グローバリゼーション・パラドクス・その2 金本位制

前回の続き。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

十九世紀関税史の決定的な瞬間

 よく十九世紀は自由貿易の時代だったと考えられているが、この時代に一貫して貿易開放政策を取り続けた大国はイギリスだけである。

(略)

 十九世紀関税史の決定的な瞬間は、一八四六年、イギリスがナポレオン戦争期に課した穀物輸入の関税を廃止した年にやってきた。いわゆる「穀物法」をめぐる都市と農村の対立は、十九世紀初期のイギリスの政治闘争の中心にあった。

(略)

[穀物法における対立は]実際には、来たるべき時代のイギリスとその繁栄を誰が支配するかをめぐる戦いであった。著名な雑誌『エコノミスト』はこの時代の産物である。穀物法反対を広めるために創刊され、自由貿易の見方を大衆に広めたが、その役割は今日でも引き継がれている。結局、日の出の勢いだった産業資本家が勝った。彼らは知識人と、産業革命の力を味方につけたのだ。
 ひとたび穀物法が廃止されると、イギリスは当時の支配的な経済大国だったので、他のヨーロッパ諸国も従うべきとする圧力が高まった。

(略)

 十九世紀前半のアメリカとイギリスは、政治制度が違っていたが、ある一点で共通していた。関税論争が、国内政治の中心に位置していたのである。(略)

奴隷を所有する南部の経済は、たばこや綿花の輸出を中心に成り立っていた。(略)南部の繁栄は国際貿易に依存していた。[初期工業に依存する]北部は、イギリスに追いつくまでは、輸入からの保護を求めていた。

(略)

アメリカの経験が興味深いのは、自由貿易は決して「進歩的」な政治上の動機によって進められるものではない、という事例だからである。優れた政治学者ロバート・コヘインが記しているように、「市場の論理の追求は、長い目で見れば悲劇的な結果をもたらした。産業も多様化せず、工業化も進まなかった南部の経済に与えたインパクトは致命的だった。(略)奴隷制はすっかり定着し、南北戦争はますます避けがたいものになった」。(略)十九世紀アメリカの自由貿易は社会的・政治的制度としての奴隷制をますます強化し、強固なものにした。(略)

自由貿易と「良き政治」はいつも手を携えているわけではないのだ。

[南北戦争で北部が勝利に向かうにつれ貿易保護が強まった]

(略)

 十九世紀末ヨーロッパの保護主義の結果は、自由主義者にとって逆説に満ちている。経済史家のポール・ベロックが記しているように、一八九〇年以降きわめて急速に貿易量が増えているだけでなく、所得も増えており、特に貿易障壁を引き上げた国で顕著なのである。南北戦争後のアメリカと同様、この経験は、自由貿易と経済成長の単純な関係にいっそうの疑問を投げかける。

(略)

 イギリス以外のヨーロッパでは、イギリスの輸出攻勢に高関税による報復を望む「フェアトレーダー〔公正貿易を望む人々〕」からの圧力が強まったが(略)[イギリスだけは]自由貿易イデオロギーが公の議論を圧倒的に支配(略)

イギリスの工業の強い地位が、関税をどちらかといえば意味のない、余計な政策にしたのである。

(略)

 先進国の自由貿易は、共有されたイデオロギーと国内の政治的利害の、困難で脆いバランスの上に成り立っていた。その他の国の自由貿易は、たいていは外部からの強制であった。

(略)

十九世紀のグローバリゼーションで貿易が急拡大したのは間違いないが、巷間言われるほど自由貿易に根ざしていたわけでもない。帝国主義(略)は貿易を促進したが、それは宗主国による剥き出しの力の誇示に根ざしたもので、言葉の真の意味で「自由貿易」を代弁していたとは言いがたい。しかもイギリス以外の主要国では、自由主義は国内の貿易政策に限られた勝利しか記録しなかった。一部の国(例えばアメリカ)は、本当の意味で自由貿易政策を取り入れなかった。他の国(ヨーロッパの大陸国家のような)では、二、三十年のうちに先祖返りして保護の水準を引き上げた。(略)

輸送革命や所得の上昇のおかげで、グローバル化は大幅に進展した(略)しかし、このグローバル化は、危なっかしく脆い制度の柱、とても再現できないような前提条件の集合に寄り掛かっていたのだ。

金本位制、いかに自由貿易が社会的緊張を作り出すか

 十九世紀のグローバル化を左右したのは、貿易体制というより、金融や通貨の体制だったという方が真実に近い。すなわち金本位制である。

(略)

 金本位制のルール下では、国内の信用状態を変える貨幣政策を、政府は好き勝手に変更できない。

(略)

 現実には、中央銀行はいくつかの抜け道を持っており、事情に応じて金本位制の「ゲームのルール」から離脱した。特に貿易赤字国は、外国からそれを補う民間の資本流入がある時には、金利の上昇を遅らせるか、避けることができた。しかし、こうした資本流入による「安定化」を利用できるかどうかは、金平価への中央銀行のコミットメントに決定的に依存していた。市場は、政府がどんな状況に直面しても、最終的には金平価を防衛するはずだと確信していた。それが、当時の中央銀行のあるべき行動だという信念体系があったからである。金本位制の維持は、金融政策の絶対的な優先事項であった。

(略)

 金本位制は、一八七〇年代にたびたび挑戦を受けた。(略)[金の不足で]信用の引き締めやデフレーションがヨーロッパでもアメリカでも起きた。最も打撃を受けたのは、農民であった。というのも、金利上昇に商品価格の下落が追い打ちをかけたからだ。金銀複本位制への回帰を求める声が多くなった。金銀複本位制だと、政府が銀を貨幣にしてマネーサプライを増やすことができる。アメリカでは暴動が絶頂に達した。(略)

中央銀行の態度は頑なで、金本位制を守った。最終的に金本位制を救ったのは、南アフリカでの金鉱山の発見である。一八八六年以後、マネーサプライは増え、デフレは終わりを迎えた。

(略)

歴史上、いったん破産した国がやがて国際金融市場に再参入する事例はいくつもある。ここからいくつかの推論が導かれる。第一に、借り手が国際的な返済義務をデフォルトするのは、払う能力がないからだけでなく、単に払う意思がないからかもしれない――こちらの方がずっと敷居が低い。第二に、このことを踏まえて、合理的で将来を見越した銀行や債権保有者は、国際的な貸付に消極的になるか、高いプレミアを課すことになるだろう。その結果、短期的視野に基づいた貸し出しと、その後の国家破産を繰り返す、ブームとその崩壊のサイクルがやってくる。国際金融市場は、支払いを強制する信頼できるメカニズムなしには育たないのだ。

(略)

 金本位制と金融グローバル化は、自由貿易の場合と同様、国内政治と信念体系、そして第三者の強制の独特の組み合わせによって可能になった。大衆政治が自己主張を始めたことで、これらの力が弱まった時、国際金融も弱まった。一九三〇年代に金本位制が最終的に崩壊したことで、この組み合わせの脆さがはっきり示された。

(略)

一度でも変えれば、また変えるだろうとマーケットは判断する。これは経済学の問題である以上に、倫理の問題だ。彼ら純粋主義者にとって、旧平価での復帰は「資産を持ち、信用を持ち、イギリスとその通貨を信頼している世界中の人々に対する、イギリス国民の道義的責任」であった。(略)

銀行家が、きつい薬の処方箋を書くのは、歴史上最初でも最後でもない。(略)彼らもまた「健全な経済学」だと考えられているものの側に立とうとしたのである。(略)

[賃金と物価は高どまり、輸出産業は大打撃、失業率は二〇%、スト拡大]最終的に一九三一年九月、イギリスはふたたび金本位制を離脱した。旗振り役だったイギリスが離脱したことで、金本位制の時代に終わりが近づいた。フランクリン・ローズベルトは一九三三年にアメリカを金本位制から離脱させた。

(略)

彼らの本能とは裏腹に、中央銀行とその政治的支配者は、一九三〇年代になると、景気後退と高い失業率がもたらす政治的な帰結に無関心ではいられないと理解した。(略)

大量失業の政治的帰結に耐えることと、金本位制をあきらめることの間の選択で、民主的に選ばれた政府は後者を選ぶだろう。民主主義は、金本位制の絶対視と両立しないのだ。
 次に経済学の第ニラウンドで、これがとどめの一撃を刺した。ひとたび金融市場が、金兌換への政府の信頼性に疑問を持ち始めると、それが不安定化の力となった。政府はいまや、投機筋の格好の攻撃対象となった。市場に少しでも歪みが生じそうなら、投資家は国内通貨を売って外国通貨を買い、資本を国外に逃がしてしまう。もし平価が維持されるなら、彼らはただ取引を逆にするだけで、何も失わない。しかしもし通貨が切り下げられれば、彼らは資本を呼び戻して、自国通貨を安い価格で大量に買い戻して大金を稼ぐことができる。

(略)

 戦間期のイギリスの運命が示しているのは、金本位制のような厳格な通貨・金融ルールは現代の経済や政治と上手く折り合わない、ということだ。(略)

この教訓は、一九九〇年代にもう一度思い起こされることになる。
(略)

 世界経済は古典的な「自由主義」秩序から飛び出してしまった。しかし、それに代わる、居心地のいい別の選択肢はまだ現れていない。

(略)

「古典的秩序の支持者は、国際的な経済連携を優先するには、社会改革や国家建設、国民の要求は後回しにすべきだと議論していた」。ひとたび議論に負けると、水門が開いた。共産主義はグローバル経済を押さえ込む社会改革を選び、世界市場から自らを閉ざした。ファシスト諸国は国民連帯の道を選び、ヨーロッパや新興国で経済ナショナリズムの波をつくった。

(略)

[国際経済の要求と国内的な社会集団の要求をうまく妥協させるには]

いかに自由貿易が社会的緊張を作り出すのかを、よりよく理解しなければならない。

経済学者の自由貿易に関する表と裏

[経済学者にレポーターを装って、自由貿易はいいことかと尋ねるなら]

「そうそう、自由貿易は素晴らしい考えだよ」と経済学者は即座に言うだろう。ひょっとしたら、次のようなことも付け加えるかもしれない。「自由貿易に反対する人々は、比較優位の原理を理解していないのか、(労働組合のような)特定の圧力団体の身勝手な利害を述べているのかのどちらかだよ」。(略)

[次に学生を装い]国際貿易理論に関する先進的なセミナーに参加してもらい、その指導教授に同じ質問をしてもらおう。「自由貿易はいいことですか?」(略)

[今度は簡潔な返答はない、教授は]

「“いいこと”とはどういう意味ですか?」と尋ね返すかもしれない。(略)

「このセミナーの課程の後半でわかってくるでしょうが、講義で扱う理論モデルのほとんどで、自由貿易は特定の集団に利益を与える一方で他者に損失を与えるのです」。このことによって聞き手が失望しているように見えたら、彼女はさらに話を広げるだろう。「しかし、ある条件の下では、受益者に課税して損失を受ける者に対して補償することができると仮定することによって、自由貿易は、すべての人の福祉を改善する可能性を持つのです」。
 いまや、経済学者はその問題に対して興奮し始めている。彼女はこう続けるだろう。「私が「ある条件の下で」と言ったことに注意してください。その条件を並べ挙げることはいい試験問題になるでしょうから、私がその条件を要約する時には、注意を払ってくださいね」。(略)

彼女が並べ挙げる前提条件のリストは、次のようになるだろう。
 輸入自由化は、完全な形ですべての製品と貿易相手について行わなければならない。そうでなければ、輸入障壁の削減は、特定の商品の間の代替性や補完性に関するとても複雑な潜在的構造を考慮しなければならない(そういうわけで、一国あるいは少数の貿易相手との特恵貿易協定は、この前提条件を実際には満たしそうにない)。問題となる貿易障壁以外に、ミクロ経済学で言う市場の不完全性があってはならない。もしあったとしても、市場が機能しないことから生じる相互作用が、あまりにも経済にとって不利なものであってはならない。自国経済は、世界市場において「小国」でなければならない。そうでなければ、自由化は「最適関税」から離れる方向に進められてはならない。経済はほぼ完全雇用状態でなければならない。そうでなければ、財政金融当局は、総需要を自由に管理するために有効な手段を持たなければならない。自由化に伴う所得再分配効果が、社会全体にとって望ましくないと判断されるべきではない。もしそうであるならば、十分低い超過負担で補償できる租税移転の仕組みがなければならない。貿易自由化が、財政収支に対して悪影響を及ぼしてはならない。もし及ぶのであれば、財政収入の損失を埋め合わせるための適切な代替的手段がなければならない。自由化は政治的に持続可能なものでなければならず、それゆえに、経済主体が自由化からの逆行を恐れたり予想したりしないように、十分信頼できるものでなければならない。
 もはや、教授は実に自己満足している様子を見せている。

(略)

[学生が]「それでは仮にこれらの条件が満たされれば、貿易自由化は、経済のパフォーマンスを向上させ、経済成長率を引き上げるのでしょうか?」「いや、違う!」と教授は答えるだろう。「誰が成長について話をしましたか?これらの条件は、実質的な総所得の水準が増加するための前提条件に過ぎないのです。成長について何か確かなことを言うのは、より一層困難なことなのです」。自己満足げな笑みを浮かべて、彼女は次のような説明をするだろう。
 技術進歩が外生化されており、かつ再生産可能な生産要素に関して収穫逓減が仮定されている標準的モデル(例えば、新古典派成長モデル)では、貿易障壁は、長期(定常状態)における産出量の成長率に全く影響を与えないとされている。このことは、市場の不完全性の存在に関係なく真実です。しかし、定常状態への移行過程においては、成長に影響を与えるかもしれない(このような移行過程における影響は、貿易によって長期的な産出水準がどのような影響を受けるのかによって、正にも負にもなり得る)。再生産可能な生産要素について収穫逓減を仮定していない、もしくは学習効果やその他の内生的な技術進歩を考慮している内生的成長モデルにおいては、貿易障壁の削減は世界全体の産出量の成長率を引き上げると推定されている。しかし、初期の要素賦存状況や技術の発展水準によっては、成長率が低下するような国が現れるかもしれない。このような結果が生じるかどうかは、比較優位の力によって成長を生み出す部門や経済活動に資源が向かうか、あるいは遠ざかるかによる。

(略)
 教室で教えていることと一般の人々に喧伝していることとの違いに直面する時、経済学者は、身振り手振りしながら様々な議論に逃げ込もうとする。その時に聞けそうなことは、ほぼ丸々このようになるだろう。
1 実際問題として、自由貿易は、技術進歩と同様に、長期的にほとんどの人々を豊かにするだろう

2 たとえ貿易が混乱を生み出すとしても、それに対する最も優れた対処法は、貿易の制限ではなく他の政策によるものだ
3 たとえ損失を被る人がいたとしても、その人々の損失を補償した上で、すべての人々に利益を与えることは可能であるはずだ
4 自由貿易に対する支持は、経済学の範囲を超えている。これは、誰と取引するのかを選択する人民の自由に関わる道徳的なものだ
5 貿易に反対する見解は十分広く行き渡っている。われわれの仕事は別の側面を示すことだ
6 貿易に関する注意事項を述べると、それを自身の目的のために利用しようとする保護主義者たちに悪用されてしまうだろう

ブレトンウッズ体制

 歴史的経験は、国内のニーズとグローバル経済の要請が衝突する場合、最終的には前者が勝利を収めることを示している。ケインズとハリー・ホワイトは、このことを無視して全体を台無しにするリスクを負うよりも、このことを受け入れて安全弁を組み入れた方が望ましいということを理解していたのである。

(略)

 戦後の国際経済体制に対するアメリカの貢献で最も注目に値することは、多国間主義――無差別の基本原理に基づく国際組織によるルールの設定――だった。これは、その場限りの関係性よりも法律尊重主義を好むアメリカの嗜好、ニューディール改革によって現れた規制国家の思想、および米国と国際組織の利害を結びつけることによって国内の孤立主義者と対峙したいというフランクリン・デラノ・ローズベルト大統領の願望を一部反映したものだった。

(略)

 GATTは大成功を収めた!

(略)

次のことに留意しなければならない。GATTのやり方は、グローバリゼーションの実現を一気に狙ったものではなかったのである。(略)

完全な自由貿易の実現ではなかったのだ。

(略)

[農業、サービス分野(保険、銀行、建設、電力等)は自由化交渉除外。一旦自由化された製造業も、競争圧力に直面し、即座に保護政策を受け入れた]

 工業国にとってさえ、GATTルールには巨象が通り抜けることができるほどの大きな抜け穴があった。優れた法律事務所にとって、GATTのアンチダンピングやセーフガード条項による保護貿易措置を獲得することは、割に合う業務だった。

(略)

これらの特徴から見ると、GATTは明らかに不完全な国際機関であった

(略)

 GATTの目的は、決して最大限の自由貿易を実現することではなく、各国が自由に政策を行うことと両立する形での貿易量の最大化を達成することだった。その意味で、GATT体制は見事な成功を収めたのだ。

(略)

国内の政策課題がしっかりと優先されていたために、GATT体制は、成功すると同時に、自由貿易の論理からどんどん逸脱することになったのだだった。

次回に続く。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

三つの選択肢から、民主主義と国家主権をハイパーグローバリゼーションよりも優先する道を採るべきと著者。

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

 

 序章

[97年著者が『グローバリゼーションは行き過ぎか?』を出してすぐ、アジア金融危機が発生]

「グローバリゼーション推進派のシンクタンクから、グローバリゼーションを警戒せよと唱えるハーバード大教授の本が出版された」。そして、本当に注目を集めることになったのだ!

 だが、なんと言うことだろう。私は事態を完全には理解していなかったのである。私の本は金融市場の危機には関心を払っていなかった。(略)

私が焦点を当てたのは、あくまで自由貿易労働市場に与える負の影響や、社会政策にもたらす困難であった。私が憂慮したのは、アウトソーシングが不平等を悪化させ、労働市場のリスクを倍加させ、社会契約〔政府と市民社会の関係〕を損なうという事態である。

(略)

これらの軋轢は、より広範囲の社会的プログラムや、よりよい国際ルールによって管理される必要がある。私がこの本を書こうと決めたのは、同僚の経済学者たちがそのような関心をあざ笑ったからであり、公の場で生産的に議論を戦わせる機会がなかったからである。当時、私は自分の見解が正しいと信じていたし、今ではほとんどの専門家が、私が述べた見解に近づいていると信じている。しかし金融グローバリゼーションの負の側面は? 当時の私のレーダー・スクリーンには映っていなかった。
 アジア金融危機の後、数年にわたって私は金融グローバリゼーションを研究した。(略)

金融グローバリゼーションは、起業家の資金調達を助け投資家のリスクを上手く分散するはずだった。最も便益を得るのは発展途上国である。(略)

しかし事態はその通りに進んでいない。いいパフォーマンスを挙げている国――中国が典型だ――は、外部から資金流入を受けていないどころか、豊かな国にお金を貨してさえいる。国際金融市場への依存度が高い国は、結果が思わしくない。

(略)

アジア金融危機は結局のところ、「金融資本が国の内外を自由に移動する場合、政府が通貨価値を維持しようとするのは危険である」という見解に従うものである。

(略)

誰もが彼らの失敗を責め、システムの厳格さに順応できなかったと非難する。ところが中心国が[サブプライム危機に]呑み込まれた時には、システムを非難し、修正すべきだという。二〇〇八年の巨大金融危機が、ウォール街をなぎ倒し、アメリカを他の主要国に対して謙虚にしたことで、改革に向けた新しい熱意の時代が始まろうとしている。(略)グローバル資本主義は維持できないのではないか、という真剣な疑問が生まれているのだ。

(略)

一国の国内市場が、規制や政治制度によって支えられているのに対し、グローバルな市場経済を支えている制度的基盤は極めて弱いものだ。[公正取引委員会セーフティネットもない]

(略)

 政府の力が一国内に限定されているのに対し、市場経済は世界規模で広がっていることが、グローバリゼーションの欠点につながっている。(略)

政府に力を与えすぎると、保護主義や自給自足経済に陥ってしまうし、市場に自由を与えすぎると(略)不安定なものとなってしまう。

(略)

この本を通じて、私は二つの単純なアイデアに基づいてこれまでとは別の物語を提示しようと思っている。最初のアイデアは、市場と政府は代替的なものではなく補完的なものだということだ。よりよく機能する市場が欲しいのであれば、よりよい政府が必要となる。市場経済は国家の力が弱いところではなく、国家の力が強いところで最もよく機能するのだ。二つ目のアイデアは、資本主義は唯一無二のモデルに従って形作られるものではないということだ。経済の繁栄と安定は、労働市場、金融、企業統治社会福祉など様々な領域における様々な制度の組み合わせを通じて実現することが可能なものだ。国家は、これらの制度の組み合わせの中から自身の必要性や価値観に基づいて様々な選択をする――いや実際に国家にはその権利がある。

(略)
この本の読者は、世界経済の原理的な政治的トリレンマ――民主主義と国家主権、グローバリゼーションを同時に追求することは不可能だ――と私が名づけた概念をまず理解することになる。もしグローバリゼーションをさらに推し進めたいのであれば、国民国家か民主政治のどちらかをあきらめなければならない。もし、民主主義を維持しさらに進化させたいのであれば、国民国家か国際的な経済統合のどちらかを選ばなければならない。そして、もし国民国家と国家主権を維持したいのであれば、民主主義とグローバリゼーションのどちらをさらに深化させるか選択しなければならない。

(略)

 民主主義とグローバリゼーションの両方を進めていくことは可能だとしても、そのときには、われわれがかつて見たことがないか、あるいは近いうちに経験しそうもないとてつもなく野心的な世界規模の政治共同体の創造を必要とすることになるだろうということを、私の唱えるトリレンマは示している。そのためには、世界規模の民主主義によるルールづくりが必要となるだろう。

(略)

私の選択を言わせてもらうと、民主主義と国家主権をハイパーグローバリゼーションよりも優先すべきだと思う。民主主義は各国の社会のあり方を守るための権利を持っており、グローバリゼーションの実現のためにこの権利を放棄しなければならないのであれば、後者をあきらめるべきなのだ。

(略)

各国政府がそれぞれの政策を実行する余地のある国際ルールの薄い層がよりよいグローバリゼーションなのだ。(略)

われわれは最大限のグローバリゼーションではなく、賢いグローバリゼーションを必要としているのである。

巻末の訳者[柴山桂太]あとがき、を先に。

 本書の核となるアイデアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。昨今の新自由主義的な風潮の中で、市場と政府は対立関係にあると考えられることも多いが、本書はそれが明確に間違いであると指摘している。

(略)

本書の「トリレンマ」に従うなら、今後の世界には三つの道がある。(1)グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、(2)グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、(3)あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。
 新自由主義に共鳴し国内改革とグローバル化の推進を唱える経済学者は(1)を、欧州統合の実験に代表される二十一世紀のグローバル・ガバナンスに期待を寄せる政治学者は(2)を選ぶのは想像に難くない。(略)

著者が期待を寄せるのは、(3)の道だ。自由貿易のもたらす便益を認めつつも、グローバリゼーションを「薄く」とどめることで、世界経済に安定を取り戻そうというのである。
 国境線の持つ意味がますます小さくなり、政治も経済も文化も国家という単位を脱ぎ捨ててグローバルに融合していくはずだと考える人にとって、国民経済を強化するという選択は歴史の逆行のように思えるだろう。だが、本書が示すように、歴史はそう単線的に進んでいない。過去三百年の歴史を振り返って分かるのは、国民国家の成熟や民主主義の進展もまた歴史の止められない歩みであり、それらを犠牲にしてグローバル化を進めるのは理想的でも現実的でもない、ということだ。
 もちろん、(3)の選択が実現されるには、いくつもの困難がある。たとえば著者は、民主主義の進展に新興国の持続的発展の鍵を見ているが、国家が直面する難題に民主主義がつねに正しい答えを導くわけではないのは、先進国の経験を見ても明らかだ。国家主権と民主主義に基づくナショナル・ガバナンスの強化は、国家間の対立を深めて今よりも世界経済を不安定にしてしまうかもしれない。(略)

 だが、難しいのは(1)や(2)も同じことだ。本書で示されたアルゼンチンの事例や、欧州統合の事例は、新自由主義的な発展戦略や、グローバル・ガバナンスの実現がいかに障害に満ちているかを明らかにしている。民主主義がどんなに危なっかしいものであったとしても、民衆や利益団体の強い反対を抑えてまでグローバル化を進めれば、政治体制が不安定化するのは当然である。(略)

世界経済が不安定化すると国家意識はますます先鋭化して出てくるというのが歴史の教訓でもある。

 ルールのあるところ、誰かがそれを強いている

 王の勅許で、ハドソン湾会社は事実上の政府になった。広大な領域を管轄し、原住民を有無を言わせぬやり方で支配した。この会社は、戦争を行い、法を可決し、司法権を行使した。言うまでもなく、ルパート・ランドの毛皮取引の唯一の裁定者であり、原住民との交易で価格や条件を設定した。十九世紀には独自の紙幣さえ発行し、支配地の法貨となった。この会社による領土支配は一八七〇年までおよそ二百年続き

(略)

 カナダの毛皮取引は比較的小規模だった。ハドソン湾会社は、拡張的な重商主義システム、すなわち十七世紀と十八世紀の長距離交易システムの、ほんの脚注に過ぎない。

(略)

 長距離交易を行う会社は、たいていがハドソン湾会社と同じやり方で独占権の勅許を受けていた。(略)

 最も有名なのが、イギリス東インド会社

(略)

独自の軍隊、戦争の遂行、条約の締結、貨幣の鋳造、そして司法権も持っていた。インドでの支配権を拡大する中で、ムガール帝国と何度も武力衝突し、地方領主との連携をすすめた。東インド会社は、輸送、灌漑、公教育への投資など、幅広い分野で公共的機能を担った。ついには、税金も集めることになった。

(略)

貿易と支配の深い絡み合いは、現代人の目には時代錯誤に見えるだろう

(略)

 今日、われわれはアダム・スミスの強い影響下にある。『国富論』は重商主義的な思考と実践に対する正面攻撃であった。(略)

経済が花開くのは、市場が政府の管理から自由になった時だと、彼らは信じている。競争は、独占よりもずっと経済的利益を最大化する。(略)

政府=企業の関係は、腐敗の別名だ。(略)[スミス]のビジョンでは、政府の役割は国防や所有権の保護、そして司法に限定されるべきであった。

(略)

ハドソン湾の物語が明らかにするのは、権力と経済的交換の赤裸々な結びつきだ。私はあなたと貿易したい、だから私の支配を受け入れた方がいい、という訳だ!(略)

[現在は]政府の支配や権力がもっと市場から切り離されていると考えるかもしれない(略)しかし、これは全くの間違いだ。権力は違う仕方で働いている――あまり明瞭ではない仕方で。グローバリゼーションのあるところ、ルールがある。ルールのあるところ、誰かがそれを強いている――これこそが唯一の、真の問題である。
 悪意のある権力が市場やグローバリゼーションの背後に隠れているということではない。良かれ悪しかれ、ルールはある。われわれは、市場は自らの作動に任されている時にうまくいく、というアイデアを捨て去らなければならない。

市場を支える制度 

 には、三つの種類がある。互酬や信頼をベースとした長期的関係、信念体系、そして第三者の強制力である。
 第一のものは、時間をかけて繰り返される相互行為から協力関係を創り出す。例えば、サプライヤーが顧客をだましたりしないのは、将来の仕事を失うのを恐れるからである。(略)

関係を築くことで、信頼は増進し、もっと大きな事業を考えることができるようになる。こうした相乗効果は、いかなる法体系にも違反を防止する組織にも依存していない。法体系などが未整備な途上国では、この第一の制度が優位を占めている。
 第二に、交易は信念体系、あるいはイデオロギーによって支えることができる。果物商が腐った果物を旅行者に売らないのは、「それが間違っている」からだ。どの国も勝手に関税を引き上げたり、資本移動を制限しないのは、「それが物事のあるべきやり方ではない」からだ。(略)

広く行き渡った規範に逆らうと、自分たちのコミュニティ――部族、カースト、宗教団体、民族集団、あるいはこのケースでは「国際社会」――から排斥されるかもしれないのだ。(略)

 繰り返される相互行為やコミュニティの規範は、市場がローカルで小規模の時に最もうまくいく。(略)

しかし経済が成長し、地理的な移動性が高まるにつれ、明白で広範囲に適用できるルールヘの要求や信頼できる強制力が重要になってくる。資本主義の下では、市場をガバナンスする公式の制度を幅広く揃えた国のみが、豊かになる。

(略)

これらは「第三者の強制」の制度である。ゲームのルールを強制するのは公式の、典型的には統治機構である。あなたが税を支払うのは、よき道路や学校を欲するからである。(略)

ごくわずかな例外を除いて、経済が発展した国ほど、公的部門が消費するリソースの割合が大きい。政府が大きくて強いのは貧しい国ではなく、先進国の方なのだ。

(略)

市場は、頑丈な政府の制度によって支えられている特、最もよく発展し、最も効率的に富を生むのだ。市場と政府は補完的であり、過度に単純化された経済学の説明にあるような、従属的な関係にはない。

(略)
ある日、私は研究室の椅子に座って、保守系の政治家が「小さな政府」を叫んでいるにもかかわらず、なぜ公的部門の縮小は難しいのか考えていた。そんな時、イェール大学の政治学デイヴィッド・キャメロンの論文が目にとまった。(略)
国際市場にさらされた国ほど、政府は大きくなる傾向にある。(略)

 これは直観とは大きく食い違う推論だ。普通は、政府による介入がない場合にのみ、市場は栄えると考えられているからである。(略)キャメロンの主張は、それだけではなかった。豊かさが同程度の国々で公的部門の規模が違うのは、経済に占める貿易の重要度の違いから説明できるという議論だったからである。

(略)

経済が国際市場からの圧力にさらされると、人々はリスクヘの補償を求めるようになる。そして政府は(略)広範囲のセーフティネットを構築することでそれに答えようとするのだ。(略)

市場がもたらすリスクや不安から人々を保護することで、市場の正統性が失われないようにしなければならないのだ。
[サブプライム危機で]なぜ世界経済は、一九三〇年代の大恐慌と同じ保護主義の崖に落ち込まなかったのか。この何十年で、産業社会は社会的保護(略)の仕組みを確立してきた。そのおかげで(略)露骨な保護主義への要求が和らげられてきたのである。福祉国家は、開放経済の裏返しとしてできた。市場と国家は、様々な仕方で補完的な関係にあるのだ。

(略)
よく機能する市場経済はすべて、国家と市場、自由放任と介入の組み合わせである。その組み合わせは、それぞれの国の選好、国際的な地位、そして歴史的な経路に依存する。しかしどんな国も、公共部門が実質的な責任を負うことなしに発展することはできない。

次回に続く。

ザ・バンド 軌跡 その5 『ラスト・ワルツ』

前回の続き。

ザ・バンド 軌跡

ザ・バンド 軌跡

 

 

映画

ロビーは、神経質な早口のマーティンをハリウッドヘのパスポートと考え、ラスト・ワルツの監督を依頼した。
 「ヴァン・モリスンが出るのか?」スコセッシはいった。
 「ほんとうか?絶対にやる!」十月の初め、コンサートの六週間ぐらい前のことだった。(略)

スコセッシとロバートスンはほとんど一晩で、曲のコードの変化にあわせて照明を変える箇所まで書きこんだ、百五十ページにわたる詳細な撮影台本を書きあげた。
 ふたりはそれを持ってモー・オースティンのところへ行き、金を出してくれと頼んだ。モーは、ボブ・ディランが映画に出演するのであれば金を出すといった。それが条件だった。ふたりがボブ・ディラン側に問いあわせたところ(略)[自分の]映画『レナルド・アンド・クララ』をつくっている最中なので、映画に出たくないといっていると返事が来た。(略)

[ボブの出演が出資の条件と再度説明したが、考慮するという曖昧な回答]

スコセッシたちはワーナーに対し、ボブが全面的に了承したといって計画を進めた。ワーナー所属のアーティストでもないザ・バンドが、モー・オースティンから百五十万ドルの金を借りられたのには、こうした次第があった。
 ビル・グレアムも映画には反対だった。(略)観客やゲストを第一に考え、大きな映画用カメラや可動アームで視界がさえぎられるのをいやがった。さまざまなことが保証され、ようやくビルは映画に反対しなくなった。
 ジョン・サイモンのラスト・ワルツヘの関わりかたからも、当時グループをとりまいていた雰囲気がよくわかる。彼はつぎのようにいっている。「昔はザ・バンドといっしょに仕事をするときには、書類はなかったし、『これだけの仕事をすれば、これだけを払う』といったような明確な取り決めもなかった。ただいっしょにいることがうれしくて、そんなことを考えなかったし、また考えようともしなかった。金がなくなったときには、アルバートグロスマンに電話すれば金をもらえた。何年かたって、自分がプロデュースしたザ・バンドの二枚のアルバムから、一セントの印税もうけとっていないことに気がついた。一九七六年の初め、アルバートにそれを尋ねたら、ロビーに訊けといわれた。(略)

[ロビーの会計士は]未払いの印税はないといってきた」(略)

[ロビーから音楽監督になってほしいと言われたので]
 「ぼくはいったんだ。『喜んでやらせてもらうよ。それで、その仕事をやっているあいだに、もう一度、そっちからの未払い分がないかどうか会計士に調べさせてくれ』とね」
 「二、三週間して、六万二千ドルの小切手が送られてきた。そのあとロビーが電話をかけてきて、信じられないようなことをいった。経理上の便宜のため、それを二枚のアルバムに関する最終の小切手ということにしてくれといったんだ。それにつけくわえて、『ラスト・ワルツ』のアルバムはとてつもなく大きなものになるから、それが発売されれば財政的な問題はいっさいなくなるといった。すぐ人を信用してしまうタイプのぼくは、ザ・バンドの二枚のアルバムのその後の印税を放棄する書類にサインをした――そしてもちろん、『ラスト・ワルツ』からの金はいっさいもらっていない。ほとんどの人がもらっていないと思う。ワーナーがこのあと、映画の経費をアルバムのほうに繰りこんだからだ。大勢がだまされた。

(略)

[公演二日前、マネージメントがゲストを呼びすぎたので出演者を削りたいと言ってきた。ロビーがプロデュースしたからと関係ないニールをゲストにしたことに、元々怒っていたので]

「ロバートスンをニール・ダイヤモンドのところへやっていわせろ。『こっちはあんたが何者かもわかってないんだ!』って」

(略)

[さらにマディ・ウォーターズを外すことになったので、それを本人に伝えて欲しいと言われて、ブチ切れる著者]

「あんたは根性のくさった最低野郎だ!さっさと消えなよ。でないと、このアーカンソーの連中をけしかけて息の根を止めてやる!」(略)

マディはちゃんとコンサートに出た。

(略)

雄牛のようにいきおいよく〈マニッシュ・ボーイ〉に突入した。(略)マディの演奏に会場全体が活気づき、コンサート最高の場面のひとつとなった。

(略)

カメラがマディを撮っていないらしいのに気づいた。あとになって、手違いのため一台のカメラしかまわっていなかったのがわかった。マディの出演部分のほとんどが映っていなかった。マディがステージを去るとき(略)大きな手でぼくの頭をつかんで、額にキスをしてくれた!なんてすばらしかったことか。しかし映画監督はマディがステージに出てくるところも、ステージを出ていくところも撮っていなかった。だから、その場面は残っていない。

ディランの出演拒否

 ボブ・ディランは前半の部のあいだに側近の連中といっしょにやってきたが、楽屋にとじこもってだれにも会わなかった。休憩のなかごろ、あと十五分ほどでぼくたちといっしょにステージに出ていかなければならないときになって、ボブは映画に出演しないことを決めた。
 ぼくはたいしておどろかなかった。ボブは、『ラスト・ワルツ』と『レナルド・アンド・クララ』の両方の映画に出演して自分と自分を競わせることになるのを避けたがっている。その週のあいだずっと、ハワード・アークがそういっていた。しかし最後の瞬間まで決断は下されず、その結果がこれだった。ボブの弁護士が渋い顔をしてボブの楽屋から出てきた。ロビーは真っ青になった。ボブの側の人間たちが「ボブは映画に出ない」といった。
 スコセッシは怒った。ボブが出ないなら、映画は存在しないのだ。すべて、なしだ。百万ドル以上の金がどぶに捨てられることになる。スコセッシはふつうでなくなっていた。(略)

アルバートグロスマンがいたが、その影響力を行使することはできなかった。(略)そこでロビーたちはビル・グレアムに仲介を頼んだ。ビルはボブの部屋に入り、そして首をふりながら出てきた。ビルによれば、ボブは映画出演のことを知らなかったといっている。初めてその話を聞いた、映画には出たくない、自分の演奏のあいだ、カメラがほかにむけられているのを確かめてくれ、といっていた。事態がどれほど差し迫っているかを説明するため、もう一度ビルに話してもらうことになった。「心配するな」ビルはうしろをふりかえっていった。「きっとやってみせるよ」(略)きっとビルはぼくたちのために、ザ・バンドの歴史のために、必死になってボブに頼んでくれたのだと思う。撮影したフィルムはすべて、ボブが見て了承してから使うことにする。それでもだめだろうか。ビルはボブにそう話してくれることになっていた。おそらく二、三分のことだったろう。しかし一時間のように思えた。みんなが我を忘れていた。あと五分というときになって、ボブの出演部分の最後の二曲の撮影が許可された。
 その夜ビル・グレアムのおかげで、映画は救われた。

(略)

ボブの側近たちがステージの両側で眼を光らせ、撮影されていないのを確認していた。(略)
 最後の二曲になった。技術係があわててヘッドセットをつけ、カメラがむきを変え、照明がつき、ステージはふたたび映画のセットと化した。〈フォーエヴァー・ヤング〉のあと、ボブがまた〈ベビー・レット・ミー・フォロー・ユー・ダウン〉をやりだした。ぼくたちはおどろいたが、きっとボブは映画のなかに昔のロックンロールが一曲もないことに気づいたのだと考え、あとにつづいた。やがてボブもくわわって大フィナーレがはじまり、ステージの横でビル・グレアムが大きな声でボブの側近たちを止めていた。彼らは、その模様を映すカメラを止めようとしていた。演奏がつづくなかで、このごたごたがあり、ビルが「ばか!カメラをまわせ!これを撮らなきゃだめだ!」とさけぶのが聞こえた。ボブは怒っていなかったし、ぼくたちも笑ってそのままよい演奏をつづけた。
 フィナーレの〈アイ・シャル・ビー・リリースト〉(略)が終わったとき、ザ・バンドらしい終わりかただという気がしなかった。
 ステージからゲストが消えたあと、リンゴ・スターとぼくはドラム席に着いたまま、顔を見あわせた。ラスト・ワルツは終わった。ぼくはほっとして、ちょっと音楽をやってみるときだと考え、リンゴといっしょにはじめた。ドクター・ジョンが出てきた。(略)ニール・ヤング、ガース、リック・ダンコも出てきた。ビル・グレアムがクラプトンをひっぱってきてギターを持たせた。ロン・ウッドも出てきた。テープから判断すると三十分ぐらいジャムをしたようだ。やっとこれがザ・バンドだという気がしてきて、ぼくたちはザ・バンドの最後の曲〈ドント・ドゥ・イット〉をやった。
 それが終わったときには、みんな疲れきっていた。「ありがとう」リチャードが客にいった。「おやすみ」、そして「さよなら」。時計を見ると午前二時だった。カメラマン全員が肩をたたきあっていた。ザ・バンドの消滅に涙を流している人もいたし、ステージに花束をおく人もいた。ぼくは立ちあがって伸びをし、たばこに火をつけ、何人かと握手をし、そしてステージをあとにした。楽屋に、数千ドル入りの封筒があった。ビル・グレアムは、ラスト・ワルツが成功裏に終わったのがうれしいというだけで、ザ・バンドのメンバーのひとりひとりにボーナスをプレゼントしてくれた。
 それは特別な夜で、みんな、なかなか帰りたがらなかった。

(略)

 ジョン・サイモンがやってきて隣にすわったので、ぼくはレコーディングはうまくいったかと尋ねた。ジョンは、コンサートが終わるやいなやボブの弁護士がトラックのなかに入ってきて、ボブの部分のテープを持っていってしまったから、話しあいが必要だといった。何だかおかしな話だと思った。

後日撮影談

十六万フィートが撮影されていたが、フィルムを調べだしたとたん、つぎつぎと問題が発生した。サウンドトラックの録音は質がわるく、オーヴァーダブしてミックスをやりなおさなくては、映画にもアルバムにも使えなかった。つぎに、全体が白人的すぎて、たいせつなものが欠けているということになり、もう一度、今度はステイプル・シンガーズといっしょにカルヴァー・シティのMGMのスタジオで〈ザ・ウェイト〉の撮影と録音をすることになった。サンフランシスコのときの〈ザ・ウェイト〉は、コンサートの終わりのほうで録音されたので、すくなくともぼくのドラムと歌には魔法のきらめきがなかった。
 メイヴィス・ステイプルズが〈ザ・ウェイト〉の歌詞を歌っているのを聞くのは、いい気分だった。ザ・バンドの三人の声のミックスは、ステイプルズ一家の歌声に最初のヒントを得たものであり、だからメイヴィスやポップ・ステイプルズとぼくたちの声を重ねあわせるのは、まさに正しいことだった。

(略)

 〈イヴァンジェリン〉も、エミルー・ハリスといっしょにやりなおした。(略)

最後にザ・バンドだけで演奏する〈ラスト・ワルツ組曲〉が撮影された。

(略)

 『ラスト・ワルツ』の映画を見た人には、コンサート後のインタヴューの様子から(この場面はシャングリラで撮影された)、ぼくがすべてのことにかなり腹をたてているのがわかるはずだ。この場面は最初、みんなでたき火をかこんですわり、古きよき日を語りあい、できれば楽器をとりあげて楽しい演奏を再現するというものになるはずだった。(略)

その前から、ぼくは非協力的な態度をとりはじめていた。映画がコンサートの精神をまったく無視しているとわかったからだ。インタヴューがはじまり、スコセッシがぼくをすわらせ、カメラがまわりはじめた。スコセッシが、ミッドナイト・ランブルやメディスン・ショーやサニー・ボーイ・ウィリアムスンの『キング・ビスケット・タイム』の話を聞きたがっているのはわかっていた。しかし、ぼくの頭は、グループの豊かな創造性をこんなふうに踏みにじるのは犯罪的だという思いでいっぱいだった。

(略)

 ぼくは彼をにらみつけていった。「あんたが訊きたがっているだけだ」スコセッシはひるんだ。そして落ちつかなげに書類をめくった。ぼくはつづけた。「つまり、こんなことはぼくには何の意味もないってことだ」ぼくは彼の顔を正面からにらんだ。ばかなことだった。礼儀を無視してひどい態度をとった。いなかものの特権をふりまわした。だけどほんとうに怒っていたんだ。あのときのぼくは、ザ・バンドにはぼくたち五人をあわせたよりもっと大きなものがあると信じていた。いまも、その考えは変わらない。

(略)

新しい著作権管理会社がいくつか設立され、ラスト・ワルツに関するいっさい、そしてワーナー・ブラザーズから発表する予定のぼくたちの新しい音楽に関するいっさいをとりあつかうことになった。ロビーが、ザ・バンドのメンバーの出資者としての権利を買いとろうとしているとの噂が聞こえてきた。

(略)

[会計士連中とケンカして]

ぼくはカリフォルニアを出た。『ラスト・ワルツ』の映画のポスト・プロダクションは、ぼくなしでおこなわれた。

(略)

ぼくが見るかぎり、映画『ラスト・ワルツ』はたいへんな失敗作だった。
(略)ポストプロダクションがおこなわれた十八ヵ月のあいだ、ロビー・ロバートスンとはほとんど接触がなかった。ザ・バンドの連絡網を通して、ロビーが女房に追いだされ、マルホランド・ドライブにあるマーティン・スコセッシの家に移りすみ、そこでハリウッドの独身者の、はなやかでワイルドな生活をしていることは聞いていた。

(略)

マーティンが『ラスト・ワルツ』の映画の編集をするあいだ、ロビーはサウンドトラックをしあげた。ふたりは自分たちを喜ばせるように映画を編集した。
 ジョン・サイモンはつぎのようにいっている。「たしかマディ・ウォーターズのヴォーカルをのぞけば、《ラスト・ワルツ》のなかでライヴの音そのままなのは、リヴォンの音だけだと思う。ほかのものはすべてオーヴァーダブしてやりなおしてある。リヴォンはラスト・ワルツのいっさいにいや気がさして、ロサンジェルスにいなかった。ロビーはもう一度やってくれと頼んだが、リヴォンは知らん顔だった。すべてがいかがわしい感じがする。リヴォンはぼくにそういっていた」
 「オーヴァーダブしたほうがいいというロビーの考えにも一理あった。リチャードの歌はできがわるかった。リックのベースは調子がはずれていたし、ロビーもギター・ソロをもっといいものにしたかった。それにホーンの録音はバランスがわるく、しかたなくヘンリー・グローヴァーとぼくのアレンジでニューヨークで録音をしなおした。すごいと思ったのは、リヴォンのドラムは、もともとやり直す必要などなかったことだ。リヴォンは最初からちゃんとやっていて、それがそのまま最終的なドラム・トラックになった。リヴォンは、オーヴァーダブが実際に行なわれたことさえ知らずにいたんじゃないかと思う」

 映画にもおなじような問題があった。実際のできごとを映したフィルムはほとんどなかった――感謝祭のごちそう、オーケストラ、ダンスする人たち、バックステージの騒ぎは映っていなかった。ビル・グレアムはインタヴュー場面への出演を拒否し――噂によると、ビルは骨の折れる豪華なコンサートをプロデュースしたのに、ロバートスンがきちんと礼をいわないことに腹をたてていた――、そのため映画では小さくクレジットされただけだった。通し稽古のとき、スコセッシはただ見ているだけで、用心のために撮っておくことをしなかった。リハーサルのほうが本番よりよい演奏もあったから、残念なことだった。 

映画公開

 二時間のあいだ、カメラがほとんどロビー・ロバートスンの顔だけを映しだしていた。金をかけたヘアスタイル、こってりと化粧した顔の長いクローズアップ。映画は、ロビーが大げさにギターの首をふってバンドを指揮しているかのように編集されていた。ロビーがスイッチを切ったマイクにむかって力強く歌うと、彼の首の筋肉が縄のように盛りあがるのが映しだされた。ホークはこれを見て、ぼくを何度も小突いて笑った。

(略)

リチャードが映っている場面がほとんどなかったからだ。ガースもほとんど映っていなかった。リックとぼくはたくさん歌っていたので、かなり映っていた。だがリチャードはどこにいるのか?

(略)

[インタビューの場面では]ロバートスンひとりが話しているだけだった。(略)

 試写室は静まりかえっていた。ぼくは映画のひどさにショックをうけていた。九台もカメラがあったのに、リチャードがフィナーレで彼の代表曲である〈アイ・シャル・ビー・リリースト〉を歌うところさえ映っていない。あとでわかったことだが、映画のほとんどが、九台あったカメラのうちの二台の映像で構成されていた。(略)ガースがバンドをひっぱり、みんなを鼓舞している様子もまったくわからない。映っていたのは、ほとんどが王者のようにふるまうロバートスンだった。
 試写室の明かりがついた。ぼくはたばこに火をつけてホークを見た。彼はぼくの背をたたき、みんなに聞こえるように大きな声でいった。「おい、そんなにがっかりした顔をするなよ。この映画だって、きっとよくなってたぜ。もうちょっとロビーの場面がたくさんあればな。ワッハッハッハッハッ!!!」
 『ラスト・ワルツ』はそういう映画だった。(略)

ワーナー・ブラザーズは、事前に借りたアドヴァンス分を映画とレコードから差しひくことにした。だから、ビデオが世界じゅうで発売されているにもかかわらず、現在に到るまで、この事業からの金はぼくたちのふところには入っていない。

 『歌え!ロレッタ・愛のために』出演

[共演のトミー・リー・ジョーンズから演技法の集中講義を受ける]
 「リヴォン、忘れちゃいけないのは、絶対にカメラを見るなということだ。カメラは、そこにあってはいけない。忘れるんだ。台詞はもうわかっている

(略)

つぎは速すぎる動きはいけないということだ。シーンにはリズムがあるから、それを感じとって、それにあわせる。早口もだめだ。きちんと伝えるためには感情を誇張しなければならないが、誇張しすぎてはいけない。監督に演技をコーチしてもらい、そのあと自分のやりかたでやる。そうすればすばらしい演技ができる。みんな、きみといっしょに仕事ができるというのではりきっているからね。きみがこの役をやることになって、みんなが喜んでる」   

 [関連記事] 

kingfish.hatenablog.com