メディアはマッサージである マーシャル・マクルーハン

新装版 メディアはマッサージである

新装版 メディアはマッサージである

 

 『観念の冒険』 

“観念の研究で、完璧な明晰さに強く固執するのは、混乱して事実をいわば霧のように包んでいるセンチメンタルな感情から出ているにすぎないことを忘れてはならない。あくまで明晰さに固執するのは、人間の知性の働き方に関する、まったく迷信そのものである。われわれの推論は、わらでも把むようにまったくつまらないものを前提とし、中空に浮いているくもの糸をたよりに演繹を進めていくにすぎないのである”

──A・N・ホワイトヘッド『観念の冒険』

(略)

『メディアはマッサージである』というこの本は、今日われわれの周囲で何が起こっているかを見回そうとする。いわば環境間の衝突状況を映す万華鏡である。

あなたの仕事

“この回路があなたのジョッブ(仕事)を覚えてしまった時、あなたは何をするつもりですか?”

 

"ジョッブ”というのは、比較的近年にあらわれた仕事のパターンである。15世紀から 20世までは、仕事の段階を断片化する過程が、不断に進行した。それは“機械化”と“専門化”の過程であった。だが、それらの処置は、この新しい時代にあっては、われわれの生き残りや正常な精神の維持のために、役には立たないのである。

 

電気回路のもとでは、すべての断片化されたジョッブのパターンは、再び、仕事の役割や形態を巻き込むように要求する。それは教授、学習、献身的な忠誠心という古い意味における“人間的な”奉仕、といったものに、ますます似てくる。

 

失業による苦しみをやわらげるために計画された多くの善意から出た改良政策は、不幸にも、メディアの影響というものの本質に対する無知をあらわしている。

 

“わたしのパーラーへいらっしゃい”とコンピューターは専門家にいった。”

“他人”

知り合うということのショック!電気的情報の環境のなかでは、少数派グループは、もはや封じ込めたり、無視したりできない。あまりに多くの人が、互いについて、あまりに多くを知っている。われわれの新しい環境は、かかわり合いと参加を強制する。われわれはいやおうなしに、互いにかかわり合い、互いに相手に対し、て責任を持たされるようになった。

 メディアはマッサージである

すべてのメディアは、われわれのすみからすみまで変えてしまう。それらのメディアは個人的、政治的、経済的、美的、心理的、道徳的、倫理的、社会的な出来事のすべてに深く浸透しているから、メディアはわれわれのどんな部分にも触れ、影響を及ぼし、変えてしまう。メディアはマッサージである。こうした環境としてのメディアの作用に関する知識なしには、社会と文化の変動を理解することはできない。(略)

“座る人たちを座らせるための密室”

人間を罰し、矯正する一つの方法として、せまい場所に拘禁するという考えは、13世紀から14世紀の間──つまり、われわれ西欧世界に、遠近法的、絵画的空間が形成されつつあった時代──に生まれてきたようである。だが、拘束と分類の手段として人間を閉じ込めるという観念全体が、今日の電気的世界では役に立たなくなっている。人々が罪に対していだく新しい感情は、だれか私的な個人に還元できるようなものではなく、むしろ、ある神秘的な仕方で、すべての人々に共有されているものである。この感情がわれわれの間に再びよみがえってきたようである。話によると、部族的な社会では、恐ろしい事件が起こると、その事件をひき起こした個人を非難するかわりに、だれかが“こんな気持になるなんて、どんなに恐ろしかったことだろう”、という反応がよくみられる。この感情は、われわれが迎えつつある新しいマス・カルチャーの一つの局面である。それは、すべての人々が互いに深くかかわり合い、個人的な罪というものを、もはやだれも本当に想像できなくなってしまうような、全体的相互関与の世界である。

新しいメディア

“進歩”の名において、われわれの官製の文化は、新しいメディアに古い仕事をするように強制する。

新しい環境

詩人、芸術家、探偵──われわれの知覚を鋭くしてくれる者はだれでも、反社会的になる傾向がある。彼らが“よく適応する”ことはほとんどなく、現代の風潮や趨勢に従ってゆくことができない。これらの反社会的なタイプの人々には、環境の真の姿を見るカを持っているという、奇妙な共通点がある。反社会的な力をもって環境の境界に接し、それに直面したいという欲求は、“はだかの王様”というあの有名な話の中に、よく描かれている。“よく適応した”廷臣は、利害関係をもっているから、王様が美しい着物を着ているのだと見た。ところが、まだ古い環境に慣れていない“反社会的”な子どもは、王様が“なにも着ていない”ことをちゃんと見た。新しい環境が、子どもにははっきりと見えたのである。

情報戦争

真の全面戦争は情報戦争となった。それは、微妙な電気的情報メディアによって──冷戦状態の下で、しかも不断に──行なわれている戦いである。冷戦は真の戦線である。それは──包囲戦であり──あらゆる時に──あらゆる場所で──すべての人を巻き込む。今日熱い戦争が必要な時はつねに、古いテクノロジーを使って、世界の裏庭でそれが戦われる。これらの戦争はハプニング(偶発事)であり、悲劇的なゲームである。戦争をするのに最新のテクノロジーを用いることは、もはや便利でも、適当でもない。というのは、これらのテクノロジーが戦争を無意味なものとしたからである。水爆は歴史の感嘆符である。それは、長期にわたる、現実の暴力支配の時代に終止符を打ったのである。

新装版解説 門林岳史

(略)

 『メディアはマッサージである』がこれほどの大ヒットとなったひとつの要因として、世間の風評とは裏腹に、晦渋な文体で書かれたマクルーハンのこれまでの本は決して読みやすい代物ではなかった、ということがある。それに対してこの薄くて小さい本は、まったくの素人でも飽きることなくすぐに読み通せる体裁に、メディアをめぐるマクルーハンの思想のエッセンスを凝縮している。

(略)

 まず、この本が、実際には少なくとも通常の意味ではマクルーハン本人によって書かれた本ではない、ということを確認しておく必要がある。これまでに建築家バックミンスター・フラー天文学者カール・セーガンなどによる一般向けの書籍を手がけてきた編集者ジェローム・エイジェルと、すでに定評あるグラフィック・デザイナーとして活躍していたクエンティン・フィオーレの二人は、この本の準備のために、『グーテンベルクの銀河系──活字人間の形成』(1962年)と『メディアの理解──人間の拡張の諸相』(1964年)を中心とするマクルーハンのテクストから彼の主要なアイデアを抜き出し、それをさまざまな写真やグラフィックと組み合わせていった。こうして準備された草稿に対して、マクルーハン自身はたったの一語しか訂正を加えなかったという。

(略)

マクルーハンの息子であり、この当時彼の助手を務めていたエリック・マクルーハンの言葉を信じるなら、タイトルそのものも当初は『メディアはメッセージである』となるはずであった。ところが(略)ゲラを受け取ったマクルーハンがタクシーのなかで封を開けたところ、表紙に記された表題に誤植があった。「message」から「massage」というこの誤植をマクルーハンは気に入り、そのままのタイトルが採用されることになったという。

(略)

「message」/「massage」という対は、その両者に隠された「mess age(悲惨な時代)」/「mass age (大衆の時代)」という言葉遊びを浮かび上がらせることにもなった。

(略)

本書は、ブックデザイン史上にも名を残す作品となったが、それと同時にきわめて先駆的に多メディア展開された商品でもあった。まず、エイジェルは、本書と同名のレコードを企画し、ほぼ同時期にコロムビア・レコードより発売している。このレコードは、当時一線の音楽プロデューサーであったジョン・サイモンによって製作された。書籍版『メディアはマッサージである』のマクルーハンによる朗読をさまざまな素材とともにコラージュした、ミュージック・コンクレートめいた作品である。また、同じく書籍と同時期の1967年3月19日に、「これがマクルーハンだ──メディアはマッサージである」と題された TV 番組が NBC より放送された。

(略)

マクルーハン本人の映像をさまざまな映像素材とめまぐるしくカット編集でつないだ本作もまた、書籍版、レコード盤と並んで、「当時のポピュリズム的な騒々しさ」でマクルーハンの思想を彩るものであった。

(略)

 フィオーレは、『メディアはマッサージである』の成功を受けて、マクルーハンの著作以外にも二冊の本をデザインしている。ひとつは反体制的なイッピーの主導者ジェリー・ルービンによる『やってみよう!革命のシナリオ』、もうひとつは建築家バックミンスター・フラーによる『私は動詞のようだ』、いずれも1970年に刊行された。とりわけ(略)ジェローム・エイジェルとの共作でバンタムブックスより刊行された『私は動詞のようだ』は、始めから終わりまで一直線に読み進む、という伝統的な書物のイメージを解体する『メディアはマッサージである』の試みをさらに押し進めたものと評価することができる。そもそもフラー自身(略)「宇宙船地球号」などというキャッチフレーズによって、テクノロジーの未来を語る思想家として、当時マクルーハンとも並ぶ大衆的な注目を集めた人物である。

(略)

 さて、以上のように述べると、結局のところ『メディアはマッサージである』の革新的な仕事を成し遂げたのはマクルーハン本人というよりはエイジェルとフィオーレであり、いわばマクルーハンは彼らに恰好のネタを提供したにすぎなかった、というように見えてくるかもしれない。書籍の成立の経緯としてはその通りだが、では、マクルーハン自身はあくまで保守的な書き手であったのかというと、決してそんなことはない。マクルーハンがデザインやレイアウトの面から伝統的な書物の概念に挑戦したのは、エイジェル、フィオーレとの共作の機会のみではなかったからである。とりわけ『カウンターブラスト』(1970年)は、商業的な成功こそ収めなかったものの、『メディアはマッサージである』との対比においてここで注目しておくに値する。

(略)

『メディアはマッサージである』が、写真を中心とするグラフィカルな要素の多用において際立っていたのに対し、『カウンターブラスト』では、写真は用いられず、そのかわりに過剰なタイポグラフィで文字がレイアウトされていた。

(略)

 伝統的な書物のすがたを覆そうとするマクルーハンの取り組みとしては、他にも各章が章題のアルファベット順に並べられた(その結果、「序章 Introduction」が書物の真ん中に配置されている)『クリシェから原型へ』(ウィルフレッド・ワトソンとの共著、1970年)などが挙げられる。また、そもそも各章が広告イメージの短いコメンタリーになっている処女作『機械の花嫁──産業社会のフォークロア』(1951年)や、新聞見出しめいた短文が各章の冒頭に表題として添えられた『グーテンベルクの銀河系』自体、そうした取り組みの一環として理解することもできるだろう。『カウンターブラスト』成立の経緯からも垣間見えるように、これらの取り組みの背景には、メディア論者としてもてはやされる以前に文芸批評家としてモダニズム文学の解釈に取り組んでいたマクルーハンの経歴がある。1930年代にニューヨークでジョージ・グロスやハンス・ホフマンに学び、その後シカゴでニュー・バウハウスの授業も受講しているフィオーレもまた、モダニズムの影響下で仕事をしていた。フィオーレは『メディアはマッサージである』の影響の源泉として、マリネッティウィンダム・ルイス、具体詩、カリグラム、フルクサスなどを挙げている。『メディアはマッサージである』は、そんな両者に出会いの場所を提供した歴史的事件だったのである。 

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東京12チャンネル運動部の情熱・その2

前回の続き。 

東京12チャンネル運動部の情熱

東京12チャンネル運動部の情熱

 

女子プロレス

相手を組み伏せて太股のガーターを奪えば勝ちというガーターマッチが主流だった。試合会場は米軍キャンプが多く、ストリップ劇場やキャバレーで行なわれることも少なくなかった。舞台はリングではなくステージだった。

スポーツよりエロ。

技の応酬よりお笑い。

戦後復興期、女子プロレスに求められていたのはエロとお笑いだったのだ。

その後、女子プロレスは日本各地でいくつもの団体が勃興し、離合集散を繰り返しながら男子プロレスとはまったく違う道を歩んだ。観客は年配の男性客が大半だった。

昭和42年4月19日には団体を統合する形で、異種格闘技戦のルーツといわれる「柔挙」の創始者として知られる中村守恵が中心人物のひとりとなって日本女子プロレス協会が設立された。(略)

[一時盛り上がるも、すぐに内部分裂]所属選手の大半は、中村に反旗を翻した派閥(全日本女子プロレス)のほうについていった。

(略)

[東スポの]山田隆から白石は女子プロレス中継の話を持ちかけられた。(略)

レスリング経験者である白石の目から見ても、小畑千代と佐倉輝美だけは観客の観賞に耐えられるだけのスキルを身につけていた。

「このふたりだったら、なんとかなる」(略)

[教育専門の12chで放送するには]脱エロ路線しかなかった。

白石は中村に言い渡した。

「キャバレーショーをやったら即、放送中止だ」

(略)

馬忠雄は力道山が女子を邪魔者扱いにしていたと証言する。

力道山日本プロレスを作る時、すでに女子プロレスは世の中にあった。力道山はプロレスを発展させるためにはこいつらが邪魔だと思ったんだ。だから、その頃ウチで女子プロの記事を少しでも書こうものなら、みんなもの凄いアレルギー反応を示した。(略)」

その証拠に当時のスポーツ紙はおろか、専門誌を見渡しても女子プロレスに関する記事はほとんど掲載されていない。

(略)

会場は大相撲の聖地・蔵前国技館。入場無料にしたら、超満員の観客で埋まった。大半は男だった。小畑は、リングサイドに警視庁所属の柔道家がズラリと並んでいたことを覚えている。さらに女子プロレスのステータスを上げるために、最前列の一番目立つところには八田一朗に座ってもらった。

(略)

[アメリカのプロレスに特化した『プロレスアワー』もスタート、15.1%の高視聴率。白石は]

女子プロレスアメリカのプロレスを隔週で交互に放送しようと考えていた。

(略)

ここは胸を出さないのか?」

その言葉を耳にした佐倉は激昂し、試合そっちのけでリングサイドに腰を下ろしていた野次の主に啖呵を切った。

「てめえ、ストリップと一緒にするんじゃねぇよ」

それから佐倉はその客に本気で殴りかかった。小畑も加勢した。

(略)

「私たちは、水着の後ろをちゃんとテープで補強して外れないようにしていた。試合中に下着が見えたら汚らしいじゃない。だから試合用の水着のはじっこの部分はゴムでギュッとしばっていたの。今でも、その痕は残っていますよ」(略)

「私、ビキニだったらやらないと言ったもん。白石さんは女子プロレスをスポーツとして認めてくれたから。じゃないと、やらないですよ」

(略)

[ある週刊誌は]「女子プロレスは三流のピンク映画」と断定したうえでの取材だったからだ。

白石は声を荒らげた。

「なにがピンク映画だ!小畑も佐倉も一生懸命闘っているんだ。見る奴の目が汚れているからピンクに見えるんだ。東京オリンピックで体操をやっていたチャスラフスカを見ろ。彼女はレオタード姿だし、股だって開く。見方によっては彼女だって十分エロじゃないか」

翌週、白石はその週刊誌に「チャスラフスカをエロだと言った男」として顔写真付きで掲載された。ほとんど犯罪者扱いである。頭にはきたが、話題にもなった。白石は、それで良しとした。

(略)

「(偏見にさらされつつ)我慢しながらやってきて、ようやくメジャーになれるし、世の中に認めてもらえると思ったの。だからこそ、たとえ自分の体を捨ててでも、白石さんを男にしてやろうと思いました」(略)

「この恩は一生忘れない。だからこそ私たちはケガをしていても試合には出た」

(略)

[バッシングが増していたところに、同じ局で『プレイガール』が始まり、世間の批判をかわすために30分番組の女子プロレスが犠牲となって打ち切り]

慰労会で白石は小畑と佐倉に約束した。

「いつかどこかで必ず」(略)

[白石は]男の約束を守った。(略)

[昭和49年の国際プロレス放映にあたり]女子部の創設を直訴。それを早大レスリング部同期で団体の社長だった吉原功に認めてもらい、小畑と佐倉を投入したのである。

小畑は白石からかかってきた電話のひと言が忘れられない。

「ちいちゃん、今度はカラーだよ。また一緒にやろう!」

“真剣勝負”のキックボクシング

[キック戦国時代到来]

白石はひとつだけ心に決めていた。「ボクシング同様、やるんだったら八百長のない試合を放送したい」

今でこそキックボクシングは真剣勝負として成立しているが、その黎明期には日本人選手の当たってもいない蹴りで素性もわからぬタイのムエタイ選手が失神KOされるような試合が普通に放送されていた。

(略)

白石は真空飛びヒザ蹴りを見るたびに虫酸が走った。

「僕には片八百長だってすぐにわかった。ボクシングのようなスリリングな興奮もないしね」

(略)

[岡村プロモーション社長岡村光晴]

児玉誉士夫の片腕だった岡村吾一の息子である彼は強気の交渉に打って出た。

「ウチは黒崎のジムを押さえたよ」

黒崎とは“鬼の黒崎”の異名を持っていた黒崎健時を指す。(略)

「ウチはリアル(真剣勝負)でやりたい。片八百長とかは絶対にイヤだ」

(略)

[真剣勝負路線はその道を求めていたファンの支持を受け4.2%とまずまずだが、問題があった]

「こっちはガチンコだからさ、いい選手が出てきたと思ったら負けちゃうんだよ」(略)

[テレビとしては]スターの不在は痛い。

(略)

[NETが一年で撤退、ひとり勝ちのTBSは乗ってこなかったが、日テレ系の協同プロモーションと全日本キックボクシング・コミッションを設立。コミッショナー石原慎太郎]

石原がコミッショナーという大任を果たしたのは、鳴り物入りでキックボクシングに転向してきた元ボクシングの世界王者・西城正三藤原敏男と闘った時だろう。(略)

[西城を“第2の沢村”に仕立て上げたい一派が出来試合を目論んだが、それが石原の耳に入る]

「もし、そんな試合をやったら、俺はコミッショナーを降りる。そしてお前たちの悪事を全部バラしてやる」

(略)

試合は序盤からローキックをきかせた藤原がペースを握る。(略)

第3ラウンド、西城側のセコンドがリングにタオルを投入して試合を棄権した。(略)

唐突な幕切れに一時場内は騒然。試合後、西城が「まだやる」と口走ったため、一度は関係者がリング上で試合を再開するとアピールしたが、西城が不穏な空気が漂う会場に再び姿を現すことはなかった。

後日、藤原は石原の元を訪ね、深々と頭を下げた。

「先生、本当にありがとうございます。おかげで、自分の意にそぐわない試合をしないで済みました」

モハメド・アリとニューラテンクォーター

白石の顔を見つけると、ボクシング好きだった勝新太郎はよく声をかけてきた。このクラブで顔見知りになったことが縁で、ボクシングの世界タイトルマッチのゲスト解説者として勝を起用したこともあった。

社長の山本信太郎から気に入られていたことも、ニューラテンクォーター通いに拍車をかけた。

(略)

夜の街を徘徊する第一目的はプロデューサーとしての情報収集だった。

(略)

ある日、ひとり酒でほろ酔い気分の白石を目にしたキョードー東京の永島達司が近づいてきた。(略)

「台湾のテレビ局は知っている?」

ジュディ・オングのオヤジさんが編成局長をやっているから知っているよ。もしかして、また音楽ショーの売り込み?」

「いや、シラさん、それが違うんだよ。今度はボクシングなんだよ」(略)

「実は俺がアリ対フレージャーのファーイースト(極東)の権利を預かっているんだ。台湾のテレビ局にも売り込もうと思ってさ」

「日本の放送は?」

「いや、すべてこれから」

白石は天にも昇る気持ちだった。(略)

[1週間待ってくれと頼み電通に連絡すると]

「アリの世界戦だったら、何億円でも売れますよ」

局の編成にかけ合うと、すぐGOサインが出た。

(略)

[中継は平日昼間で15.4%、1時間に再編集したゴールデンタイムでの再放送は18.6%]

(略)

昭和47年4月1日には、日本武道館で行なわれたアリとマック・フォスターとの15回戦を12チャンネルが放送した。担当は田中元和だった。(略)

アリは、この時が初来日だった。(略)

田中から見た素のアリは非常にやさしい人物だった。

「マスコミの前ではプロレス調でベラベラ喋っていたけど、普段はすごく大人しかった印象があります」

後楽園ホールで13時から公開練習と言われると、アリは11時には現場に現れ、マスコその目が届かぬうちに猛練習した。

「そして公開練習の時間になると、10分くらいやってさっさと切り上げた。おかげで翌日の新聞には全然練習しないと叩かれたけど、アリは自らそういうイメージを作っていたように思えました」(略)

[マスコミの前でわざとアルコールを口にふくんでみせたが]

田中は見ていた。日本に滞在中、アリは朝5時には起床して、ホテルの庭でひとり黙々とトレーニングをしていたことを。

「練習は人の見えないところでやる。逆に人の目があると、もうチャランポラン。カメラマンがたくさんいる前でいきなりキックの練習を始めたこともありましたね。普通に試合をやるだけでは昼間の興行に人が集まるわけがない。それを察したアリは自分が危ないと煽るしかなかったんでしょうね」

(略)

シャドーボクシングが主体だったアリのトレーニングについてもよく覚えている。

「ミット打ちではなく、フォームを重視したトレーニングでした。(略)

ホテルの庭園で動く時には靴の中に重りを入れていました。鉄が入った靴です。

 やらせの時代

[会社にハッパをかけられサメ対ワニの異種格闘技戦を制作]

 田口成はまず昼間にサメを釣り、犬のようにヒモをつけて浅い海で“散歩”させながら夜を待った。泳がせていないと、サメは死ぬ。そして夜になるとワニを捕まえた。(略)

いよいよ収録。田口はワニが待つリングに捕獲したサメを入れ、カメラを回した。ゴジラ対エビラのような大激闘が待ち受けていると思いきや……。

「それがね、サメもワニも闘わないんだよ。ハハハッ」

 たまに触れ合うと、お互いパッと避けた。(略)

「これでは番組にならない」

 その場でそう判断した田口はサメとワニをテグスで縛りつけてぶつけ合った。それでも猛獣たちは闘争本能を出さない。頭にきた田口は最後の手段に出た。無理やりワニの口をこじ開け、そこにサメを噛ませたのだ。

(略)

放送された映像では巧みなカットで傷み分けということに細集されたが、本を正せば最初から勝ちも負けもない。試合不成立だったのである。その時の状況を思い出しながら、田口はボソッと呟いた。

「フィルムの時代は、ヤラセでもなんでもあり。昔のテレビはヤラセ大会だったからね。

(略)

「フィルムの時代が終わってビデオで撮るようになったら、ヤラセがパタッとなくなったんですよ」(略)

フィルムは高価で長時間の撮影ができない。だから、ドキュメンタリーといってもどうしても演出が生まれてしまう。それに比べ、ビデオテープは格段に安く、目的の映像が撮れるまで写していられたからである。

 その一方で、田口は堅実なドキュメンタリー番組も手がけた。

(略)

 秘境では、信じられないような風習や光景に出くわしたことも少なくない。パプアニューギニアでは親族がひとり死ぬたびに指を切るという部族と会った。(略)

「悲しみを表す意味で指を1本ずつバシッバシッと切っていくわけ。道端を歩いているオバちゃんが3人くらいいたけど、みんな指がない。でもね、親指だけは切らないんだよ。農作業するのに必要だからってね」

 女だけではない。男には耳を切っていく風習があった。

「だから、男はみんな耳が小さかったんだよね。さすがにそんな指がない女や耳が小さい男ばかり撮れないよね」

箱根駅伝 

昭和53年のある日、白石剛達は読売新聞社に呼ばれ、同社事業部長だった知人に懇願された。

「白石君、箱根駅伝をやってくれないか?」

「そんなことを頼まれても……。日本テレビでやってもらったらいいじゃないですか」(略)

「いや、日本テレビではやってもらえないんだよ」

(略)

当時の東京12チャンネルはマラソン中継や駅伝には必要不可欠といわれる自社ヘリコプターだけではなく、上空から地上の中継車に電波を飛ばす追尾装置という通信機器も所有していなかった。

日本テレビ箱根駅伝に手をつけていなかった理由も、なんとなく理解できた。箱根の山中は曲がりくねった道が続くため、それまでにいくつものスポーツを扱ってきた白石でも、どうやって中継したらいいのか想像もつかなかったからだ。(略)

[話を聞きつけたNHKのディレクターからも本気なのと言われた。東京オリンピック]以来、長距離走の中継はNHKがリードしていたが、一番ノウハウを持ったNHKから見ても箱根駅伝の中継は難しいと思われていた時代だった。山上りの5区と山下りの6区をいかに撮るか。その答えはNHKですら持ち合わせていなかったのである。

(略)

「当初のプランではゴールだけでは面白くないというので、前日の往路も撮影してハイライトとして見せようということになりました」

(略)

中継車はコースを走ってはいけなかったので、主催の読売新聞社が出す移動車の中にカメラを載せて撮影する方法をとった。

東京タワーが見えるところにアンテナを立てなければ、その映像を電波で飛ばすことはできない時代だった。そこで田中元和は移動車の中で撮った映像とは別に、電波を飛ばせる10区のスタート地点となる鶴見、東京タワー近くの増上寺、そしてゴールの大手町にカメラを設置した。終盤だけは生中継を中心に見せようとしたのだ。

(略)

もっといい番組作りをしたい。

そう思い立った田中は翌年の放送のため、事前にコースをくまなく歩いた。そうすることで撮影するポイントを探し出そうとしたのである。

(略)

長い間、当時復路のスタート地点の箱根・芦ノ湖は山間で電波を飛ばせる環境にはないため、中継できるポイントではないと考えられていた。しかし、田中は自分の足を使うことで往路のゴール地点の映像の電波を辛うじて送れるポイントを発見した。

(略)

[その後の映像は]ところどころにバイク便を待機させておき、移動車が通りすぎる際にVTRを手渡すようにしたのだ。バイクは電波を飛ばせるアンテナを立てた地点までVTRを届けた。

(略)

田中が手がけた2回目の第58回箱根駅伝は[8.3%、翌年の](略)第59回大会は10・3%とついに2桁の大台に乗る。(略)

[第60回大会は2時間枠になり13.5%に](略)

田中は日本テレビの焦りを感じとった。(略)10%を超えると、日本テレビの視聴率を上回ってしまう。そうなると、なぜテレビ東京にやれてウチではできないんだ?という声が日本テレビの中であがっても不思議ではない」

案の定、昭和60年の第61回大会から読売新聞社の先頭車両に日本テレビのスタッフも同乗するようになった。(略)

「どういうふうにテレビ東京がレースを追いかけているのか。そのノウハウを知りたかったんじゃないですかね」

(略)

案の定、昭和62年の第63回大会からは日本テレビが放送することになった。

(略)

田中は[日本テレビ制作の]スケールの大きさに驚くしかなかった。

テレビ東京の波(電波)は1波プラス予備の1波しかない。でも、日本テレビは全国に系列局があるので、その電波を箱根駅伝のために持ってくることが可能なわけです。そうすれば、一度に8波とかを使えるので生中継が可能になる」(略)

「ウチが50名だとしたら、日本テレビは700名くらい動員したんじゃないですかね。

(略)

[だが]それでめげるほど田中はやわな男ではなかった。

箱根駅伝で培った撮影のノウハウを活かそう」

 次にターゲットとして照準を定めたのは、昭和42年に日本初の市民マラソンとしてスタートした青梅マラソンだった。(略)

田中はまず箱根駅伝では使うことができなかった空撮を試みることにした。しかし、その時点でもテレビ東京にヘリコプターはなかったので[熱意で業者に頼みこみテスト飛行のような形で低予算で飛ばしてもらうことに](略)

[だが]上空から電波を飛ばす追尾装置を持ち合わせていなかった。(略)田中はとんでもないアイデアを思いついた。「撮ったVTRを落下傘につけて、中継車の前に落としたんですよ」落とした衝撃でVTRを傷つけたら元も子もないので、発泡スチロールをたくさん詰めた袋の中に入れて落下傘につけた。落下傘を落とすポイントは3カ所。それぞれに車かオートバイを用意して、電波を飛ばせる場所まで運んだ。

そして、地上から撮った映像の間に空撮映像を挟み込んで放送した。放送は完全な追っかけVTR方式だったが一見、生中継に映った。視聴率も10%を超えた。

 田中が編み出した落下傘を使用した空撮方法はその後、ハワイ国際女子高校駅伝ノルディックスキーのワールドカップでも効果を発揮した。

日本一早いスポーツニュースを作れ!

[最後発でスポーツニュースをやることになり]
白石は、どこよりも早く始まるスポーツニュースを思いついたわけである。

(略)

 贔屓のチームの試合結果だったら、1秒でも早く知りたい。そんなファンにとってNHKとの15分の差は大きかった。「たった15分早いだけ」ではなく、「15分も早い」という捉え方なのだ。

(略)

若松明は白石から放送開始時間を聞いて思わず声をあげた。「エーッ!」プロ野球担当が長かった若松にとって、22時30分はややもするとゲームは終わっていたとしても、試合後の談話を聞いている時間だった。(略)

[それに]「広島にウチのネット局はありません、どうするんですか?」

(略)

広島での試合映像は市内の茶臼山にある電電公社の無線中継所までバイク便で運び、そこからマイクロ回線を使って送信することになった。

(略)

[広島でのオールスター戦、なんとか生中継したい。テレビ大阪から小型中継車を出してもらい、あとは特設スタジオの手配]

球場の真ん前にある相生という大きな旅館が目に止まった。

[ロビーにある瀟洒なカウンターバーをスタジオにすることに]

あとがき

社会的に低俗だと見なされていた女子プロレスを白石が放送に踏み切らなかったら、『東京スポーツ』にすらなかなか扱われないアンダーグラウンドな流れから抜け出すのにさらに時間がかかったのではないか。

(略)

 海外のスポーツの放送も、そのルーツは12チャンネルの『ダイヤモンドサッカー』にある。(略)

この番組がスタートするまで日本には海外のスポーツを観る習慣はなかった。(略)

海外のサッカーも数カ月ほど遅れて専門誌に掲載される写真を見て想像力を働かせるしかなかった。頭の中でしか動いていなかったジョージ・ベストら世界の一流プレーヤーを実際の動画として見せたことに歴史的価値があったのだ。

 サッカーだけではない。日本で初めて本場アメリカのプロレスを放送したのも12チャンネルだった。

(略) 

東京12チャンネル運動部の情熱 布施鋼治

12チャンネル運動部を率いた豪腕白石剛達は他局からも一目置かれた。

東京12チャンネル運動部の情熱

東京12チャンネル運動部の情熱

 

“科学テレビ” 

 “科学テレビ”とも呼ばれた12チャンネルの母体は日本科学技術振興財団。その名のとおり、科学技術の普及を目的に作られた、お堅いテレビ局だった。

 開局日となった同年4月12日の番組表を見ても、それは一目瞭然だった。(略)『科学と人つくり』『科学と人間』などNHK教育テレビも真っ青な硬派な番組がラインナップされていた。

(略)
題名のない音楽会』は評判もよかったが、その後は白石の思惑どおりに事は進まなかった。オリンピック景気に沸いたのも束の間、日本経済は一気に冷え込んだ。中小企業の倒産は、戦後最大数にまで膨らんだ。その余波は12チャンネルにも及んだ。(略)

その経営は数百社の企業からの一口100万円の寄付に頼っていた。不況のあおりを受け、寄付が滞ったら金が回らなくなるのはしごく当然だった。

(略)

[白石も営業をやらされることに]

押しの強さや話術のうまさには定評のあった白石だが、状況が状況なだけに営業回りは困難を極めた。「(略)視聴率が悪いんだから、広告なんて出す意味がないよね。ずいぶんバカにされましたよ。それでも頭を下げまくりながら、今に見ていろと思っていました」

 事態はすぐに好転せず、2年後の昭和41年には一日の放送時間が5時間半に減った。そのうち3時間は通信制高校講座で、手間隙のかかる自社制作番組は週4時間しかなかった。(略)

新聞のテレビ欄では思い切り差別を受けた。

早稲田レスリング部時代

 白石は、終戦直後で食べ物などロクにない時代にもかかわらず、部員がみないい体をしていることにも注目した。

レスリングをやれば、俺もこんな体になれるのか」

 誰もが飢えていた時代だった。

(略)

 練習帰りには、よく新宿の闇市へ足を運んだ。(略)

酔いが回ってくると[ストリートファイト](略)

「俺のやり方は殴るというかスカすというか、すぐ終わった。だって毎日タックルをやっているんだもの。タックルで倒して相手が四つん這いになったら、ガーンと頭を踏んづけて終わり。それで向こうの仲間が来たら、パッと逃げる。だからケガはしなかったね。こっちは毎日練習で走ってもいるんだから、ヤクザに追いかけられても俺に追いつくのはひとりくらい。一対一になれば絶対に勝ち(笑)」

プロ野球中継スタート

なぜ12チャンネルはサンケイ対広島を放送したのか。

 それは他局が巨人戦の放映権を独占していたからにほかならない。

(略)

 裏番組に巨人戦があれば視聴率で負けることは明らかだったが、視聴率は大した問題ではなかったと白石剛達は本音を漏らす。

「それより、番組を埋めることのほうが大事だった。そうしないと、何か番組を作らなければならないじゃないですか」

 自主制作のドラマやバラエティ番組を作るよりも、野球中継のほうがずっと安上がりという台所事情もあったのである。(略)

教育の一環であることを証明するため(略)

「工業大学の先生をゲストに招いて、ボールとバットの力学を解説してもらったり(略)阪神タイガースの定宿の女将を呼んで、野球選手がとる食事について語ってもらったこともありましたね」

(略)

運動部が誕生して4週間後の昭和42年4月29日、当初は高嶺の花に思われた巨人戦の中継が早くも実現している。

 なぜ、そのようなことができたのか。[各局巨人戦の放送曜日が決まっていたので](略)

TBSやフジは自分たちが決めた曜日以外に巨人戦がきても放送しなかった。そうなると、こぼれたゲームをウチが放送できたわけです」

 雨で順延になったゲームも12チャンネルに転がり込んできた。

(略)

 果たして巨人の効果は絶大で、初めての巨人戦中継の視聴率はいきなり12・9%を記録した。

 また、巨人絡みのダブルヘッダーで放送しない第1試合を譲り受けるというケースもあった。いくら人気の巨人戦とはいえ、一日に2試合連続放送しようという局はなかったのだ。

 白石は、すべて事業本部長の村木武夫のおかげだと語る。

「村木さんは住友石炭の出身で、若手財界グループの代表的存在だったので各局にもの凄く顔が利いた。フジテレビの鹿内(信隆)社長もそのグループの人だったし、村木さんとは親友みたいな間柄だったので意外と簡単にくれたんだよ。(略)どの局も村木さんが頼むよと頭を下げたら、問題なく譲ってもらえた」

(略)

[TBSからにべもなく断られた時は、村木自身が赴き]テーブルに手をついて深々と頭を下げた。

 TBSの専務は慌てた。目の前で頭を下げているのは住友石炭で副社長を務め、経済界や政財界でも名の知れた村木なのである。(略)

[すぐに編成局長を呼びつけ]

「その話、村木さんに差し上げなさい」

バックスクリーンからの映像

 今では考えられないことだが、野球中継をスタートさせた当初、12チャンネルは[予算がなく]わずか3台のカメラで試合を追いかけていた。

(略)

それでも制作スタッフは、視聴者に試合をわかりやすく見せるための努力と工夫を怠ることはなかった。(略)

 若松明は画面の下に小さくSBOやランナーの有無を表示することを最初に取り入れたのは12チャンネルだと胸を張る。(略)

技術部が開発してくれた。秋葉原の電気街に足を運んでね。テレビ局の暗いサブの部屋でモニターを見ながら手作業でやる。

(略)

 また、メインの1カメ(第1カメラ)としてバックスクリーンからの映像を導入したのも、日本では12チャンネルが最初だった。

(略)

 当時、バックスクリーンからの映像はタブーだった。キャッチャーのサインが見えるということで、コミッションから許可が下りなかったのだ。

(略)

すでにアメリカではバックスクリーンからの映像がポピュラーになりつつあり(略)

とはいっても、バックスクリーンからの映像だと、バッターは打つと右から左に走ることになり、一塁側の2カメの映像に切り替わるといきなり左から走ってくることになる。つまり、映像的にはまったく逆になってしまうのだ。それでもいいとするアメリカ的な映像の作り方に若松は軽いカルチャーショックを覚えた。

「だったら、どうやってつなぎの部分の矛盾を解消するのか。そこで考えたのは間にアップを挟み込んで、一度方向性をわからなくしてからカメラアングルを変える。そうしたら見ているほうも抵抗がなくなるわけです」

 そして、アナウンサーがしっかりフォローしてくれれば問題ない。そう割り切ることができた若松はバックスクリーンからの映像を日本にも導入しようと思い立った。 

マイナー競技に光を当てる 

[ストーブリーグに入ると『サンデースポーツアワー』開始]

他局が見向きもしなかったアマチュアスポーツの中継を13時から3時間という長い尺で放送し始めたのである(略)

サッカー、ラグビー、テニスのみならずアイスホッケー、棒高跳びハンドボールアメリカンフットボール、リトルリーグ、果てはロシアの格闘技サンボ

(略)

[アマチュアスポーツ中継に反対はなかったが一度だけ]

日本サッカーリーグの放送で三菱重工の試合を扱ったら、[メインスポンサーの三井グループから]さすがに怒られたね」

(略) 

「俺たちは世界の果てでも三菱と闘っているんだ」

白石はすぐ説得にかかった。

「天下の三井がスポーツ番組の中で三菱を放送したからといって何が問題なのですか。そんなことを言っていたら、何も放送できませんよ」その一方で(略)三井がリトルリーグを育てようとしていた時期だったので、(略)

『リトルリーグ関東決勝調布対城西』を[放送。のちに調布リトル出身の](略)荒木大輔が“大ちゃんフィーバー”を起こすが、その礎を作ったのは12チャンネルだった。

(略)

[冬枯れで放送する大会がないとなると、何度も放送している関東学生ボウリング連盟に頼み、『ボウリング東西学生対抗戦』なる新たな大会を開催し放送]

既存の大会を放送するのではなく、放送のために大会を作ったのである。しかも、この大会の中継は当時のボウリングブームの波に乗って、5.2%という高視聴率を記録した。

(略)

視聴率は2%をとれば上出来。 よりも毎週その枠を埋めるほうが大変だった。

(略)

サンデースポーツアワー』が12チャンネルとアマチュアスポーツの絆を強くした。今でもテレビ東京が卓球や柔道の国際大会を放送しているのはこの番組のおかげですよ」

男子バレー

[男子バレー担当の後藤謙一。ブロックを重視する松平に合わせブロックの撮り方を再考。当時は横からの映像が一般的だったがブロックの醍醐味を伝えるために背中越しの映像に。さらに]臨場感を伝えるために、松平にワイヤレスのピンマイクをつけてもらった。

(略)

[休日でも]研修館を訪れ、チームの面々と談笑。(略)

時には向き合うだけではなく、男子チームの中にドップリと入ることもあった。(略)

[フジのバレー担当者が独占取材を狙って空港で]男子チームの到着を待っていた。(略)

バスが到着し、乗降口に近づいたその記者は愕然とした。選手たちに続いて、最後にネットに入ったボールの籠をかついだ後藤がチームの一員のような顔をして降りてきたではないか。

世界への窓『ダイヤモンドサッカー』

[BBC制作の『マッチ・オブ・ザ・デイ』の]編集作業を進めていくうちに、寺尾はBBCの斬新な編集方法に目を見張った。

「シュートがゴールから外れて、ボールがゴールキーパーに戻ってくる。それからゴールキーパーをアップで撮ってゴールキックをするわけだけど、実はそのゴールキックは次のゴールキックなんですよ。BBCの制作スタッフはゴールキックゴールキックの間をそっくりそのままカットする手法を編み出したわけです。この方法だったら、まったくプレーを途中で切ったようには見えない」(略)

「BBCのカメラワークは痒いところに手が届く感じで、ちゃんとサッカーがわかる中継をしている。ロッカールームにまでカメラを持ち込んだ映像を見た時には素直にいいなと思いましたね」

(略)

 回を重ねていくなかで寺尾が懸念したのは“タイムラグ”だった。放送しているフイルムは1966~8年の試合だったので、『ダイヤモンドサッカー』の放送時には1年以上のタイムラグがあった。「もう〇〇は別のチームに移籍しているよ」親切に最新情報を教えてくれる人もいたが、寺尾は自分で調べたかった。(略)

[丸善で2日遅れの『ロンドンタイムズ』を購入]

サラリーマンの昼食代が月平均3600円という時代に年間購読料は7~8万円

(略)

日本との文化交流の架け橋となっているブリティッシュ・カウンシルに、イギリスで発行されている『デイリー・テレグラフ』や『マンチェスター・ガーディアン』など何種類もの新聞がマイクロフィルムで保存されていることを聞きつけるや、寺尾は毎日このカウンシルに通うようになった。

 努力の末に寺尾が書き上げた最新情報を収録前に解説の岡野や実況の金子に渡すと、ふたりとも喜んだ。それはそうだろう。寺尾が作ったメモは、少なくとも日本のどこの新聞や雑誌にも載っていない最新かつレアな情報ばかりだったのだから。

 昭和43年10月、番組名が『三菱ダイヤモンドサッカー』に改められると、放送時間は土曜昼間から日曜午前10時へと移行した。

「プレーヤーが見られる時間に変更してほしい」

 日本サッカー協会からのリクエストを12チャンネルが受け入れた格好だった。視聴率はコンマ以下である回が多かったが、選手から見れば必要不可欠の番組だったのだろう。

(略)

 寺尾の脳裏に焼きついているのは[自ら放映権獲得に動いた74年西ドイツでのワールドカップ。全試合のVTRだけで75万マルク(9000万円)、とても出せない。直前に救世主、三菱重工サッカー部監督二宮寛三菱グループをメインスポンサーにして75万マルクを調達。決勝当日、日本では参議院選挙]

 開票速報に背を向けたのは12チャンネルだけだった。

(略)

『ダイヤモンドサッカー』の放送は昭和63年まで続く。取り上げる試合はイングランドリーグだけではなく、ブンデスリーガセリエAと多岐にわたった。(略)

『ダイヤモンドサッカー』がスタートする前、日本に海外スポーツを楽しむコンテンツはなかった。

ローラーゲーム

[キョードー東京から話を持ちかけられ]

村木は白石のアメリカ行きを了承した。

「プロデューサーのお前が当たると思ったら、その場でVTRを買ってこい」

 昭和43年1月(略)会場のオリンピック・オーディトリアムはダウンタウンにあった。足を踏み入いると思わずを鼻を覆いたくなった。鼻孔をつく臭気が立ち込めているではないか。観客席を見すと、鋭い視線を投げかけてくる黒人やヒスパニック系が多かった。(略)

「間違っても、向こうのハイソサエティが観にくるような雰囲気ではなかった」

 日本ではどんなスポーツも収入などに関係なく、その人の嗜好で観る。対照的に欧米では階層によって観るスポーツが異なるケースがある。ローラーゲームのファン層はアメリカの低所得者層で占められていた。

(略)

[プロレスとGSのギターが重なって日本でも行けると白石は確信]

「(略)滑走する時に出るガーッという音が、グループサウンズエレキギターと結びついたんだ」

 ゲームは完全に出来勝負。(略)巨人のようなロサンゼルス・サンダーバードという絶対王者チームがあり、他はすべて敵役だった。

(略)

[実際は]アメリカの一部でしか普及していなかったが、日本にVTRを持ち帰ると「全米で大流行」と煽った。

[4月に番組をスタートすると、いきなり7.5%の高視聴率。9月には2チームを来日させ日本初興行](略)

生放送は15%の高視聴率をマークした。毎週土曜のレギュラー枠の視聴率も10%を超した。

(略)

[人気沸騰に]前後して、白石の耳にはNETがローラーゲームを放送するという噂も入ってきた。後ろで糸を引いていたのは、戦後の復興期にドン・コサック合唱団ボリショイ・バレエ団などの興行を打った神彰だった。[2チームの素性はリタイアメンバーとスクール生を集めたセミプロの寄せ集め、売られた喧嘩は買うと、神に内容証明書を送りつけると](略)

NET派ローラーゲームは名称の変更を余儀なくされた。

 窮余の策でローラープロレスにしようとしたら、今度はプロレスのほうからクレームがきたという話も白石の耳に入ってきた。結局、「アメリカン・ローラーゲーム」の名称になり大会は東京体育館で強行されたが、白石は全然ダメだったと語る。「そもそも、選手たちがパーッと走れないんだもの。(略)

果たして、NET派のローラーゲームはすぐフェードアウトした。

[だが本家の方も]日本人選手が出場していない試合は飽きられるのも早かった。(略)日本で開催された試合以外はすべて録画で、臨場感に欠けたことも視聴者離れに拍車をかけた。(略)[二時間特番は2.9%]レギュラー枠も5%台に低下した。

(略)

白石は日本人チーム結成のために集められたメンバーの中から角田誠と佐々木ヨーコを選抜してアメリカに派遣。ロサンゼルス・サンダーバードの中で彼らを育成する映像を撮ることで人気回復を試みた。

 これは、いわゆるリアリティ番組の走りといっていい。(略)

[しかしこれも当たらず、遂に打ち切り](略)

日本人チーム結成のために応募して合格した13名の選手候補生の存在も宙ぶらりんのままだった。

ローラーゲームの灯を絶やしたくない」

そのグループの中にもそういったムーブメントがおこり、彼らは所用で来日したグリフィスに直談判。自分たちの高度なスケーティングのテクニックを披露して、グリフィスを驚かせた。(略)

「日本人チームを作れたら、ローラーゲームは復活できる」

 それが白石とグリフィスの一致した意見だった。

(略)

昭和47年6月、紆余曲折を経て東京ボンバーズは結成された。意外なことに結成地は日本ではなくハワイだった。

 なぜ、海外だったのか。その経緯を白石が明かす。

「日本人チームをひとつ作ったとしても、それで試合ができるわけじゃない。だからといって試合のたびにアメリカからチームを日本に呼んでいたらお金がかかりすぎる。だからハワイで作ったんですよ。アメリカ本土からハワイまでだったら、飛行機も国内線で安いからね」

(略)

ローラーゲームは『日米対抗ローラーゲーム』という番組名で再スタートを切った。

[10月からのレギュラー放送は平均視聴率13%](略)

あとにも先にも海外で“東京”を冠するチームが活躍したのはこの時だけだろう。

(略)

昭和48年には東京体育館で5日間連続興行を打ち、大成功を収めている。(略)思えば、この頃がローラーゲームのピークだった。その後、人気に陰りが見え始め、視聴率も徐々に下がっていった。

次回に続く。