ジョン・ケージ伝 その2

 前回の続き。

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

 

アール・ブラウン

 ケージはトラックのひとつのグループについて作業し、ブラウンは、その向い側で、別のトラックを担当した。トラックを構成するために、それぞれがまず『易経』に伺いをたてて、一六のカテゴリーのひとつから音を選択する。それから、封筒からそれに対応するテープの切れ端を取り出し、それを『易経』が決定した長さ(持続)に、磁気を除去したカミソリの刃を使って正確にカットする。カットの形は重要で、音のアタックとディケイに大きく作用する。再度『易経』に伺いをたてて、カットの「傾斜」を決め、ほとんどのテープの裂片を短刀のような角度に切る。こうして形を揃えた裂片(略)スプライシング・テープでとめられ、くっつかないようにタルカムパウダーで擦られた。(略)

繋がった裂片は、堅い磁気テープにコピーされた。

(略)
あるときフェルドマンがケージとブラウンに、テープの四分の一インチに、それぞれ一六分の一秒の長さの音を、正確に一〇九七個入れられるかどうかとけしかけた。そもそも困難を好む気質のケージは、それを試み、やり遂げてみせた。

(略)

 録音した音で利用できるもののなかから、ケージは最終的に約三五〇個を使った。『易経』が多くの録音を繰り返すように決定したため、《ウィリアムズ・ミックス》の音の総数は二〇〇〇を少し越えるくらいになった。何の音なのかを聞き分けるのは難しく、一番長いものでも一秒をわずかに越える程度である。(略)

作曲家のラリー・オースティンはこの曲を精密に研究し、自動車のクラクションの音、カラスがカーカー鳴く声、ジャズ・ピアノのソロ、ハンフリー・ボガードの声を聞き分けた。

(略)

ケージ自身が要約して述べるところによれば、「いまや音の全領域で作業できるようになったのであり、楽器のピッチや音色、音量の制約を受けることはなくなった」。

沈黙

 ケージの《ウィリアムズ・ミックス》の制作を中断させた第二の要因は、さらにより演劇的で挑発的だった。彼は全面的な沈黙による音楽を作曲したのである。彼はこの考えを一〇年以上も温めていた。一九四〇年に、彼は雇用促進局の娯楽部門のリーダーとして働き、サンフランシスコ病院を訪れる子供たちを楽しませる役目を指示されていた。しかしながら、患者の邪魔にならないように、音をたてることは禁じられていた。これが「沈黙の曲の始まりだったかもしれない」とケージは考えている。彼はこのアイディアにさまざまな形で、繰り返し戻っていった。ハンス・リヒターの映画『金で買える夢』(一九四七)のために書いた五分間の音楽では、二小節の音楽の後に、二小節の沈黙を七回置いた。

(略)

[翌年の講演で]

「途切れることなく沈黙が続く曲を作曲して、ミューザック社に売ることです。三分か四分半の長さになるでしょう。それが『缶詰』音楽の標準的な長さですから」と述べている。

(略)

[ハーヴァード大学の無響室]で何か起きたかを、彼はしばしば語っている。彼は二つの音を聞いた。ひとつは高く、もうひとつは低い音だった。この部屋は音を吸収するのになぜ音が聞こえたのか、とサウンド・エンジニアに聞いた。(略)答えはこうだった。「高い音はあなたの神経系統が働いている音です。低い音は血液が循環している音です」。

(略)

 何年もの間、ケージは沈黙の曲を作曲することを控えてきた。真面目に受けとられないだろうと思ったからである。しかしながら、一九五二年、《待ちながら》の作曲がその始まりとなった。《待ちながら》は三分半のピアノ独奏の曲で、一分半の沈黙で始まり、二〇秒の沈黙で終わる。この年のもう少し後に、彼を突き進ませたのは、ブラック・マウンテンでロバート・ラウシェンバーグのオール・ホワイトの絵画を見た体験だった。それらの絵画は、「無で充満した造形」を表している、と彼は言う。ケージは、ふつうの白の家屋用ペンキをローラーで塗った、完全に空白のキャンバスを体験したときに、何を感じたかを思い起こしている。「ああ、そうです。私がこれをやらなくてはいけなかったのです。さもなければ、私が遅れてしまいました。さもなければ、音楽が遅れてしまいました」。ラウシェンバーグの塗られた空白は、彼に「どうなろうと、その道を行く勇気」を与えてくれたのである。
 この道がケージを《四分三三秒》(略)の作曲へと導いた。彼はここでも偶然性の手法を用いた。(略)

彼は一組の手作りのカードに持続を書き、カードをシャッフルし、並べた。まるで音符を扱っているように、ふつうの五線譜にランダムに持続を書き入れた。「曲をつくるような感じで行ないました。音がないということを除いて」と彼は言う。タロットで決定した短い沈黙を繋ぎ合わせることによって、彼は各楽章を構成した。「ばかげているように思われるかもしれないけれど、私がやったのはそういうことでした……少しずつ積み上げていったら、四分三三秒になったんです」

ピエール・ブーレーズ

現代フランス音楽のスターになりつつあったブーレーズは、ケージの作品をフランスで演奏するようにし、熱心に擁護した。ケージの二台のピアノのための作品を誰かがビバップだと批判したときには、「怒りで顔を真っ赤に」して「考えられるかぎり最悪の侮辱を返しました」と彼はケージに言った。ケージはブーレーズの作品をアメリカで演奏する機会をつくろうとしたし、また彼の作品を公演旅行に持っていった。「教えを広めるんです」と彼はブレーズに言った。ケージはパリヘの手紙に「おおいなる愛情を込めて」と署名し、「君にまた会う以上に望ましいことはありません」とつけ加えている。

(略)

[三年後、ようやくNYを訪れることになり]

ケージに再び会って「ずっとべちゃくちゃしゃべる」ことができると思うと、彼は嬉しくなり、こう言った。「クリストファー・コロンブス万歳!」。(略)
ニューヨークの音楽関係の報道機関は、二人の主要な作曲家を比較し、ブーレーズについてはあまり好意的でなかった。(略)『トリビューン』はケージの「本当の詩」とブーレーズの「混沌」を対照的に扱った。
 こうした批評が前兆となった。ブーレーズの滞在は、彼自身とケージ、そしてケージのニューヨーク・スクールの違いを、ますます明瞭にしていった。アール・ブラウンによると、「ブーレーズは会ったとたんにフェルドマンが嫌いになり、またフェルドマンもブーレーズを嫌いました」。実際、ブーレーズがフランスに帰った後、ケージには彼から六ケ月以上も音沙汰がなかった。そしてやっともらった手紙には、二人の間のやっかいな問題点があげられていた。「私は偶然性を完成された作品の構成要素として認めません――またこれからも認めないと思います」とブーレーズは書
いていた。音列技法を発展させることによって、ブーレーズは音楽の可能性を広げたいとも思っていた。「しかし偶然性に関しては、そうした考え自体が耐えられません!」とブーレーズは書いた。
 この手紙の後は、ブーレーズとケージが手紙をやり取りすることはほとんどなくなった。(略)

ブーレーズはフランスの百科事典のために、ケージについて生彩を欠く項目を書き、彼を「音の領域の研究に長けている」と特徴づけた。ケージはダートマス大学の聴衆に、ブーレーズは「物事を音列的に見たために目が見えなくなっている」と述べた。
 破局がやってきたのは、ブーレーズの小論「骰子」が『ヌーヴェル・ルヴュ・フランセーズ』に掲載されたときだった。ブーレーズは偶然性の使用を「知的な悪魔」として非難し、その実践者を「卑しいペテン師」と呼び、彼らの偶然性の手法への傾倒を「強迫観念」「麻酔中毒」と述べた。明らかにケージと『易経』を念頭に置いて、ブーレーズはまた「数的選択のフェティシズム」をけなした。そして、かわりに「演奏に偶然性をとり入れる必要性」を設けることによって、音楽作品に偶然性の基本的な形態を認めることを提案した。たとえば、二台のピアノの作品で、ひとつのピアノのパートに固定したテンポを指示し、アッチェレランドのような可変的なテンポを指示したもうひとつのピアノに重ねると、両者の組み合わせが確実に「アレアトリーな出来事」を生む、というのである。作曲家は厳密によく考えたうえで作曲するが、「制約内での置換」は許容する。
 ケージはこの小論を個人にたいする侮辱だと思い、激怒した。「ブーレーズはいま偶然性を広めようとしていますが、それは彼独自の偶然性でなくてはならないのです」とケージは不満を述べた。(略)

「彼は清々しい人ですが、あまり賢くはありません。彼の新鮮さは、知識の欠如からくるものです」とブーレーズは述べた。

 「キノコ」部門でクイズ番組出演

[ミラノ滞在一ヶ月、批評家から酷評されたが、米クイズ番組「二倍かゼロか」のイタリア版]「いちかばちか」に「キノコ」部門で出ることに。

[4回賭けに勝ち、2000ドル獲得。そこからさらに満額8000ドルに挑戦]

ケージさん、アトキンソンの本にあがっている二四種類の白胞子のキノコの名前をあげてください。(略)

 これは実は難しい挑戦だった。

 ところが驚くべきことに、ケージはこれらの種類の名前を言っただけでなく、それらをアルファベット順に挙げていった。

(略)

ブラーヴォ、ケージさん」。ボンジョルノはケージに、ミラノに住むのか、それともアメリカに帰るのかと聞いた。ケージは、家には帰るけれど、私の音楽はここに残ります、と答えた。

(略)

[イタリアの評判が伝わり本国でも「ヘンリー・モーガン・ショー」と「私の秘密」に出演]

視聴者には文字で知らされる「彼の秘密」とは、自作の音楽作品をいまから演奏する、ということだった。(略)

スタジオの聴衆は、ケージが使おうとしている楽器のリストをスクリーンで見るなり、どっと笑い、拍手した。それらは水差し、鉄パイプ、ガチョウの笛(略)炭酸水の入ったサイフォン瓶、五台のポータブル・ラジオ、浴槽、そしてグランド・ピアノだった。

(略)

楽器の間を歩き回り、圧力なべからシューっと蒸気を出し、サイフォンやミキサーなどを次々と演奏していき、ミラノと同じと思われることをやった。

(略)

[キノコの識別講座を始め、長年活動停止していたニューヨーク菌類協会を復活させ、講演会を開き]

乾燥した標本を大学のコレクションに送り、他のキノコ収集家と手紙のやりとりをし(略)協会の新聞を発行し、収集したものを調理し、料理を食べた。(略)キノコの見本をニューヨークのフォー・シーズンズ・レストランに売った。 

Early Electronic & Tape Music

Early Electronic & Tape Music

 

 

電子音楽に再注目

 一般の聴衆や多くの一般的な報道機関が、相変わらずケージをプリペアード・ピアノの考案者としていることに、彼は頭を悩ませていた。「それは一〇年前の私がやっていたことです。聴衆はいつも一〇年遅れているんです」と彼は一九六一年にインタヴューアーに答えている。実際、プリペアード・ピアノの作品は、彼には「明らかにありきたり」に思え始めていた。

(略)

一九六〇年のはじめ、彼は新たな創意とより進歩したテクノロジーを用いて、ふたたび電子音楽に注目し始めた。

(略)

 ケージは、ミューザックのスピーカーとテープを、ロビーの監視に使われているTVカメラに繋ぐよう提案した。カメラの前を通り過ぎる人たちや、エレベーターに出入りする人たちが、光電子のセルを作動させ、〈スターダスト〉や〈恋の気分で〉のようなミューザック好みの曲のテープが流れる。しかし、ロビーに送られる際に、音楽は電子的にフィルターにかけられ、音は破壊される。「ただ人が部屋を通り過ぎるだけで、中央では粉々になったミューザック以上のものが鳴る」、とケージは想定した。

(略)

セルは決して同じように作動しないため、曲はつねに異なる形で混ぜ合わされることになる。リッポルドはケージのプランを勧めたが、パンナム・ビルのオーナーがこの案を退けた。

(略)

ウェズリアンで電子音楽スタジオを計画していたケージは、「叩かなくても震動している」小さな木片の音すらも拾い上げる、高度に敏感なマイクロフォンの開発を考えていた。《カートリッジ・ミュージック》は、そうした物の内部に宿る音の解放に近いところまで行った作品である。(略)

奏者は、通常は針が入っているカートリッジの差し込み口に、鳥の羽根、タバコのパイプ・クリーナー、誕生日用のキャンドル、小さなアメリカの旗などを挿入する。五枚の重ねられた透明版による仕掛けが、いつ挿入した物体を変えるか、あるいは変えるかどうかを決定する。その物体が何であれ、突き刺し、すばやく触れ、床の上で引きずったときに、あるいは他の手段で接触したときに、音が嗚る仕掛けだ。その物体をつけたカートリッジは、スピーカーからブープ、バリバリという音、爆発音、巨大なゴロゴロいう騒音を送り出す。

(略)

《カートリッジ・ミュージック》の演奏では、椅子やテーブル、くずかごやそうした類いの音が、カートリッジと同様に、増幅器を通じてスピーカーに繋がっているコンタクトマイクをつけることによって、解き放たれる。聴衆はパイプ・クリーナーに内在する音が電子的に放出されるのを聴くだけでなく、パフォーマーがクリーナーにすばやく触れたり、スリンキーを床の上で引きずったり、マイクをつけて互いにすれ違ったり、テーブルや椅子やその他の舞台用の家具を移動するのを見物する。

(略)

[オーケストラ作品を委嘱され、天体図の上に]

星の位置や大きさ、それらが示す音符の音量を決める星の相対的な明るさ――を書き入れた。銀河を表す青い部分は、電子音のフィードバックになった。ソロは室内楽やオーケストラなど、どのような大きさのアンサンブルのなかでも演奏することができ、その長さは指揮者によって指示される。できるだけ多くの楽器にコンタクトマイクがテープでとめられることになっており、マイクから繋がった増幅器とスピーカーは、指揮者のアシスタントによって操作される。この作品が聴衆に行なったのは、「増幅や電子機器を通じて聴きたくないと思ったものを、すべて聴いてもらうことです。つまりフィードバックや音のひずみ、ガタガタいうスピーカー、ロウ・フィデリティなどです」とケージは言う。「曲自体を変質させてしまうような二〇世紀の恐怖を扱っているので」、聴き手は最終的にはこの曲を聴いてむしろ心地よく感じるだろう、と彼は思った。

(略)

《アトラス・エクリプティカリス》が大きな電子化されたアンサンブルと数台のピアノで、よく理解されて演奏されたとき、聴き手は、音がつくる巨大な、感性に訴える、穏やかな強さをもった星空の情景を耳にする。音はそれぞれ「空の星が空間にとり囲まれているように、沈黙にとり囲まれています」とケージは述べた。

(略)

一九六二年、ケージは五〇歳の誕生日を祝った。(略)

「残念なことに、ふたたび五〇歳を迎えることはないのだ」。痛風に罹っていたし、目も悪くなっていたので、電話帳を読むことができなかった。しかし眼鏡をかけることは頑固に拒否した。関節炎でよく眠れないことがあり、そのためにほとんどピアノが弾けなくなっていた。

62年、訪日

東京での最初の日には(略)九二歳にしてまだ執筆を続けている鈴木大拙を訪ねた。そして主催者たちが彼をつねに気遣ってくれ(略)

山――「キノコ刈りのために借りてくれたんだ!」――での散策まで、驚くようなもてなしを受けた。また京都では、龍安寺の有名な庭の近くにある禅寺に滞在した。

(略)

[NYでの]ケージの支援をありがたく思っていた一柳慧は、ケージの到着に先だって、日本でケージについて言い広め、不確定性について紹介し、ケージ、フェルドマン、ウォルフの作品のコンサートを企画した。

(略)

ケージのクラスを聴講したことはあったものの、登録をしていなかったオノ・ヨーコは、はじめてケージに会った後に、夫にこう言った――「あなたが求めていたのはこれでしょう?」。

(略)

 夫妻は一ヶ月におよぶケージの滞在中、ケージのために懸命に働いた。

次回に続く。

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

ジョン・ケージ伝―新たな挑戦の軌跡

 

 シェーンベルク

  多くの亡命者がそうだったように、[60歳の]シェーンベルクもカリフォルニアに居を構えた。(略)生活のために教壇に立った。

(略)

 ケージもまた、はじめてシェーンベルクのところを訪れたときには、彼がいま生きているもっとも偉大な作曲家だと思っていた。

(略)

「さあ、音楽以外のことを考えてはいけない。一日六時間から八時間勉強しなさい」。(略)

 ケージはさらに勉強量を増やして、ホルンの勉強を始めた。(略)

「とても不思議な楽器だ……僕が出せるとしたら、どういう音が出せるのかはまだ分からない。でも音が出たときには、いつもびっくりしてしまうんだ」。

(略)

音楽をできるだけたくさん聴くことが「とても必要だ」と考え

(略)

ケージは音楽に対する自分の反応が変わってきていることを感じていた。ふつうはチャイコフスキーのようなロマン派の音楽は退けていたが、いまは音楽として書かれているものには何であれ、愛と尊敬の念を抱くようになった。「もっとも価値のあるものと同じように、もっとも価値のないものにも美がある」。(略)

[42歳の子持ち女性ポーリーンに最初の恋愛感情を持った23歳のケージ]

その訪問は彼に肉体的な興奮を与えた。「僕はほんとうに輝いています」(略)「僕は敏感さの頂点にいます……熱くとろとろと燃え、いい気分になっています」(略)

[一方で一歳年下のクセニアとも交際、のちに結婚]

 クセニアとポーリーンを口説いている間にも、ケージはシェーンベルクとの勉強を続けていた。(略)

[だが勉強はうまく行かず、授業のために作曲した作品にも失望]

この曲がシェーンベルクも失望させるだろうと思った。「僕は音楽にへたに『手を加えている』と感じ始めています」とワイスに書いている。

 (略)

 長年の間に、ケージはシェーンベルクの授業の受講をやめたことについて、いくつかのいくぶん異なる説明をしている。一〇年くらい後に、やめたのは、作曲家になるために学生は和声感を養わなくてはならないとシェーンベルクが主張したからだとしている。ケージはそうした要求には今日的な意味がないと思った。「僕がやっていることとは何の関係もありません」。そのうえ、「僕には和声感がないんです。和声はできます。規則に従い、課題をやることもできますが、自由にやることができないんです」と彼はつけ加えた。少し後の説明では、彼に反感を抱き始めたのは、ある日シェーンベルクがクラスで次のように言うのを聞いたときだっただろうと述べている――「私の目的、私の授業の目的は、みなさんが作曲できないようにすることです」。シェーンベルクは賢明にも、励ましを必要とする学生にやる気をなくさせるやり方をとっていた。「なぜなら、創造『しなくてはならない』人だけが作曲すべきだからです。そういう人はたとえ千回意欲をくじかれたとしても、作曲をやめはしません」とシェーンベルクは言った。この手法はケージにはうまくいった。ケージはシェーンベルクの言葉に激しい反抗心をもって反応した。「シェーンベルクには熱狂的に傾倒していたけれど――まさにその瞬間に、私は自分の全存在を作曲に捧げようと誓ったのを覚えています」。
 実際に、ケージの音楽生活は方向を変え始めていた。この変化は、ひとつには見識あるドイツ系ユダヤ人亡命者のガルカ・シャイヤーを中心に展開した。[彼女はカンディンスキーら「青騎士」の展覧会&普及に努め、ケージにクレーの絵を貸し、さらに](略)

オスカー・フィッシンガーという友人に紹介した

 オスカー・フィッシンガー

 当時三〇代半ばで、ドイツでエンジニアとしての訓練を受けたフィッシンガーは(略)ドイツにいたころ、紙のうえに図柄を描き、それをフィルムのサウンドトラックに焼きつけて、「合成音」をつくりだした。

(略)

ケージは『オプティカル・ポエム』を実験的なアニメーションの素晴らしい作品だと思った。四角や三角、円が動いて、一種の視覚的な音楽をつくる。(略)

フィッシンガーは超自然的な現象に関心をもっており、世界のありとあらゆるもののなかには精霊が宿っているとケージに語った。「そして、その精霊を解き放つためには、ただその物体をさっとなでて、その音をとり出しさえすればいいと言ったんです」。この言葉はケージのなかに芽生えていた考えをぞくぞくと刺激した。それは「僕に火をつけました」。

打楽器だけのコンサート

[1938年12月]

彼はそれが「アメリカではじめての完全な打楽器だけのコンサート」だと考えるようになった。

(略)

[40年初旬のプログラムでの声明文]

「打楽器音楽はまだ開拓されていない音の全領域に向けて放たれた矢のようなものです。これは、将来、一九世紀音楽という限られた音楽から『電子音楽』という無限の自由への橋渡しとして考えられるようになるでしょう」

(略)

自ら実験音楽センターを設立(略)

作曲家と科学者は協力して、電子楽器や映画の実験を行って、音を生み出す新しい手法を開発する。「打楽器はそれ自体が目的ではなく、電子音楽のための耳の準備なのだ」ということを確信するようになった、と彼は言う。センターの人々は、「何であれ望ましい周波数を、望ましい持続と振幅と音色で」生み出そうとし、いわば聞こえる音は何でも、あるいは聞こえない音も、作曲家たちに提供した。彼は矩形波発生器の音を熱心に聴いた。

(略)

ヘンリー・カウエル(略)は、彼にリズミコンを一台貸してくれた。カウエルとテルミンが共同で制作したこの電子機材は、複雑なポリリズムを出すことができた。

(略)

[コミュニティセンターなどで黒人少年達と音楽制作]

「黒人たちには驚かされます。僕はただ彼らに楽器を与えることしかしていないんですが、そうすると彼らは素晴らしいリズムや複雑で驚異的な……クロス・リズム、ビートを外れたアクセント、小節線をまたいだ装飾音などを演奏するんです」。

同性愛と別居

コーニッシュの教員の仕事として、ケージはマース・カニングハムが学生として踊るダンスのピアノ伴奏者を務めることもあった。しかし、彼らがお互いのパフォーマンスで、学生ないし教師としての役割をしたのは、一年にも満たなかった。(略)

 ケージがシカゴに、そしてそれからニューヨークに移ると、彼とカニングハムの関係は、友人関係になった。

(略)

 彼らの関係は、創作をするパートナーの関係になった。カニングハムは、ケージの音楽のために「ダンスをつくり」(略)演じ始めた。

(略)

あるとき――ケージは三一歳頃、カニングハムは二四歳頃になっていた――、彼らの関係は愛人のそれになった。ケージは多くのゲイの男性たち――ゴールドとフィズデイルのような仲間たち、ヴァージル・トムソンやルー・ハリソンのような親友たち――と知り合いで、一緒に仕事もしていた。ハリソンは「手当たりしだいに相手をあさること」によって、セックスの上でニューヨークで生き残った、と言い、ある日付のないノートには、彼とケージが互いにシックス・ナインのスタイルで、フェラチオをしたと記されている。しかし、それを除けば、ほとんど一〇年前にドン・サンプルとの情事が終わって以来、男性の愛人はいなかったようだ。
 クセニアはセックスに関して寛容で、ケージとサンプルの情事についても知っていた。しかし、夫がカニングハムと一年に渡って関係を続けていると知って、彼女は動揺する。「私は……必死になって受けとめ、理解しようとしました」。しばらくはなんとかやっていたが、「それから取り乱してしまって、かっとなって、二人ともひどいことを言い合いました」と彼女は言う。

(略)

 ケージはクセニアとの結婚を立て直そうと努めた。彼女がハドソン通りを去って三週間後に、ケージはカニングハムとひどい喧嘩をして別れたと、彼女に告げた。(略)

しかし彼女は憐れみよりも嘲りの気持ちをむしろ感じた。「彼は……ひどくショックを受けていたけれど、私はもう献身的な妻にはならないと決めて、ほんとうに去ったの」。

(略)

 ケージの情事について分かっていることのほとんどは、クセニアの手紙から読みとったものである。しかし、この時期の彼のプリペアード・ピアノ作品のいくつかは、そのタイトルと性格に悲しみと不安を映し出している。たとえば次のような作品である。《ルーツ・オヴ・アンフォーカス》は執拗に反復を繰り返し、打撃音が噴き出すように鳴る。《オフィーリア》は神経の消耗を激しく喚起する。《危険な夜》は落ち着きのない、気違いじみた瞬間があり、ピアニストの両手は鍵盤上でかなり大きく分断される。「愛が不幸な結果を迎えたときに、孤独と恐怖がひとつになる」ことに関わる作品とケージは説明している。おそらくは和解の申し入れとして、ケージは《季節はずれのヴァレンタイン》と意味ありげに題された短い憂鬱な曲をクセニアに捧げた。しかし、ケージが毎日電話をしたにもかかわらず、クセニアは関係を復活させようとする彼の辛抱強い努力をはねつけた。

(略)

一九四四年四月五日、ケージが二人の喧嘩をクセニアに伝えてから一ヶ月後に、彼らは全面的に二人だけのコンサートをはじめて行った。(略)

[批評家たちに絶賛され]

 パートナーとなった二人は、すぐに次々と成功を獲得していった。

サティ

 彼はヴァージル・トムソンを通じてサティの音楽を知るようになり、敬意を抱いていた。

(略)

 ケージは「エリック・サティの音楽のアマチュア・フェスティヴァル」をプロデュースする前に、サティの楽譜で入手できるものを集めた。ケージはそれぞれのコンサートの前に一〇分間くらいの話をし、それらのすべて、あるいはそのいくつかをまとめて、後に「サティを擁護する」として出版した

(略)

ケージはとくにサティの五曲からなる《しかめっ面》の第四曲を高く評価した。「なぜなら一九三八年以来、私がすべての作品で用いているのと同じリズム構造で書かれているからです」と彼は述べた。
 ケージの話のひとつが、騒動を起こした。そのなかで彼は、短さと衒いのなさを求めるサティを賞賛し、ほとんどの作曲家は長さと感動を与えることを求めていると述べたのである。(略)

[その例として挙げたベートーヴェンの]

影響たるや、嘆かわしいほど長く続いており、音楽という芸術を弱体化させてきた」と彼は主張する。そして、ベートーヴェンの手法から後に派生した音楽上の思考は、「実際にこの芸術を、類廃という島で難破させることに貢献」した、とケージは続けた。
 ベートーヴェンの優位性を強く非難することが、彼曰く「異端」と見なされるということを、彼はよく分かっていた。

(略)

リヒャルト・シュトラウスに学んだ、ピアニストの[常任教員]アーウィン・ボドキー(略)は一種の反論として、べートーヴェンの弦楽四重奏曲のコンサートを行ない、それに先立ってベートーヴェンを擁護する話をした。そしてある夜のパーティーで、サティのパロディをピアノで演奏した。
 ケージの講演は、この学校を二つの音楽陣営に分断した。ある指導者によると、何人かの学生がベートーヴェンのレコードと楽譜を燃やした。

鈴木大拙

ケージは、グリニッチ・ヴィレッジからアップタウンヘと六マイルほど上がって、コロンビア大学へと通い、禅のクラスに出席し始めた。「禅には私に合った特色があります。ユーモア、妥協のなさ、そしてある種の地に足がついた性格があるんです」

(略)

 鈴木の講義は、コロンビア大学のキャンパスの中心にある哲学会館の最上階で行なわれた。仏教思想の展開を扱った彼のコースは、多くのニューヨークの芸術家、音楽家精神分析家、正式に登録していないその他の聴講生を惹きつけた。

(略)

彼は先生の振る舞いも覚えていた。鈴木が風呂敷に包んだ本を持って、静かに教室に入ってきて、一人一人を見ながら、全員と顔を合わせて挨拶する様子を覚えていた。二時間のクラスの間ずっと、彼はゆっくりと静かに話した。講義が始まっても、一〇分間くらい何も言わないことがときどきあった。しかし、その沈黙で学生たちが苛立つことはなかった。ケージはそのかわりに、「クエイカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」を体験した。
 ケージは鈴木の講義を面白いほど刺激的だと思った。ここ数年の仕事の疲れや感情的な浮き沈みで、くたくたになっており、「機能停止寸前の状態」だと彼自身分かっていた。精神分析を退けて、彼は新しい個人的な方向性を禅に見出したが、「悟りを開いたとか、そういった」ふりをすることはなかった、と彼は言う。彼が学んだことは、また彼の音楽上の考えの現在の方向性を確認し、発展させた。さまざまな仏教の宗派のなかで、禅はその実践性と単純性、直接経験、既知の事実の重視という点で際立っていた。ケージが実践を始めてみると、禅は超然、脱理性、無心を強調していた。
 鈴木がとくに「無心」に重きを置いて話をしたのを聞いて、ケージは一九世紀アメリカの超絶主義者たちの考えを、知らない間に受け入れるようになっていた。たとえば、ソローは見ることではなく、見えることについて語った。またエマソンは、偉大な小論「自然」において、非個人的な知覚の状態について述べている。「私は透明な眼球になる。私は無であり、私にはすべてが見える」。鈴木は「エマソンについて」という小論を出版し、また禅のいくつかの面をエマソン流の言い回しに翻訳した。たとえば、「禅は自由の宗教である」という言説において、「自由」はふつう“freedom”として翻訳される。しかし鈴木はそれをエマソンの言葉で解釈する――「禅は自己信頼の宗教である」。いくぶん愛国主義的な意味合いを含んだエマソンの言い回しは、ただ禅だけでなく、ケージが実践していたラディカルな個人主義を明確にしてくれた。
 ケージは主要な仏教書籍の翻訳を自分の本棚に集めたり、読んだりすることによって、禅への理解を広めていった。鈴木はとくに『易経』を高く評価しているわけではなく、「ひじょうに重要な本だが、全面的に受け入れるべきものではない」と考えているようにケージには思われた。その一方でケージは、鈴木が高く評価する(略)莊子に大いに感銘を受け、その書を何度も読み返した。

次回に続く。

 

ケージ:鍵盤楽器のための音楽 1935-1948

ケージ:鍵盤楽器のための音楽 1935-1948

 

 

『リア王』の時代・その3

前回の続き。

『リア王』の時代:一六〇六年のシェイクスピア

『リア王』の時代:一六〇六年のシェイクスピア

 

アントニークレオパトラ

 かりにシェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』の続編を書こうと考えていたとしても、その頃起こっていた事件のためにアントニー没後の政治性とクレオパトラとの関係を掘り下げるのはあまりに危険になっていた(略)

[『アントニークレオパトラ』を]執筆してまもなく、グレヴィルは原稿を焼き捨て、写しも残さなかったため、どれぐらい広く人に読まれたのか、シェイクスピアがその劇のことを聞き及んでいたのかもわからない。

(略)

 グレヴィルが原稿を焼き捨てたのには理由があった。『アントニークレオパトラ』を書いてわりとすぐに、エセックス伯がアイルランドの叛乱の鎮圧に失敗して許可なく帰国したうえ、帰ってきた伯爵がいきなりエリザベス女王の部屋に飛び込むという事件が起こったのだった。女王の寵臣であった(そして愛人でもあったと噂された)エセックス伯が女王の御前に出たのはその日が最後となった。自宅監禁に処せられ、役職をとりあげられたエセックス伯は、一六〇一年二月に僅かの仲間とともにエリザベス女王に対して謀叛を起こして捕らえられ、その月の下旬に処刑された。

(略)

現状では、ローマの没落兵士とエジプト女王の情事についての劇は(略)[エセックス伯と]女王との関係を書いているのは明らかと看做されてしまうとグレヴィルは気づいたのだ。(略)

老いていくクレオパトラとそのカリスマ的な恋人の軍人の物語を語るのはあまりにも危険すぎた。

(略)

 グレヴィルはエセックス伯と親密な関係にあったにも拘わらず、依然としてエリザベス女王から死ぬまで信用され、報酬を受けていた。だが、ジェイムズ王の時代になると、宮廷での影響力は衰え、王から遠ざけられて苛立っていた。エリザベス女王が亡くなって七年後、欲求不満のグレヴィルがついに『アントニークレオパトラ』を葬り去った経緯を語ったとき、その劇の政治的意味合いは変わってしまっていた。時が経ち、善良なる女王ベスを懐かしく思う気持ちが高まり、グレヴイルが破棄した劇は、今振り返ってみれば、このスコットランドの王が露骨にえこひいきをしすぎていることを暴くのに役立つのである(ジェイムズ王と違って、エリザベス女王は「どんなに立派な人がいても、寵臣扱いをして酒の取引を独占させたり国事を任せたりしなかった」とグレヴィルは書いている)。この過去を再び訪れることで、かつてはスキャンダラスだった『アントニークレオパトラ』の物語を何か高貴で英雄的なものにできるのではないかとグレヴィルは願った。

デンマーク王訪英

[1606年王妃の弟デンマーク王クリスチャン四世が八艘のオランダ艦隊と訪英]

一行はセオバルズに四日滞在したが、クリスチャン王はどういうわけか、かんかんになってグリニッジのアン王妃のもとへ(最初は驚くべきことにジェイムズ王を置いて)帰ってしまった。

(略)
二人のあいだの軋轢の原因は、男らしい活動の発想が違っていたとか、たった一日の狩猟で十二頭の馬が殺されたことにクリスチャン王が苛立ったとかいうことではなく、ジェイムズ王がアン王妃に対して無神経すぎることをデンマーク王が怒ったことにあった。

(略)

 スポーツマンである義弟と比べられるのはしかたなかったが、ジェイムズ王はその度に嫌な思いをすることになった。ジェイムズ王は、『アントニークレオパトラ』のアントニーに警告する予言者の「あの人と一緒に何かの試合をしたら、必ず負けます」という台詞に眉をしかめたかもしれない。クリスチャン王には勝てなかったからだ。とりわけ輪型の的を馬上から槍で突く競技でクリスチャンと争ったときの負けは忘れがたいものだった

(略)

 かつての君主と現在の君主を比べることは、ハリントンもグレヴィルもわかっていたように、命懸けの仕事だった。そして、アントニークレオパトラについて書くことは、最初グレヴィルが理解して今シェイクスピアが理解したように、どうしても政治的、時事的にならざるを得ず、扇動的なところもあった。それゆえ、シェイクスピアの新作が、シェイクスピアの英国歴史劇ほどはっきりしたことを書けないのはしかたのないことだった。とはいえ、この新作は、エリザベス朝時代とは変わってしまったジェイムズ王朝時代の暮らしについて、曖昧ながらも強力で洞察力に富むことを示している。

(略)

 『アントニークレオパトラ』は、古代の歴史を語り直す際に、かつてローマに住んでいた偉人たち――ジュリアス・シーザーポンペイ、ブルータス、キャシアスといったすでに亡き者たちと、やがて同様に過去の人物にならんとするアントニーとそのエジプト女王――に対して、この劇の明らかな勝者であるオクテイヴィアス・シーザーとを対置させている。後者はかなり小物となり、自分で戦うよりは他の者を戦闘に送り込み、巧みな計略によって世界制覇を狙い、征服した敵を引き連れて凱旋する夢を見、自分より先に死んだ偉人の埋葬を利用して自分の株を上げようとする。
 シェイクスピアにとって、ハリントンにとってと同様に、武勇に優れたクリスチャン王の艦隊のこの夏の来訪は、当時の多くの人たちが感じていたことを象徴する事件だったのではないだろうか。つまり、エリザベス朝時代は過去のものとなり、アルマダ艦隊を打ち破り、アイルランドを征服した世界は消え去り、そこに大勢いた今では死んだか処刑されたか投獄されてしまった実物大以上の傑物――エセックス伯はもちろん、サー・ウォルター・ローリー、女王の強力な顧問バーリー卿(ソールズベリー伯の父)、亡くなったばかりのマウントジョイ卿、そしてもちろんエリサベス女王自身――もまた、つまらない人間(特にジェイムズ王)に取って代わられてしまったのだ。(略)

アントニークレオパトラ』は、ノスタルジアの悲劇であり、エリザベス朝時代を懐かしむ政治的作品なのだ

エリザベス再埋葬

 エリザベス女王は、その長い治世が終わりに近づいたとき、高価な墓で自らを記念碑化する必要を感じなかった。一六〇三年に亡くなったとき、ウェストミンスター寺院の祖父ヘンリー七世の墓に埋葬され、テューダー朝の最初と最後の王が肩を並べることになった。しかし、ジェイムズ王はエリザベス女王を別のところに埋葬する計画を立てていた。

(略)

一六〇六年の再埋葬は、複雑な歴史修正主義のためになされた。

(略)

 王位に就いて三年経ってなお、イングランド歴代の君主のなかでスチュアート朝がどう位置づけられるのかいまだに不安を感じていたジェイムズ王は、ヘンリー七世からの血を継いでいるからこそイングランド王座に就く権利があるのだから、エリザベスもヘンリー七世の正当な後継者とわかる場所に埋葬すべきなのだ。一六二五年にジェイムズが死んだときも、もちろんヘンリー七世の礼拝堂に埋葬された。それ以降は、ヘンリー七世からの系譜は分かれている。

(略)

ジェイムズは二十四年前にピーターバラで埋葬された母親を掘り返し、一六一二年にウェストミンスター寺院に、エリザベス女王の墓の約三倍もの費用をかけた贅沢な墓を建てて埋葬し直したのである。母親をその天敵であったエリザベスの反対側に置くことで、ジェイムズは自ら勝者と敗者を一つにする偉大な和平調停者の立場に立ってみせた。カトリックプロテスタントテューダー朝の女王たちの宗教的不和を象徴的に和解させたというわけである。

(略)

ジェイムズ王はエリザベス女王をどけようとして、新たな注意を女王に向けてしまった。王の思惑は、寺院のなかにあるさまざまな墓に意味のある関係を持たせることだった。ところが、エリザベス女王の像のイメージはやがてその文脈から飛び出して、ジェイムズ王の目的とは裏腹に、独り歩きをしてしまったのだ。数十年後、トマス・フラーはジェイムズ王がエリザベス女王のために建てた墓の彫刻が国中の教区の教会を飾ったことを記している。「いきいきとしたその絵は、ロンドンじゅう、そしてほとんどの地方の教会に描かれ、どの教区も女王の墓の面影を誇りにした。それも当然であり、臣民一人一人が心の中で、女王の死を悼む記念碑を建てていたのである」。

(略)

エジプト女王クレオパトラの人物像や、この劇に漲るノスタルジアは、亡くなったエリザベス女王に対してイングランドじゅうの人たちが感じ始めていた心境の変化の影響を受けていたことほまちがいない。
 シェイクスピアは、エリザベス女王の治世の最後の十年間に宮廷に呼ばれることも多くなり、虚栄心に富み、強気で、才気煥発で、粗野で、ふざけ好きで、勇敢で尊大といったさまざまな気分の女王を目にしていたことだろう。だが、クレオパトラの場合と同様に、最も大切なのは、どのように記憶されるかだった。ゴッドフリー・グッドマン主教は、十七世紀の最初の数年を思い返して、エリザベス女王崩御の頃に人々は「老婆の治世にたいていかなりうんざり」[していたが、ジェイムズ王治世下](略)

我々がスコットランド式の政治を経験し、スコットランド人を軽蔑し、憎み、嫌ったところ、女王が思い返されるようになった。その記憶はかなり拡大され、華やかなものになり、女王を想っての説教がなされ、人々は喜んだのだ」。 

少年劇団の衰退 

 十一月まで執拗に続いた疫病は、老人よりは若者に残酷な被害をもたらし、地方営業で赤字を埋め合わせていた成人劇団よりも少年劇団に打撃を与えた。つい数年前、成人劇団の優位が少年劇団に深刻に脅かされたとき、『ハムレット』のなかでシェイクスピアは、「子供」が「今や売れっ子」となって、諷刺劇で「大人の芝居を扱き下ろす」と書いていた。一六〇六年の長期の疫病は、少年劇団のなかでも最も有名だったセント・ポール少年劇団をだめにしてしまったようで、この劇団はその年の劇場閉鎖が解かれても復活しなかった。

(略)

[さらに]「神を称えて賛美歌を歌う者がそのような淫らで罰当たりな仕事に従事させられるのは不適当で見苦しい」がゆえに、少年聖歌隊から少年俳優を募ることが禁じられたのである。(略)

この禁令により、劇団が長いあいだ頼っていた才能の補給線が完璧に断たれてしまった。

(略)

少年劇団のために劇を書くのを好んできた大胆な若手劇作家たちは、今や流れが変わったと気づいたことだろう。そして一六〇六年こそ、自分たちの才能を発表するのに最もふさわしい代表的成人劇団として、若い劇作家たちが国王一座を選んだ年なのだ。

(略)

それまで少年劇団専属だったその他の新参の劇作家たち(略)は、やがてシェイクスピアの劇団に乗り換えていった。

(略)

 こうしたことのシェイクスピアヘの影響は計り知れなかった。伝記作家たちは、シェイクスピアの作風の変化を作者の心理状態のせいにしてきた(つまり、喜劇やソネットを書く時はシェイクスピアは恋に落ちたり失恋したりして、落ち込めば悲劇を書き、『ハムレット』を書いたときなどは嘆き悲しんでいたということになる)。確かに作家の思いは執筆に大きく影を落とすだろうけれども、四半世紀にわたる執筆活動のあいだにシェイクスピアが感じていたことについて我々は実は何一つ知らず、ただ作品から逆に憶測しているだけなのだ。むしろわかっているのは、一六〇六年にネズミがもたらした災害でシェイクスピアの作家生活が大きく変わり、その劇団も変貌・刷新し、競争が減って、シェイクスピアが相手にする観客の質が変わり――それゆえシェイクスピアの作風が変わり――有能な音楽家や劇作家との共同作業ができるようになったということなのだ。それもこれも、シェイクスピアも命の危険を感じた疫病のせいである。 

統合問題

[王は国会で]スコットランドイングランドの一体を法律でもって確認しようとしていた。(略)

統合問題はもはや先送りできなかった。これまでその代わりに何を議論していたかと言えば、反カトリック対策であり、ジェイムズ王のための助成金をしぶしぶ認可する法案であり、(略)腐敗した調達法によって収入を得る権利を王室から奪う法案を論じていたのだった。

 ジェイムズ王は国会で自ら統合を訴えるという異例の手段に出た。(略)王は九十分間、「とても長い」「雄弁」などと評価された演説を行った。これまであまりにも多く国会での妨害や遅延があったため、王はこれが恐らく最後のチャンスであり、ある程度妥協してでも、長いあいだ求めてきたものを手に入れなければならないと考えていた。

(略)

王は国会議員たちに警告した。「失敗すれば、提案をした王が愚かだったか、それに賛同しなかった国民が強情だったということになろう」。

(略)

ジェイムズ王が国会に要求しているのは無理なことではなかった。この時点で王は少なくとも途中まで譲歩しており、一六〇四年にスコットランドイングランドの理事会で調整された統合協定書に記された四つの点のみの議決を求めていたのだ。すなわち、両国間の敵意ある法律の撤廃、国境地帯の別々の法的立場の解消、経済的統合の交渉、そして帰化問題の解決である(最後の問題は、民族と法律の両方が絡むので最も難しかった)。
 こうした穏健な目標を掲げたにも拘わらず、王は屈辱的にもはねつけられることになる。歴史学者コンラッドラッセルがこの国会を説明して辛辣に記したように、「下院はそうするつもりがなくとも決議を遅らせるのが得意だが、そうするつもりになったら、完璧だった」のである。

(略)

もはや統合だけの問題ではなかったのだ。法律や民族的アイデンティティーの明確な違い、国王の権利などの問題が立ち現れると、社会的政治的な構造にほころびが見え始めた。そうした空気のなかで、ジェイムズ王を「グレイト・ブリテンの皇帝」と呼ぶ法案をを弁護する演説は、「国会で失笑を買い」、さらに不愉快な三十分の重たい沈黙が続いたのだった。 

クォート版とフォーリオ版

 宮廷で『リア王』が上演された頃は、シェイクスピアが『リア王』を書き始めた頃とは様子が違ってきていた。かつては、何らかの統合ができそうに思えていて、「王国分割」というテーマは深刻ではなくともタイムリーではあった。ところが今では、統一されたブリテン国がばらばらになる劇を見てぞっと身震いする人がホワイトホールにいそうだった。火薬陰謀事件はかつてこの王国にあった二分された忠誠に対する古い恐怖に再び火をつけ、ますます紛糾を極めてきた統合問題のせいで、政治権力の線引きについて新たな注意が払われるようになっていた。
 このような状況下で、シェイクスピアが『リア王』を書いたときにはそれほど問題とは思えなかったことが今では大問題となっていた。コーディーリアの侵略軍に加わる者は、ブリテンの統治に逆らう外国勢力を支持する謀叛人なのか。グロスターを「いやらしい裏切り者」と呼ぶリーガンは正しいのか。シェイクスピアはこの劇のオープニングの場面を書いたとき、イングランドのこれほど多くの人たちが別種の忠誠テストを受けさせられ、期待どおりの言動を拒否したら罰せられるようになるとは思ってもみなかったはずだ。シェイクスピア自身の娘スザンナが、コーディーリアのように、権力の意思に屈しようとはしなかったのは皮肉としか言いようがない。

 『リア王』の一六〇八年出版のクォート版以外に、当時のテクストがもう一つ残っている。一六二三年に出版されたフォーリオ版である。学者たちは、これら二種類のテクストのあいだに一千もの違いを見つけた。ほとんどは些細なものであるが、十数箇所は重要な異同だ。

(略)

リアの死に方が違っていたり、最後の台詞を話す人物が違っていたりして、二つの版の終わり方が激しく異なるために大きな問題となる。

(略)

 一六〇六年十二月に上演されたときの台本としてあるのが、シェイクスピアの草稿から起こされた問題含みのクォート版であるわけだが、そこには考え得るかぎりつらくて黙示録的なエンディングが書かれているのだ。

 リアが絞殺されたコーディーリアを腕に抱き抱えて登場する。コーディーリアはエドマンドの命令で殺されてしまった。リアはそれから、コーディーリアが死んでしまって永遠に失われたということを苦悩しつつ認識しながら死んでいく。

(略)

『レア王』という昔の物語では王は王座に復帰し、末娘とも和解するので、それを知っていた人はこの宮廷上演の結末に驚き、国家崩壊のイメージとその恐怖および王家の全滅は一年前の火薬陰謀の激しい幻想に似ていると思ったことだろう。

(略)
 スコットランド人が支配をするというこの展開にジェイムズ王は喜んだかもしれない(略)が、妻を失い、子供のいないオールバニ公爵には、王国刷新の希望は少ない。クォート版には、生き残った者が行進して退場するというほとんどお決まりの最後のト書きさえない。その代わりに、劇は死んだ王が殺された娘を抱き抱えて動かない静止した像で終わる。これは、数分前オールバニ公爵が「味方には各々の美徳の報いを味わわせ、敵には敵にふさわしい苦杯をなめさせる」と宣言したときに表明された敬虔さを嘲るものだ。これは暗い時代にふさわしいのかもしれないが、一六〇六年の聖ステファンの祝日に宮廷で演じられた『リア王』がここまで暗澹として希望がないというのは、この劇の長い上演史におけるどん底を示していたと言えよう。
 この劇の終わりはあまりにも暗く、あまりにも耐えがたい。フォーリオ版をまとめたのが誰であれ、その人はたじろいで、この劇の終わりを深淵から引き戻した。二つの大きな変更がなされている。一つは、劇の最後の台詞をエドガーに言わせたこと。ずっと身分の高いオールバニがまだ生きているのだから、思いもかけぬ変更である。その効果は、より若い世代に権限が与えられ、将来に希望が見えてくるということだ。フォーリオ版でなされたその他の変更もその流れを強化するものであり(略)

付け加えられた締め括りのト書もこの新しい流れを支持している。フォーリオ版では、生き残った者たちは厳かに退場するのだ。(略)

 改訂版テクストは、壊れたリアが愛する娘の死という究極の極限に対峙するのを見守る苦悩からも尻ごみしている。フォーリオ版では例の「おお」という呻きはなくなり、胸が裂けてしまえというリアの最後の叫びもなくなり、その台詞はケントの台詞になっている。その代わりにリアは、最後の瞬間にコーディーリアの唇が動き、まだ息をしているのだと信じて死んでいくことになる。

(略)

一八世紀にサミュエル・ジョンソンが「コーディーリアの死に私は非常にショックを受けたので、自分で編者としてこの劇を改訂しなければ、とても劇の最終場を読み直せなかったと思う」と語ったが、そうしたショックを受けたのはジョンソンだけではなかった。

 フォーリオ版の改訂は、観客が耐えがたいと思った部分をどんどんやわらげていく改訂の大きな流れの第一歩だった。(略)半世紀ほどたった一六八一年には、クォート版とフォーリオ版のエンディングは劇場でほぼ完璧に否定されてしまった。その年、ネイハム・テイトがシェイクスピアの『リア王』の復刻版として『リア王の物語』を出版したが、これは『レア王』にあったハッピー・エンディングを復活したのだが、それだけではなかった。なんとリアは生きていて、コーディーリアとエドガーが結ばれ、二人はリアの王国を継ぐのだ。「真実と正義は、最後には勝つのです」と、エドガーが皆に請け合って大団円となる。この改訂に微笑むのは今だからこそできることであって、そのあと一世紀半ものあいだ、役者も観客もこの方がクォート版やフォーリオ版のエンディングよりも納得がいくと考えたのである。すなわち、テイトが書き直した『リア王』は、一八六一年から一八三八年まで舞台を席巻したのだった。