの理念(略)誕生についての神話が生まれたのだ。

(略)

エリートたちは自分たちで決定権を握り続けられることを、平等主義者たちは自分らの希望が叶えられるものとみなしたからだ。

(略)

民主主義出生の神話がなぜかつてほど民衆の想像力を掻き立てないのか、重要な理由がある。それは、過去数十年に亘って政治エリートが狡猾に民衆からの視線を遮ることに成功してきたからだ。

(略)

多くの政治的決定は選挙を経た議員たちによって下されてきた。こうした政治家は、自らの選挙民と深い関係を保ってきた。国の各地から集まり、教会や労組に至るまで、地域の組織と密接な関係を築きあげてきた。

 議員たちはまた、自らの使命についての理想を抱いていた。それが貧困世帯出身で一般の労働者を擁護する社民主義者であろうが、敬虔なクリスチャンの家庭で育った伝統を守ろうとするキリスト教民主主義者であろうが、いずれも明確な政治的使命を抱き、議員を辞めた後には、彼らの属する共同体へと戻っていった。

 しかし今日の職業政治家にもはや、こうした事例は当てはまらない。最も重要な機関であった立法府は、司法や官僚組織、中央銀行、国際条約や国際機関に対する権力を後退させている。同時に、立法府を支えていた多くの国の政治家も、代表するはずの有権者とは似ても似つかないような人間ばかりになっている。今では、自らの地域共同体と密な関係を持つ政治家は少なく、その基盤となるイデオロギーにコミットする者はさらに少ない。

 結果として、一般的な有権者は、かつてないほど政治家と疎遠になっている。彼らが政治家をみても、そこに自らの姿を見出すことはない。だから、政治家が下す判断は、自らの選好が反映しているとはみなされないのだ。

次回に続く。

 

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