安西水丸 いつまでも愛されるイラストレーター

南伸坊 安西油丸がいた

 イラストレーターとかイラストレーションというのがカタカナ語として日本語に組み入れられたころ、イラストレーターは、たいがいグラフィックデザイナーがなるものだった。

 こういう言い方が、ちょっと粗雑だというのなら、デザイン感覚と無縁なイラストレーションは、当時はさし絵と呼ばれていたということである。

 つまり、具体的に言うと、和田誠横尾忠則宇野亞喜良灘本唯人山下勇三といった、日本のイラストレーション草創期の人々が描いた絵が即ちイラストレーションだった。

 それは、当時のさし絵と、決定的に違って見えた。「見えた」ところがこの話の肝である。何が言いたいのかといったら、つまり、デザイン感覚のあるさし絵だけが、イラストレーションだと認識されていたということだ。

 それがフレッシュであったことで、以後、雑誌のさし絵は、どんどんイラストレーターにとってかわられていく。

 しかし、フレッシュさというものは、時間と共に目減りをしていくものだし、さし絵に対してイラストレーションがフレッシュに感じられたとしたら、どんどんイラストレーションがふえるにしたがってそのフレッシュさは減じていく運命にある。

 安西水丸さんが、イラストレーターとしてデビューした頃、イラストレーションは既にものめずらしいものではなくなっていた。

 湯村輝彦、河村要助、矢吹申彦原田治といった人々が一線で活躍するとともに、いままでイラストレーションとは呼ばれなかったジャンルの絵、たとえば漫画家や絵本作家の絵がイラストレーションとして使われるようになり、イラストレーションは本来の「illustration」と同じ意味合いになっていったといえる。

 この時期にイラストレーションを牽引していたのは、まちがいなく湯村輝彦である。そうして水丸さんは他の誰よりも湯村さんに似ていたと思う。

 何が似ていたかというと、一人でイラストレーターとディレクターを兼任しているところ。当時の「イラストレーション」らしさから、意図的にずれようとしていたことである。

 たとえば、カラートーンやスクリントーンを、線描きの絵の色付けや調子付けに使う時、線描きからはみ出したりずれたりする。これは小さなことのようだが、意識として几帳面に線描き通りに貼り込むのと、実は大きく異なる。もちろん、当時のイラストレーターはトーンをていねいに貼っていた。トーンを貼るのは自分で色をぬるのとは違う。本来、指定で職人にしてもらうべきところを自分でしているというのがこの作業なのだった。

 水丸さんが『ガロ』で漫画を描いていたころ、スクリーントーンを貼っていたのは私だ。私は当時『ガロ』の編集者であって、少しでも作者の、労力を減じるために、その作業を率先してやっていた。そして、もちろん私の当時の意識は、版下の職人である。

 水丸さんは、カラートーンを自分で貼るようになってから、イラストレーターのトップランナーになっていった。

 もちろん、カラートーンをハミ出して貼るのは、すぐに新しい「テクニック」として流行るのであって、それからはハミ出すのが当り前になる。そして、よく考えて、ていねいにハミ出すイラストレーターがふえていった。

 水丸さんのカラートーンのハミ出しは、どうだったのだろうか? 最初はいっしょうけんめいに、線のとおりに貼ろうとしていたのだろうか?それはどちらでもいいけれども、私が思うのには、ハミダシを当然の「テクニック」としてではなく、何故それが魅力的に見えるのかを自分で考えた時期があったにちがいない。ということだ。

 あるいは単純に、不器用でうまくカラートーンを貼ることができなかったのかもしれない。それは湯村さんにも言えることで、二人ともカラートーンを貼るのがめちゃくちゃ得意でなかった可能性もありうる。

(略)

[うまく貼れない]ところから、「いいじゃないか、ちょっとくらいハミ出しても。」

「いいや、このハミ出してるとこがいいんだよ」「ここがいいんじゃない。」「いいねえ、このカラートーンのハミ出しかたがいいねえ。」

 というふうにして、どんどん自信を持っていった可能性もある。つまり

(略)

作る立場で絵を見ている目、というのが一方にある。

 それは、アートディレクター的な目だ。湯村さんにあり、水丸さんにあるのは、このアーディレクター的な目だったのではないか。それはつまり、日本の、ある時期には当り前だった、デザイナーがイラストレーターだったことと無関係ではない。

(略)

 水丸さんのイラストレーションの魅力は、絵を描く手のナイーブさと、その絵をイラストレーションに仕上げる目の果断さにあった。

 水丸さんの絵は、独特のニュアンスを持っているけれども、それだけでは水丸さんのイラストレーションにはならない。

 そうして、この手と目のコンビが、水と油のようなコントラストを持っていたところが魅力だったのではないか?と私は睨んでいる。安西水丸は実はもう一人のいわば安西油丸とコンビでできあがっていたかもしれない。

(略)

 それは、水丸さん自身がした装丁と、水丸さんの絵をつかった他人のデザインを見比べてみればすぐわかる。水丸さんの絵を、最もうまく使ったのは、まちがいなく安西油丸である。

小学一年生の時に書いた詩

とまと

とまとはなぜ赤いか

ぼくは知らない

こがね虫も知らないようだ。

赤いとまとの

赤い色は

ふしぎというよりしかたない

ぼくの目の前に

とまとは今

てかてか赤く光っている 

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私のイラストレーション史 南伸坊 - 本と奇妙な煙

イラストレーションというコトバが輝いていた時代、それが日本の「イラストレーション史」だ。輝かせた和田誠さんの名前は、もちろんいまもよく知られてはいる。が、もっと!年表にクッキリ記されなくちゃと私は思っている。

(略)
その活動があまりにも多彩で華麗であるために、忘れられてしまいそうな、出版文化の歴史を動かした人としての和田誠像を、正しく伝えてほしい。 

定本 和田誠 時間旅行 - 本と奇妙な煙

あの頃は、まだ「イラストレーション」という言葉すら知名度がなかったし、自分たちもイラストレータという意識はそれほどないわけですよね。絵を描くことが好きなグラフィックデザイナーだった。 

アトランタの案山子、アラバマのワニ 安西水丸

アトランタの案山子、アラバマのワニ

アトランタの案山子、アラバマのワニ

 

 プロローグ

(略)「アメリカのフォークアート」(略)に掲載されている絵は、ほとんどが無名の人の作品で(略)子供が描いたような絵だった。(略)

デッサンだの、遠近法だのはほとんどでたらめだが、でも、そこには自分なりにこういうふうに描きたいんだという気持ちがこもっている。常々、絵の魅力はそういうものではないかとおもっていたので、彼らの絵に感動した。

(略)
 アメリカのフォークアートは、ぼくに忘れていたものを蘇らせてくれた。イノセントな感性が最も大切であることを教えてくれた。

 余談。ニューヨークから帰国後、数年してぼくはイラストレーションを描きはじめたのだが、その頃、当時お茶の水女子大の学生だった柴門ふみさんと知り合った。彼女が卒論でアメリカのフォークアートについて書くと聞き、それではとニューヨークで買った「アメリカのフォークアート」を貸してあげた。果たして役に立ったかどうか不安だったが、その後人気漫画家となった彼女からその時のお礼を言われたときはちょっと恥ずかしかった。

 もう一つ余談。アメリカで大成功した日本人画家、国吉康雄のことを書いた本を読んでいたときのことだ。それまでヨーロッパの画家たちの影響を受けていた彼が、ふと入ったニューヨークの骨董品店で見た絵に強く刺激されたと書かれている。それはヨーロッパ人の描いたものではなく、まったく無名のアメリカ人の描いた絵だという。これはフォークアートだなと、ぼくはすぐにおもった。国吉康雄の絵の遠近法には、あきらかにアメリカのフォークアートの影響がある。

 と、まあそのように、ぼくはフォークアートというものをずっと注目しつづけてきた。

ハワード・フィンスター

 この人の絵は、とにかく画面にびっしりと描き込んだ上に、さらに絵のまわりに細かく文字を書き込んでいる。文字の内容は、ほとんど彼からのメッセージで、神のお告げ、例えばエデンの園の快楽に対する戒めだったりするのだが、この頃は政治問題や女性解放、エネルギー保護といったことが書かれている。

(略)
 この人は四十年もの間、バプティスト派の伝道師をしていたという。

「はじめはだれもわたしの説教を聞いてくれなかった。ある日、神様のお告げがあり、あなたは絵を描きなさいとおっしゃった。わたしはそれから絵を描くようになった」

 フィンスターさんは言う。絵を描きはじめたのは一九七四年くらいからだ

(略)

「ほかの人の絵なんか入らない、わたしだけの本を作らないか」

彼は結構真面目な顔をして言う。

「日本人が2エーカーくらいの土地をわたしにくれたら、最高のパラダイスガーデンを作ってやる」

 こんな大口もたたく。言葉の切れ目はなかなか見つからない。

www.artsatl.org

R・A・ミラー

 ミラーさんはすでに八十歳を過ぎている。絵を描きはじめたのは七十五歳くらいかららしい。

 「親父はピストルで撃たれて死んだんだ。母親はインディアンの血が入っているよ。わたしは教師のようなことを三十年近くやってたんだ」

(略)

この人の作品を見ていると、とてもいい感覚の持ち主だということがよくわかる。ブリキを切って作るカッティングのカーブした部分や、色をつける筆さばき、ちょこんと筆を落としただけの目の描き方、サインの文字、どこにも感覚のよさが出ている。

 いいセンスをしているなあと感心してしまう。

(略)

 今度会った画家のなかでは、このミラーさんが絵のセンスでは一番いいようにおもえる。イラストレーションなど描いていたら、かなりいい仕事をするイラストレーターになっていたのではないかともおもうのだが、そのあたりは確約はできない。

 絵というのは、才能のある人がいろいろと研究を重ねたすえに、いい味わいの絵を作り出すのだが、描いているうちにどんどん巧みになってしまうことが多い。一番いい状態をいつまでも保つこと、これがなかなかむずかしい。あの人はあの頃、あんなにいい絵を描いていたのにとおもうことがしばしばある。ベン・シャーンに対しても、国吉康雄に対しても、ぼくは同じことを感じている。 

(略)

もしも二十八くらいから作品を作っていたら、今のような作品を産み出していたかどうかはわからない。この人には、七十四歳くらいのころまで、一番いいエッセンスだけが残っていたのだろう。

ジミー・リー・サダス

 ジミー・リー・サダスさんは今年で八十六歳だという。

「絵は三歳くらいから描いているけれど、売れ出したのは三十年くらい前からかな。だからいつも絵は三十年前から描きはじめたっていってるんだ」

 彼の絵の表面は泥絵の具を使ったようにざらざらしている。訊いてみると、はじめはほんとうの土を使って描いていたというので驚いた。

「はじめは土を使って描いていたよ。このあたりの土は赤いので絵の具みたいなんだ。そのうち土にシロップを混ぜたりしていろいろ工夫するようになってね。今でもアクリル絵の具に土を混ぜたりしているよ」

(略)

サダスさんはトトの絵とワニの絵を持って出てきた。トトはラグビー・ボールみたいな目をして口をぽかんと開けている。きっと吠えているのだろうが、ぼくにはそう見える。犬嫌いのぼくでも我慢できる可愛さがある。ワニは薄茶色で、青い点がちらばっている。背中に緑色の棘がある。丸く青い目がユーモラスだ。単純でおもうがままに描いている。絵をきちんと学んだ人が見たら、きっと怒るかもしれないような大胆さだ。

(略)

 絵を学んだ人は、それなりの技術を身につけ、それなりの技術であれこれと描写するが、それはただ自己の訓練を披露するだけで、そこには自分自身も何も出ていないことが多い。おそらく技術を学んでいるうちに、自己の精神が消えてしまうのだろう。美大出の多くの画家のつまらなさはそんなところにある。

americanart.si.edu

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2001 その4 キューブリック生涯屈指の暗い夜

前回の続き。

2001:キューブリック、クラーク

2001:キューブリック、クラーク

 

 骨の棍棒 

[ロンドンの自然史博物館でアウストラロピテクスの石膏模型や本物の化石触り祖先に出会ったと感じていたリクター]

レンズを意識しながら、彼は最初の部分をたたみかけるような小さな認識の連続として演じることに決め、骨を見つめる頭の角度を少しずつ変えることでそれを表現した。(略)

「初めて頭の中にその考えが浮かぶとき、わたしにはそこで対処すべきことがたくさんある。ただ骨をつかみあげてなにかを壊すわけにはいかない。武器がなんなのかということすら知らないのだから。それをどんなふうに持てばいい? 手触りはどんな感じだ? どんなにおいがする? わたしにはそれを理解するための土台がない。すぐに結論にたどり着くわけにはいかない」

(略)

 太い骨をつかみあげたリクターは、ちょっとにおいを嗅いだあと、思索にふけりながらそれを散らばった骨のかけらにぶつけ始めた。(略)

最初のほうのテイクで、ダンが骨を振りおろした拍子に、肋骨がくるりと宙を舞った。「あ、すみません」彼はマスクの奥から言った。「いやいや」とキューブリックが言った。「それは使える、いい感じだ。続けて。続けて」そこでダンは続けた。まわりにある小さな骨を叩くうちに、解き放たれた暴力の熱狂がエスカレートしていく。そしてついに、彼は両脚で立ち上がり、手にした骨の棍棒を大きな頭骨の真ん中へ振りおろす──そのすべてが、フロントプロジェクション技法の制約により固定されたフレームで、干上がった川床を背景にとらえられた。

ワルツのリズムは星の速度から生まれた

『2001年』の荘重なテンポ感については(略)多くのことが書かれてきた。しかしこの映画内の速度計は、じつはなんとも面白味のない要素によって制限が課せられていたのである。その要素とは、毎秒二十四コマの速度で撮影されたときの星の瞬きだ。

(略)

最初は、黒い金属板にドリルで何百もの穴をあけて後ろに照明を置いたのだが(略)レンズがドリーに載って動いていくと、その動きによって星が楕円形になったり、輝きが変化したり、瞬いたりしてしまった

(略)

こんどはガラスに塗料で点々と星をちりばめ、そのガラスを傾けて下から照明を当てるという方法が試された。だがガラスには表面と裏面があるから反射して星が二重になってしまった、これまたありえないことだ。最終的にすべての星をアニメーション撮影台で撮影するという決定が下され、トランプルが黒い背景に白い点々をエアブラシで描くことになった。それに上から照明を当てて撮影するのだ。

 これで完璧な星空が誕生したのだが

(略)

視覚効果スタッフはある事実に気づくことになる。(略)

アナログの映写機の場合、各コマが二回明滅するので、二十四コマでは四十八回、光が明減することになる、という点だった。人間の目には残像が残るので、星のような明るい白い点は二重に見えてしまうのだ。星の動きがもっと速いと三重になる──さらにひどくなるとストロボ効果が生じてしまう。「というわけで、製作の非常に早い段階で、ぼくらはスピードの限界に達してしまった」とトランブルは回想している。「それが映画の法則だったんだよ。二重星にしないためには絶対にそれより速く動いてはならないというね」つまり『2001年』の宇宙空間シーンの荘重なテンポは、ストロボ効果が起きない程度の星空の動きの速度に支配されていたというわけだ。(略)

ワルツのリズムは星の速度から生まれたものなんだよ」

美しく青きドナウ」 

当時「美しく青きドナウ」は俗っぽくて古臭い国家主義的な曲──オーストリアの国歌同然の曲──と考えられていて

(略)

二〇一七年、このシュトラウス作品について、キューブリックの義理の弟で非公式の音楽アドバイザーを務めていたヤン・ハーランにたずねると、つぎのような答えが返ってきた──

 

(略)彼が「美しく青きドナウ」を何度も何度もかけるので、編集スタッフはみんな彼がこの“時代遅れ”の、ウインナワルツを使うつもりだと察して絶望的な気分になっていたそうだ。(略)

妻のクリスティアーヌは彼の決断を支持したが、それ以外は批評家も含めてほとんどの人が彼は頭がおかしくなってしまったと思ったようだ。

(略)

 

[コリン・キャントウェル談]

「彼が編集中、あれを聞いている撮影所の連中はみんな妙な具合だったよ」とキャントウェルは笑いながらふりかえった。「たとえば、『スタンリーはいかれちゃったんじゃないのか?』とか『おかしくなっちゃったのか?』とか。みんな彼が精神錯乱状態なんじゃないかと案じていたんだ」

 コリン・キャントウェル登場

[67年後半停滞するアニメーション製作現場に呼ばれたベテラン・アニメーター、コリン・キャントウェル35歳]

 『2001年』で目にする宇宙船の多くは、じつはそれぞれにふさわしい宇宙景観に置かれたスチール写真を何度もアニメーション撮影台を通過させてつくられたアニメーションで、このテクニックがあったからこそ、宇宙船の窓の向こうで人が動いているというようなリアリティのあるディテールをつけ加えることができたのだ。宇宙船模型の“ライヴ”ショットでさえ、ときにはスチール写真と巧妙に組み合わせてあったりする──たとえば回転する宇宙ステーションをパンナムシャトル、オリオン号が急追するシーンでは、じつはシャトルはスチール写真で、それを後退させていったものだ。ムーンバスやほかの宇宙船も多くはおなじような方法で描写されており、写真はブライアン・ジョンソンがこのために撮った大判のものが使われている。

 キャントウェルが来て早々に提案した事項のひとつに、本作の見栄えにささやかだが意義深い影響を与えたものがある。彼は、まだ残っていたストーリーボードを見て、シーンの多くが「基本的に右からのアングル」を想定していることに気がついた。「……わたしがやりたかったことのひとつは、すべてを右アングルから解放してやることだった」(略)

シャトルがステーションに到着するようすをもっと効果的に表現できると考えて、たとえば斜め六十度からのショットなど角度を変えた多様なカメラアングルを探った。

 ところがこのアイディアをキューブリックに説明しても理解してもらえなかったため、キャントウェルは厚紙をいろいろな形に切って、「ささやかなキット」をつくった。「……ナイーヴ・アート的なものでね、要素はひとつなんだが、片方だけ回転させたり、両方を回転させたり……ひとコマひとコマ連続した動きとして思い浮かべられるように、星と宇宙船の軌道をそれぞれ別々に回転させてやると、宇宙船がドッキング・スペースに近づいていったらどうなるか」キットを使って具体的に説明すると、キューブリックはすぐにゴーサインを出した。キャントウェルの視覚的直観力は並はずれていて、キューブリックはすぐにそれを高く評価するようになった。

(略)

キャントウェルが参加した時点で解決していなかったもののひとつに、ボーマンが木星軌道上の“現実の”空間からスター・ゲートの超現実へと入っていく場面転換をどうするかという問題があった。初期のストーリーボードでは、木星の月のひとつを入り口とする現実的、物理的カットが想定されていた。

(略)

 また、そもそもモノリスはなぜ木星に信号を送りはじめたのか──そこからストーリーの後半が動きだすのだが──その原因をどう伝えるかも未解決のままだった。

ベルイマンの対称性

近しい人を自宅に招いて週末恒例の映画のタベ(略)

その日はイングマール・ベルイマンの対称性の使い方が話題にのぼった。とくにキャントウェルが感嘆したのは一九六〇年の『処女の泉』で、ほとんどのシーンは非対称で綿密に計算された構図になっているのにたいして、いくつかの重要なシーンだけほぼ完全に左右のバランスがとれているのだという。以前からベルイマンの熱心なファンだったキューブリックは、この話に背中を押されて映画を再見し、さらにキャントウェルと話し合った。キャントウェルによると、ベルイマンの対称は象徴的なマーカーとしての役割を果たしているということでふたりの意見は一致したという。「彼としゃべっていて、わたしはこのケースはベルイマンのようにやってみるのもいいかもしれないといったんだ」とキャントウェルは当時をふりかえって述べている。「この対称性で展開させていく手法を使えば、言葉によらずにその部分を強調することができるかもしれない──その部分が観客にとって自分の体験を重要な転回点に結びつけてくれるつなぎ柱になるはずだ」

(略)

この映画の太陽と月と木星の衛星の神秘的な並び方──つねに『2001年』の中心に位置するトーテム、モノリスの垂直軸あるいは水平軸上に一列に並んでいる──はこの深夜のディスカッションに影響されたものだというキャントウェルの主張はけっして故ないことではない。

(略)

[この]ディスカッションとを念頭に置いて、キャントウェルは『2001年』の象徴としての重責を担うシーンのうちのふたつの製作にとりかかることになる。(略)

ひとつめはまずローアングルでモノリスをとらえ、その向こうにピエール・ブーラがナミブ砂漠で撮った雲景があって、長方形の物体の上に太陽が昇る、というショットだ。

(略)

もうひとつは、実質的にはひとつめとおなじなのだが、こんどはモノリスが月面にあり、太陽があり、その上に三日月形の地球があるという光景だ。気づかなかった観客も多いようだが、このショットはモノリスに太陽光が当たると同時に木星に向けてビーコンが送信されることをどう表現するかという、キューブリックがシェパートンでトランブルと話し合った問題を解決するかたちになっている。

(略)

つくるのは嘘のように簡単だったという。どちらの場合もモノリスは黒の画用紙を急角度に斜めにカットしたもので、それを大判の8×10インチの透明ポジ(ひとつはナミブ砂漠の空で、もうひとつは星空)の上に置く。三日月と三日月形の地球は、それぞれアニメーション作業の過程で加えていく。地球掩蔽のショットにかんしては、太陽は黒いアルミニウム板に穴をあけ、その後ろにハロゲンランプを置いてつくりだした。

会社からのプレッシャー

[1967年11月下旬]時点で『2001年』にはすでに六百万ドルを超える予算がつぎこまれ、大幅な遅れも出ている状態だった。(略)

会社から彼にどのようなプレッシャーがかけられていたのか、その大半は不透明なままだが、彼といっしょに仕事をしていた人びとは誰もがプレッシャーは存在していた、そしてそれはゆゆしきものだったと確信していた。たとえばダグラス・トランブルら、監督に近い立場にいた協力者は、キューブリックは防火壁の役割を果たしてくれた(略)と感謝の念をこめて語っている。

 まちがいなくいえるのは、MGM社長、ロバート・オブライエンが、膨らみつづけるコストや先送りされつづける納期をめぐる社内や出資者の不安の多くを吸収してくれていたということだ。

(略)

 彼が社の将来を一本の映画に賭けたのは、キューブリックのプロジェクトが初というわけではなかった。(略)

[制作費が二倍に膨らんだ『ドクトル・ジバゴ』]

イベリア半島に夢のように冬のモスクワが立ちあがると、オブライエンは社内の反対意見を押さえつけ、会社はリーンがヴィジョンを実現させるために必要とするツールをすべて提供すると保証した。そして彼は賭けに勝った──『ドクトル・ジバゴ』は多くの観客に支持される大ヒットとなり、初公開時だけで終収益は一億一千二百万ドルにのほったのである。

 この成功でオブライエンがキューブリックを擁護する陣形を保ちやすくなったのはたしかだったが、ほかの重役たちはそこまで楽天的ではなく、投資家たちも同様だった。(略)[MGM株10%を保持していた]シカゴの不動産王フィリップ・レヴィンは、『2001年』製作期間中にも二度(略)MGMの社長を追いだそうと高額な費用のかかる代理戦争を仕掛けた。

(略)

[それでも秘密主義を貫く監督]

「みんなとてもぴりぴりしていたわ──それも無理はないと思います」とクリスティアーヌは回想している。「もしわたしがあれほどの大金をつぎこんで、誰かがなにかを約束してくれたのに、なにも成果が見られなくて、彼に『いや、あなたに見せるつもりはない』なんて横柄な態度でいわれたら……。そんなことをいわれて黙っていたとしたら、それは相当、慈悲深い人でしょうね」

キューブリックの生涯屈指の暗い夜

三月三十一日(略)プレス・プレミアでクラークはついに『2001年宇宙の旅』を見ることになるのだが、懸命に努力して顔には出さないようにしていたものの、それは彼の期待に応えるものではなく、幸福感も薄ければ、満足感もまったく得られないという結果に終わった。キューブリックがナレーションをいっさい使わなかったことは事前に知ってはいたが、観客の理解を助けようという歩み寄りの姿勢がまったくないことに彼はショックを受け、失望した。

(略)

[二日後のワールド・プレミア]

さして時間がたたないうちに観客が席を立ちはじめ、インターミッションでは「みんなぞろぞろと出ていってしまった。悲惨だったよ。総スカンだった」

〈デイリー・エクスプレス〉紙(略)

「このような大作映画プレヴューは見たことがない。拍手ひとつ起こらなかった──製作会社の人間からさえ。観客はただ愕然とした物思わしげな表情で立ちあがり、最い足取りで街頭へと出ていった」(略)

その夜、濡れた舗道に立っていたほかならぬクラークその人は、たちまち困り果てたジャーナリストの「湿った人垣」に取り囲まれ、つぎのようなコメントを残した──「なにがしか理解できるようになるには、六回は見ないとだめだろうね」

(略)

〈デイリー・ミラー〉(略)「四年の歳月と四百万ポンドの費用をかけた上映時間二時間四十二分の本作は、笑いたいときに笑わないようにする大いなる苦痛を確実に味わえる作品に仕上がっている」(略)

〈イヴニング・スター〉紙にはつぎのようなゴシップ風の記事が掲載された──「凝りに凝ったセットはすばらしく、技術は完璧だが、ストーリーは七歳児向け。ある映画関係者は『こんなクズ映画は生まれてはじめて見た』と告白。また、『神がモノリスなんだとわかるまでに三時間かかった』という声も聞かれた」

(略)
 キューブリックと敵対したくないと願い、自著の将来は映画の反響次第と考えていたクラークは、ごく内輪の人間にしか真意を明かしていなかった。

(略)

 しかし、数十年後、クラークは映画を見て──少なくとも最初は──ショックを受け、とまどい、不満を抱いたことを遠回しに認めている。

(略)

マジシャンでラジオ番組司会者のジェイムズ・ランディは、アイザック・アシモフらSF作家たちと出席していた。(略)

 デュリアが延々と走りつづけていると、ブーイングやシーッという声が聞こえてきた、とランディは語っている。観客は、「『先に進めろよ』とか『もういいんじゃないか』とか『つぎのシーン』とかいっていた。(略)そのうちクスクス笑いまで聞こえてきた。あそこであんなに長ったらしいシーンが入るなんて、ばかげているからねえ」インターミッションで館内が明るくなると、キューブリックとクラークが客席の通路を黙って歩いていくのが見えたそうだ。キューブリックはいかめしい顔つきで、考えこんでいるようすだった。そして、クラークの顔に涙が光っているのが、はっきり見えたという。「彼は動揺していた」とランディは回想している。「ひどく、本当にひどく動揺していた」

(略)

[出ていく客は]最初はぽつりぽつりだったのがしだいに本降りになり、インターミッションで土砂降りに変わったという。キューブリックは席にもどるとクリスティアーヌに小声でぽつりとひとこと漏らしたそうだ。(略)『長すぎたな、ぐるぐる走るところか、それとも……』と」そしてクリスティアーヌは、「彼はMGMの人たちが強い敵意を抱いているのを感じていました。重役たちが全員、出ていってしまったの。退屈して。ほんとうに驚いたわ」と語っている。

(略)

 すでに映画を二回見ていたクラークはインターミッション中に館外に出ると、屈辱と失望のうちにチェルシー・ホテルに引きあげた。のちに彼は、客席に陣取ったMGMの重役たちの一団からこんな言葉が聞こえてきたと回想している──「これでスタンリー・キューブリックもおしまいだな」

(略)

[プレミア後のレセプション]

ジェレミーバーンスタイン曰く「とても陰鬱」だったというパーティ会場に着いてみると、テリー・サザーンが「なんだか悲しげな顔で」片隅にすわっているのが目に入った。部屋全体に悪しき未来を運命づけられたような暗い空気が漂っていた。「ルイス・ブラウはこれは傑作だといって歩いていたが、それ以外は、わたしも含めて、失望していたといっていい」と彼は回想している。「みんな、もっとちがうものを期待していたんだ」キューブリックのようすはどうだったかとたずねると、バーンスタインは「少しとまどっているように見えたかな」と答えた。クリスティアーヌはそのときのことをはっきり覚えているという。

(略)

 サザーンの存在が大きな慰めになったものの、「テリーはスタンリーのことを思って、身を震わせていたわ。とても否定的な人たちがいたから」とクリスティーヌは語った。「わたしはほとんどテリーとしゃべってばかりいたの。どうしていいかわからなかったし、ほかの人たちが怖かったから」彼女が「とても悲しいわ。スタンリーにとってとても残酷なことですもの」というと、サザーンは「これは偉大な映画だよ、心配しなくていい、すべてうまくいくから。見ろよ、あのアホどもを。あんなやつらとまともに話ができるかい? ぼくと話していればいいよ」と応じたそうだ。

(略)

「スタンリーは自分をずたずたに切り裂いていました」とクリスティアーヌはいった。「『ああ、くそ、みんながあれほど嫌っているとは』といったりして。悲嘆に暮れていたわ」(略)

「[妻の慰めにも]気分が和らぐことはなく、彼は部屋のなかを歩きまわりながら何度も何度も、「どうすればいいんだ?」と問いかけた。

(略)

 もう午前四時を回っていた。「それで横になったんだけれど、スタンリーは眠れないし、しゃべれないし、なにひとつできなくて、粉々に打ち砕かれていた」と彼女はいった。「いまにも泣きだしそうだった。いえ、泣いたわけじゃないのよ、でも『ああ、まったくひどい話だ』って。

(略)

ラジオの音で目が覚めたら、男の人がニュースを読んでいて、こういっていたの──「スタンリー・キューブリックの映画を見るために一ブロックをくるりと囲む行列ができています」本当にそうだったの。その日最初の上映で、十二時とかそれくらいの時間だったかしらね、すごい行列ができていて、その人たちが[ラジオで]いっていたのよ。「これはすばらしい映画だ」って。そしてそれからは称賛の嵐だったわ。

 

 彼女に起こされたキューブリックは、かろうじて現場レポートの最後の部分を聞くことができた──こうしてスタンリー・キューブリックの生涯屈指の暗い夜は希望とともに明けたのである。

  * * *

 〈ニューヨーカー〉誌のペネロープ・ジリアットは『2001年』を「ある種、偉大な映画で、忘れがたい労作」と評したが、それ以外のニューヨークの主だった評論家たちはその朝、掲載された批評欄で一様に本作を酷評した。〈タイムズ〉誌のレナータ・アドラーは「催眠薬ととてつもない退屈さのあいだのどこかに位置するもの」と呼び、「それ自身のIQをさらけだしているような」作品だと非難した(略)

スタンリー・カウフマンは〈ニューリパブリック〉誌で『2001年』を「大きな失望」と呼び、「非常に愚鈍で、キューブリックが本作を愚鈍たらしめるために使った技術発明の才にたいする興味まで鈍らせてしまう」と述べている。

(略)

ポーリン・ケイルキューブリックを猛攻撃したのは一年近くたってからのことだった。(略)

「途方もなく想像力が欠如している」と評し、「芸術の仮面をかぶったクズ」と非難し、「わたしたちがいかに機械装置を介して神になるかを描いたキューブリックのインスピレーションの陳腐さ」のあらわれと性格づけしている。

(略)

 ワシントンとニューヨークで連日上映され(略)否定的な批評が大量に押しよせている状況を受けて、カットが必要だという判断が下された。キューブリックはのちに「誰に要求されたわけでもない」と述べているが、MGMがかなりの圧力をかけたのはまちがいないだろう。

(略)

 光学式サウンドトラックと一体化した70ミリフィルムはすでに八館に配給済みだったので、キューブリックが編集できるのは音響への影響が最小の部分に限られていた(略)

[カットする部分のリストが各館に送られ]

製作の全局面で並々ならぬ苦労を重ねて細心の注意を払い、厳密さを追求した歳月の果てに、『2001年宇宙の旅』の命運を握る重大なカット作業は八人の無名の映写技師の手にゆだねられ、机上のフィルム編集機で実行され、それが上映されたのである──とりあえずネガからあらたに焼き直したニュープリントができあがるまでは。