ニール・ヤング 回想 その2

前回の続き。 

ニール・ヤング 回想

ニール・ヤング 回想

 

CSN

 CSNには独自のサウンドがある。そこにわたしの声がどうしたら溶けこめるのか。三声のハーモニーは比較的簡単だが、四声となるともう少し複雑になる。だが、わたしたちはうまい方法を見つけた。あれほどすばらしいシンガーたちと歌うのは本当によい経験で、彼らから多くのことを学んだ。デヴィッドとグレアムは完璧なのに対し、スティーヴンとわたしの歌はもう少し自由だった。ところが四人で合わせると、みごとなハーモニーが生まれた。わたしたちはたびたび合わせた。スティーヴンと歌っていると心が踊る。四人で歌うのは楽しかった。何というサウンドだろう。
 毎日、わたしは超幅広タイヤにスモークガラスの窓、グレーのプライマーで塗った埃だらけのミニに乗って、スティーヴンの家までクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの練習に通った。途中には信号もなければ高速道路もない。ほかの車を見かけることもほとんどなかった。自分専用の抜け道だった。埃っぽい尾根の旧道で、利用する者はほとんどなく、サンフェルナンド・バレーと海辺の町を隔てる山の稜線を走っている。まさに絶景で、標識も交通ルールもない。わたしは8トラックでフランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションをガンガンかけながらミニを飛ばした。(略)

フリーウェイの上を通って、そのままマルホランドを飛ぶように走りつづける。わくわくするドライブだ。もっとも、わたしのお気に入りはトパンガから続く十二マイルの未舗装の道だった。ほかの車にすれ違ったことは一度もなく、全速力で飛ばす際に巻きあげた土埃は何マイルも向こうから見えたにちがいない。

 一九三四年型ベントレー直動式クーペ

 エイブラハムを売ってから真っ先にしたこと――それは、グレンデールの年配の紳士から、マリナーがボディワークを手がけた黒とシルバーの一九三四年型ベントレー直動式クーペを買うことだった。

(略)

来る日も来る日も、ブリッグスとわたしは古いベントレーでトパンガとハリウッドを往復し(略)決まって夜遅くにトパンガに戻ってきた。スタジオに長時間こもったあとで、夜の空気を切り裂きながら101号線を飛ばした。

(略)
床にも排気カットアウトレバーがあった。この仕組みは控えめに言ってもすごい。燃料を節約してパワーアップするために、レバーを引いてマフラーの機能を完全に止めることができる。それによって排気ガスは残らず排出される。すると車は爆音を立て、少しばかり速く走る。それこそブリッグスと私が毎晩やっていたことだった。そうやって101号線を走り、レコードのことや明日やること、うまくいったこと、もう一度やるべきことなどを思いつくままに話しているあいだ、この威勢のいいベントレーは驚くような音とともに疾走し、わたしたちを間違いなく目的地へ運んでいた。低く轟く音は何とも心地よかった。車にまつわる数々の思い出のなかでも一、二を争うものだ。あの車の気迫は本物だった。 

一九五一年型ウィリス・ジープスター 

 トパンガヘの帰り道、ブリッグスとわたしは何度となくジープスターに乗り、カセットを聴いて、ミキシングをチェックした。(略)

アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の制作中に、キャニオンで大麻を一ポンド買った。それを吸いながらジープスターに乗るのは最高だった。当時はしょっちゅうそうやって古い山道を上り、途中で停まっては、若い目で、上等のハッパで感受性が鋭くなった視界で、美しいカリフォルニアを眺めた。

(略)

[「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」の歌詞引用]

(略)

 わたしたちは夢の中で生きていた──音楽を作り、目標を達成し、そのたびに若者だけがつかの間、知っている楽しみとともに勝利を祝う。わたしたちはまさしくそこにいた。女性、愛、わたしたちの歌う歌とともに谷を進み、山の頂上にたどり着いた。しかも、まだほんの序の口だった。ブリッグスと一緒に作るアルバムは愛と苦悩、喜びと悲しみ、大人になることへの証なのだ。 

旧車マニア 

  わたしは少しずつ旧車マニアとして知られるようになっていた。一九七一年の秋には手当たり次第に買った。そのうちの半分はまともに走らなかったが、どれも見た目が特徴的で個性が際立っていた。ガソリンの価格は一ガロン当たり三十六セントだった。
 一九七二年ごろ、LAでまたしても車を買った。いったい、どういうつもりだったのか。ほとんど病気だ。とにかく、それは一九五〇年型パッカード・クリッパーで、唯一の魅力は翼を広げた美しい鳥の飾りがボンネットについていることだった。まるで古い船の軸先のようだった。車自体は、わたしが子どものころに父が買ったような普通のセダンで、とくべつなところは何もなかった。

(略)

 結局、ボンネットの飾りは別のパッカード、木目パネルのステーションワゴンに使った。一九五〇年型クリッパー・セダンは、しまいには解体するはめになった。本当に何を考えていたのか。そうした行為をきっかけに、わたしは車の衝動買いの癖や全般的な価値観について考えるようになった。この車には五百ドルも使った。何か深い意味があるのか?自分の欠点を補おうとしているのか?だが、この本では車のことを書いている。だからここでは深追いしない。

癲癇の発作

[バッファロー・スプリングフィールドが演奏した全ての日付が記録されたサイトを見ていて]

  最も衝撃的だったのは、わたしが脱退と復帰を繰り返した回数だった。それ以外にも、わたしがステージ上で癲癇の発作を起こしたとサイトの作者が主張している回数にもひどく驚いた。そう考えると、バンドはよくわたしに我慢してきたものだと感心せざるをえない。もちろん本番中に発作を起こしたことはない。発作を起こせば大ごとになる。とくに子どものころはそうだった。わたしはじっくり考えてみた。発作を起こしていれば忘れるはずがない。この作者が誤解しているか、誇張しているのだろう。

(略)

発作についてはつねに危惧していて、ステージで演奏中に人前で発作を起こすことをひどく恐れていた。そう言われてみれば、前兆を感じて一度ならずパニックに陥ったことを思い出した。みずからの殼に閉じこもり、なかば演奏し、なかば意識を保ちながらその場に突っ立っていた。いつもそうだったわけではないが、その状態になると手がつけられなかった。スプリングフィールドのメンバーは、わたしが注目を集めるためにわざとそうしていると考えていた──サイトにはそう書かれていた。当時のことを思い返しながら、わたしは気まずさがこみあげ、身体が熱くなるのを感じた。(略)

実際には演奏したはずなのに、ウェブサイトではキャンセル扱いになっているステージについては、開演が遅れたことを思い出した。発作に関する記述は続き、フロリダでのライヴまでは何となく心当たりはあったが、それ以外は記憶になかった。それに、本当に発作を起こしたのかどうかはいまでも確信がない。おもしろおかしくするために、こうしたことは誇張して書くことが多いからだ。
 ビーチ・ボーイズやストロベリー・アラーム・クロックのツアーにも参加した。続けざまに多くのステージをこなし、ときには一日に二、三回演奏しながらフロリダ中を飛びまわった。前の会場でのライブが終わらないうちに、次のライブが始まる。こうした“マルチライヴ”が来る日も来る日も続いた。タイトなスケジュールだったが、わたしたちは若く、それがビーチ・ボーイズのやり方だった。わたしたちは他のバンドよりも多く前座を務めた。二年間で三分の一はビーチ・ボーイズのツアーに同行したと思う。(略)

[68年4月9日のライヴについて]

ウェブサイトには次のように書かれていた。


 ニール・ヤングはこの公演で癲癇の発作を起こす。デューイはシャツを脱いで客席に飛びこみ、あやうく乱闘になりかけた。警官がライヴを中止すると同時にヤングは発作を起こす。スプリングフィールドは彼をステージに残して下がり、観客の中から彼の母親が助けに駆けつけた。

 

 わたしはほとんど覚えていなかったが、どうも大きな不安を抱え、フリーズ状態になってしまったライヴのようだ。リストでは、それを発作と見なされていた。そのころには皆、わたしにうんざりし、ライヴ会場に置き去りにした。彼らはわたしがバンドにいることに耐えられなかったにちがいない。いまのわたしにはそれしか言えない。ステージ上で起きたことは事実だが、あれは発作ではなかった。発作を起こすかもしれないという不安だ。いつも胃に前兆を感じる。吐き気がこみあげるのに似ている。そうするとパニックに陥り、凍りついてしまうのだ。
 じつに忌まわしい出来事だった。

シトロエンマセラティ 

 これまでわたしがしてきたことには、生きるためのちっぽけな根拠から外れ、せいぜい規範から逸脱した例に過ぎないものもある。ひょっとしたら自分を変えようとする試みかもしれない。あるいは理解できない何かを意味しているのか。いずれにせよ、深く追求するまでもない。
 その最も典型的な例が、七〇年代半ばに生産されたシトロエンマセラティを買ったことだ。全盛期には異彩を放っていた。速いが信頼性に欠け、概してオーバースペックで細心の注意が必要な車だった。どこで買ったのかは覚えていない。マリファナ常用者のわたしにとっては、運転が難しかった。危険なほどスピードが出る。そしてわたしはスピードを出した。そう求められていると感じたから。ほかの車の大半はリラックスしながらゆっくり走らせていた。言ってみれば旅の道連れのように。大型で快適な乗り心地だった。だが、これは違った。相性が合わない。違和感だらけで、ことごとく私の意に反する乗り物だった。(略)

[ある日、フォルクスワーゲンに抜かれ、挑戦を受けて立ったが、時速105マイルでスリップしかけ断念。しばらく行くと、VWの運転手が待っていた。話をすると、ポルシェ・エンジン搭載の改造車]

毎週末、レーストラックを走っているとのこと。わたしは内心ほっとした。この男においつこうとせずにスピードを落としてよかった。わたしがマリファナ煙草をすすめると、彼は一服した。

(略)

 結局、マセラティとはそりが合わず、その後すぐに売り払った。無傷で逃げられて運がよかったと思いながら。

リンカーン・コンチネンタル 

一九五九年型リンカーン・コンチネンタル・マークVのコンバーチブル

(略)

力強い輪郭、考え抜かれてレイアウトされたダッシュボードと計器盤は、それまでに見た二台よりもはるかにいい。みごとに彫られ、磨きこまれたクリーム色の美しいハンドルには、中央にしゃれたクロームのリングと、黒を背景にしたリンカーンの立派なエンブレムがはめこまれている。まさに芸術作品だ。後部のライトは五八年のものよりもはるかに優雅で、五八年の平たく丸い形にくらべて端正で洗練されている。フロントエンドは、情熱的でちょっぴり腹を立てている、少なくとも悲しそうな表情の五八年とは対照的に楽しげに見えた。細部にじっくり目を向けるうちに、わたしはこの車から強い感情を感じ取った。車はフロントエンドを見れば全体のデザインがおおよそわかる。わたしは五九年の明るく楽観的な雰囲気が気に入った。

  長いスカーフを巻いたマリリン・モンローが女友だちと後部座席に座り、髪を風になびかせ、あの黒い大きなサングラスでそよ風から目を守っている姿がすぐに思い浮かぶ。この車には成功が約束されているような気がした。ほかのどの車よりもアメリカンドリームに訴えかけていた。

(略)

[だが塗装に変な箇所。持ち主が語る悲しい思い出]

「やったのは、わたしの恋人です」男は静かに言った。話によると、彼女は腐食性の高いブレーキオイルを持ち出して、時間をかけて車全体にかけ、取り返しのつかないほどのダメージを与えたという。損傷は金属にまで及んだ。(略)彼がどれほど車を愛していたのか、わかっていたのだ。

(略)

 わたしはその場で購入(略)

それまで目にしてきた車のなかでもずば抜けた存在感を放っており、わたしの人生で大きな役割を果たしそうな予感がした。その車とともにどんな経験をするのか、あるはどのような変化をもたらす存在になるのか。まったく見当もつかなかった。 

デッドマン [DVD]

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『デッドマン』

[友人のジム・ジャームッシュからサントラの依頼]

 わたしがその映画を観たときには、台詞しかなかった。わたしはジムに傑作だと伝えた。実際、そのとおりだった。(略)最初からサイレント映画のような印象を受けた。

(略)

 わたしはコンチネンタルでセッションに向かった。『デッドマン』に参加するに当たり、映画館で生伴奏をする音楽家の気持ちになろうと決めた。一九八〇年の『ヒューマン・ハィウェィ』の撮影で知り合った友人のマイク・メイソンからサンフランシスコの古い場所を借り、部屋の中央に立つわたしを取り囲むように、二十台ほどのテレビモニターを置いた。七十インチから七インチまで、さまざまなサイズのモニターを取りそろえた。テレビに囲まれたわたしはギター──オールド・ブラック──とアンプ、古いピアノを用意した。どこを見ても映画が見える。逃れられない。伴奏をしたくなると、楽器を構えて演奏した。ほとんどはエレキギターのオールド・ブラックのソロで、効果音を出したり、何年も前に自身の映画のアイデアのために書いた「The Wyoming Burnout」をもとにテーマ音楽を作ったりした。別のテーマ曲も脇役のひとりのために考えた。すべてラィヴ演奏だ。ぶっ続けで全編の音楽を三回録音し、二回目の前半と一回目の後半を採用することにした。

(略)

場面転換で用いた車の音にはリンカーンのエンジン音を録音し(略)

映画に登場するのは馬や列車だけで、車は出てこないが、サウンドトラックでは、夏の夜に誰もいない裏道を走るコンチネンタルの轟音が道端のコオロギの鳴き声とともに効果的に使われている。
 録音の際には、コンチネンタルのコンバーチブルトップを開け、車にマイクや録音機材を積みこんだ。あの年の夏はコオロギの鳴き声がひときわ大きく、ところどころ、台詞やブレイクの詩を朗読するデップの声の裏にコオロギの声が聞こえる。音楽、台詞、車のエンジン音、ジョニー・デップのすばらしい朗読とともに、アルバムのために物語が紡がれた。リンカーンのV8エンジンの乾いた音は、二十世紀の馬としてさまざまな映画で用いられている。 

(略)

 私が車を買うのは、その魂のためだ。車にはそれぞれの物語がある。わたしは運転席に座り、その物語を感じ、そこから生じる感情で歌を書く。車は思い出を積んでいる。わたしにとっては、車は生きている。どの車も。

ニール・ヤング 回想

二巻で出てる自伝(ニール・ヤング自伝Ⅰ - 本と奇妙な煙)と何が違うか。

向こうは時系列バラバラでとりとめない回想。こちらの方はニール・ヤング直筆の愛車イラスト&旧車マニア話とともに時系列での回想。 音楽に関する話はあまりダブってない。

ニール・ヤング 回想

ニール・ヤング 回想

 

キャデラック エルドラド ビアリッツ

 ある日、学校の帰りに、いつもと違う道を通った。(略)一軒の大きな家の前に車が停まっていた。鋭いテールフィンと優雅な曲線が目を引くコンバーチブルだ。そんな車は見たことがなかったので、近づいてエンブレムを見た。エルドラドだった。実物を見たのははじめてで、すっかり心を奪われてしまった。キャデラックの中でも最高の車だということは知っていた。よく見ると、フロントフェンダーに取りつけられた金色のエンブレムには、洗練された文字で“ビアリッツ”と書かれている。これがキャデラックの技術を結集したと言われる噂の車なのか。彫刻のように美しいボディ、クロームメッキ、フロントガラス、背もたれにクロームのメダルがついた豪華な革の座席、そしてこのみごとな車の存在そのものに、わたしは心が揺さぶられた。ナンバー・プレートには“ミシガン”。こんな車を持っているのは当然アメリカ人だろう。わたしは心に誓った。いつか自分もアメリカヘ行き、話に聞いたり本で読んだりした憧れの生活を送ろう。すべてのかっこいい音楽、すばらしい車が生まれる国。いったいどうやって作り出しているのか。わたしは知りたくてたまらなかった。

鉄道模型

 ちょうどそのころ、わたしは父と母が大喧嘩をしているのを目撃した。母は大声でわめいていて、父は母を叩いた。原因はわからず、いま考えると、わたしはその場にいるべきではなかった。(略)

両親の喧嘩を目撃したことで、わたしはとても嫌な気分になり、それから数日間は地下室にこもって、ライオネルの中古の小さな蒸気機関車で遊んでいた。家の地下のコンクリートの床の上、自分だけの世界。そこにあるのは電池で動く列車とボイラーとカビ臭い配水管だけ。ほかのことは何もかも忘れた。
 地下室は少し湿っていて、何かに触れた拍子に感電することもあった。裸足になってもだめだった。上から吊り下がった電球が小さな列車を照らしていた。わたしは床に座り、変圧器で実験をした。列車を手に持って、車輪が回りながら火花を散らすのを眺めていた。それが、わたしと電気との長い関係の始まりだった。

自己表現欲求の芽生え

[両親の離婚で母とウィニペグに引っ越し]

 新聞配達は貴重な収入源で、そのおかげでいろいろな物を買うことができた。最初に買ったのはハーモニー・ソブリンのギターとディアルモンドのピックアップだ。それがギタープレーヤーとしての足掛かりとなり、わたしは昼も夜も練習した。アンプは必要なかった。ハーモニーのギターにはfホールがあって、家で音を響かせて弾くことができた。
 そのうちに、ちょっとした言葉を紙に書いて寝室の壁に貼るようになった。ほとんどは“そんなこと構うものか”といったフレーズだった。そのせいで[母の]ラッシーはひどく心配し、壁に貼られたメッセージを見ては動揺していた。それでもわたしは書きつづけなければならなかった。いま思うと、自己表現の欲求が芽生えていたにちがいない。つねにハーモニー・ソブリンを弾きながら、あの部屋で詩を書きはじめ、やがてちょっとした自作の曲を演奏するようになった。
 シーブリーズ[のプレーヤー]はリビングに置かれた。(略)わたしはベンチャーズやシャドウズのLPを中心に、ザ・ファイアボールズ、ジョニー&ザ・ハリケーンズ、ビル・ブラックス・コンボ、ヴィスカウンツ、マーキーズ、それにフレディ・キングの「ハイダウェイ」というすばらしいインストゥルメンタルのドーナツ盤などを聴いた。

(略)
わたしは新しい街を探検した。学校が始まると、すぐに音楽好きの仲間が何人か見つかり、のちに〈ジェイズ〉という名前をつけるバンドを結成した。わたしの最初のバンドだ。

(略)

 ケンもわたしもシャドウズのファンだった。そのころ、アラン&ザ・シルバートーンズというウィニペグで一番のバンドに、シャドウズの曲を全部弾くギタリストがいた。とにかくすごい演奏だった。名前はランディ・バックマン。シャドウズのリードギターのハンク・B・マーヴィンがやっているように、テープレコーダーを使ってエコーサウンドを作っていた。
 誰でもヒーローの存在が出発点となる。わたしの場合はハンクとランディだった。ふたりともテープエコーはエコープレックスを使っていたので、わたしも真似をして、いまでも使っている。テープエコーを使いながら、ビグスビーのヴィブラート・テールピースでピッチを変化させて音に深みを加える。ビグスビーを取りつけ、さらに指先を上下に動かして音の幅を広げると、オリジナルの音とは異なるディレイ音が出せる。わずかにピッチの異なる音が少し遅れて響き、ディレイ効果が得られるのだ。もちろん、当時のわたしが持っていたのはピックアップが一つしかないハーモニー・ソブリンで、ビグスビーもついていなかったから、実際にディレイ音を鳴らすことはできなかった。エコーはかからなかった。ただ弾き方を知っていただけだ。ランディのギターはグレッチで、ピックアップが二つとビグスビーもついていた。わたしには世界一のサウンドに聞こえた。あんなふうにかっこよく弾いてみたくてたまらなかった。

(略)

 一九六二年十一月、一七歳になったわたしは、誕生日にラッシーからもらった新しいギターでインストゥルメンタルの曲を書きはじめた。サンバースト塗装で黒いギブソンのピックアップが一つついた、ギブソンレスポール・ジュニア。本物のエレキギターだ!記念すべき第一号だった。塗装はあちこち剥げていたが、そのほうが本格的に見えた。

(略)

勉強しなければならないときでも、装置やアンプの配置によってサウンドがどう変わるのかを想像しながらステージセッティングの略図を描いたりしていた。

(略)

わたしはビル・ブラックス・コンボを見に行ったのを覚えている。当時、ビル・ブラックはエルヴィスのバンドでベースを弾いていて、弦を櫛で叩いて恐ろしくユニークな音を出した。だからビル・ブラックス・コンボのギターサウンドはパーカッションみたいだった。これはまったくのオリジナルで、ブギウギのベースラインとなった。

(略)

わたしは何時間もバンドの目の前に立って、一挙一動を観察した。

(略)

[双子の]マリリンとジャッキーは『ティーン・ダンスパーティ』というテレビ番組にレギュラー出演していた。美しいだけでなく、ダンスも上手だった。一度、番組を見学に行ったが、わたしは恥ずかしくて踊れなかった。それでもマリリンはわたしのことが好きで、ふたりで本当に楽しい時を過ごした。どこにでもいる少年少女のカップルだった。いつもわたしが彼女の家に行き、リビングにある電子オルガンを弾いた。

(略)

 マリリンはわたしが初期に作った「アイ・ワンダー」という曲を楽譜に起こすのを手伝ってくれた。それを自分宛てに送って開封しなければ、基本的なやり方で著作権を保護することができる。つまり封を切らずにおくことで、消印が投函された日付を示し、作曲者がわたしであることと時期が証明されるというわけだ。マリリンがわたしの歌を聞き取って楽譜に書きこみ、わたしは歌詞の上にコードを書く。そんなふうにして母がよく父の原稿を編集していたものだった。

(略)

 新しいバンドには〈スクワイアーズ〉という名前を考えた。(略)

ウィニペグ・ピアノ・カンパニー〉は、地元ミュージシャンたちが集う大きな楽器店だった。(略)わたしは足しげく通い、眺めながら夢見ていた。ランディ・バックマンもしょっちゅう顔を出していた。彼は、ちょっとしたリバプールのようだったと振り返っている。ウィニペグには無数のバンドがあり、誰もがどこかのバンドに参加しているようだった。

(略)

  少しばかりファンもつくようになった。あちこちの会場に同じ顔が聴きに来ていることに気づいたのだ。とにかくうれしかった。バンドの曲はすべてインストゥルメンタルで、その多くをわたしが書いていた。オリジナル以外にも、ベンチャーズやシャドウズなどの人気グループの曲をたびたび演奏した。一九六三年、わたしたちはお世辞にもきれいとは言えない格好で小さな車に乗り、ウィニペグ中をどさ回りのように渡り歩いた。季節が変わって秋が終わろうとしていたあのときの感覚をいまでも覚えている。わたしは成長し、木の葉の色も変わりつつあった。

ジミー・リード

昼休みの余興として、わたしは居並ぶ生徒たちの前に立った。スチュアート・アダムズと、もうひとりが一緒だった。スチュアートはイギリス人だ。ビートルズを二曲やった。わたしはギターを弾き、たしか彼も弾いていたが、よく覚えていない。がちがちに緊張していた。あのときの感覚は一生忘れられない。(略)

「マネー」と「イット・ウォント・ビー・ロング」、どちらも大ヒットアルバムに収録されている、すばらしい曲だ。観客の反応がよかったかどうかは覚えていない。

(略)

 世の中がビートルズ一色になっても、わたしはあいかわらずジミー・リードに夢中で、つねにシーブリーズで聴くアルバムを二、三枚持っていた。どの歌からもにじみ出るシンプルさと誠実さが大好きだった。声はすばらしいというわけではなく、ハーモニカは素朴でぶっきらぼうだったが、コーヒーハウス〈フォース・ディメンション〉で聴いたブラウニー・マギーとはスタイルが異なった。ジミーは同時にギターも演奏できるように首にハーモニカホルダーをかけ、哀愁を帯びた高い音を長く伸ばして吹く。ほかの誰とも違うブルースサウンドで、単純ながらも最高の音楽を作り出し、わたしにとっては記憶に残る天才、偉大なミュージシャンだった。おそらくあまりにも完成度が高かったせいで、生存中は筋金入りのブルースファンにも正当に評価されなかった。わたしを除いて。 

Anthology

Anthology

 

 

デル・シャノン

わたしたちはエコーや重ね録りを駆使し、スタジオでは本当に有意義な時間を過ごすことができたが、残念ながら成果は得られなかった。レコード会社と契約できなかったのだ。わたしは自分の声が世間受けしないせいだと思ったが、レイの考えは違った。だから路線は変更しなかった。
 ステージの予定があったため、わたしたちはそのまま街に留まった。コロシアムで行われるCJLXの番組で、〈ジェイ&アメリカンズ〉の前座を務めることになったのだ。大きなチャンスだった。何しろ彼らは大スターだ。一方、フォートウィリアムにいるあいだに、デル・シャノンが来て歌った。ケンとビルとわたしは観客に混じってステージを見た。ウィニペグでシルバートーンズを見ていたときと同じように。
 デル・シャノンはミンクのギターストラップを肩にかけ、「花咲く街角」「悲しき街角」「さすらいの街角(Stranger in Town)」などヒット曲を残らず歌った。本当に唯一無二で魅力的だった。のちに自殺を遂げたのは非常に残念なことだ。声量のわりには小柄で、見るからに孤高の存在だったが、すばらしい歌手でとても強い感情を秘めていた。それでも、彼のパフォーマンスにはどこか痛ましいところがあった。はっきりとはわからないが、存在感がありすぎてステージに収まりきらないような気がした。その日から、わたし自身も「さすらいの街角」を歌うようになった。とても気に入って、スクワイアーズのレパートリーにも加えた。のちに、わたしはわたしなりの「Stranger in Town」を書き、練習を重ねてCJLXの番組に備えた。その大きな番組に出演できるのはワクワクした。

(略)

 当時、わたしはアメリカヘ行くことを考えはじめていた。アメリカほどおもしろい国はない。バンドで成功するつもりなら、音楽の中心地でメジャーになりたいと思うのは当然だろう。 

Stranger In Town

Stranger In Town

  • デル・シャノン
  • ロック
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

 1954年型パッカード

  あのすばらしいパッカードの救急車/霊柩車がわたしの手元にあったのは、ほんの一時期で、その後どうなったのかは覚えていない。おおかた修理代も出せないような問題が発生したのだろう。きっとどこかに駐車したまま置いてきたにちがいない。車両登録も保険も、そういった類の法的な手続きはいっさいしていなかった。(略)

カナダで乗っていて、手に負えないトラブルのせいで路肩に置き去りにした一九四七年型ビュイック・ロードマスター・コンバーチブルと似たような運命を辿ったわけだ。

一九五七年型コルベット

 大きなテレビ番組への出演決定、アトランティック・レコードからの前払い金、ファーストアルバムの発売と続いたところで、わたしはまたしても自分へのと褒美として、一九五七年型コルベットを千二百五十ドルで購入した。メタリックブロンズのボディ、かっこよくて力強くハスキーなエンジン音。そのコルベットはわたしが所有した最初のセクシーで速い車で、舞い上がるような気持ちで運転したものだった。ほとんどいつもガソリン臭かったが、それでも美しいデザイン、タイヤ、古典的なダッシュボードに惚れこんだ。
 この自分へのと褒美の習慣は長年続き、じつを言うと、いまでもやめられない。わたしは車が大好きで、何かを成し遂げて、その見返りを得るという気分は何ものにも代えがたい。

(略)

 ローレルキャニオンは知り合いのミュージシャンがおおぜい住んでいて、その多くが成功したバンドのメンバーだった。(略)

わたしの一九五七年型コルベットは、ユーカリの木立ちに囲まれた節だらけの松材の小屋まで曲がりくねった山道を難なく上っていく。(略)

途中で、ママス&パパスの美しいミシェル・フィリップスが庭に出ているのを見かけることがあった。その家を通り過ぎるときには、決まって彼女の姿を探したものだ。もっとも話しかけるチャンスはなかった。遠くからひそかに想い、けっして触れることはできないとわかっている――彼女はそんなタイプの女性だった。

(略)

 一九六六年の二十一歳の誕生日は忘れられない。なぜなら、その晩にサンセット・ストリップの暴動が勃発したからだ。(略)

[ロック・ファンに人気のラジオ局がヒッピーの夜10時以降外出禁止令への抗議デモを呼び掛けたことで暴動が発生]

 スティーヴン・スティルスが暴動に触発されて「フォー・ホワット」という曲を書いていたころ[ドライヴ中に無免でつかまり刑務所へ]

[ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』に出たくなくて]

いま思うと、いきなりバンドを辞めなくても、スティーヴンと話し合えば自分の考えを理解してもらえたかもしれない。だが、そのころのわたしは大人ではなかった。

 その結果、[ローンが払えず]わたしはコルベットを失った。(略)

それは忘れられない教訓となり、以来、車は何があっても現金で買うようにした。

 もちろん、しばらくしてからわたしはバンドに復帰して、またツアーに出はじめた。

(略)

[67年3月]そのころには、わたしたちのスタイルはかなり過激になり、スティーヴンの名曲「ブルーバード」を(略)サイケ調の白熱したアドリブで限界までアレンジしていた。その結果、わたしはグレッチの弦をことごとく切り、デューイはドラムを破壊し、スティーヴンは怒濤のように演奏した。

(略)

ポートランドでの晩、楽屋に戻ったときに行き違いが起きた。スティーヴンとブルースとわたしは何かのことで大喧嘩し、わたしは頭のネジがぶっ飛んだ。クスリをやっていたわけではなく、ただ正気を失っただけだ。わたしは美しいオレンジのグレッチをつかんで椅子に叩きつけた。ボディの裏側がぱっくり割れた。エネルギーがあり余っていて、どうしていいかわからなかったのだ。(略)
 当時、新品のグレッチは、ベルトのバックルで傷がつかないように裏側にやわらかい革のパッドをつけて製造所から送られてきた。そこで、わたしは修理してもらった部分にそのパッドをつけた。いまでもそのギターを弾いている。
 わたしの音楽人生では、この仲間で演奏したステージが最高だった。バッファロー・スプリングフィールドは、わたしが生まれてはじめて全力を出し尽くしたバンドだった。(略)

残念ながら、バッファロー・スプリングフィールドが日の目を見ることはなかった。オリジナルのメンバーによる録音で質のよいものは存在せず、活動を記録した映像も残っていない。だからその名を聞くと、最盛期を知る者の胸にはほろ苦い感情がこみあげる。 

次回に続く。

 

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キャロル・キング、ニール・ヤング、ザッパ編 - 本と奇妙な煙

よい移民 ニケシュ・シュクラ

パッとめくったら「ケンドー・ナガサキ」が目に入り、チラ読み。

よい移民

よい移民

 

ケンドー・ナガサキと私

ダニエル・ヨーク・ロー

[70年代]イングランド西部に住む孤独な中国系ハーフの男子児童が、ケンドー・ナガサキという名の日本人極悪レスラー(略)に、奇妙な「ヒーロー像」を見出す世界です。

(略)

 その当時、中国のものと日本のものは一緒くたにされていました。私は、私のことをチンクと呼ぶ白人の子どもでいっぱいの学校をやめ、私をチンクと呼び、「ChineseとJapaneseは汚い膝kneesをしてる」(韻を踏んでるのが、お分かりでしょうか?)と唄ってくる白人の子どもでいっぱいの別の学校に転校しました。

(略)

私は、自分の家族以外の他の中国系の人びとにはほとんど会ったことがありませんでした。歴史のその時点においては、「東アジア系」という言葉がまだ発明されていなかったようで、私たちのような、おかしな眼の形をした、黄色というか、くすんだ茶色、ないしはオリーブ色をした人びとに対する総称は「オリエンタル」でした

(略)

アメリカでは、「アジア系アメリカ人」たちは「オリエンタル」と呼ばれることを拒否してきました。ここイギリスでは、(少なくとも)中国系はその呼称を肯定的に受け入れてきました。

(略)

[たまにテレビに登場する「オリエンタル」はからかいの対象になるような変なキャラばかり]

かれらの多くを白人たちが演じていたことも驚きでした。(略)

私が世界で一番好きだった《ドクター・フー》でさえ、「イエロー・フェイス」の芝居に一役買っていたのでした。

 

 イエロー・フェイスとは、東アジア人の役を演じるために俳優が使用する一種の舞台メークのことである。(ウィキペディア

 

(略)
 黒人の場合と違い、からかい返す「オリエンタル」のコメディアンは現れず、私たち「オリエンタル」には、「オリエンタル」なポップ・スターさえいませんでした。ロッド・スチュワートの〈ドゥー・ヤ・ティンク・アイム・セクシー?〉のビデオには、ベースを演奏する日本人の青年が出ていまして、その曲は、当時は永遠に思えたほどの長い期間、音楽チャートの一位を占めていましたので、この見た目はほとんど中国系と変わらない格好いいお兄さんが、《トップ・オブ・ザ・ポップス》に毎週登場してはいましたが。

 そういう状況だったのです。

 そこにケンドー・ナガサキが現れたのです。

 ケンドーは本当にすごい奴でした。(略)

息を飲むほどの俊敏な身のこなしと、躍動感あふれる蹴り技と、見事な策略を巡らせた反則行為とのコンビネーションで、ケンドーは不運な対戦相手たちをいとも容易くやっつけ、全試合で勝利を収めました。

(略)

凝った方法でリングに上がり、観衆からのブーイングと怒号を楽しみながら、曲芸のような準備運動をしました。彼は観客たちを不遜な態度でからかいました(そして、必然的な勝利の後にも再び同じことしました)が、その振る舞いは、人種的ないじめを受けている児童には、ついに訪れたエスニック・マイノリティの反逆に見えたのです。

(略)

ケンドーは、派手な東洋趣味のコスチュームのひとつとして、マスクを被っていました。(当然ながら)アジア人型の目のかたちにスリットが入っていたそのマスクは、彼の顔を全部覆い、彼をさらに悪役っぽく見せていました。レスリングには、マスクをしたレスラーたちに関する奇妙なルールがありまして、彼らがそのマスクを取るのは、リングの上で敗れた時だけ、ということになっていました。

 しかし、そんなことはケンドー・ナガサキには決して起こりませんでした。彼は誰よりも素早く、(デヴィド・キャラダインの出来損ないのスローモーションとは違う)「本物」のカンフーができ、レフリーの目を盗んで、ささっと小さなパンチを巧みに叩き込み、対戦相手がリングから落ちた後も戦いを続け、必要とあらばレフリーをのしてしまうことさえ上手にこなしました。

(略)

 それから何年にも思われた時間が経った後、その運命の日が訪れました。

 ケンドーは(ミック・マクマナスか、別のつまらない善玉レスラーに)負けてしまったのです。(略)

観客が大きな歓声をあげる中、悪名高きケンドー・ナガサキのマスクを、勝者が剥がす瞬間がやってきたのです。

 ケンドーがひざまずき……。

 一本の手が彼のマスクを引っ張りました。私は覚悟を決め、見事なまでに不屈の表情を浮かべるケンドーの、誇らしいアジア的な顔を拝むことになるのだと、心を慰めていました。

(略)

マスクが剥ぎ取られ……

現れたのです……

白人の男が。

!!!!????!!!!????!!!

憎たらしい白人の男がもうひとり。

(略)

 ご注意ください。ウィキペディアやユーチューブなどをちらっとでもご覧になれば、私がおそらくケンドーと、東アジアをテーマにした別の覆面レスラーを混同してしまっていたことがお分かりになるでしょう。そのレスラーは「カン・フー」という想像力豊かな名をしていまして、今見ると失望するほど野暮ったく見えるケンドーよりも、はるかに華麗な格好をしていました。それからケンドーが、試合途中にビッグ・ダディーの手でマスクを剥ぎ取られ、金髪ではなく、茶色の髪をした禿かかっている白人であることが露わになる様子を写した動画も出てきます。(略)

黄色 ヴェラ・チョック

  私は黄色です。背が低く黄色い女で、エスニシティで言えば一〇〇%中国系です。(略)

 中国は私を怯えさせます。私は中国のどの方言も話すことができませんし、中国の慣習に馴染みはなく、箸を使うのはそうせざるをえない時だけです。マレーシアに住む家族は、世界中に拡散した中国系ディアスポラの一部です。もし中国を訪れることになれば、私の明らかな異質性のせいで恥をかくことになりはしないかと心配しています。

(略)

あるイギリス生まれの中国系女性の知り合いが言ったように、「中国なんてモザンビークやカナダと一緒よ──遠くの国。そこに住んでいる人たちと、私の見た目がたまたま似てるってだけのこと」なのです。私は隣の白人と同じぐらい、西洋文明なるものに中国が与えるかもしない脅威のことを懸念しているのです。

(略)

 私の夢に出てくるのはマレーシアです。ココナッツの木と赤道直下の熱気の国(略)私が郷愁を抱くのは、この東南アジアの国の山と海の匂いに対してです。私の口は、マレーシアのさまざまなものの形や音を語りたがっています。

(略)

[2013年フェイスブック上での出会い系アプリ分析で]

「アジア系以外のすべての男性がアジア系の女性を好んだ」ことが明らかになりました。すべての男性が、です。アジア系女性の身体のフェティッシュ化は、きわめて問題です。性的な従順さと旺盛な性欲、そして寡黙さが、非常に巧妙かつ悪質に組み合わせられています。

(略)

魅力的に思われようとすれば、私たちは小柄で柔和なことが求められます。冷淡で自動人形のようで女王様然とした魔性の女であるアジア系女性、というもう一つのステレオタイプがありますが、そうした女性にはあまりメールの注文が入らないようです。私は昔ある時に「かわいらしい」服を着ることをやめました。年齢や見た目に関係なく、どんな白人男性と出かけても、私は話題にされ、見下されたからです。私は彼に付き添う女か、メール・オーダー・ブライドとみなされていたのです。白人のボーイフレンドと夕食をとるため彼に会いにいった私の友人は、レストランから出ていくよう言われました。店の者は彼女が客引きをしていると思い込んだのです。

(略)

受動的なアジア系の身体を征服/植民地化したいという暴力的な男性的欲望に警戒心を抱いています。

(略) 

カースト主義の永続 サラ・サヒム

カースト制が創造されたことに対しては、イギリス人は直接的な責任を持たないとはいえ、かれらが植民地化の過程でイギリス独自の階級制度と人種差別の暴力とをインド人に押し付けたことが、カースト制を強化したのである。

(略)

 カーストは、ダリット(「抑圧された者」の意)を最下層に、司祭・学者階級のバラモンを頂点に置いた

(略)

カーストは他の国々や、インド系ディアスポラのあいだにも浸透している。それは植民地主義震源、イギリス本国にも広まっているのだ。

(略)

 「カースト」という用語自体はイギリスが作ったもので、一八七一年のインドの国勢調査用紙で導入された。この調査がカーストによる階層秩序の創出を助長し、この階層秩序は複雑なヴァルナ(ヒンドゥー教社会を分割する古来の身分制度)に関するイギリス人の誤解を通じて、バラモンに多大な特権と社会内での有利な立場を与えることになった。ヴァルナそのものには──イギリス人が到来する以前には──欠陥がなかったと言っているわけではない。インドではカーストに基づく差別は違法になっているにもかかわらず

(略)

カースト主義は今日も横行しているばかりか、その存在を認めようとしない人たちが余多いるのだ。

 カースト間の関係も複雑である。グジャラート州バラモン の母と、アフガニスタンパシュトゥーン人の父を持ち、薄い肌をした、若い女である私は、多くの特権を手にできてきたし、それを当たり前のものと思ってきた。私の家族はカースト主義に関心を持ったことがなく、私もそうだった。私たちは差別をしたことも、カーストの規範を遵守したこともない。しかしこの「カーストを意識しない」態度は極めて有害である。

(略)

 インドでカースト制が建前上は終焉した後、積極的差別に似た制度が現れた。いわゆる「割当制度」である。(略)

この制度は、「その他の後進的階級」や「指定カースト」や「指定部族」といったグループを設けた。(略)

[下層カースト民救済のために]人びとをある職場に配属しても、その制度だけが理由でかれらはそこにいると考えられてしまうようであれば、それはそれで別の問題を生み出してしまう。

 (略)

 ガンディーは悪の大英帝国と戦った平和的な抗議運動の牙城とみなされたが、彼の手法はアンベードカル博士を含めた多くの人びとに不満を残した。たしかにガンディーの努力は反植民地主義運動を進展させたが、そのことによってただちに彼のカースト主義が免罪されるわけではない。遡ること一九三一年、ロンドンで開かれた英印円卓会議で、ダリットの分離選挙を要求したアンベードカル博士の主張に、ガンディーは反対した。そのためダリットたちは、ガンディーがムンバイに戻るとすぐ、この問題についての彼の態度に抗議した。そして下層の虐げられた階級に別個の選挙区が与えられると、機嫌を悪くしたガンディーは、アンベードカル博士が妥協するまで抗議のハンガーストライキを続けたのだった。アンベードカル博士は、ダリット独自の選挙区を持たないかぎり、かれらは「ヒンドゥー教徒の意のまま」にされると懸念したのであり、後から考えれば、彼の危惧は理にかなったものだったように思われる。他方、ガンディーは「不可触民の問題」はすぐに過去のものとなると信じていた。歴史の再構成と改竄はガンディーに有利に働いてきた。ハンガーストライキは、勇敢な形態の政治的抵抗とみなされ、これがガンディーについての認識をさらにロマン化した。しかし、こうした心情は下層カースト民には共有されていない。かれらが政治的な力を欠いている状況は変わらぬままだからである。

 このカースト差別の強化にイギリス人は関与したわけであるが、白人のイギリス人が行なう人種差別は、下層カーストの者だけでなく、あらゆる人びとに及んでいる。人種差別はダリットとバラモンを区別しはしないのだ。人種差別主義者たちにとっては、すべてのインド人は同じなのだ。世間体政治が、イギリスにおけるインド人の扱いを、カーストや社会経済的な身分の違いによって変えるよう促したところで、結局はやはり人種差別を受けることになのである。

 社会の中での人種差別はしばしば分割統治の戦略を通じて作用し、たいていの場合、階級主義や他の形態の抑圧とも絡み合っている。構造的人種差別は、個々の集団を自分たちの階級に──この場合はカースト差別に──しがみつかせることによって、協力すればもっと強くなれるコミュニティを分断してしまう。

(略)