中曽根インタビュー ジャパン・ストーリー 昭和・平成の日本政治見聞録

著者が日本で研究を始めた時に便宜を図ってもらったせいか、中曽根には好意的。

ジャパン・ストーリー 昭和・平成の日本政治見聞録

ジャパン・ストーリー 昭和・平成の日本政治見聞録

 

中曽根がハンサム?

外人からすると中曽根はハンサムでセクシーなのか……

 中曽根は当時四八歳。背が高く、堂々としていて自身に満ちた男前である。キャサリン・グラハムの回想録にも中曽根が登場する。 彼女がワシントンポストの社長に就任してから初めての外国旅行中の一九六五年に、彼に会っているのだ。

「ディー・エリオット(ニューズウィーク編集長オズボーン・エリオットの妻で、グラハムと一緒に旅行していた)と私が世界一周旅行中に作っていたセクシーな男のリストに彼も入れた」という。

(略)

 こうして私は東京に到着してほんの数日のうちに、初対面の大物政治家を前にして、自分のやりたいことを拙い日本語で説明し助言を求めることになったのである。

(略)

中曽根はその場で、次の衆議院選挙の立候補予定者のうち、私の研究対象に適した何人かの名前を挙げた。東京ではなく、保守派の票田である農村地帯や半農村地帯を調査対象にしたという私の考えに彼は賛成だったが、方言のことを心配していた。[中曽根は方言の強い岩手と鹿児島を外し、大分の佐藤文生を紹介]

諸般の事情で未発表だった2006年のインタビューを現在101歳の中曽根康弘の了承を得て公表。

靖国問題

 カーティス 八五年の時に一回限りと思われましたか。それとも毎年公式参拝なさるおつもりでしたか。

中曽根 私はそういう意味の正式の政府としてのお礼を一回やれば、何回も繰り返す必要はないと思っていました。要するに総理大臣としての責任を果たしたんだと。戦死した英霊に対して国家として正式に追悼を靖国神社でやる。(略)
カーティス 中国がそんなに反発すると読めましたか。

中曽根 それは外務大臣安倍晋太郎君が向こうとの接触をしたら、それほど強い反対とは思わなかった。まあしかしやらないほうがいいという程度のものだったと私は認識しています。

 ところが、その翌年また終戦日が近づいた頃に騒がしくなってきたので、[訪中する稲山喜寛・経団連会長に](略)「中国の真意を調べてください」と依頼した。(略)稲山さんが日本に帰る日の朝、一人の知日派の要人が来て、非常に悲壮な格好で「中曽根総理の参拝はぜひやめてもらいたい。中国の内政等については非常に影響がある」と言ってきた。
 そのときの状況では、胡耀邦中国共産党総書記が保守派から非常に非難されていた。で、私と胡耀邦は非常に近かった。そういう点も考えてみてこれは胡耀邦の進退に関わる危険があるから、そういう心配もして八六年は公式参拝をやめようと思った。
 要するに戦後四〇年に公式参拝を総理大臣が一回やっておけば責任は果たされるんだということです。少なくとも。それ以上は、そのときの総理大臣の考えで行っても行かなくてもいい。そのときの状況しだいで。行かなくてはならないというわけではない。それは私の考えです。

(略)
 私はだいたい大東亜戦争というものは、英米仏に対しては普通の戦争だったと思います。しかし中国以下アジアの国々には侵略的様相があった。侵略戦争。そういうふうに国会でも答弁しています。

 そういう意味で東京裁判を平和条約一一条で「judgmentsを受諾する」と書いてある。あれは「判決を受諾する」と私は解釈する。

(略)

カーティス ということは東京裁判を正当なものとして認めたのではなくて、東京裁判で受けた判決を執行するということですね。

分祀の問題

カーティス (略)[国家を代表して総理大臣が参拝することは]アジアを解放するための戦争であったという神社の立場をどうしても間接的に支持しているような印象を与えるのは避けられないと思うんです。 

(略)

中曽根 遊就館の展示は神主が差配して行っている。私は皇国主義的な伝統的発想については批判的です。靖国神社は明治時代の国家神道廃仏毀釈、お寺を壊して国家神道に統一した、そんな影響の流れになっている。
 それに対して私は分祀論ということを言っているわけで、神主は分祀なんかできないと言っているけれども、そんなものは明治の国家神道以来神主が勝手に決めたことじゃないか。

(略)

カーティス (略)もし分祀ということになれば、却って日本の靖国問題エスカレートしてしまう危険性があると思うんです。(略)
分祀した場合、総理大臣が靖国に行かざるを得なくなる。天皇陛下も行くべきだという話にもなる。僕が思うに靖国の問題は、A級戦犯が祀られているということではない。
 間題なのは、靖国神社が第二次世界犬戦における日本の政策は正しいという立場をとっているため、A級戦犯の問題が消えた場合、総理が参拝すれば、外国人から見ると、アジアでの戦争は侵略俄争ではなく、解放するための戦争であったということを総理大臣が認めているということになる。そんなニュースがアメリカをはじめ世界に報道されて、日本のイメージに非常にダメージを与えることになる。
中曽根 それはおっしゃるとおりで非常に心配なことですね。私も先日、遊就館に行ってきましたよ。あれは直させなきゃいかん。
 分祀したときは靖国神社の神主を変えなきゃだめですよ。そして靖国神社のあり方というものを世界に通用する、また国民も本当に歓迎する、そういう形にしなければいけないですね。私はだから神主がよくない、変えなければならない、そういうことを言っているんです。

(略)

それが今、私とのけんかの中心になっている。明治の国家神道、非常に狭隘な思想の延長線でまだ彼らはやっている。変えなきゃいかん。

(略)

個人的心情、あるいはポピュリズムで国民の支持があった場合でも、政治的判断として国家的利益に沿わないと思った場合にはやめなくちゃいかん。今、わたしは止める段階に来ている。そう思っています。

(略)

朝鮮日報のインタビューで、「いま、政治家に何が必要ですか?」という質問に「各国の指導者が自国の過激なナショナリズムを抑制することが一番大事である。このままいったら世界が非常に混乱状態になる危険がある」と答えました。

(略)

カーティス いまの世の中でただ漂流するということが一番危険だと思うんですけどね。

中曽根 私と宮沢まではそういう理性があった。が、それ以後は戦略的思考が希薄になっているね。だから日本が危なくなってきている。 

 自民党パラドックス

 自民党政権がこれほど長く続くとは、当の自民党でさえ、与党になった当初は予想していなかった。(略)

[竹下登談]

「自分が自民党の新人衆議院議員として一九五八年に東京に来たときには、次の選挙かその次で自民党は政権の座から滑り落ちるだろうと思っていた」(略)

[63年に自民党石田博英中央公論で]

急速な工業化と高等教育を受けた若年層の増加を踏まえ、「このままでは、産業構造の変化に伴い、一九六八年にも自民党社会党の支持率は逆転する」と予想した

(略)

[予言が外れた理由は、政権についた自民党が結党時の綱領に固執しなかったから] 

 憲法改正靖国神社の国家護持の復活、米軍占領時代に行われた各種改革の巻き戻しといった目標にこだわるよりも、国会での過半数議席を維持し、握った権力を手放さないことが彼らの最優先事項となった。(略)

世論が許容すると判断したとき以外は、イデオロギーや原理原則を強硬には主張しない。
(略)

盤石な地位を堅持しようと決めた自民党は、やむなく政治的には中道に偏っていく。
 自民党パラドックスを形成したのは、まさにこのプラグマティズム日和見主義だ。自民党は日本の突出して有力な中道政党でありながら、幹部の多くは中道より右だというパラドックスである。

新自由クラブ

[自民党脱退を決めた河野洋平田中角栄に会い新党結成の決意を伝えると]

 「君は大きなまちがいを犯そうとしている。頭を冷やして自民党にとどまり、私と戦え。君には勝つチャンスがある。だが離党したら、あとで後悔するにちがいない。最初はいいかもしれない。だがそのうち資金切れになる。大衆は興味を失う。有望な候補者を立てられなくなる。そして、遅かれ早かれ自民党に舞い戻ることになるだろう。私の忠告を聞いて、脱退は止めろ」

 田中との会談は河野に強い感銘を与えた。そして河野の話を聞いた私も強い感銘を受けた。田中は、河野に対していっさい不快感を露わにしなかったし、自分に対する河野の批判についても一言も言及していない。彼は老練な政治のプロとして、将来有望な若手に、急いては事を為損じると諭したのである。

田中角栄

[辞任直後、40分程の会談]

あまりに印象が強くてほかの記憶をすべて薄れさせてしまったことが一つある。向かい合って話していると、田中は歯切れよい口調で要点を指摘しながら、まるでボクサーのような具合に私のほうに身を乗り出してきたのだ。そのとき私は、自分が後ろへ押されているような感覚を抱いた。それは動物的な迫力だった。

(略)

竹下は、自民党の議員に選挙資金を渡すときの金丸と田中のちがいについて話し始めた。(略)
「金丸さんはデスクの前に座っている議員に現金の入った封筒を渡し、黙って待つ」(略)相手が封筒を開けて一万円札を注意深く数え、
 「たしかに三〇〇万円です、金丸先生、ありがとうございました」
 と頭を下げると、金丸は「がんばれ」と励まして送り出すという。
 だが田中はちがった。議員が事務所へ束て田中の向かいに座ると、田中は札束で膨らんだ封筒を渡す。相手が開けようとすると、田中は手を振って、
 「よしゃ、よしゃ、開けなくていい。これを使ってがんばってくれ」
 と言う。議員が早足で自分の事務所に戻って封筒を開けると、そこには予想していたより一〇〇万円かそれ以上余計に入っているのだ。(略)
あとで親分の気前のよさに感謝するように仕向けたわけである。そうすれば、自分はこれほど信頼されているのだと感じ入った議員が深く恩に着て、田中が必要とするときによろこんで馳せ参じるだろうと知っているからだ、と竹下は話した。

三木おろし

[76年夏、福田赳夫大平正芳は]

一緒に首相官邸を訪れて、三木に退陣を迫ったことがある。だが二人は、三木があっさり脅しに屈するような人物ではないと思い知らされることになる。(略)

[数日後]会談の詳細を三木から電話で聞いたことを覚えている。(略)

 三木は疲れきっている様子だったが、同時に興奮気味でもあった。「党は総理の辞任を求めている」と言われて、三木はこう言ってやったという。
 「私を党総裁にしたのは自民党であるが、私を総理にしたのは自民党ではなくて国会である。だからあなた方が党総裁を辞めさせたいなら、衆参両議員総会でも開いて私を辞めさせればいい。だが総理大臣を辞めさせる権限は自民党にはなく、国会だけが持っている。したがって、どうしても私に総理を辞めさせたいなら内閣不信任案を提出すればよい。それが憲政の常道である」(略)

[不信任案可決なら]三木には解散、総選挙、自民党分割という奥の手がある。三木はクスクス笑いを含んだ声で、福田と大平はうろたえて早々に引き揚げたと語った。

中曽根康弘

日本中心の世界観に浸る視野の狭い政治家とは異なり、中曽根はグローバルな視点を備え、世界の動向がどのように日本の長期的な国益に影響を与えるかを深く考えていた。そして外国の指導者との丁々発止のやり取りを楽しみ、しかもそれを自信をもってやっていた。中曽根は、珍しいインターナショナルなナショナリストだったと言えよう。
 中曽根は、憲法改正を唱え強い軍隊を持とうとする右寄りのタカ派というイメージが強い。だが日本の戦前史、中国をはじめアジア諸国との関係、防衛政策、対米関係についての彼の見解を考慮すると、そう単純に一言では片付けられない。日本の右派の政治家の中には、反米に凝り固まり、韓国を見下すような態度をとり、中国に敵対意識を持つ人もすくなくないが、中曽根にはそのようなところはなかった。彼は首相として日中関係、日韓関係の改善を図るのと並行して、日米同盟の強化にも努めている。

(略)
憲法改正についての彼の見方は、長い年月の間に変化している。二〇一三年に彼と交わした次の会話からも、それが伺える。
 近い将来に憲法は改正されるだろうかと質問すると、中曽根はこう答えた。
 「憲法ですか。憲法の改正はだんだん遠ざかるからね。いま、国民はそれほど改正の必要性は感じていない。改正の必要性の中には、やはり憲法の独自性とか、誕生の秘密とか、そういう問題がわれわれの時代には非常に強かったが、時間が経ってみたらそのような意識がほとんどなくなって、中身がよいか悪いかと、そう悪くないじゃないかと、そういう過程に入ってきている。私自身はすこし直して子孫に渡したほうがよいと、手を入れるほうがよいと、占領以来の経過をもう一回日本で洗い直すほうがよいという気がするが、しかしもう昔のような緊急課題ではなくなってきている。歴史的な課題ではあるが、現実的な課題かと言えば、あまりそうは言えない」
 中曽根はこのときの会話で、日本の歴史は外国の思想や制度を取り入れ、それを消化して日本的なものに変えてしまうことの繰り返しだったと語った。若かった頃は、憲法は日本人の価値観と相容れないのだから改正すべきだと考えていたという。だが長い年月を経る間に、日本人は憲法を自分たちのものにしていった。憲法を日本化したのである。

橋本龍太郎

 橋本は首相在任中に多くのことを成し遂げたにもかかわらず、どうも過小評価されているきらいがある。私は何回か会ったが、ひねくれて近寄りにくい人で、ゆっくり話を聞く機会を作らなかったことをいまになって後悔している。金融ビッグバン、官邸パワーの強化、中央省庁再編、政策立案プロセスの透明化といった成果を考えれば、橋本は戦後の首相の中で歴史に残る一人だったと言える。

『代議士の誕生』

同書は日本の戦後民主主義における選挙運動を詳細に調査した初めての本格的な研究文献として評価され(略)政治に関心のある人たちの必読書となったのである。

 また、一部の政治家志望者にとっては、選挙運動の組織作りのマニュアルといった存在にもなっていたらしい。小泉純一郎(略)首相になってから話をした際、

「私が政界に出たとき、『代議士の誕生』は日本の政治家の“バイブル”だった」

と話してくれた。

(略)

 票まとめのできる地方の有力者の重要性に初めて気づいたのは(略)

佐藤文生の選挙運動の世話役をしている町会議員の坂本[を取材していると、田舎道を向こうから歩いて来た男に](略)

 「今度、衆議院選挙がある。佐藤文生をよろしく頼むよ」
 と言った。そのときの相手の返事は、日本の選挙における個人的関係の重要性を教えてくれるものだった。
 「あなたには大変世話になっているけん、もちろん佐藤に入れますよ」
 と言ったのである。
 もう一つのエピソードは、豊後高田市を地盤に持つ清原という県会議員の自宅にお邪魔したときだ。(略)

[選挙運動のために集まった男達に]なぜ佐藤を支持するのかと私が質問をすると、彼らは失笑し、一人が答えた。
 「カーティスさん、誤解しないでください。俺たちは佐藤文生を支持しているのではない。支持しているのは県議の清原先生である。先生が佐藤の票をまとめろと言うからやっているだけだ」

(略)
 佐藤は結局、選挙運動中に一度も豊後高田市を訪れなかった。清原があの手この手を使って、佐藤の演説会が開かれるのを防いだからだ。彼としては、衆院選の候補者でカリスマ性もある佐藤に直接有権者に訴える機会を与えなければ、佐藤は清原に頼って票を取りまとめてもらうほかない。佐藤は清原に潤沢な選挙資金を渡し、その中から票集めに動く子分たちに「足代」を払ってもらう。言ってみれば佐藤は豊後高田での選挙運動を清原に丸投げしたわけである。
 清原は豊後高田市で三五〇〇票を佐藤に約束していた。[結果、得票は3564票だった] 

代議士の誕生 (日経BPクラシックス)

代議士の誕生 (日経BPクラシックス)

 

 

選挙制度改革

 小泉は選挙制度改革に反対で、小選挙区中心の制度にしたら党総裁に過大な権力が集中するだろうと考えていた。(略)

[首相になってから食事した時]小泉は、選挙制度改革を中心になって進めたのは(略)小沢一郎だが、小沢は、新制度になれば自分が首相になり、それまで誰も手にしたことのないような権力を掌握して政治を支配できると考えていた、と語った。(略)

「私は小選挙区には反対だったが、いまやそうなったからには、首相がこの制度を使っていかに自分の思い通りにできるかを広く知らしめてみせる」(略)

「この制度は、平議員にとっては悪夢だ。もう派閥の長は頼りにならないし、中選挙区制のときのように選挙運動で党総裁を批判することもできない。 

ニール・ヤング 回想 その2

前回の続き。 

ニール・ヤング 回想

ニール・ヤング 回想

 

CSN

 CSNには独自のサウンドがある。そこにわたしの声がどうしたら溶けこめるのか。三声のハーモニーは比較的簡単だが、四声となるともう少し複雑になる。だが、わたしたちはうまい方法を見つけた。あれほどすばらしいシンガーたちと歌うのは本当によい経験で、彼らから多くのことを学んだ。デヴィッドとグレアムは完璧なのに対し、スティーヴンとわたしの歌はもう少し自由だった。ところが四人で合わせると、みごとなハーモニーが生まれた。わたしたちはたびたび合わせた。スティーヴンと歌っていると心が踊る。四人で歌うのは楽しかった。何というサウンドだろう。
 毎日、わたしは超幅広タイヤにスモークガラスの窓、グレーのプライマーで塗った埃だらけのミニに乗って、スティーヴンの家までクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの練習に通った。途中には信号もなければ高速道路もない。ほかの車を見かけることもほとんどなかった。自分専用の抜け道だった。埃っぽい尾根の旧道で、利用する者はほとんどなく、サンフェルナンド・バレーと海辺の町を隔てる山の稜線を走っている。まさに絶景で、標識も交通ルールもない。わたしは8トラックでフランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションをガンガンかけながらミニを飛ばした。(略)

フリーウェイの上を通って、そのままマルホランドを飛ぶように走りつづける。わくわくするドライブだ。もっとも、わたしのお気に入りはトパンガから続く十二マイルの未舗装の道だった。ほかの車にすれ違ったことは一度もなく、全速力で飛ばす際に巻きあげた土埃は何マイルも向こうから見えたにちがいない。

 一九三四年型ベントレー直動式クーペ

 エイブラハムを売ってから真っ先にしたこと――それは、グレンデールの年配の紳士から、マリナーがボディワークを手がけた黒とシルバーの一九三四年型ベントレー直動式クーペを買うことだった。

(略)

来る日も来る日も、ブリッグスとわたしは古いベントレーでトパンガとハリウッドを往復し(略)決まって夜遅くにトパンガに戻ってきた。スタジオに長時間こもったあとで、夜の空気を切り裂きながら101号線を飛ばした。

(略)
床にも排気カットアウトレバーがあった。この仕組みは控えめに言ってもすごい。燃料を節約してパワーアップするために、レバーを引いてマフラーの機能を完全に止めることができる。それによって排気ガスは残らず排出される。すると車は爆音を立て、少しばかり速く走る。それこそブリッグスと私が毎晩やっていたことだった。そうやって101号線を走り、レコードのことや明日やること、うまくいったこと、もう一度やるべきことなどを思いつくままに話しているあいだ、この威勢のいいベントレーは驚くような音とともに疾走し、わたしたちを間違いなく目的地へ運んでいた。低く轟く音は何とも心地よかった。車にまつわる数々の思い出のなかでも一、二を争うものだ。あの車の気迫は本物だった。 

一九五一年型ウィリス・ジープスター 

 トパンガヘの帰り道、ブリッグスとわたしは何度となくジープスターに乗り、カセットを聴いて、ミキシングをチェックした。(略)

アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の制作中に、キャニオンで大麻を一ポンド買った。それを吸いながらジープスターに乗るのは最高だった。当時はしょっちゅうそうやって古い山道を上り、途中で停まっては、若い目で、上等のハッパで感受性が鋭くなった視界で、美しいカリフォルニアを眺めた。

(略)

[「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」の歌詞引用]

(略)

 わたしたちは夢の中で生きていた──音楽を作り、目標を達成し、そのたびに若者だけがつかの間、知っている楽しみとともに勝利を祝う。わたしたちはまさしくそこにいた。女性、愛、わたしたちの歌う歌とともに谷を進み、山の頂上にたどり着いた。しかも、まだほんの序の口だった。ブリッグスと一緒に作るアルバムは愛と苦悩、喜びと悲しみ、大人になることへの証なのだ。 

旧車マニア 

  わたしは少しずつ旧車マニアとして知られるようになっていた。一九七一年の秋には手当たり次第に買った。そのうちの半分はまともに走らなかったが、どれも見た目が特徴的で個性が際立っていた。ガソリンの価格は一ガロン当たり三十六セントだった。
 一九七二年ごろ、LAでまたしても車を買った。いったい、どういうつもりだったのか。ほとんど病気だ。とにかく、それは一九五〇年型パッカード・クリッパーで、唯一の魅力は翼を広げた美しい鳥の飾りがボンネットについていることだった。まるで古い船の軸先のようだった。車自体は、わたしが子どものころに父が買ったような普通のセダンで、とくべつなところは何もなかった。

(略)

 結局、ボンネットの飾りは別のパッカード、木目パネルのステーションワゴンに使った。一九五〇年型クリッパー・セダンは、しまいには解体するはめになった。本当に何を考えていたのか。そうした行為をきっかけに、わたしは車の衝動買いの癖や全般的な価値観について考えるようになった。この車には五百ドルも使った。何か深い意味があるのか?自分の欠点を補おうとしているのか?だが、この本では車のことを書いている。だからここでは深追いしない。

癲癇の発作

[バッファロー・スプリングフィールドが演奏した全ての日付が記録されたサイトを見ていて]

  最も衝撃的だったのは、わたしが脱退と復帰を繰り返した回数だった。それ以外にも、わたしがステージ上で癲癇の発作を起こしたとサイトの作者が主張している回数にもひどく驚いた。そう考えると、バンドはよくわたしに我慢してきたものだと感心せざるをえない。もちろん本番中に発作を起こしたことはない。発作を起こせば大ごとになる。とくに子どものころはそうだった。わたしはじっくり考えてみた。発作を起こしていれば忘れるはずがない。この作者が誤解しているか、誇張しているのだろう。

(略)

発作についてはつねに危惧していて、ステージで演奏中に人前で発作を起こすことをひどく恐れていた。そう言われてみれば、前兆を感じて一度ならずパニックに陥ったことを思い出した。みずからの殼に閉じこもり、なかば演奏し、なかば意識を保ちながらその場に突っ立っていた。いつもそうだったわけではないが、その状態になると手がつけられなかった。スプリングフィールドのメンバーは、わたしが注目を集めるためにわざとそうしていると考えていた──サイトにはそう書かれていた。当時のことを思い返しながら、わたしは気まずさがこみあげ、身体が熱くなるのを感じた。(略)

実際には演奏したはずなのに、ウェブサイトではキャンセル扱いになっているステージについては、開演が遅れたことを思い出した。発作に関する記述は続き、フロリダでのライヴまでは何となく心当たりはあったが、それ以外は記憶になかった。それに、本当に発作を起こしたのかどうかはいまでも確信がない。おもしろおかしくするために、こうしたことは誇張して書くことが多いからだ。
 ビーチ・ボーイズやストロベリー・アラーム・クロックのツアーにも参加した。続けざまに多くのステージをこなし、ときには一日に二、三回演奏しながらフロリダ中を飛びまわった。前の会場でのライブが終わらないうちに、次のライブが始まる。こうした“マルチライヴ”が来る日も来る日も続いた。タイトなスケジュールだったが、わたしたちは若く、それがビーチ・ボーイズのやり方だった。わたしたちは他のバンドよりも多く前座を務めた。二年間で三分の一はビーチ・ボーイズのツアーに同行したと思う。(略)

[68年4月9日のライヴについて]

ウェブサイトには次のように書かれていた。


 ニール・ヤングはこの公演で癲癇の発作を起こす。デューイはシャツを脱いで客席に飛びこみ、あやうく乱闘になりかけた。警官がライヴを中止すると同時にヤングは発作を起こす。スプリングフィールドは彼をステージに残して下がり、観客の中から彼の母親が助けに駆けつけた。

 

 わたしはほとんど覚えていなかったが、どうも大きな不安を抱え、フリーズ状態になってしまったライヴのようだ。リストでは、それを発作と見なされていた。そのころには皆、わたしにうんざりし、ライヴ会場に置き去りにした。彼らはわたしがバンドにいることに耐えられなかったにちがいない。いまのわたしにはそれしか言えない。ステージ上で起きたことは事実だが、あれは発作ではなかった。発作を起こすかもしれないという不安だ。いつも胃に前兆を感じる。吐き気がこみあげるのに似ている。そうするとパニックに陥り、凍りついてしまうのだ。
 じつに忌まわしい出来事だった。

シトロエンマセラティ 

 これまでわたしがしてきたことには、生きるためのちっぽけな根拠から外れ、せいぜい規範から逸脱した例に過ぎないものもある。ひょっとしたら自分を変えようとする試みかもしれない。あるいは理解できない何かを意味しているのか。いずれにせよ、深く追求するまでもない。
 その最も典型的な例が、七〇年代半ばに生産されたシトロエンマセラティを買ったことだ。全盛期には異彩を放っていた。速いが信頼性に欠け、概してオーバースペックで細心の注意が必要な車だった。どこで買ったのかは覚えていない。マリファナ常用者のわたしにとっては、運転が難しかった。危険なほどスピードが出る。そしてわたしはスピードを出した。そう求められていると感じたから。ほかの車の大半はリラックスしながらゆっくり走らせていた。言ってみれば旅の道連れのように。大型で快適な乗り心地だった。だが、これは違った。相性が合わない。違和感だらけで、ことごとく私の意に反する乗り物だった。(略)

[ある日、フォルクスワーゲンに抜かれ、挑戦を受けて立ったが、時速105マイルでスリップしかけ断念。しばらく行くと、VWの運転手が待っていた。話をすると、ポルシェ・エンジン搭載の改造車]

毎週末、レーストラックを走っているとのこと。わたしは内心ほっとした。この男においつこうとせずにスピードを落としてよかった。わたしがマリファナ煙草をすすめると、彼は一服した。

(略)

 結局、マセラティとはそりが合わず、その後すぐに売り払った。無傷で逃げられて運がよかったと思いながら。

リンカーン・コンチネンタル 

一九五九年型リンカーン・コンチネンタル・マークVのコンバーチブル

(略)

力強い輪郭、考え抜かれてレイアウトされたダッシュボードと計器盤は、それまでに見た二台よりもはるかにいい。みごとに彫られ、磨きこまれたクリーム色の美しいハンドルには、中央にしゃれたクロームのリングと、黒を背景にしたリンカーンの立派なエンブレムがはめこまれている。まさに芸術作品だ。後部のライトは五八年のものよりもはるかに優雅で、五八年の平たく丸い形にくらべて端正で洗練されている。フロントエンドは、情熱的でちょっぴり腹を立てている、少なくとも悲しそうな表情の五八年とは対照的に楽しげに見えた。細部にじっくり目を向けるうちに、わたしはこの車から強い感情を感じ取った。車はフロントエンドを見れば全体のデザインがおおよそわかる。わたしは五九年の明るく楽観的な雰囲気が気に入った。

  長いスカーフを巻いたマリリン・モンローが女友だちと後部座席に座り、髪を風になびかせ、あの黒い大きなサングラスでそよ風から目を守っている姿がすぐに思い浮かぶ。この車には成功が約束されているような気がした。ほかのどの車よりもアメリカンドリームに訴えかけていた。

(略)

[だが塗装に変な箇所。持ち主が語る悲しい思い出]

「やったのは、わたしの恋人です」男は静かに言った。話によると、彼女は腐食性の高いブレーキオイルを持ち出して、時間をかけて車全体にかけ、取り返しのつかないほどのダメージを与えたという。損傷は金属にまで及んだ。(略)彼がどれほど車を愛していたのか、わかっていたのだ。

(略)

 わたしはその場で購入(略)

それまで目にしてきた車のなかでもずば抜けた存在感を放っており、わたしの人生で大きな役割を果たしそうな予感がした。その車とともにどんな経験をするのか、あるはどのような変化をもたらす存在になるのか。まったく見当もつかなかった。 

デッドマン [DVD]

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『デッドマン』

[友人のジム・ジャームッシュからサントラの依頼]

 わたしがその映画を観たときには、台詞しかなかった。わたしはジムに傑作だと伝えた。実際、そのとおりだった。(略)最初からサイレント映画のような印象を受けた。

(略)

 わたしはコンチネンタルでセッションに向かった。『デッドマン』に参加するに当たり、映画館で生伴奏をする音楽家の気持ちになろうと決めた。一九八〇年の『ヒューマン・ハィウェィ』の撮影で知り合った友人のマイク・メイソンからサンフランシスコの古い場所を借り、部屋の中央に立つわたしを取り囲むように、二十台ほどのテレビモニターを置いた。七十インチから七インチまで、さまざまなサイズのモニターを取りそろえた。テレビに囲まれたわたしはギター──オールド・ブラック──とアンプ、古いピアノを用意した。どこを見ても映画が見える。逃れられない。伴奏をしたくなると、楽器を構えて演奏した。ほとんどはエレキギターのオールド・ブラックのソロで、効果音を出したり、何年も前に自身の映画のアイデアのために書いた「The Wyoming Burnout」をもとにテーマ音楽を作ったりした。別のテーマ曲も脇役のひとりのために考えた。すべてラィヴ演奏だ。ぶっ続けで全編の音楽を三回録音し、二回目の前半と一回目の後半を採用することにした。

(略)

場面転換で用いた車の音にはリンカーンのエンジン音を録音し(略)

映画に登場するのは馬や列車だけで、車は出てこないが、サウンドトラックでは、夏の夜に誰もいない裏道を走るコンチネンタルの轟音が道端のコオロギの鳴き声とともに効果的に使われている。
 録音の際には、コンチネンタルのコンバーチブルトップを開け、車にマイクや録音機材を積みこんだ。あの年の夏はコオロギの鳴き声がひときわ大きく、ところどころ、台詞やブレイクの詩を朗読するデップの声の裏にコオロギの声が聞こえる。音楽、台詞、車のエンジン音、ジョニー・デップのすばらしい朗読とともに、アルバムのために物語が紡がれた。リンカーンのV8エンジンの乾いた音は、二十世紀の馬としてさまざまな映画で用いられている。 

(略)

 私が車を買うのは、その魂のためだ。車にはそれぞれの物語がある。わたしは運転席に座り、その物語を感じ、そこから生じる感情で歌を書く。車は思い出を積んでいる。わたしにとっては、車は生きている。どの車も。

ニール・ヤング 回想

二巻で出てる自伝(ニール・ヤング自伝Ⅰ - 本と奇妙な煙)と何が違うか。

向こうは時系列バラバラでとりとめない回想。こちらの方はニール・ヤング直筆の愛車イラスト&旧車マニア話とともに時系列での回想。 音楽に関する話はあまりダブってない。

ニール・ヤング 回想

ニール・ヤング 回想

 

キャデラック エルドラド ビアリッツ

 ある日、学校の帰りに、いつもと違う道を通った。(略)一軒の大きな家の前に車が停まっていた。鋭いテールフィンと優雅な曲線が目を引くコンバーチブルだ。そんな車は見たことがなかったので、近づいてエンブレムを見た。エルドラドだった。実物を見たのははじめてで、すっかり心を奪われてしまった。キャデラックの中でも最高の車だということは知っていた。よく見ると、フロントフェンダーに取りつけられた金色のエンブレムには、洗練された文字で“ビアリッツ”と書かれている。これがキャデラックの技術を結集したと言われる噂の車なのか。彫刻のように美しいボディ、クロームメッキ、フロントガラス、背もたれにクロームのメダルがついた豪華な革の座席、そしてこのみごとな車の存在そのものに、わたしは心が揺さぶられた。ナンバー・プレートには“ミシガン”。こんな車を持っているのは当然アメリカ人だろう。わたしは心に誓った。いつか自分もアメリカヘ行き、話に聞いたり本で読んだりした憧れの生活を送ろう。すべてのかっこいい音楽、すばらしい車が生まれる国。いったいどうやって作り出しているのか。わたしは知りたくてたまらなかった。

鉄道模型

 ちょうどそのころ、わたしは父と母が大喧嘩をしているのを目撃した。母は大声でわめいていて、父は母を叩いた。原因はわからず、いま考えると、わたしはその場にいるべきではなかった。(略)

両親の喧嘩を目撃したことで、わたしはとても嫌な気分になり、それから数日間は地下室にこもって、ライオネルの中古の小さな蒸気機関車で遊んでいた。家の地下のコンクリートの床の上、自分だけの世界。そこにあるのは電池で動く列車とボイラーとカビ臭い配水管だけ。ほかのことは何もかも忘れた。
 地下室は少し湿っていて、何かに触れた拍子に感電することもあった。裸足になってもだめだった。上から吊り下がった電球が小さな列車を照らしていた。わたしは床に座り、変圧器で実験をした。列車を手に持って、車輪が回りながら火花を散らすのを眺めていた。それが、わたしと電気との長い関係の始まりだった。

自己表現欲求の芽生え

[両親の離婚で母とウィニペグに引っ越し]

 新聞配達は貴重な収入源で、そのおかげでいろいろな物を買うことができた。最初に買ったのはハーモニー・ソブリンのギターとディアルモンドのピックアップだ。それがギタープレーヤーとしての足掛かりとなり、わたしは昼も夜も練習した。アンプは必要なかった。ハーモニーのギターにはfホールがあって、家で音を響かせて弾くことができた。
 そのうちに、ちょっとした言葉を紙に書いて寝室の壁に貼るようになった。ほとんどは“そんなこと構うものか”といったフレーズだった。そのせいで[母の]ラッシーはひどく心配し、壁に貼られたメッセージを見ては動揺していた。それでもわたしは書きつづけなければならなかった。いま思うと、自己表現の欲求が芽生えていたにちがいない。つねにハーモニー・ソブリンを弾きながら、あの部屋で詩を書きはじめ、やがてちょっとした自作の曲を演奏するようになった。
 シーブリーズ[のプレーヤー]はリビングに置かれた。(略)わたしはベンチャーズやシャドウズのLPを中心に、ザ・ファイアボールズ、ジョニー&ザ・ハリケーンズ、ビル・ブラックス・コンボ、ヴィスカウンツ、マーキーズ、それにフレディ・キングの「ハイダウェイ」というすばらしいインストゥルメンタルのドーナツ盤などを聴いた。

(略)
わたしは新しい街を探検した。学校が始まると、すぐに音楽好きの仲間が何人か見つかり、のちに〈ジェイズ〉という名前をつけるバンドを結成した。わたしの最初のバンドだ。

(略)

 ケンもわたしもシャドウズのファンだった。そのころ、アラン&ザ・シルバートーンズというウィニペグで一番のバンドに、シャドウズの曲を全部弾くギタリストがいた。とにかくすごい演奏だった。名前はランディ・バックマン。シャドウズのリードギターのハンク・B・マーヴィンがやっているように、テープレコーダーを使ってエコーサウンドを作っていた。
 誰でもヒーローの存在が出発点となる。わたしの場合はハンクとランディだった。ふたりともテープエコーはエコープレックスを使っていたので、わたしも真似をして、いまでも使っている。テープエコーを使いながら、ビグスビーのヴィブラート・テールピースでピッチを変化させて音に深みを加える。ビグスビーを取りつけ、さらに指先を上下に動かして音の幅を広げると、オリジナルの音とは異なるディレイ音が出せる。わずかにピッチの異なる音が少し遅れて響き、ディレイ効果が得られるのだ。もちろん、当時のわたしが持っていたのはピックアップが一つしかないハーモニー・ソブリンで、ビグスビーもついていなかったから、実際にディレイ音を鳴らすことはできなかった。エコーはかからなかった。ただ弾き方を知っていただけだ。ランディのギターはグレッチで、ピックアップが二つとビグスビーもついていた。わたしには世界一のサウンドに聞こえた。あんなふうにかっこよく弾いてみたくてたまらなかった。

(略)

 一九六二年十一月、一七歳になったわたしは、誕生日にラッシーからもらった新しいギターでインストゥルメンタルの曲を書きはじめた。サンバースト塗装で黒いギブソンのピックアップが一つついた、ギブソンレスポール・ジュニア。本物のエレキギターだ!記念すべき第一号だった。塗装はあちこち剥げていたが、そのほうが本格的に見えた。

(略)

勉強しなければならないときでも、装置やアンプの配置によってサウンドがどう変わるのかを想像しながらステージセッティングの略図を描いたりしていた。

(略)

わたしはビル・ブラックス・コンボを見に行ったのを覚えている。当時、ビル・ブラックはエルヴィスのバンドでベースを弾いていて、弦を櫛で叩いて恐ろしくユニークな音を出した。だからビル・ブラックス・コンボのギターサウンドはパーカッションみたいだった。これはまったくのオリジナルで、ブギウギのベースラインとなった。

(略)

わたしは何時間もバンドの目の前に立って、一挙一動を観察した。

(略)

[双子の]マリリンとジャッキーは『ティーン・ダンスパーティ』というテレビ番組にレギュラー出演していた。美しいだけでなく、ダンスも上手だった。一度、番組を見学に行ったが、わたしは恥ずかしくて踊れなかった。それでもマリリンはわたしのことが好きで、ふたりで本当に楽しい時を過ごした。どこにでもいる少年少女のカップルだった。いつもわたしが彼女の家に行き、リビングにある電子オルガンを弾いた。

(略)

 マリリンはわたしが初期に作った「アイ・ワンダー」という曲を楽譜に起こすのを手伝ってくれた。それを自分宛てに送って開封しなければ、基本的なやり方で著作権を保護することができる。つまり封を切らずにおくことで、消印が投函された日付を示し、作曲者がわたしであることと時期が証明されるというわけだ。マリリンがわたしの歌を聞き取って楽譜に書きこみ、わたしは歌詞の上にコードを書く。そんなふうにして母がよく父の原稿を編集していたものだった。

(略)

 新しいバンドには〈スクワイアーズ〉という名前を考えた。(略)

ウィニペグ・ピアノ・カンパニー〉は、地元ミュージシャンたちが集う大きな楽器店だった。(略)わたしは足しげく通い、眺めながら夢見ていた。ランディ・バックマンもしょっちゅう顔を出していた。彼は、ちょっとしたリバプールのようだったと振り返っている。ウィニペグには無数のバンドがあり、誰もがどこかのバンドに参加しているようだった。

(略)

  少しばかりファンもつくようになった。あちこちの会場に同じ顔が聴きに来ていることに気づいたのだ。とにかくうれしかった。バンドの曲はすべてインストゥルメンタルで、その多くをわたしが書いていた。オリジナル以外にも、ベンチャーズやシャドウズなどの人気グループの曲をたびたび演奏した。一九六三年、わたしたちはお世辞にもきれいとは言えない格好で小さな車に乗り、ウィニペグ中をどさ回りのように渡り歩いた。季節が変わって秋が終わろうとしていたあのときの感覚をいまでも覚えている。わたしは成長し、木の葉の色も変わりつつあった。

ジミー・リード

昼休みの余興として、わたしは居並ぶ生徒たちの前に立った。スチュアート・アダムズと、もうひとりが一緒だった。スチュアートはイギリス人だ。ビートルズを二曲やった。わたしはギターを弾き、たしか彼も弾いていたが、よく覚えていない。がちがちに緊張していた。あのときの感覚は一生忘れられない。(略)

「マネー」と「イット・ウォント・ビー・ロング」、どちらも大ヒットアルバムに収録されている、すばらしい曲だ。観客の反応がよかったかどうかは覚えていない。

(略)

 世の中がビートルズ一色になっても、わたしはあいかわらずジミー・リードに夢中で、つねにシーブリーズで聴くアルバムを二、三枚持っていた。どの歌からもにじみ出るシンプルさと誠実さが大好きだった。声はすばらしいというわけではなく、ハーモニカは素朴でぶっきらぼうだったが、コーヒーハウス〈フォース・ディメンション〉で聴いたブラウニー・マギーとはスタイルが異なった。ジミーは同時にギターも演奏できるように首にハーモニカホルダーをかけ、哀愁を帯びた高い音を長く伸ばして吹く。ほかの誰とも違うブルースサウンドで、単純ながらも最高の音楽を作り出し、わたしにとっては記憶に残る天才、偉大なミュージシャンだった。おそらくあまりにも完成度が高かったせいで、生存中は筋金入りのブルースファンにも正当に評価されなかった。わたしを除いて。 

Anthology

Anthology

 

 

デル・シャノン

わたしたちはエコーや重ね録りを駆使し、スタジオでは本当に有意義な時間を過ごすことができたが、残念ながら成果は得られなかった。レコード会社と契約できなかったのだ。わたしは自分の声が世間受けしないせいだと思ったが、レイの考えは違った。だから路線は変更しなかった。
 ステージの予定があったため、わたしたちはそのまま街に留まった。コロシアムで行われるCJLXの番組で、〈ジェイ&アメリカンズ〉の前座を務めることになったのだ。大きなチャンスだった。何しろ彼らは大スターだ。一方、フォートウィリアムにいるあいだに、デル・シャノンが来て歌った。ケンとビルとわたしは観客に混じってステージを見た。ウィニペグでシルバートーンズを見ていたときと同じように。
 デル・シャノンはミンクのギターストラップを肩にかけ、「花咲く街角」「悲しき街角」「さすらいの街角(Stranger in Town)」などヒット曲を残らず歌った。本当に唯一無二で魅力的だった。のちに自殺を遂げたのは非常に残念なことだ。声量のわりには小柄で、見るからに孤高の存在だったが、すばらしい歌手でとても強い感情を秘めていた。それでも、彼のパフォーマンスにはどこか痛ましいところがあった。はっきりとはわからないが、存在感がありすぎてステージに収まりきらないような気がした。その日から、わたし自身も「さすらいの街角」を歌うようになった。とても気に入って、スクワイアーズのレパートリーにも加えた。のちに、わたしはわたしなりの「Stranger in Town」を書き、練習を重ねてCJLXの番組に備えた。その大きな番組に出演できるのはワクワクした。

(略)

 当時、わたしはアメリカヘ行くことを考えはじめていた。アメリカほどおもしろい国はない。バンドで成功するつもりなら、音楽の中心地でメジャーになりたいと思うのは当然だろう。 

Stranger In Town

Stranger In Town

  • デル・シャノン
  • ロック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

 1954年型パッカード

  あのすばらしいパッカードの救急車/霊柩車がわたしの手元にあったのは、ほんの一時期で、その後どうなったのかは覚えていない。おおかた修理代も出せないような問題が発生したのだろう。きっとどこかに駐車したまま置いてきたにちがいない。車両登録も保険も、そういった類の法的な手続きはいっさいしていなかった。(略)

カナダで乗っていて、手に負えないトラブルのせいで路肩に置き去りにした一九四七年型ビュイック・ロードマスター・コンバーチブルと似たような運命を辿ったわけだ。

一九五七年型コルベット

 大きなテレビ番組への出演決定、アトランティック・レコードからの前払い金、ファーストアルバムの発売と続いたところで、わたしはまたしても自分へのと褒美として、一九五七年型コルベットを千二百五十ドルで購入した。メタリックブロンズのボディ、かっこよくて力強くハスキーなエンジン音。そのコルベットはわたしが所有した最初のセクシーで速い車で、舞い上がるような気持ちで運転したものだった。ほとんどいつもガソリン臭かったが、それでも美しいデザイン、タイヤ、古典的なダッシュボードに惚れこんだ。
 この自分へのと褒美の習慣は長年続き、じつを言うと、いまでもやめられない。わたしは車が大好きで、何かを成し遂げて、その見返りを得るという気分は何ものにも代えがたい。

(略)

 ローレルキャニオンは知り合いのミュージシャンがおおぜい住んでいて、その多くが成功したバンドのメンバーだった。(略)

わたしの一九五七年型コルベットは、ユーカリの木立ちに囲まれた節だらけの松材の小屋まで曲がりくねった山道を難なく上っていく。(略)

途中で、ママス&パパスの美しいミシェル・フィリップスが庭に出ているのを見かけることがあった。その家を通り過ぎるときには、決まって彼女の姿を探したものだ。もっとも話しかけるチャンスはなかった。遠くからひそかに想い、けっして触れることはできないとわかっている――彼女はそんなタイプの女性だった。

(略)

 一九六六年の二十一歳の誕生日は忘れられない。なぜなら、その晩にサンセット・ストリップの暴動が勃発したからだ。(略)

[ロック・ファンに人気のラジオ局がヒッピーの夜10時以降外出禁止令への抗議デモを呼び掛けたことで暴動が発生]

 スティーヴン・スティルスが暴動に触発されて「フォー・ホワット」という曲を書いていたころ[ドライヴ中に無免でつかまり刑務所へ]

[ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』に出たくなくて]

いま思うと、いきなりバンドを辞めなくても、スティーヴンと話し合えば自分の考えを理解してもらえたかもしれない。だが、そのころのわたしは大人ではなかった。

 その結果、[ローンが払えず]わたしはコルベットを失った。(略)

それは忘れられない教訓となり、以来、車は何があっても現金で買うようにした。

 もちろん、しばらくしてからわたしはバンドに復帰して、またツアーに出はじめた。

(略)

[67年3月]そのころには、わたしたちのスタイルはかなり過激になり、スティーヴンの名曲「ブルーバード」を(略)サイケ調の白熱したアドリブで限界までアレンジしていた。その結果、わたしはグレッチの弦をことごとく切り、デューイはドラムを破壊し、スティーヴンは怒濤のように演奏した。

(略)

ポートランドでの晩、楽屋に戻ったときに行き違いが起きた。スティーヴンとブルースとわたしは何かのことで大喧嘩し、わたしは頭のネジがぶっ飛んだ。クスリをやっていたわけではなく、ただ正気を失っただけだ。わたしは美しいオレンジのグレッチをつかんで椅子に叩きつけた。ボディの裏側がぱっくり割れた。エネルギーがあり余っていて、どうしていいかわからなかったのだ。(略)
 当時、新品のグレッチは、ベルトのバックルで傷がつかないように裏側にやわらかい革のパッドをつけて製造所から送られてきた。そこで、わたしは修理してもらった部分にそのパッドをつけた。いまでもそのギターを弾いている。
 わたしの音楽人生では、この仲間で演奏したステージが最高だった。バッファロー・スプリングフィールドは、わたしが生まれてはじめて全力を出し尽くしたバンドだった。(略)

残念ながら、バッファロー・スプリングフィールドが日の目を見ることはなかった。オリジナルのメンバーによる録音で質のよいものは存在せず、活動を記録した映像も残っていない。だからその名を聞くと、最盛期を知る者の胸にはほろ苦い感情がこみあげる。 

次回に続く。

 

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